何この子怖い

 トレバーは、ランドリールームで出張帰りの汚れ物を乱暴にバスケットに押し込み、換えの下着やタオル、そして独身だった頃に使っていた毛玉だらけのパイルニット地のパジャマを棚から出した。

 肌寒いシャワーユニットで身体を洗おうとして、いつも二人が使っている安い石鹸やシャンプーの横に、それはもう高級だということが一目でわかるボディケア用品を発見し、暗い気持ちになる。


 やっとベッドルームでカティと二人きりになれたトレバーはドアが閉まっていることを用心深く確かめた後、妻を問い詰めるべく口を開こうとした。

 しかしその一瞬先に鋭く詰め寄ったのはカティだった。

「おい、クレアに対する態度、ありゃ何だトレバーよ」

「はぁ?」

「あんな健気なカワイコちゃんにとる態度じゃねえだろうが! あんたホスピタリティってもんが足りねえんだよ!」

「……カティ……僕出張帰りで疲れてるんだけど? ホスピタリティが欲しいのはこっちだよ!」

「疲れてようが何だろうが女には優しくしろよ! あんた男だろ?!」

「その言い方嫌い。男だからってなんで理不尽な扱いに堪えないとだめなんだよ!」

「小っちぇえこと言ってんじゃねえよインドリコテリウムみてえな図体しやがって! だいたいなぁ、クレアにベッドぐらい譲れよ気が利かねえな」

「何で譲んなきゃいけないんだよ! ここ僕んちだしこれ僕のベッドだし! あのソファ寝たら足が出ちゃうよ」

「あんたの足のことなんか知ったこっちゃねえよ」

「それに僕がベッド譲ったら、君はどうするの?! ここでクレアと寝るの?!」

「当然だろ! 昨日も一昨日もここでクレアと一緒に寝てたぞ」

「え」

「クレアはなぁ、あんたと違って柔らかくて軽くていい匂いで……」

「君たちレズっ気でもあるのか?! え?!」

 カティの口調が突然、少し歯切れ悪くなった。

「クレアが泣くから、ただちょっと抱っこして寝てただけで……カティカティってくっついてくりゃ可哀想だってなるだろ……」

 やにわにトレバーはベッドの下の抽斗を開き、洗濯済みのシーツとキルトカバーを引っぱり出し、強張った表情で今ベッドにかかっているものを乱暴に引き剥がし黙々と交換し始めた。

「シーツ換えたぞ?」

「じゃあこれは何だよ」

 トレバーが金髪の長い髪を摘み上げた。

「それはさっきまでちょっとだけじゃれて……」

「この浮気女!」

「浮気?!! 一緒に寝るのとか女子は普通だぞ? おっぱい触ったりとか……」

 女子はそうかもしれない。

 特に早々に家を出て女子寮暮らしの長かった彼女にとっては。

 しかし、そのシチュエーションをトレバー自身が男子とじゃれていると想定してシミュレーションすると、生理的に無理だ。

 剥がしたシーツに、鳶色の髪と長い金髪が幾筋か貼りついているのが見える。彼はそれを足でぐしゃっと部屋の隅へ押しやった。

 作業を終えると聞こえよがしに溜息を一つつき、彼はベッドに入って洞窟の入り口のように自分の身体の横にキルトを持ち上げた。

「僕疲れてるんだからね!もう!カティの馬鹿!寝る!」

 そして洞窟の入り口にあるカティの枕をぱんぱんと大きな掌で叩いて、突っ立っているカティを見上げた。

「ほら、おいでってば!!」

 何か割り切れないような顔をしながら、彼の大柄な女神はもそもそと彼の横に体を横たえる。

 早速覆いかぶさろうとする夫に、カティは短く言った。

「今日、生理初日」

「え」

 瞬時に力の抜けたトレバーの腕の中、カティはくるりと背を向けた。

「あの……カティ……僕がどれだけ君に会うの楽しみにしてたかわかってるよね?」

「知るか」

「……こっち向いて」

「嫌だ」

「……匂いとか汚れとか全っ然気にならないからさぁ、一回だけいい?」

 肩を掴んで仰向けにしようとするトレバーの手を邪険に払い除けると、カティは枕元のティッシュボックスをひっ掴み、身を捻って彼の頭をぱこんと叩いた。

「嫌だっつっただろうが! これ使って一人でしこってろこのクズ」

「何だよこの仕打ち! 僕すっごく楽しみにしてたのに! クレア引き摺りこんで乳繰り合っといて僕には触らせもしないって!」

 仕返しのつもりか、トレバーがカティの後ろからセクシーさのかけらも感じられない下着に手を入れ、夜用の分厚く馬鹿でかいナプキンを引っ張りはじめた。

 ところで、この世にはしていいことと悪い事がある。

「やめんかこの馬鹿!!!!!!!!!!!」

 跳ね起きたカティから手加減なしの平手打ちを喰らい、トレバーは頬を押さえて半泣きになった。

「僕って本当に、愛されてないよね……」

 そのままキルトに潜り込んでいき半泣きが本泣きに移行しそうな様子を見て、カティが舌打ちする。

「ああ、わかったわかった! 手ぐらいなら貸してやる!」

「……手より口がいい」


 カティの歯は、特徴的で見るからに鋭い。多分こういう状態で噛まれればひとたまりもなく大出血する。

 しかし彼女は噛まない。唇の縁を少し内側に丸め、歯の先端を覆うように遣っている。

 疲れるらしく、時々ぴたっと動きを止めて鼻孔で荒く息をする。その呼気が下腹に当たり、それからまた鳶色の頭が動き出す。

 トレバーはそのカティの髪を撫で、そのうちに憑かれたように頭を掴んでその動きを自ら助ける。カティの苦しげな表情が何とも言えない。喉の奥が苦しげに大きく痙攣し、締まる。

 間もなく、彼は身体を数回震わせて低く呻いた。

 カティがいつか自分に別れを告げる、そんな日が来るとすればそれはきっと「男」のせいだろう、と彼は自分の性格所業そっちのけで信じていた。

 しかし、ひょっとすると、警戒対象外だと思っていた「女」も恐れるべき存在なのではないか?

 もしそうなら、「女」って本当に最低な生きものだ。もちろん男も嫌だけど。

 トレバーがそんなことをぼんやり考えている間、カティは彼の下腹部に顔を押し付けられたまま、禁欲期間により半固形化した体液でいっぱいの口を開けるわけにもいかず、がっちり自分をホールドしている長く重い脚の間でティッシュを求めて激しくもがいていた。


「この鳥の餌みたいなの、何」

 朝食の席に着くなり、トレバーは自分の前のスープボウルを見てこう尋ねた。

「ミューズリー。知ってるくせに訊くな」

 カティがフライパンから中身を皿に移しながら答える。

「知ってるよ……だけど僕これ嫌いだって言ったのに」

「いいじゃねえか! クレアの好物なんだから!!」

 彼の向かいにはプラチナブロンドがちんまりと小さなスプーンで牛乳に浸したもっさもさのミューズリーを口に運んでいる。

「僕のだけトーストにしてくれたらよかったのに」

 カティがベイクドトマトとベーコンエッグの乗った皿を三つ、栗の木のテーブルに置く。

「黙って食え。食いもんにぐだぐだ言う男ってみっともねえよなぁクレア」

 かちりとクレアがスプーンを置いた。悲しげな目つきでちらりとトレバーを見、スープボウルに視線を落とす。

「ごめんなさい……。わたしが食べたいって言ったばっかりに……あなたがこれ苦手だって知らなかったの」

「いや、あの」

「……わたしのせいで嫌な気持ちになったでしょ……わたしが悪いの」

 そうだ君さえ転がりこまなければ万事うまく行ってたんだ……カティの生理周期以外は。

 だが口から出てくるのはこんな言葉だった。

「こっちこそごめんね。誰にでも食べ物の好みってあるし……その……大丈夫だから」

「そうだぞクレア。がっつり食え」

「そうなの……? じゃあ、いただきます」

 限りない皮肉を込め直して彼も言う。

「どうぞ遠慮なく」

 クレアは光あふれる微笑みを浮かべた。

「ありがとうトレバー」

 我慢して麦のふすまやらなんやらがごちゃごちゃと配合された難消化性のミューズリーを完食し、トレバーは朝っぱらから気分が悪くなってしまった。

 さらに間の悪い事に、今日はカティは少し早めに出社する。電算室長と一緒に金融システム関連企業のお偉いさんと会うことになっているらしい。

 慌てて髭を剃りながら、よく知りもしない女と二人にしないで欲しいと訴えても、既に出社準備を調え小股の切れ上がったパンツスーツ姿のカティは「トレバー自意識過剰」と一笑に付す。

 玄関先で見るからにおろおろしているトレバーの胸にごく軽く拳を当て、クレアの額にゆっくりとキスしてカティは出ていった。

「行ってらっしゃい!」

「じゃあな! あとで一緒に昼飯食おうぜクレア!」

「うん!」

 彼女がドアを開けた途端、冷たい一陣の風が部屋の奥まで吹き通り、クレアが小鳥のようにふるふると震える。

 閉まるドアの音が消えた。

「今朝も寒いわね、トレバー」

 そう言いながらなけなしの胸を寄せて上げるように自分の身体を抱き、隣に突っ立っているトレバーを見上げた。

「そうだね」

 わざと気づかないふりをしているのに執拗に見つめてくる。

 彼はその視線を薄気味悪く思った。

「カティが羨ましいわ」

「?」

「トレバーみたいな素敵なひとと暮らせて……」

「はい?」

 いつの間にか、クレアはトレバーに触れそうなほど間合いを詰めていた。

 彼は一歩離れる。

 女は首を傾げて、少し切なげに笑った。

「……さあ、わたしたちもそろそろ出社の支度しなくちゃ」

「あ、ああ、うん」


 薄く積もった雪はケーキのアイシングのような半ば透けた白さで凍りつき、路面を覆っていた。タイヤチェーンを着けたバスがけたたましく走るのが聞こえる。

 身支度を終え、出社すべくクレアを先に外に出してトレバーが施錠していると、少し離れたところで衣を裂くような悲鳴が上がった。

「きゃあああああっ!」

 見ると、凍結したコンクリートのアプローチでクレアが転び、蹲っている。

「いったあああああい!!」

「大丈夫?!」

 どんくさ、と思いながら彼は長い身体を折りたたんで、フレアたっぷりぺプラムひらっひらのカシミアコートを着けたクレアの側にしゃがむ。

「くじいた? どこか痛い?」

「ちょっと足首が……」

 柔らかいスエードのロングブーツの上から、クレアがそっと足首に触れた。

「仕事に行ける? 病院に送ってくよ」

「ん……大丈夫……ちゃんと歩けるわ。今日大事な打ち合わせがあるし、この程度で休めないわ」

「でも……じゃあタクシー拾おう。ね、そうしよう!!」

 薄桃色の革手袋を嵌めた右手がそっとトレバーのコートの袖口を捉え、大きなガラス玉のような青い瞳が間近に彼の目を覗き込んだ。

「ねえ、会社まで肩を貸してくれたらうれしいな」

 白い息を吐きながら、クレアが頬を赤らめて小さく言い、妙な間の後俯いた。

「ごめんなさい、嫌だよね……誤解されちゃうわよね……でもあなたと一緒に歩きたいの」

「ぅわ?」

 WhatとWhyの間でトレバーの口が止まる。

「わたしは誤解なんかされても怖くない……だけどあなたは……困るわよね」

 クレアは、両手で彼の腕に縋ってきた。

 冬の朝だというのに彼はじっとりと冷や汗が噴き出るのを感じた。

「わたしがどうしてカティの部屋に来たかわかる?」

「カティが君に同情して誘ったから……」

「あなたに会えると思ったからよ」

「ひっ」

 トレバーの口から変な声が漏れた。肩に頬を寄せ畳み掛けるようにクレアが言う。

「トレバー、わたしはあなたに会いたかったのよ」

「……」

「そうよね……カティには本当に悪いと思ってるの。だけど、もう……止まらないの」


――ちょっと待ってきもいったらありゃしないよっていうかカティ助けて!


「でででででも僕はカティ一筋で」

「そうよね……カティとっても優しいし、素敵だもの……やっぱりわたしなんか」

 ぽたんと大きな水滴がコンクリートに落ちた。

「ダメだってわかってても……わたし……わたし……ほんのちょっとだけでもあなたのそばにいられればって……」


――怖いよカティぃぃぃぃ!!!

――どうして助けてほしいときにいつもいないんだ!!!!


「こっ……ここにいて! タクシー拾ってくるから!」

 トレバーは動転し、足を負傷したクレアを凍てつくコンクリートの上に放置したまま、つるつる滑る路面に身体をぐらつかせながら大通りへ小走りに急いだ。

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