迷惑な客

 今、サイラスの部屋でトレバーは汗まみれの釈然としない表情で、フルスクワット400回目に突入している。Yシャツにスーツのズボン姿なのが妙にシュールだ。

「まだまだだトレバー!俺はいつもこれで全てを超越している!」

 サイラスも汗だくだった。

「スクワットなんかで何でもかんでも超越できるわけないだろぉぉぉ?!」

「俺にはできてる!トレバー、お前にもできるはずだ」

 身体を動かすことで確かに憤懣は落ち着いてきた。

 だがすべてを超越する悟りの境地にはまだまだ遠かった。


 事の起こりは昨日の夜に遡る。


 地下鉄のドアとホームの間隙にキャリーバッグをひょいと持ち上げ、トレバーは職場と自宅の最寄駅に降り立った。

 航空機からバス、地下鉄と乗継ぎ、やっと足元が不動の大地になったことに安らぎを覚えながら、出発時に見た「故障中」の貼り紙がまだエレベーターの扉に貼られたままなのを見て溜息をつき、バッグの取っ手に手をかけて地上への長い階段を上り始める。

 前泊含め13日間のセントルイス支社への出張はとにかく「疲れた」の一言だった。サイラスのスポクラ通いにしょっちゅうつき合い体力的には申し分ないはずの彼だったが、庶務系業務ばかりこなしてきて出張に慣れない上、出張先は苦手なタイプの人間が揃っていた。特に、ポーランド系ユダヤ美女にはひどく冷たく扱われた。

 彼はとにかく早く彼の甘えを呆れ顔で、または青筋を立てて目を吊り上げ、あるいはげらげら笑いながらもそれなりに向き合い、許してくれる妻の待つ家へ帰りたかった。

 やっと地上へ出て、クリスマス前の賑やかな電飾の街に小雪がちらつき、うっすらと積もり始めているのを知る。都市部の排熱にも負けず、気温は氷点下に近づきつつあった。

 トレバーは肩を竦め、機内で嵩張って仕方なかったミリタリーコートのフードを被った。

 今年も、本当はいつもと同じように寒い。

 それを彼は13日前まですっかり忘れていた。


「ただいま!」

 ごとごととキャリーバッグと自分の身体を、小さな麦藁のクリスマスリースで飾ったスチールのドアに押し込んで、トレバーは部屋の奥へ向かい声をかけた。

 寒さにかじかんでいた身体がふわっと暖かい空気に包まれるのを感じ彼の表情が和らぐ。

「おぅ、おかえり」

 アヒルが一面にプリントされた暖かそうなだぶだぶのパジャマを着、ムートンのスリッパを履いて骨ばった長身の女が姿を現した。

 トレバーはコート掛けに上衣を掛けながら、ハリウッド女優を見つめるような眼差しを彼女に向けた。

「ただいまあああぁぁ疲れたぁぁぁ!」

「あ、ああ、そうだろうな。お疲れさん。飯は?」

「空港で食べてきた」

 やけに悠長に近づいたカティは一週間ぶりに会った夫を見上げ、どこか後ろめたげに視線を泳がせた。身に合ってない男物の襟ぐりから鎖骨が覗き、触れたい欲求を煽る。

「なんで僕のパジャマ着てるの?」

「…ちょっと事情があってな」

 新婚の妻に対しロマンチックというかセクシャルというか、とにかくスクールボーイのような幻想を抱きすぎているトレバーはその理由を様々に都合よく推測した。

 そこに、汚してしまって洗い替えがなかった、などのまともな理由が入り込む隙はない。

「寂しかった?」

「いや別に?」

「あれ?シャンプー変えた?」

「……まあな」

 眼鏡を外してポケットに入れ、トレバーは彼女の細い身体を自分の身体と壁で押しつぶすように挟み込むと少し開いた唇に喰いつくようにキスをした。

 舌を捻じ込んで何となく逃げ腰のカティの舌を弄る。

 くたびれたスーツから疲労した男の匂いを立ち昇らせてつつも、会ったら最初にキスしようと思っていたのだろう、トレバーの唇はミントタブレットの味がしトレバーはカティにお馴染のノンカフェインコーヒーの風味を感じた。

 土産は後で御開帳して、先に軽く夜のスポーツを嗜もうと思ったところへふと、彼の鼓膜は不吉な空気の振動を拾った。

「カティ?」

 軽い足音に細い女の声。

 驚いたトレバーが顔を上げ、妻のパジャマに突っ込んで背骨の窪みを撫で上げてようとしていた手を光の速さで引っこ抜く。

 同時にカティはトレバーを突き飛ばし、彼はシューズボックスに強か腰を打ち付けた。

「何冷てえ手でべたべた触ってんだよ!」


 そこにいたのは秘書室に所属する美女だった。

 古き良き時代の銀幕女優風にくるくる巻いた亜麻色の髪と、大きく澄んだ青い目。

 不思議と人の目を捉えるオーラに淑やかな物腰。

 穏やかなのにいつもどこか寂しげで、ミステリアス。

 この国では「秘書」という職はあまり社会的地位が高いとは言えない。厚化粧で香水臭く、尻軽でエグゼクティブな男を見ると目の色を変える連中というのが社会通念なのだが、このクレアは生来の美形に加え、CEOの娘で誰にでも親切で清楚、誰の誘いにも靡かない清らかさで男性社員に絶大な人気を誇っていた。

 あのナルシスト臭いサイラスでさえ彼女のファンで、クレアの前では好青年ぶってデレデレするのだ。

 面食らっているトレバーにクレアが慎ましげに挨拶した。

「お帰りなさい。あの……お邪魔してごめんなさい」

 邪魔だってわかってるんなら帰れよ、と言いたいのを堪えトレバーはもう一度眼鏡をかけ短く挨拶を返した。

「いらっしゃい」

 彼はこの娘が苦手だった。

 今は異動して別セクションにいるが、以前所属した部署は秘書室と同じフロアだったため仕事中にクレアの姿は嫌でも目に入った。

 その気の利いた思いやりとやらには演技臭さを感じていたし、愁いを帯びた表情に手を差し伸べる男どもをカマトトぶってやり過ごした後に、侮蔑に満ちた冷ややかな笑みを浮かべるのを偶然見てしまってからはもう駄目だ。見かけるだけで不快になる手合いの人間だった。

 そんな人物が今、カティが着ているグレーの男物と色柄違いの、アヒルの雛がプリントされた卵色のパジャマをぶかぶかといやらしく、肩からずり落ちそうに身につけている。

 カティがトレバーにこの状況を説明する。

「トレバー、こいつ親と喧嘩して家飛び出して来ちまったっつうから面倒見てんだ。なぁ、しばらくこのままここで泊めてやっていいだろ?」

 カティがわざわざ彼のパジャマを着ていたのは、何のことはない、クレアに自分のパジャマを貸したからだということを彼は瞬時に理解した。

 気分は下降線を描き出し、反比例していつもは下がり加減の眉尻が上がる。

 二人であれやこれや言いながら選んだ、色柄こそ違っているがお揃いの寝間着。

 薄くそばかすの散らばる肌を温かく柔らかく包むマイクロファイバー。

 それをこの、たまたま生まれと頭部の造形がよかっただけで誰にでも愛されているムカつく女が着ている。

 トレバーには許しがたい個人領域への侵略だった。

 彼は彼なりの言葉で、クレアにここから出ていってほしい旨をがっつりと伝えた。

「あ、ああ、そうなんだ…でも親御さんきっと心配してるよ?大丈夫?」

 カティはクレアにすいっと寄り、華奢な肩を恋人然と抱き寄せた。

「クレアだってもうちゃんとした大人だ。大丈夫に決まってるだろ」

 ちゃんとした大人が親と喧嘩して、他人様の新婚家庭に堂々と厄介になる……のだろうか?

 カティに肩を抱かれたままクレアが上目遣いで、トレバーを見た。

「迷惑ですよね……ごめんなさい。わたしそろそろおいとました方が……」

 出たよ必殺技、と彼は思った。

 この、このまま帰したら後悔しそうな儚さ。そこにトレバーは計算しつくされたいやらしさを感じ少々苛立った。

 しかし、そうだ君はさっさと帰れ!と言えるほどの胆力もない。

「そうだね、ちゃんと帰って親御さんと話し合って……」

 愛妻カティはトレバーの言葉を全く聞いていない。

「何言ってんだクレア。全っ然迷惑なんかじゃねえよ。なぁトレバー」

「……」

「ねえカティ、わたしやっぱりホテルに泊まるわ」

「いいって! なぁトレバー、しばらくここに置いてやってもいいだろ?」

「え……?」

「どうせもうすぐクリスマス休暇じゃねえか。三人で楽しくやろうぜ」

 その言葉に、トレバーはカティの正気を疑った。

 あんなに楽しみにしていた休暇が、いつも通り職場のデスクで仕事をしていた方がましな日々に摩り替ろうとしている。

「あの……サンフアン行きはどうすんのさ」

「クレアも連れて行く。一人分ぐらいチケット何とかなるだろ? アパートメント広いし」

「無理無理無理無理!! キャンセル待ちしかないって!」

「クレアが連れてけねえなら私も行かねえ。キャンセルだ」

「えっ?!」

 休暇中は暖かいビーチでのんびりしようとPCのモニター前でああだこうだとやりあいながらやっととれた宿泊と航空券の予約をそのように無碍に扱われ、トレバーは開いた口が塞がらない。

 一方、カティは目を細めコイル状にぐるぐるびよんびよんしているクレアの髪をいじって遊んでいる。

「ほ~らトレバー、こんなに可愛いんだぜ?!クレアと休暇じゅう一緒に過ごせるなんて、あんた幸せ者だぞ? なんか不満があんのかよ」

 不満なら大いにあった。

 その一端を挙げるならこの媚びまくったクレアの声。

「やめてよカティ、旦那さんの前でぇ……」


 一悶着の後、クレアはコットンフィールド家に滞在することとなった。

 夫婦二人で飾り付けたクリスマスツリーの脇、クレアはリビングのソファで羽毛のキルトにくるまって眠っている……

……ように見えて、彼女はこのデュプレックスの総ての物音に鋭く耳を欹てていた。


 カティ、あなたはきっと覚えていない。

 入社したての頃、同期の女子みんなで飲みに行ったとき、わたしを抱きしめて何て言ったか。

 思い出して。

 ねえ、思い出してよ。

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