泣けば何とかなる

 腹具合で言えば八分目。

 カティが無反応になってくるまで身を繋げたあと、トレバーは例によって彼女を抱き枕代わりにし、自分と彼女の綯交ぜになった匂い……生々しくあくどい、しかし彼にとっては達成感そのものの匂いをしみじみと嗅いでいた。

 大きな手は乳房をふにふにと揉み続けている。ストレスリリーサーとして使っているのだろう。

 カティは疲れた声で制止する。

「乳が垂れるから止めろ」

 すると今度は尻の肉をむにむにつまみ始めた。とにかく何か触っていたいらしい。

「カティ、今度キャットガーター口で外す練習していい?」

「……いいって言うと思ってんのか」

「だって本番でもたついたらやだし。僕ねぇ、サイラスにガーターあげようと思うんだ」

 トレバーは結婚披露宴でよく行われる下卑た慣習をすっかりやるつもりになっている。

「こうやってちゃんとやらしてやってんだから結婚なんかしなくてもいいじゃねえか」

 カティは鬱陶しそうに言う。

「結婚してもしなくてもやるこた同じだろ。この話やめようぜ」

「どうせ同じなんだから籍入れとこうよ」

 会話は平行線だった。

「結婚してなんかいいことあんのかよ」

「ある。法に基づいて君に他の男と寝るなって要求できる」

「……ふ~ん」

「それにそろそろ妊娠したっていいからゴムコーティングされてない君としたい。こんなの誰が着けたいと思ってるんだよ」

 身勝手なことを言いながら使用済みのゴムをずるんと外し、ダストボックスへ抛ったがうまく入らず床に落ちる。

 後で掃除するのはもちろんカティだ。

 彼女は内側も外側も体液でねとついているそれから目を逸らした。

「そして君は僕を捨てにくくなる! 何て素晴らしいんだろう! 書類一通出すだけで!」

 結局はそこに行きつく。

 彼はとにかく捨てられたくない、見放さないで欲しい、その一心だった。

「私には何もメリットねえな……私の自由が無くなっちまう」

「でも生活費は折半になるし保険だって家族割引で安くなるし」

「その程度か……私のプライベートはそんなにお安くねえぞ」

 カティが呟き、欠伸する。


 どれだけ彼女が彼にとって稀少な、離し難い存在になっているのか。

 それをどうすれば余すところなく伝えられるか。

 トレバーはもどかしく思う。

「カティ、僕はね」

 彼女のそばかすが散る頬や柔らかい薄い瞼にそっとキスして、トレバーは頤でカティの頭までしっかり抱え込んだ。

 ぽつりぽつりと、小さな声で話し始める。


「今でも、昔友達の母親にレイプされた夢を見るんだ。下半身裸の僕をモップで殴ってきた友達の顔や、何されたか泣きながら話した時の両親の顔も出てくる」


 あの後、自分の学校での立場、子供同士のコミュニティは完全に壊れ、両親は訴訟を起こして賠償金をせしめた。そしてその金を足掛かりに遠方へ引っ越した。

 彼だけでなく父も母も、これで逃げ出せたと一時は思った。


「引っ越した後もみんな僕を見ているような気がした。ませたエロガキって顔に書かれてるみたいに……僕はそういうの晩熟な方だったのに」


 そうやって登校拒否もした。転校も繰り返した。

 人の視線に過敏になって強迫性障害を発症し、何人ものカウンセラーの元に通った。

 周りの大人たちの言うように、時が経って大人になったらきっと何とかなると思い続けるうち、確かにいい友人もでき勉学やスポーツに打ち込む一見普通の生活を送れるようになり、自分の思う「普通」に自分が近づいているという安堵を踏み台に強迫性障害は軽減していった。

 しかし若年性EDは如何にもならなかった。そのことを知ると誰もが、学業成績優秀で体格に恵まれた彼を例えようのない嫌な目つきで眺め、薄っぺらく彼を慰め励まし、友好的に振舞いながら陰で笑いものにする。

 その笑い声に耳を塞ぎ自分の声で打ち消そうとする。

 そうやって夜半に自分の喚き声で目を覚まし、びっしょりと寝汗をかいているのに気付く。


「だけど、カティと一緒にいるようになってから嫌な夢は見なくなってきて、かわりにカティが僕に背を向けてどこかへ行っちゃう夢を見るようになった」


 訥々と潤んだ声で話すトレバーの腕の中、カティは目を閉じ身じろぎもしない。

「……つまんなかったよね、ごめんねこんな話して」

 ベッドのヘッドボードに埋め込まれた小さな灯りの下、シャワーも歯磨きもそっちのけでカティは寝入ってしまっているようだ。

「こんな話、君にはどうでもいいんだよね。だけどね」

 トレバーはこの温かい女の肩から腕を撫で、その力の抜けている手を握った。

「僕には君しかいない。僕は、安心してここにいてもいいって……僕を捨てないっていう約束がほしいんだよ」

 そのままひとしきりぐすぐすと泣き、カティの頭に顔を擦りつけて涙を拭く。

「どうすればカティと一生一緒にいられるかなぁ」

 突然眠っていると思っていたカティがかっと目を開け、不機嫌そうに起き上った。

「……さっきから耳元でごっちゃごちゃうるせえんだよ」

 そう言いながらベッドのサイドボードの抽斗を開ける。手を突っ込んでひとしきりガチャガチャと掻き回したあと、彼女は何かを摘み出した。


「というわけで!」

 トレバーは得意そうにキーケースの中から銀色の金属片を一つ引っぱり出し、サイラスの鼻先で小さく振って見せた。

「僕はカティの部屋の鍵をもらいました!僕の部屋のほうも解約しました!」

「おぉ……よかったな」

「ありがとう!」

 いつものスパニッシュバルのいつもの席。

 すこぶる晴れやかなトレバーがうきうきと喋っている。

「これで泣いた甲斐があったなぁ」

「……え? カティの前で泣いてんのかお前?!」

「だって泣くとカティ言うこと聞いてくれるんだもん」

「…………」

「でもね泣いて言うこと聞かせると、その後すっごく機嫌悪くなるんだよ。あれ多分、流されちゃった自分に怒ってるんだと思う。可愛いよねぇ……」

 うっとりと話すトレバーの顔を見ながら、サイラスは女の好みについてこの友人とは全く相容れないものを感じていた。

「可愛い……か?」

「うん可愛いよ。この間も生理中だからって断られたんだけど、言いがかりつけて泣いて抱きついたら」

 彼にも言いがかりだという自覚はあったらしい。

「さんざん暴れた後に大人しくなって『一回だけだぞ』って……」

「それ、俗にいうレ……」

「レ?」

「……いや……忘れてくれ」

 最初、サイラスには純真なトレバーがあまり身持ちがよくないという評判のカティに誑かされたように見えていたが、どうも最近リビドーの暴走に任せて無体を働いているのはトレバーの方ではないかという気もしている。

「そんで、根元まで真っ赤っかになっちゃってさぁ……あははは」

 タバスコを振ったホット・ブラッディ・ブルを前に、非常に聞きたくない話題だ。一方的な猥談が楽しくてたまらない様子のトレバーの前に、サイラスはコースターごと、大ぶりな耐熱グラスを押しやった。

「……これ、お前が飲め」


「今夜はカティ遅くなるって言ってたし、ちょっとだけ寄ってく?」

 サイラスと並んで駅方面へ歩いていたトレバーが言った。

「この間、メドウ社のプロテイン安売りしてたからサイラスにって1カートン買っといたんだ。カティが邪魔だってうるさいし、持って帰ってよ」

 ちょっとエキセントリックなトレバーと昔から友人づきあいがつづけられるのは、時たま見せるこういう細かい心遣いのせいだ。筋肉美の伝道師を自認するサイラスはプロテインの話が出れば何事もやぶさかでない。

「じゃあ少しだけな」

 意気揚々と新たな住まいへ道案内するトレバーについていくと、古く煤けたデュプレックスに到着した。

「こう見えて中はわりと広くてきれいなんだよ」

 そう言いながら鍵を開けたトレバーの目に、リビングの灯りが廊下に漏れているのが映った。

「あれ? もしかしてカティ帰ってきてるかも」

 耳に飛び込んできた音声に、男達は少々不安を覚えた。

「なんか……歌ってないか?」

「うん……歌ってるね……」

 大男二人は何やら首の後ろをぞわぞわさせながら、部屋の主の行状を確認しにリビングへ向かった。

 先に部屋へ入ろうとしたトレバーが立ち止まる。

「どうした?」

 固まっている友人の肩越しに室内を覗き込み、サイラスも同様に硬直した。

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