迷い犬とアイスクリーム

 雨が降っている。

 ビジネスマンの傘はそう華やかでもなく、濁った暗色の小さな屋根を、皆それぞれにカタツムリのように担いでいる。

 その人の流れの中、カティは大股に家路を急いでいた。

 高層ビルが立ち並ぶ街の目抜き通りから3本ほど東側の通りに入ると、市街化の波に頑固に抗うごみごみした低層集合住宅の区画があり、そこにカティのデュプレックスがある。

 静かで落ち着きがあるわけでも、治安的に安心感があるわけでもまったくなかったが、会社に近く内装や間取りもそこそこで、彼女にとってはどこよりも落ち着ける場所のはずだった。

 ところが案の定、弟と会い何を焚きつけられたのかフィアンセ気取りの大男が今日も部屋の前にいる。

 会社から地下鉄で一駅離れた自分の部屋より、中に入ることにさえ成功すれば食欲と性欲がそれなりに満たしてもらえるここの方が居心地がよくなったらしく、彼は会社帰りにしょっちゅう寄るようになってしまった。

 晴れている日は、近くの公園でじっとりと座って待っているが、雨の日は「濡れるから」と部屋の前で哀れっぽく佇んでいる。

 カティはこの、これ見よがしに待っている態度がたまらなく不快だった。かといって鍵を渡す気など毛頭ない。渡せば、この男はその日にでも自分の部屋の賃貸契約を解除し、なし崩しに転がり込んでくるのが目に見えている。

 カティの姿を雨粒に濡れた眼鏡越しに認めたトレバーは、尻尾を千切れんばかりに振る犬の風情で笑顔を浮かべた。

「カティ、お帰り! 寒かったあ!!」

 カティは溜息をついた。


 大量に茹でたリングイネに、作って冷凍しておいたボロネーゼソースを温めてどぼんとかける。

 オーブンでハーブソルトをまぶしておいた鶏と根菜類を焼き、皿に盛りつけてオリーブオイルをかける。

 そして、自分の横でレタスやロケット、ルッコラ、ダンデライオンを雑にサラダボウルに盛りつけている大男を横目で見る。

 カティはいちいち褒めてほしそうなトレバーに気付かないふりをした。

「……できたぞ、さっさと座れ」

 カティは夕食の完成を宣言した。

 市のリサイクルセンターで手に入れた栗の木の古いダイニングチェアに、トレバーがいそいそと腰かける。

 今日あったことを楽しそうに話しながら彼は料理を皿の上から見る見るうちに消し去っていく。ゆっくり行儀よく食べているように見えて、実はかなりペースが早い。

 恵まれた体格ってのは高燃費なんだな、とカティは今さらのように思う。

 買っておいたと思った食材が瞬く間になくなっていく。缶や瓶ものなど重量のある荷物持ちをさせようと買い物に連れていけば、カートに「これも!」とマシュマロやモラセスたっぷりのバタースコッチプディング、ワックス紙に包まれた熱々のファンネルケーキなどカティがあまり食べないようなものをぶち込んでくる。

 食費が馬鹿にならないと叱責すると、彼は新しく銀行口座を作り、月給の一部の自動振込み手続きまで済ましてそのカードを電算室にいるカティに渡してきた。

「自由に使って。自分の名義に書き換えてもいいよ」

 カティは呆気にとられ、それを感激の表情と理解したトレバーは満足そうに続ける。

「この口座のクレジットカードで一括で買っといたから、シェービングフォームとクリーム&ミントのアイスクリーム、今夜あたり届くよ」

「はあ?」

「あ、甘さはあっさりだから君もきっと気に入るよ! じゃああとで」

 カードを手に、微妙な気分になる。

 今までの男たちは不機嫌に現金を渡してくるか、そのままとんずらするだけだった。

 嫌な顔もせず自分の食い扶持を負担してくれるのはいいのだが、カティは外堀を埋められていくばかりか自分がぬかるみにはまり込んでにっちもさっちもいかなくなっているのを感じた。


 昨日の午後だってこういうことがあった。

「カティ~!旦那さんがさっきこれみんなで食べてって持ってきました!

いい人ですね~!!」

 システム会社からの派遣されているジョリーが、カティに最近駅前にできて長蛇の列を作っているクリームパフ店の紙箱を見せた。

 たまにこういうことをするため、電算室の連中はトレバー歓迎ムードになっている。

「旦那じゃねえって何度言えばいいんだ! あんたらさぁ、部外者は叩き出せよ!!」

「だってあの人一応社内の人だから部外者じゃないですしお菓子持ってきてくれる人追い返せるわけないじゃないですかぁ」

「食いもんに釣られんなよ!!!」

 下のはどうか知らないが、電算室は上のお口がゆるゆるがばがばな連中が揃っていた。

「それにあの人、最近告ってきた女の子に『カティとつきあってるから』って断ったらしいですよ? 知ってました?」

「げっ!!!」

「カティの旦那さんってみんな呼んでますけど、あの人ほんとの名前、なんて言うんでしょうね?」

「……コットンフィールド主任だ」

「コットンフィールド(綿畑)さんですかぁ……じゃあ次からそう呼ぶようにしますね」

「ところであいつを私の旦那だとか呼び始めたのはどこのどいつか知ってるか?」

「私ですけど? ……あ、いたっ!カティやめてください!! 痛いですって!!」

「これは東洋医学で『手三里』とかいうポイントだ。健康になりやがれ」

「痛い痛い痛い痛いです!!!」

 あの男は、いい大学を出て鳴り物入りで入社した連中の一人だったが、大人しすぎて個性らしい個性のないイエスマンだったため、今ではそのことを誰も思い出しもしない。

 しかし本気を出すとそれなりの仕事ぶりを見せるようだ。トレバーが斜め上へ足場を確実に組んでいるのを感じとり、カティは頭を抱えた。


 カティの思いには頓着なくトレバーは食事を終えて立ち上がると、ミントフレーバーのミルクアイスのバレルを冷凍庫から出し、大きなスプーンでがしがしと削り取ったものをカフェオレボウル二つに盛る。

「僕これ好きなんだ」

 ぺろっと自分の分を食べ終わると、カティの口元を陶然と見つめる。

 カティがアイスクリームを口に運び、飲み込む。薄い唇の端を白く溶けたとろみのあるものが汚し、桃色の舌が現れてそれを舐めとる。

 何やら鼻息が荒くなってくるトレバーに彼女は眉をしかめた。

「いいよな、トレバーは」

「え?」

「会社近くに住んでて泊めてくれて、飯食わせてくれて、話聞いてくれて、ベッドで優しくよしよししてくれる私みたいなのがいて羨ましい」

 詰る口調だった。

「羨ましい?」

「考えてもみろ、私にはそんな便利なやつはいねえんだぞ?」

 カティの皮肉に彼は慌てて立ち上がり、とってつけたように空いた皿を皿洗い機へ並べ始める。

「……あ、あのね……いつも感謝してるよ」

「当然だ」

「結婚したら共働きになるんだし、僕の分担を決めてくれたらちゃんとやるよ」

「結婚はしねえっつったろ」

「だってもう生活費のプール口座も渡してるしマーティンに『カティをよろしく』って言われてるし」

 カティの弟マーティンは、先日ここへ遊びに来たついでにトレバーに「血縁者公認」という凶器を授けてしまっていた。

「あんたと結婚なんざ真っ平だ」

「え? 責任取ってくれるって言ったよね? 一生面倒見てくれるってことだよね?」

「鍵すら渡してねえってとこに、必要以上の関わりたくなさを推し量れ」

 キッチンカウンターに軽く腰を預けてトレバーは口を尖らせた。

「いいよ。ドアのところでいつまでだって待つから」

 最近、カティがとうとう管理会社から「不審な大男が玄関先にいて、気味悪がっている入居者が苦情を申し立てている」と注意を受けたのをトレバーも知っている。

 もちろん、その上で言っている。

「やめてくれよ……もうほんと止めてくれマジで迷惑だから」

 住環境の劣悪化を防ぎとめたいカティが、「やめろ」ではなく「やめてくれ」と言ったことにトレバーは機嫌をよくした。

「やめさせたかったら鍵ちょうだい。僕、ここに住む」

「…………」

「僕が早く帰れた日は晩御飯作ったり掃除したりして待ってるから。僕、役に立つよ。そしたら君も僕を羨ましく思わなくてよくなる」

「…………」

「僕は浮気もしないし、身持ちの固い配偶者がいるって点では君が羨ましくすらあるよ」

「浮気はできない、の間違いだろインポ野郎」

 言わずもがなの指摘をしながら、同じ勤務先のセカンドチェリーボーイに酔った勢いで手を付けた自分にカティはアッパーカットを喰らわせたくなった。ちなみに先日ドアチェーンを壊されたときは、こんな男を性的に食ってしまった自分にバックドロップをキメたかった。

 自分で自分を殴る蹴るはできないので、シンクに空いたカフェオレボウルを持っていくついでにとりあえずトレバーに一発蹴りを入れる。

 トレバーはその脚を捉え、膝の下に手を入れ高く抱えて太腿の間に身を割り込ませた。タンゴでも踊ってるような姿勢だ。

「僕はこんなにカティのこと好きなのになぁ」

 辛うじて床についている片足のつま先で後ろへ跳び退ろうとしても無駄だった。

 股に押し付けられている部分が生暖かく膨らんできている。

 全く、男のそこというものは毎度毎度ご苦労なものだ。

「じゃあ聞くが、勃たねえままだったら私を好いたか?正直に言え」

「……どうでもいいだろそんなの」

 トレバーはちょっと後ろ暗い顔をした。

「ほらな。あんたは私じゃなくて、私の身体が好きなんだよ。そこんとこ履き違えんな」

「だから何? 身体から好きになって何が悪いんだよ」

「やれたのが私じゃなくて他の女だったら、トレバーは今頃そっちで結婚してくれっつってたんだぜ。私になんか洟も引っ掛けねえで」

 アヒルの雛の刷り込み並みに、抱ければその誰かを好きになっていただろうと彼も思う。

 でもその誰かが、他でもなく目の前にいる女なのだから、そんなパラレルな仮定の話をされても困るし、そもそも無意味だ。

 そういうことを言いだすと、世の中すべてのカップルの関係が怪しくなる。

「何が言いたいのさ」

「なぁ、たまに寝るだけでいいじゃねえか。身体が好きなだけで結婚するとか言いだすと後悔するぞ」

「もう身体だけじゃないって! 僕は普通に君のこと愛してるよ」

 何でこの男はこういうことを臆面もなく言えるんだろう。聞いてるこっちが恥ずかしい。

 カティは耳元が熱くなってくるのを感じて明後日の方向を向いた。

「臭えこと言ってんじゃねえぞ」

「だってほんとだもん」

 トレバーがごそごそと強く体を押し付けてくる。

「カティだってさ、なんだかんだ言って面倒見てくれるの、僕が好きだからだって言ってたよね?」

 複雑な表情でカティが言う。

「……だからそれは迷い犬にえさやるみたいな感じで……」

 それが迷い犬にとってはどれだけ救いとなったか。

 まさに女神の顕現と言って語弊はない。多少のことがあっても信仰は揺らがない。

「カティってほんとに優しいねぇ」

「……ほんと、よしときゃよかった」

「よさなくてよかったよ」

 トレバーはこの「女神様」の頭に頬ずりし、向い合せに抱きかかえてベッドルームへ向かった。

 カティはあれだけ減らず口を叩きながら、落ちないよう男の首に腕を回す。いっぺんトレバーの腕の中で考えなしに蹴りを入れて床に落ち捻挫したことがあるからだった。


 ベッドに倒れ込んで、まだ「シャワーが」だの「歯磨きが」だの「灯り消せや」だのぶつぶつ言っているカティを押さえつけ、服を剥ぎ取ろうとすると体の下で慌てた声が上がる。

「待て待て待て待て! 自分で脱ぐ!! ボタン千切れる!」

 トレバーはボタンを外していく細長い指の動きをもどかしく見つめながら、金属音を立ててベルトを外し自分も脱いでいった。

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