閉じられる本
二日後、日曜日の早朝。
夜空が白々と染まり始めた空の下、バスターミナルまでの荷物持ちにトレバーを指名し、まだ人気のない街をマーティンは杖を突いて歩いていた。彼は楽しげに話をしながら駅の隣のターミナルへ向かう。その隣でトレバーは時折質問を返しながら神妙に聞き、カティは不可解な面持ちでその後ろを歩いていた。
――荷物なんかそんなにねえじゃねえかよ…
――馴れ合ってんじゃねえぞクソが…
オレンジ色の朝日を浴びて、バスが目の前に停まる。
マーティンはカティとハグを交わした後、バスのステップを上がる一瞬前、トレバーと握手した。
「楽しかったよ」
「僕も」
「カティをよろしく」
「あ、はい」
そう言うと、彼は首を曲げてトレバーの後ろにいるカティを見た。
一瞬、姉と弟の視線が絡みあう。
「……じゃあ、さようなら!」
彼は明るい笑顔を浮かべ車窓で手を振った。
穏やかで紳士的、そしてちょっとはた迷惑な熱いパッションを秘めたマーティンは行ってしまった。
バスが出発した後の、人影がまばらになった乗降口に二人は暫し佇んでいた。
路上を走る車の音が、少しずつ増えてくる。
いつもよりやや遅い、日曜日の都市の目覚めだ。
トレバーはちらりとカティを見、彼女はその彼の目を見上げた。
「……何だよ」
「こうやって人を見送るのって、何だか寂しくなるね。当分会えないんだろう?」
カティはどこか力のない声を上げて笑った。立体バスターミナルのコンクリート壁に、その声は虚ろに響く。
「薄情なことに、私はすっきりしてるぜ」
「……そっか」
不自然な沈黙が流れる。
マーティンが「またね」ではなく「さようなら」と言ったのを何度も思い返しながら、カティは、小さく鼻を鳴らし、自分の身体を抱くように腕を巻きつけた。
「寒い?」
彼は薄着のカティに自分が着ていたニットパーカーを着せかけ、そのまま肩を抱いた。
カティは、いつになく彼の手を払い除けなかった。
マーティンとは少し色調の違う黒い目、黒い髪。
弟のものより少し大きな手。
男の匂いと、肌の温かさ。
カティはつと、トレバーに軽く肩をぶつけてみた。大きな体はびくともしない。
「……朝飯まだなんだろ?」
「うん」
「うちに来るか?」
そのころ、マーティンは青みを増していく朝の空を背景に聳える高層ビル群を、ハイウェイの高架橋から遠く見つめていた。
朝食に、とカティが持たせてくれたスモークサーモンのベーグルサンドとステンレスボトルのロータスティを窓際の小さなスペースに置き、彼は溜め息をつきながらシートの背凭れに身を預けた。
彼に「言いたいことは自分の口ではっきり言え」と言いながら、自分のことを語らないかっこよさというものを教えてくれたのはカティだ。
彼の不具を笑う複数の上級生たちに、果敢に戦いを挑む姿は、彼にとってはまさにミネルヴァの雄姿だった。
許してはならないものがあり、そこを守ることを放棄すれば徹底的に蹂躙されるということ、さらに人間を陥落させるには弱みを握ってつつき回しながら、味方のふりをすることが一番だという余計なことも、彼女は身を以てマーティンに叩き込んだ。
そして忘れもしないある夏の昼下り。
ハイスクールの寮の改築で、夏休み中住処を叩き出されたカティは一週間だけ実家に帰ってきていた。
部屋着のキャミソールワンピース姿でしなやかな四肢を抛りだし、リビングの床に眠り込んでいたカティの頬と、唇の感触と、汗の匂い。
それは禁忌の温もりであり、匂いだった。
マーティンは、カティのことを姉として、一人の人間として敬愛していた。
それと同じだけ、血の繋がりさえなければと願ってもいた。
ずっと離れて暮らしていたところへ不意に家族として接する日々が到来すると、姉弟という関係が女と男というものに摩り替りそうな瞬間が度々訪れる。
自分の右目と右脚を盾に求めれば、容易く与えられかねない危うさがそこにあった。
今でも、軽くハグされるだけで心臓は跳ねる。
選択の余地なく生まれた時から与えられ、成長、そして自立とともに希薄になっていく一つの関係。
自分で選びとり、作り上げ、心身ともに最も近しく触れ合うことを許される一つの関係。
その領域が重なることは僕たちにはあり得ない。
今までも、これからも。
だから早く、本当の意味で誰かのものになって欲しい。
そうすればきっと、この燻る思いも消える。
一つのうら寂しい物語の本を、そっと閉じるように。
彼は心の中で、強く優しく、そして慕わしい姉の幻影に向かって呟いた。
――さようなら
美しい秋晴れの日曜日、カーテンで光を遮った薄暗い部屋のベッドの中で、トレバーはカティの柔らかい首筋に吸いつき舌を這わせながら言った。
「マーティンは、僕が羨ましいんだって」
熱い息が首をくすぐる。
「どうしてだろうね」
……何で今、それを言う?
「カティは、どうしてだかわかる?」
言いながら、両の腕にそれぞれ女の脚を抱える。
体内を圧し拡げられる感覚に眉根を寄せながら、カティは目を瞑った。
瞼を閉じていても、じっと見つめられているのがわかる。
一体あいつは、この男に何を言ったのだろう?
「目を開けて」
カティは目を開けない。
彼女の手入れのずさんな頬を撫で、ゆっくりと動きはじめながら、少し切ない気分で彼は言った。
「ねえ、僕を見て」
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