え? え? え?

 そのとき。


 玄関のドアチャイムが鳴らされ、カティは心臓が止まるほどに驚いた。

この古い集合住宅にはインターホンはない。しかしこんな深夜にやってくるのは当然厄介者だ。玄関へ出たら最後、おそらく大変な目に遭う。

 そのままやり過ごそうとしたが、チャイムは5秒おきに、そしてとうとう絶え間なく鳴らされ始めた。

 マーティンが五月蠅そうに、首を竦めてブランケットを被る。

「カティ……何……? 誰?」

「ああ、大丈夫だ、すぐ静かになる。おまえは寝てろ」

 暗がりの中小さな脚立を出して、ストレージの扉の上についている分電盤でチャイムの電源を落とそうとするが、いくつかあるブレーカーのレバーに舌打ちする。どれがどこの電源のだか、覚えてなどいない。

 仕方ねえ。全部落とすか。どうせ30分かそこらだ。


 ところが、いささかお人好しな性格のマーティンが寝ぼけ眼で起きあがり、灯りをつけた。

 義足を装着し立ち上がりながらカティに声をかける。

「僕が出るよ。夜遅いから物騒だし」

「えっ……ちょっ……!! 待て!!」

 彼は玄関に向かって歩いて行き、田舎育ち丸出しに誰何の声を上げた。

「は~いどちら様ですか~」

 そんな彼についカティは叫んでしまった。

「馬鹿! 黙ってろ!」

 そうしてあっと自分の口を押さえる。

 マーティンの声に一瞬収まったチャイム攻撃が再度始まった。今度は乱暴なノック交じりだ。古いスチールのドアが叩かれる響きは、神経を逆撫でするにもほどがあった。


――ああ、もう!!


 カティはドアスコープを覗くと、呻き声をあげた。

 そこには、バスルームの靴下の主が立っている。まだビジネススーツのままだ。

 彼女はマーティンにリビングへ戻るよう言い、彼の姿を見送ってからチェーンをかけてドアを開けた。

「何の用だ」

 顔を強張らせたトレバーが低い声を出した。

「話があるんだ」

「私にはない」

 カティはトレバーを睨みつけた。

「今夜は無理って言っといたよな?」

「……」

「今度話は聞く。帰れ」

 ところが彼は引き下がらない。

「カティ、さっき男連れ込んでたよね?」

 見られていたらしいということに慄然としながら、カティは視線に込めた力を緩めない。

「あれは弟だ!」

「じゃあ会わせて」

「あんたには関係ねえだろ! とっとと失せろ」

 それだけ言うと、カティはドアを閉めようとした。

 閉まらない。

 見ると、革靴を履いた大きな甲高の足がドアの隙間から差し込まれている。

 大きな手がドアチェーンを掴んだ。力任せに引きちぎりにかかっている。古い固定金具がぎしぎしと嫌な音を立て、緩み始めている。

 カティは初めて、眼鏡越しの「ついさっきまで泣いてました」と雄弁すぎるほどに物語るどんよりとした目をヤバいと思った。

 焦って、勢いをつけつつ渾身の力でドアを何度も閉めようとする。骨も折れよとばかりに足に叩きつけられるドアを、無断侵入してきたトレバーの片膝が押さえる。

 力では叶わない。

 カティはとうとう彼に譲歩した。

「わかった! わかったから!! 話なら外で聞く!」

「中に入れて」

「それはだめだって」

 その言葉に、トレバーの手にひとしお力が籠り、チェーンを掴んだ手がぐっと痙攣するように震えた。

 前からぐらぐらしていたチェーンの固定金具が捻じ曲がり、とうとう金属のドア枠から外れた。


 次の瞬間、カティは大男の脇に抱えられ、リビングまで引き摺られていた。



 リビングには男の姿はなかった。

……隠れたか……

 カティは胸を撫で下ろした。

 一方、人間が二人寝ていた痕跡を見てトレバーは眩暈がした。その目をカティに向け、情事の形跡を探す。

――嫌な目つきでじろじろ見んなよ……

 襟の伸びきったTシャツにと短パン姿のカティは、寒い、と独りごちて自分のぬくもりが残るブランケットを肩にかけ、言った。

「話があるならさっさと言え」

「君の弟とやらはどこ?」

 その言い回しに、カティは彼が自分の言葉をまったく信用していないのを知った。

「どこでもいいだろ」

 トレバーはソファーの上のシーツの皺を凝視した後辺りを見回し、激しい嫉妬の籠る声で言った。

「君は弟と寝るのか」

「何だよその言い方!」

「じゃあなんで隠れるんだ」

「夜中にドア壊して踏み込まれりゃ誰だって隠れるだろうが」

「弟はそんなにいいのかよ!」

 自分のことは何と言われても笑い飛ばせた。自分はあばずれなのだから、そういうものだと普通に思えた。

 だが身内を侮辱するような物言いを彼女は許せなかった。

「弟のことを汚らしく言うな! 私のことはどうでもいいけど、私の身内を貶すのは許さん!」

「……」

「だいたいあんたは何様のつもりだ! ただのセフレだろ? 私にとっちゃセフレどころかボランティア対象だ。つけあがってんじゃねえぞ」

 とうとう、激昂した彼女の口から、トレバーが恐れていた言葉が飛び出した。

「あんたとはもう金輪際寝ねえ! 帰れ!」


 そのとき、キッチンの方で何かぶしゅっと二回音がした。それなりに気兼ねし気配を消していたのだろう、意外と大きな音を立ててしまい「わっ」という驚愕の声も上がる。

 二人はびくりとし、申し合わせたかのように黙り込んだ。

 しばらくするとごそっごそっと足を引きずる音と共に、手にマグカップの乗ったトレイを持ってマーティンが現れた。こぼさないように多大な努力を払いながら、彼は二人に近寄り、カティが寝るスペースを作るためにTVの方へ少し寄せていたローテーブルにトレイを置く。

「どうぞ」

 柔らかく湯気を立てているのはノンカフェインのコーヒーだった。三つのカップのうち一つには、こんもりとホイップクリームがのせられている。さっきの音は、クリームのスプレー缶のものだった。

「初めまして。マーティン・カボットって言います。姉がお世話になってます」

「……どうも……トレバー・コットンフィールドです。カティさんと同じ会社に勤めてます……」

「書店でお会いしましたね」

「……はい」

 覚えられてた……

 トレバーはさっきまでの勢いを雲散霧消させて人見知りモードに突入し、カティは毒気を抜かれてぶすっと黙っている。

 再度マーティンに勧められて、トレバーはクリームてんこ盛りのカップに口をつけた。もちろんこんな状況で味など分からない。

「カティ、あの靴下コットンフィールドさんのだよね? やっぱり大きい人だなあ」

「……」

 マーティンに言われ、カティは無性に苛々した。

 座ったままローテーブルの下、無言でトレバーに蹴りを入れる。

 振動で、テーブルの天板の下で何が行われているかマーティンは悟った。

「やめなよカティ……あ、コットンフィールドさん、夜ご飯食べました?」

「……いえ」

「カティ、冷凍庫のラザニア、コットンフィールドさんに出していいかな?」

「……こんなやつ、飢え死にしてゴミ捨て場にでも転がってりゃいいんだ」

「そういうこと言わない」

「こいつはな! 私とおまえが……とにかくこいつはなぁ!」

 連続でがしがしと蹴りを入れるカティに、ひたすらトレバーは身を縮めている。

「カティ、人様を蹴っちゃだめだって!」


――何これ。

――本当に姉弟だ。

――カティが怒って当然だ。


「カティ、ひどいこと言ってごめん。本当にごめん」

「……ほらカティ、コットンフィールドさんが謝ってるよ」

 カティはとうとう踏みつけるように蹴りはじめた。座位ケンカキックだ。

「ごめんなさい、こんな姉で」

「いえ、僕が悪いので」

「そうだあんたがみんな悪いんだよ」

 マーティンは、大きな体でちんまりとラグに座っているトレバーを眺める。

 やはり、悪い人間には見えなかった。

「……僕の右目、義眼だし右脚は義足なんだけど、書店で気づきましたよね?」

「……はい」

 マーティンは笑った。眉尻が下がり、少し困ったようなニュアンスが生まれる。

「僕が7歳の時、道の向こうにいたカティに駆け寄ろうとして車にはねられたんです。ほんとに馬鹿ですよね」

 トレバーはこの突然始まった話に何と言えばいいのかわからなかった。とりあえず曖昧に頷く。

「だからかなぁ、カティは楽しくやってるところを僕に見つかると、しまったって顔をするんですよ。僕の前ではいつも、幸せでいちゃだめだと思うらしくて」

「うるせえぞマーティン」

「……とにかく僕にはいい姉ですよ、カティは。僕はもうみーんな忘れて、幸せになってもらいたいと思ってるんですけどね」

「ちょっと黙ってろ!」

「カティこそ黙って。君を見てると、弟としていろいろ心配だよ」

「……」

 トレバーの借りてきた猫を地で行くような雰囲気に、マーティンは一押し加えてみた。

「ところで、僕はカティとお付き合いしている男性と直に会うのって初めてなんでちょっと舞い上がってるんですが」

「はあ」

「不躾を承知で伺いますが、コットンフィールドさんは将来的にカティとどうしたいとお思いですか」

 まさに小舅の台詞だった。

 先ほどの、カティがセフレだなんだとぎゃんぎゃんと喚いていた声が聞こえていなかったはずはない。

 カティは渋面を作り、トレバーはあ、とも、う、ともつかぬ音声を短く発したまま口籠ってしまった。

「あ、あの……仲良くしてもらえたらと……」

「トレバー滅多なこと言うとぶっ飛ばす」

 カティの脅し文句にトレバーは怯えたが、マーティンは完全に無視して彼に語りかけた。

「たったそれだけ? 僕を間男だと思ってチェーン壊して飛び込んできた情熱はどこへ?」

「え」

 トレバーは呆気にとられ、助け舟を求めるようにカティを見る。

 カティは嫌な予感がした。

 ヤバい。

 小さい頃からこいつはこうだ。

 ふにゃふにゃしたどっちつかずの態度を見ると白黒つけたいたちだ。

――いったい誰に似たんだ……


「コットンフィールドさんもといトレバー! この際言っちゃいたいことを言うんだ」

「え?」

「ほら! カティとはどうしたいんだ!」

「え? ……ええ?」

トレバーの煮え切らない態度が、マーティンのどこかしらに火をつけている。大延焼中だ。

トレバーだけではなく、カティも脇の下に嫌な汗を感じ始めた。

限りない熱意を込めてマーティンが檄を飛ばす。

「さあ、高みを目指したくないのかトレバー! この女に認められたくないのか!」

「姉に向かってこの女って何だよ!」

「……け……」

「カモン!トレバー!カモン!!」

「何がカモンだ!トレバー、マーティンは今ちょっと」

「カティ、静かに! よく聞けよ! トレバーの気持ちを! 考えるな! 感じるんだ!!」

「マーティン、おまえ何言ってるかわかってんのか?!」

「わかってるって! さあトレバー、君らは次のステージに進むべきだ!」


先日の姉を数段レベルアップさせたような弟の鬼気迫る激励の弾幕に、訳も分からずトレバーはここ数週間の懸案事項を言葉にした……正確には、させられた。

「結婚したいと思ってます……」

「よぉしトレバーよく言った! カティ聞いたかい?! すごくイカしてるよトレバー!」

「全っ然イカしてねえよ!!」

途端にローテーブルは凄まじい音を立てて叩かれ、コーヒーが飛び散った。

「誰があんたなんかとぉぉぉぉ!!!」

カティがぶるぶる震えながら仁王立ちになっている。

「きもいんだよあんたはよぉぉぉ!!!!」

「僕だって言わされたっていうか……」

「はあああぁぁぁ?!」

「やめて! 痛い! やめてって!!」

マーティンは一人、慈愛に満ちた大天使のような笑顔を浮かべて姉とそのボランティア対象を眺めている。

「よし、じゃあトレバー行こうか」

「えっ」

「今夜は飲み明かすよ! 明日は休日でしょ?」

「えっ」

「じゃあカティ、あとよろしく」

「なっ……」

「僕、トレバーと男同士の話をしたいから。ちょっと出てくる」

「えっ」

チックでも起こしたように「え?」「え?」と繰り返しながらトレバーはマーティンに腕を捉えられて出て行った。

一人ぽつんとリビングに残されたカティは、ラグのコーヒーの染みを拭き取り、マグカップを片付けながら思った。


……何やってんだ、私は。


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