傷だらけの昔話
カティの部屋のダイニングで、男は様々に他愛ない近況を報告する。
最近、彼の住まいのすぐ近くでリンゴを積んだトラックが横転する事故があり、道じゅうリンゴまみれだったことや、最近イベントの仮装用にかなり不気味なデザインの義眼をオーダーし、試しに大家の息子に見せたら泣かれたこと、今日ここへ来る途中、土産物を選んでいて高速バスに乗り遅れてしまったこと、そして本屋であった出来事を話した。
「で、レジの近くで本ぶちまけちゃったんだけど、その人が買おうとしてた本がみんな助平な実用書でさ、真面目で気の弱そうなビジネスマンって感じだったからびっくりした」
鱈のフライを気持ちよく平らげながら、彼……マーティンは愉快そうに続ける。
「やっぱり恥ずかしくなったんだろうね、その人結局一冊も買わずに店から出てっちゃったんだ。ちょっと気の毒な気がしたよ」
「指差して笑いたくなるな、そいつ」
頬杖をついて、彼が食事をする様子を眺めながら、カティが目を細める。
「カティは最近変わったことは?」
「ん……まあ特にねえな」
しらじらしい答えにマーティンはふふっと笑った。
「今度の人はすごく大きい人なんだね」
「は?!」
「バスルームに男物のソックスがかたっぽ落ちてたけど?」
「……私のだよ」
「どえらくでかかったけど? それに彼、甘党なんだろ?」
「!」
マーティンはキッチンの棚に並ぶ生クリームの未開封スプレー缶を親指で指した。
「あれ、カティが買ったの? 彼が持ち込んだの?」
「……私が食うんだよ」
カティは口調も表情も平然としているがオークル色の首筋、耳朶に至るまで柔らかい赤さに染まっている。
「ふ~ん」
マーティンは隻眼ではあるが、こういうところに目端が利く。ここへ来るたびに、男の痕跡を目ざとく見つけて苦笑する。
カティは椅子から立つと、そそくさとキッチンで皿洗い機に汚れた皿やコップをセットし始めた。
カティは、マーティンには自分のそういった部分をあまり知られたくなかった。
シャワーを浴び、寝間着代わりのTシャツを着てマーティンがリビングへ戻ると、カティがソファーにワッフル織のシーツを掛け、ブランケットを用意していた。
「ありがとう」
背凭れと肘掛を倒し、真っ平らになったソファの上にマーティンは座った。
「今日来たのは、大事な話があるからなんだ」
立っているカティの鳶色の目を、丸い黒い瞳が見上げた。
「僕、今月末、ロスバノスに引っ越す」
「はあ?!」
「就職が決まった。来月から来てくれって話になってる。職員寮もあるし、条件もなかなかいいんだ」
「そもそもロスバノスってどこなんだよ」
「カリフォルニアだよ。忘れたの?」
大学時代の友人から、勤務先の私立高校の障がい者雇用枠に空きができたから申し込んでみないか、という話があったというのはマーティンから電話で聞かされていたが、その後梨の礫だったためカティはその話題には触れないようにしていた。
「決まったら決まったって、先に電話しろよ!」
「決まったのが先週なんだよ。いろいろ忙しくてさ」
「今夜来るのだって、電話一本でもくれてりゃ、今夜はもっと豪華なもん食わしてやったのによぉ!!」
「びっくりする顔が見たかったし、カティの作った普通のご飯が食べたかったんだ。おいしかったよ、ほんとに」
言いながら、マーティンは背負ってきたデイバッグを開け、ごそごそと小さな封書を出し、カティに渡す。
「それに、これもずっと気になってた」
カティは、封筒に細長い指を突っ込むと、一枚の書類を取り出した。
それはマーティン名義の銀行口座のステイトメント(利用明細)を印字したものだ。預金残額が0になっている。
「どうしたんだ、これ……何に使ったんだ?!」
「この口座潰して、残高全部カティの口座に振り込んどいた」
「は?!」
マーティンは今夜の寝床である、少しぐらついたソファの上に寝転がった。
「ああ、肩の荷が下りた! すっきりしたよ」
カティが顔を歪めた。
「……何でこんなことするんだ」
「僕はもう大人だし、仕事も見つかったし、何でもできるよ。いつまで僕の面倒を見るつもり?」
「だからって突っ返さなくったっていいだろ!」
カティはくどくどとマーティンを責めだし、彼はそれを聞き流しながら頭の下で手を組んだ。
「カティ、僕がステイトメントチェックしてどんな気持ちになってたかわかるかい? どんどん増えていってるのを見て、喜んでるとでも思ってた?」
「……」
「カティは子どもの頃は毎月僕にお小遣いを分けてくれて、学生の時はバイト代分けてくれて、働き出したら給料分けてくれて、それで償おうって思ってたんだろうけど」
カティがマーティンの言葉を遮る。
「そんな気になんかなってねえよ! こんなはした金でおまえの目と、足が買い戻せるわけねえだろうが!」
マーティンは天井を見上げた。
「7歳の子どもの事故の責任を、9歳の子どもが背負おうなんて馬鹿げてるって何度言えばわかるんだ。一生償うって、無茶にもほどがあるよ」
事故の後、彼は周囲の愛情や配慮をこれまで以上に一身に集めた。そして彼女はいつも一人、温かい人々の輪から離れて過ごしていた。
そんな日々も、彼女は精一杯マーティンに優しく在ってくれた。
マーティンは、大きく息を吸い、低く穏やかな声で言った。
「もう、本当に終わりにしたい」
ソファの近くにしゃがみ、まだ何か言いたげなカティの髪にマーティンはほんのちょっと触れ、すぐに手を引っ込めた。
まるで触れた指に傷でも負ったかのように、きゅっと掌に握り込む。
「僕はずっとずっと苦しかった。馬鹿なクソガキが道路に飛び出したせいで、一生カティは自分を責めるんだって思うと悲しかった。僕自身が、もうそういうのを全部終わらせたいんだよ」
――違う。
――私は、自分を責めていない。
――車にはねられて、倒れているおまえを見て、私がまず何を考えたと思う?
……どうすればおまえから目を離した私が叱られずに済むか、そればっかり考えていたんだ。
――なぜ、早々に家を出たと思う?
……おまえと、私がおまえを一生世話すべきだと強制する親から逃げたかったからだ。
……金を払って済むのならそっちの方がよかったんだ。
負い目を引きずりつづけている姉は少しばかり声を沈ませた。
「……引っ越すんだろ? しばらくは物要りだぞ」
「僕がバイトしてたの知ってるだろう? 少しだけど貯金もあるんだ」
「……」
「どうしても困ったときは、また相談するから貸してよ。でも借りたらちゃんと返す」
にこっと彼は微笑んで見せた。
「僕はね、もう哀れみも施しも欲しくもない。身を削った施しは要らない段階に来てるんだよ、カティ」
カティがついっと立ち上がり、箱から二枚ティッシュを引っぱり出してリビングを出る。扉の向こうで派手に洟をかむ音が聞こえた。
この弟が、彼女にとって弱みの一つだった。
リビングに戻ってきたとき、寝支度を調えた彼女は枕ともう一枚のブランケットを抱えていた。
「私もここで寝る……カリフォルニアに行ったら、そうそう会えねえだろ?」
ソファの下、ラグの上に寝床を作ってカティは横になる。
灯りを消してぽつりぽつりと今回の旅程や思い出話をしているうち、疲れが出たのだろう、マーティンはことんと寝入ってしまった。
カティはそっと起きあがった。
ブラインドを閉めていてもちかちかと、隣にあるビルの電飾が目障りだ。
その赤や緑に明滅する光にぼんやりと見えるマーティンの寝顔に、カティは見入っていた。
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