こういうときどうすれば

 大人しげな黒髪の大男が先ほどから数冊の本を手に一人、逡巡していた。

『女が離れられなくなる夜のスゴ技』

『女性に聞いた!セックスの本音』

 こういう本はネットで読めばいいのだが、手汗をかきやすく滑りやすい彼は強固なアナログブック派だった。そしていつも行く顔馴染の書店より、こんなメガブックストアの方がいい。これはと思う本を手に取って眺め、レジに並び、金を払って店を出る、そういう流れに誰も注意を払わない。

 そうわかっていても、トレバーはなかなかレジへ行けなかった。

 なにしろ、数週間前まで性的how to本とそれを読む連中に対して火炎放射器の使用が認められればどんなにいいかと本気で思っていたし、欲しい本があるコーナーへの途中にこの手の書籍が置かれていれば、わざわざ遠回りするくらいだったのだから。

 それほどの負の感情を抱いていた自分が、今そういうコーナーに立ち、そういう本を手にとっている。

 意を決してレジに向かおうとしたとき、トレバーの半歩先を、まさに生き急いでいるとしか言いようのないスピードで小学生と思しき男児が走り抜ける。

「おっと!!」

 彼は慌てて立ち止まり、すんでのところで小さな猛獣との衝突を回避した。

 しかし、彼の背後に続いてレジに並ぼうとしていた男はそうもいかなかった。緩衝する動作も取れずに目の前の広い背中に、彼は正面からどん、とぶつかってしまう。

 二人ともつんのめり、購入しようと抱えていた本をどさどさと取り落とした。

「あっ!すみません!」

「こちらこそ!」

 相手はトレバーほどではないが面長で、人の良さそうな顔をした男だった。

 少し年下に見えるが、着崩したトラッドスタイルに革のデイバッグを背負い、物腰も穏やかで育ちがよさそうだ。暗くなってきたというのに色の入った眼鏡をかけ、杖を右手に携えていた。頬のそばかすが印象的だ。

 トレバーは相手が右足に障がいを抱えていること、ずれてしまった眼鏡の奥の片目は瞼が少し引き連れ、焦点が合っていないことに気づき、激しく動揺した。

「本当にすみません! お怪我は?!」

「大丈夫です。あなたこそ痛くなかったですか? 僕がぼーっとしちゃってて……すみません」

 慌ててトレバーが本を拾い集めると、彼もゆっくりと屈む。


――『ネオダーウィニズムと社会福祉』

――『権力の本質 50の実例による考察』

――『近代戦争史と欧州の頭脳流出』


 彼が選んでいたのは、どれもこれも知的な書籍ばかりだった。

 それにひきかえ……とトレバーは恥ずかしさに顔を赤らめ、俯いてしまう。

 お互い本を拾い、自分のものでないものは相手に渡して二人は立ち上がった。

「ありがとう」

 彼はにっこりと嫌味なく微笑んだが、トレバーの羞恥心がどうしてもそこに蔑みの影を見てしまう。

「ごめんなさい」

もう一度謝り、トレバーは書籍をすべて元の棚に戻すと逃げるように立ち去った。


 書店での、傍目からは実にどうでもいい出来事を忘れようと努めながら、トレバーは高層化に抗う薄汚れた集合住宅群の近隣公園のベンチにぽつんと座っていた。ここはカティのデュプレックスが見える。

 最近、部屋の前で待つのが常態化し、とうとうこの建物の端部屋に住んでいるという大家の老人から

「若いもんはええのう……ま、頑張れ」

とクッキーを渡されているところをカティに見つかって、部屋に引っ張り込まれたあと鬼の形相で怒鳴られた。

「いい加減にしろ! しまいにゃぶっ飛ばすぞ!」

「ごめん、……大家さんにこれ返してきたほうがいい?」

「あんたは馬鹿か!!」

「……次は『お菓子はいりません』ってちゃんと言えばいい?」

「そういう問題じゃねえだろ!」

「…………じゃあ、はんぶんこ……する? そういう問題?」

 パッケージをばりっと破りながら恐る恐る訊く彼に、カティは頭を抱える。

「ああああもうこいつぶん殴りてええええ!!」

 そういうこともあり、彼女は扉の前で待つのを快く思わない様子なので

「鍵、もらえないかな」

と勇を鼓して何度か要求してみたが、カティはふんっと鼻を鳴らして軽く睨むだけで取り合ってくれない。

 ここは会社からカティのデュプレックスまでの動線上だ。

 だから最近はこうやって待っている。


 黄昏の光が消え街灯や路面店の灯りが道を照らしだしたころ、やっと背の高い女がゆったりと歩いてくるのが見えた。

 残業続きの待ち人に、立ち上がって歩み寄ろうとした彼は面食らった。


 カティは立ち止まり振り向いた。

 背後から男に声を掛けられたのだ。

 その男というのがちょっと嫌な相手だった。先ほどブックストアでトレバーにぶつかった男だ。

 杖を突き右足を引きずりながらカティに話しかけながら近寄ってくる。

 道でも尋ねているのだろうか?

 次の瞬間、あの無愛想なカティが、公衆の面前でその男に駆けより手を広げて抱き締めた。男も杖を持った手をカティの背に回す。

 抱擁を解いて、何事か話しながら二人は並んでゆっくりと歩きだした。彼女は男の持っていた書店名入りの紙袋をいかにも自然な動作で受け取り、持ち運ぶ。

 そして二人が公園へ近づくと、慌ててトレバーはアザレアの植え込みに隠れた。

 案の定カティは公園の入り口、車止めの辺りに立って園内へ視線を走らせ、誰かを探すようだった。誰もいないことを確認すると安心したようにポケットからスマートフォンを出し、また歩きはじめながらちょこちょこと画面を弄る。

 トレバーの携帯電話がメッセージの着信を控えめに告げた。

 もちろんカティからだ。


――用があるから今日は無理


 すぐそこに相手がいるとも知らずにカティはしれっとしたものだ。

 スマートフォンをしまうなり、カティは男に何か言い、笑顔を見せた。

 見たことのない気遣いと優しさの籠る表情に、トレバーの胃がぎりっと痙攣を始める。

 男もちょっと困ったような顔で笑い、そのまま二人で通り過ぎていく。

 トレバーは今見たものが信じられず、立ち竦んでいた。

 目の前がぐるぐると回り始め、今立っている足の下で大地がひどくぐらつくように感じた。


 会社帰りに、プールで軽く2マイルほど泳いだサイラスは、ロッカーで携帯電話がちかちかと点灯しているのに気付いた。トレバーからだ。画面は彼からの着信とメッセージの表示で埋め尽くされている。

 電話に出るなり、トレバーの悲鳴のような声が耳をつんざいた。

「サイラス! 何で電話に出ないんだよおおおおお!!!!」

「ああ、今プールにいてな……何の用だ」

「カティが部屋に男連れ込んでる! ねえ、踏み込んだ方がいい?! どうしよう!」

「は?」

「道でカティが男に声かけられて、いちゃいちゃしながら部屋に入ってったんだよ……ねえ、こういうときはみんなどうするの?どうするんだよ!」

 完全にトレバーは取り乱している。早口で、おろおろと喋る。

「僕には踏み込んでいいのかどうかわからないよ! ねえどうしよう! 早く決めなきゃ」

 決められないから、カティの部屋の前から30回もストーカーまがいに俺の携帯に電話をかけてきたというわけか。



「おい、とにかく落ち着け」

「教えろよ!」

 電話の向こうで涙ぐんでいる彼が気の毒ではあったが、サイラスは適当にあしらおうと思った。痴話喧嘩はほうっておくに限る。

 トレバーは錯乱した様子で喋り続ける。

「今頃、二人で何してるかって思うとじっとしてられないよ! ねえ、やっぱり踏み込んだ方がいいよね? 挿れちゃう前に!」

 縋るように訊かれるが、サイラスは「いやもう遅いんじゃないのか」と言いたい気持ちを抑えるのに必死だった。

「お前だってキャットハウスにも最近行ってただろうが。お互い様じゃないか」

「あれはカティが行けって言ったから!! もう絶対行かないよあんなとこ!」

「だいたいなぁ、踏み込んで何をするつもりだ? そいつに自己紹介でもしに行くのか?」

「この際自己紹介でも何でもいいよ!」

 トレバーが涙声で喚く。

「……結婚を考えてる相手が今、男とやろうとしてるんだよ! 平気でいられるわけないだろ?!」

「じゃあ答えは出てるじゃないか。いちいち俺に訊くな。切るぞ」

 先日の「僕にはカティしかいない」という言葉を思い出し、サイラスは溜め息をついた。

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