確かめたいこと


 前から見たいと思っていた、非常に悪趣味な超弩級キワモノ映画が終わったのは、それから二時間後だった。

 ある意味カティの好みにぴったり合っていたはずの映画だったが、今一つ楽しめなかった。

 スタッフロールを映し出す銀幕に背を向け、シアターを出る。

 そういえばトレバーにこれ一緒に見ようって誘われてたっけ……あいつこういうの好きじゃなさそうなんだけどな。

 思い出すと疲れを感じ、彼女は映画館の前のファストフード店に立ち寄って時間を潰すことにした。

 普段は飲まない甘いチェリーココアと持ち帰り用のドーナツを二箱オーダーし、椅子に落ち着く。スマートフォンをポケットから出して、胸をざわつかせながらマナーモードを解除して画面を見る。

 ライラからのメッセージが1件あるだけだったが、それを目にした途端、切れの長い三白眼が一気に見開かれて四白眼になり、カティはココアにはほとんど口をつけず、店を飛び出した。


――早く帰ってきて。けがさせられた。血が出てる。


 電話をしてもライラは出ない。

 トレバーも出ない。


 身から音を立てて血の気が引く、とはこのことを言うのだろう。

 歩ける距離をタクシーに乗り、大慌てで帰宅する。

 事と場合によってはすぐに警察とレスキューを呼べるよう、キーパッドを表示させたスマートフォンを握り、カティはエントランスの階段を一跳びで上った。

「ライラ! ライラ!」

 カティが叫びながら転がるようにリビングへ駆けこむと、ライラは自分の服に着替え、ソファーでくつろぎつつケーブルTVの通販番組を観ていた。冷蔵庫に入れていたヨーグルトにグラノーラを入れて食べてながら。

 首だけで振り向き、ライラが言う。

「ああ、お帰り。小腹がすいたから、これ、もらったよ」

「お帰りってあんた……けがは?」

「ほら」

 肘のあたりの小さな内出血と手当ての必要すらない擦り傷を見せられ、カティはその場にへたり込んだ。

「痛かったよ。あのでっかいのに突き飛ばされてさぁ」

 カティが呻く。

「何だよ……その程度かよ」

「その程度って何? 私はシミ一つない艶肌が売りなんだからね。そんじょそこらの女と違うクオリティで商売成り立ってんだよ!」

「……ごめん」

 その場に座り込んだまま、疲労感を味わっているカティに、スプーンを唇に当てたままライラは言った。

「あ~あ、もう嫌んなるよ」

「は?」

「あいつ、ずーっとベッドルームに鍵かけてカティ~カティ~って泣いてんの」

「は? ……じゃあ……」

「できなかったよ、な~んにも。あんたが消えたらすぐ萎えてた。何したってだめ」

 子どもの不始末に縮こまる親の風情でカティが謝る。なぜ謝らなければならないのかよくわからなかったが、そうするのが自然な気がした。

「ごめん」

「私もプロの意地ってあるじゃん? とにかく何かしようと思って、前立腺マッサージしようとしたんだけど」

「ライラ……」

「そしたらさ、このざまだよ。部屋から引きずり出されちゃった」

「ごめん」

 商売女は容器の底に残ったヨーグルトをスプーンで引っ掻き集め、最後の一口を舐めとった。

「私ら、下手打っちゃったね」

「……」

「あいつができりゃ、『終わりよければすべてよし』で問題なかったろうさ。でも失敗しちゃったらマジで洒落になんないよ」

 カティは言い訳をぼそぼそと呟いた。

「絶対いけると思ったんだ」

「根拠は?」

「あ~……勘っていうか……」

「……あんたの勘で、あいつはプライドずたぼろで、私は商売道具に傷入れられたってわけ?」

「こういうことになるとは思わなかったし」

「あ~あ……カワイコちゃんも気の毒にねぇ……」

「私カワイくねえけど?」

「何言ってんの。違うよ」

 このそばかす女は彼のことを何もかも後回しにし、帰ってくるなりライラにばかり気を遣った。

 あの男にも今の会話は聞こえていただろう。

 彼女はゆるく巻いた髪を耳にかけ、バッグを肩に立ち上がった。

「さ、あんたはあのカワイコちゃんのフォローに精を出しな。私、帰るわ」

「ごめん」

「あんまり小手先でごちゃごちゃしないほうがいいよ。なるようにしかなんないんだから」

「……おう」

 謝り通しのカティが差し出したドーナツの箱を受け取ると、ライラは最後にこう言ってあでやかに笑った。

「あいつさ、多分あんたを練習台だとは思ってないよ」



 ライラを見送ると、カティはリビングのTVの電源を落とし、耳を澄ませた。

 カティは静かに階段を上がりベッドルームのドアをノックした。

 返事はない。

「トレバー、入るぞ」

 鍵が掛かっていたが緊急解錠用の溝に爪を差し込んで捻り、難なくベッドルームに入って灯りを点けると、ベッドの上に妙なものが丸まっているのが目に入る。

 頭の先までぎっちりとブランケットを巻きつけているが丈が足りずに足先が出て、まるで野菜がはみだしたカット前のミートローフのようだ。それが横倒しにぎゅっと丸まっている。

 部屋を叩き出されて回収できなかったと思しき、ライラの『お道具』がいくつか床に落ちていた。

「トレバー、ごめん」

 ベッドの端に腰かけ、できるだけの誠意を込めてカティは謝った。

 ほんの少し覗く黒い髪に手を伸ばすと、ミートローフはごろんと動いて触れさせようとしなかった。

「ごめんって」

 ベッドに上がり、身体をぴったり寄せると彼は身を捩って避ける。

「ごめん、ほんと、ごめん」

 謝り続けるカティにトレバーが裏返った声で叫ぶ

「触るな!」

 カティは彼の言う通り、彼の身体から離れた。

 非常に気詰まりな空気の中、身を離したまま二人は黙りこくった。

 大音量で趣味の悪い音楽を鳴らした車が窓の外を通る。

 近くにある駐車場から響くカーセキュリティアラームの誤報音がたまらなく耳障りだった。

 今まで気になったことなどなかったのに。


 沈黙を破ったのはカティだった。

「私は、たまたまトレバーとこうやって寝るようになって、正直困ってたんだ」

 トレバーの頭が少し動く。話は聞いているらしい。

「あんた、たまたま酔った勢いで私とセックスできたっていうそれだけでべたべた纏わりついてきただろ。私がどんな女かも知らないくせに」

「……」

「だいたい私とつきあう男ってのはな、み~んななぜか身体目当てなんだ。やれれば何でもいいっていう男ばっかりなんだよ」

「……」

「他の女とできる機会があれば、私と寝てた男はみんなそっちにいっちまう。どうせそういう男しか私なんぞに声かけねえんだよ。私ブスだし、性格もこんなだしさ」

「……」

「だからもうステディは要らん。トレバーにも、馴染みきっちまう前に早く他の女のとこに行ってほしいんだよ。だから手っ取り早くライラに頼んで荒療治してみようかってなっちまった」

 話しながら、目を細めて嬉しそうに笑うトレバーの顔が思い出されてちくちく胸が痛む。

 結局は自己都合だった。純粋に自分の機能回復を喜んでいたこの男を傷つけて構わない理由にはならない、とカティは思った。

 あばずれの分際で、自分の浅慮が情けない。

「ごめん。許せねえだろ。顔も見たくねえよな」

「……」

「それが当然だ」

 そう言うと、これ以上最悪な相手と同じ空間で同じ空気を吸う嫌悪感を味わわせないようカティは寝室を出ようとした。

 許すの許さないのというのはお子ちゃまじみていて正直どうでもいい。

 ただ、再起不能という最悪の事態になっていたらと思うとどうすればいいのかわからない。

 どうすればいいのかわからないので、とりあえずこの場から離れたい。


 トレバーはブランケットからそっと顔を出した。

 自分に背を向けて部屋を出ようとするカティを見、小さく呼ぶ。

「……カティ」

 ミートローフはごそごそと起きあがる。カティはびくりと振り向いた。

 ブランケットの縁から覗いたトレバーの胸板にはライラの口紅がついている。

 浅黒い頬に、涙が乾いて白っぽく粉を吹いていた。

「……帰るんなら、ジャケット、リビングに掛けといたぞ」

 もう最終の地下鉄はとっくに出てしまったが、タクシーなら駅前にいる。

 背を向けるカティにトレバーは言った。


「こっちに来て」


 カティが固唾を呑み、詰られることも、ともすれば殴られるであろうことも覚悟した上の緊張の面持ちでゆっくり近づく。

 ベッドの少し手前で立ち止まった彼女にトレバーは手を伸ばして引き寄せ、その腹に顔を埋める。

 彼は二、三回カティの匂いを大きく吸い込んだ後、喉を痙攣させ掠れた声で子どものようにしゃくりあげ始めた。

「嫌だった……すっごく嫌だった」

 カティは彼の頭を撫でた。

「うんうん、ごめんなあ」

「ひどいよ」

「うん」

「カティのばか」

「私もそう思う」

 彼はひとしきり泣きじゃくり、カティもその間彼の頭や頬や肩を優しく撫で続けた。

「僕にはカティしかいないんだから」

「わかった」

 外でアラームの誤報音は3台分に増えさらに喧しく鳴り響いていたが、今はもうさほど気にならなかった。


 ひとしきり泣いて詰って少し落ち着くと、トレバーは俯いたまま震え声で弱々しく懇願した。

「確かめさせて。僕がまた、だめになってないか……」

 彼は怯えた表情を浮かべてカティを見、すぐにまた俯いた。

「……怖いんだよ……これでまた、君ともできなくなってたらどうしようって」

 その恐怖と誰かに縋りたい気持ち、今腕の中にある優しさと柔らかさを留めておきたい欲求が、自分を惨めに傷つけ虚仮にした相手への憎悪と忌避感情を彼の中で凌駕していた。

「怖いんだ……」


 できないということがどれだけ辛いのかカティには皆目見当もつかない。

 他の本能的行動とは違い、生命を維持するために必要不可欠なものではないのだから。

 しかし、同性どもがそれなりにパートナーを得て楽しく過ごしているのを遠目に見、鬱屈していた彼の胸に蟠るものを思えば、自分のやったことを顧みると凹まざるを得ない。

 無神経にもほどがあった。最初に思いやって然るべきだった。


――私は、精神と体は別物だと思っているのに、こいつは直結している。

――ただ「生殖する」という生物学的な見地から見れば、私の認識のほうがはるかに優れているのは疑いようがない。

――でも、どっちがより無垢で愛すべき存在と言えるのか。


「怖いことなんかねえよ」


 トレバーはその夜、彼の膝もとにカティが初めて自ら蹲るのを見、その唇や舌、両の乳房の感触をそこに知る。

 そして彼は、彼女だけを峻別した自分の本能に改めて絶対の信頼を置いた。


 自分の上、トロットのテンポからだんだん速くなりギャロップで駆ける騎手のように揺れるカティの細い腰、その後ろにある小ぶりで円やかな肉に手を添える。張りのある乳房が、一瞬遅れに慣性の法則に従って弾む。

やっぱり、彼女は最高だった。


「……僕のこと好き?」

 目の周りを紅く染めたカティが浅い呼吸の下、ふと笑って見せた。

「まあ……こういうこと……してやれる程度にはな」

 その答えを聞くと、一気に堪えきれなくなる。

 彼は思わず、責めたてられる女のように喘ぎ声をあげ、カティの名を呼びながらぐっと身を痙攣させた。


 そんな彼を見下ろしながら、カティはちょっと、引いた。

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