石鹸の匂い

――このところ、カティが冷たい。

――いつも冷たいがさらに冷たい。避けられているような気がする。


 トレバーは今日もデスクでキーボードを叩いては、決済情報を整理し下請けへの通知文書を作り、次期契約の準備に勤しむ。

 仕事に没頭している間はいい。

 終業時間が近づくと、眉間にしわが寄ってくる。

 同僚たちが次々と席を立ち、めいめいに帰路につく。しかしトレバーは椅子に深く腰を下ろしてPCのディスプレイをぼんやりと眺めていた。


――僕、何かしたのかな

――まさか他の男ができたんじゃ……


「トレバー、残業すんのか」


 からかうような調子を帯びた低い女の声が、耳のすぐ近く柔らかく発せられる。

 不意を打たれたトレバーが慌ててぐるりと椅子ごと声のほうを向くと、彼の肩越しにPC画面を覗いていたカティの髪に鷲鼻の先が掠った。

 メンソールの香りに混じって、目のすぐ下、息のかかりそうな距離にあるグレーのカットソーの胸元から、今すぐ捕まえて胸いっぱいに吸い込みたくなる匂いがする。

 離れ難い思いで身を軽く引き、黒い瞳が探るように鳶色の瞳を見上げた。

「何か用?」

 ここ数日の避けられっぷりに、表情も口調も硬くなる。

「疲れた顔してんな。今夜、うちに来るか?」

 カティがにっと笑う。

「いきなり言われても」

 幼稚な意固地さを自覚しながら彼はふいっとカティから顔を背けた。

「何か用事でもあんのか?」

 カティの手がするんと彼の肩を撫でた。

「特にないけど」

 素っ気なく言う。

 胸が締め上げられるように息苦しい。

「……機嫌直せって。飯作るから、食いに来い」

 あっさりとした命令口調。

 トレバーの目元と口元が一瞬緩み、すぐに顔を顰めて不機嫌な表情を作って見せる。

「……君さあ、僕を避けてただろ」

「ああ、えっとな……」

 カットソーの腰を少し捲り、カティは肌に貼っているメンソールの香りの正体をほんの少し見せ、すぐにまた布を被せた。

「腰痛めてたんだよ」

「!」

 トレバーはやっと思い当たる。

 先日、ことの真っ最中、カティの腰に体重をかけると「ぎゃっ」と悲鳴を上げられた。

 あれは性的感覚によるものではなく整形外科的な苦痛の叫びだったのだ、と彼は初めて気がつく。

「……ごめん」

「あれからカイロプラクティックとか通ってたんだからな?」

「そうならそうって言ってよ……善処するよ」

「私みたいなごついのでさえこんなんだから、他のカワイコちゃんはあんたとやるとヘルニアになるぞ?」

 トレバーは大きな温かい掌をじんわりとカティの腰に当てる。彼女がじっとしているのがわかるとおもむろに撫で始めた。

「………僕のこと嫌いになったのかと思った」

「嫌いじゃねえが、好きでも……わっ」

 いつもきょときょとうじうじしているわりにしっかり筋肉のついた長い腕が腰に回され、ひょいとカティはトレバーの膝の上に乗せられた。

 OAチェアが二人の体重に軋む。

 カティは尻の下で何かが硬く張りつめてくるのを感じて、そっと辺りを見回した。

 声を潜めて、軽く詰る。

「おい、誰かに見られたらどうすんだ」

「……僕は別に構わないよ」

 彼は眼鏡を外してデスクに置き、カティの肩口に顔を押し当て匂いを嗅いでいる。

「私の服で顔の脂拭くなよ」

「……」

「この続きは、私の部屋にしようや。さあ、帰るぞ」

 その「帰る」という言葉に、トレバーはふわっと笑顔を浮かべる。

 カティは何となく、トレバーを正視できなかった。


 久しぶりのカティの部屋。

 彼女が手早く作った料理を気持ちよく平らげ、ここ数日誰にも聞いてもらえなかったよしなしごとをぺらぺらぺらぺらとトレバーが喋る。

 職場でぽつんとしていることの多い彼は話し相手がいる時間がとても楽しいらしい。

 酒も入り、トレバーはとろんとした目でカティを見つめた。

「カティ」

「何だ」

「大事な話があるんだけど」

「おう」

「……ベッドで話してもいい?」

「あ、ああ……いいぞ。終わったらな」

「ふふっ」

「気持ち悪い」

 彼は一人でもじもじと照れはじめ、横にいるカティに甘えて凭れかかった。

 予測していなかった大男の攻撃にカティは倒れ、側頭部と肩を床に強か打ちつける。毛足の長いラグを敷いていなかったら脳震盪を起こしていたかもしれない。

「っ……」

 ほっそりとした手がまだ本調子でない腰をのろのろと擦る。

「おい……あんたにはほんのおふざけだろうけど、私にはなぁ……」

「あっ……ご、ごめっ……!!!」

 慌てるトレバーを、横倒しになったままカティは見上げた。

「なぁトレバー」

「ん?」

「私な、ずっと考えてたんだ。私のあんたに対する責任って何なんだろうって」

「んんん?」

「あんた、私に責任とれって言っただろ?」

「うん」

「性豪とまではいかなくても、やっぱりやりてえ女と自由にやれるようになるってのが目標だろ?」

「んんんんん?」

 大男が理解の覚束ない顔つきで犬のように小首を傾げる。

「いいねぇ、それ」

 彼女は彼が将来において気に入るであろう複数の女を言ったつもりだったのだが、トレバーは複数形の「s」を聞き落した。

 彼が「やりてえ女」単数形に誰を当て嵌めているか、カティは全く気づかない。

 彼女の言葉は、完全に曲解された。

「とにかく、あんたは私を練習台にして入門編は済んだんだから、今日はいよいよ次のステップだ」

 トレバーは、暫し何か考えている様子だったが、「次のステップ」という表現を聞くと何か変な物質が脳内にダダ漏れしてきたようだった。

 彼はにこっと笑うとカティの上に身を伏せてきた。

「カティかぁぁぁわいいいぃぃぃぃぃ!もおおおおぉぉぉ!大好きいぃぃぃぃ!」

「耳元で喚くな!」

 彼は何やら非常に乗り気のようだ。

 できなかったことをできるようにしていくにはチャレンジが必要だ。

 この勢いで頑張ってもらわなければ。

 とにかくこうしてはいられない。本日は特別講師を招いている。

 性急にカットソーに手を差し入れ、ブラジャーのホックを外すトレバーにカティはじたばたともがきながら喚いた。

「トレバー! トレバーって! 聞け! シャワー浴びてこい!」

「浴びないとだめ?」

「当ったり前だ! べとべとだろうが」

 汗っかきの自覚はあるらしく、トレバーは素直にシャワーを浴びにバスルームへと向かった。


「ううう……」

 シャワーの水音を聞きながら腰を庇ってようよう身を起こすと同時に、ストレージの扉が開いた。

「面白いわ、あんたたち。今度ステージに立ってみなよマジで」

「何のステージだよ」

「コント込みの白黒ショー。あんたらいいカラダしてるし多分当たるよ」

「ぶっ飛ばすぞ」

 ライラはにやっと含みのある笑みを浮かべた。

 裸身に、カティがいつも寝間着代わりにしているTシャツ一枚という出で立ちだ。カティがいつも使う安い石鹸の匂いを漂わせている。でかい鼻でしつこく匂いを嗅ぐ癖のあるトレバーも、慣れたこの匂いなら落ち着きを感じるに違いない……というのがそれを指示したカティの狙いだった。

 ライラはバスルームの方を軽く親指で指す。

「まあまあいい男じゃない。あれでもうちょっとしゃんとしてれば女食いまくりじゃね?」

「じゃああんたがあいつをしゃんとさせろよ」

「ベストを尽くすよ」

 カティがどことなくそわそわと念を押す。

「優しくしてやってくれよ? あいつああ見えて繊細なんだから」

「わかってるって。あんたこそ段取り間違えんじゃないよ」


 シャワーを終えて、トレバーはタオルを腰に巻きつけてリビングへ戻った。拭く間も惜しかったのか水滴が皮膚の上を流れ落ちる。

「カティ??」

 そこに彼女の姿はない。

 勝手知ったるカティの部屋の冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲むと、トレバーはせかせかと階上のベッドルームへ向かった。


 扉を開けてみると、サイドテーブルの灯りの中、カティが落ち着かなげにベッドの端に座っている。彼の姿を認めて慌てて立ち上がるが、また座る。

「どうしたの?」

「何でもねえよ」

 そう言いながらも口元の表情が硬い。

「何かカティ、変だね」

「変じゃねえって」

 蓮っ葉な口を利くがそれと裏腹な妙に硬い反応。

 しかしそれを気にする余裕はトレバーには無くなりつつあった。

 カティの腰を労わっているつもりなのか、彼はカティの身体をゆっくりと支えながらベッドに倒して抱きついた。

 もちろん、そこは既に臨戦態勢だった。腰に巻いているタオル越しにカティの身体に擦り付ける。

 迫ってくる顔を押しのけてキスを拒み、カティは彼に言った。

「おい、ゴムつけろ」

「え? 今? 全然触ってもらってないのに?」

 不満そうに言う彼に、カティは居丈高になった。

「次に進みてえんならつべこべ言うな。今すぐ、突っ込む支度しろ!」


 この避妊具を装着するところというものは誰がやっても本当に間が抜けている。

 女にとって、見て見ぬふりをすべき男特有の事象の最たるものだ。

 もそもそと作業を終えたトレバーはカティに向き直り、至近距離で頭部を撃ちぬかれたような衝撃を受けた。


 カティはベッドから忽然と消えていた。

 代わりに見知らぬ女がいる。


 プラチナブロンドを緩く巻いた、色白で長い睫毛のいかにも男好きのする女がトレバーを間近に見上げていた。

「初めまして。ライラって言います。よろしく」

 少し離れたところで声がする。

「トレバー、紹介するわ。そいつ、私の友人でライラ・ドリスってんだ。美人だろ?」

 カティはジャケットを羽織りながら、ドアノブに手を掛けていた。

 トレバーの顔色がみるみる変わる。

 恐慌状態でブランケットで大きな身体を隠し、心臓のあたりで拳を握り締める。

「なっ……何これ?!!どういうこと?!!」

「あんたさぁ、他の女じゃ勃たないっつったろ? 勃つとこまで面倒見りゃ後は絶対、誰にでも自由自在に突っ込める」

「……何? ……何言ってんだよ!!! ねえ!!!」

「他の女とやりゃ、絶対あんたは一皮剥ける! 自信持って楽しめ、な? いいもん持ってんだからさ、大船に乗った気でやれ」

「ちょ……何それえええええ?!」

 立ち上がろうとするトレバーと反比例してしょぼくれようとする部分を素早く掴むとライラが慌ただしく声をかける。

「やばいカティ! さっさとやんないと萎えちゃう!」

「触るなああああああ!! 助けてカティいぃぃぃ!」

「すまんライラ! トレバー、いいか、あんたはできるやつだ。絶対できる! 信じろ! ここが踏ん張りどころだぞ!!」

「冗談だよね? ……リアリティTVかなんかだよね? そうだよね?」

 普通、全世界の電波に乗るそちらの方が許せないはずなのだが、世界でただ一人自分が男として振舞える相手からの突然の仕打ちに、彼は目下大混乱中だった。

 もちろんカティに、違う、と一蹴される。

「というわけで、映画観てくるわ。3時間で戻る」

「……待って! カティ!! 待ってえええええええ!!」

 叫ぶトレバーを一顧だにせず、カティはそのままドアを開けて出て行く。

「ライラ、延長が必要だったら、連絡しろよ」

 無慈悲にドアが閉まった。

 間髪を入れず始まるライラの手の動きにトレバーが乙女の悲鳴を上げた。

「いやああああああああああああやめてええええええええ」

 ライラの掌中で逃げられなくなっているのだろうか、メゾネットのエントランスでもう一度、カティは泣き声を聞いた。

「カティ助けてえええええうわあああああああああああ」


 自分だけに懐き、自分を信じきっている飼い犬を初めて他人に預けるときの後ろめたさを感じつつ、カティは駅前の小さな映画館へ急いだ。


――これで練習台から卒業するんだトレバー!

――あんたはできる男だ!!

――きっと輝かしいセックスライフが待っている!

――がんばれ! 激しくがんばれ! 応援するぞ!


――しかし何だろうかこの後ろ髪の引かれっぷりは。


 カティは、自分がしていることに絶対的な自信があった。

 これで、彼もそこいらの男と同じように、元気に種をばらまいて屈託なく猥談に混ざって興じるようになり、容姿も心根も申し分ないステディでも作って、楽しく暮らすだろう。

 何しろトレバーは、カティの前ではEDの片鱗すら見せなかったのだから、彼女の認識が甘くなるのも無理からぬことではあった。

 そうして彼女は彼の将来を上から目線で考えてやった結果、彼を深く深く傷つけようとしていた。

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