第3話


 茜色が闇を抜ける



       ※


 五月二十一日、月曜日。

 その日は朝からずっと雨が降っていた。窓には付着した雨粒は、ガラスに跡を残しながらゆっくりと垂れていく。それは下にいくほどどんどん大きくなって勢いを増し、ガラス表面にいくつもの筋を作っていた。

(久し振りにやったな、跳び箱なんて。中学になかったもんなー)

 ついさっきまで授業で体育館にいた。『マットの固さはどこも一緒なんだな』などと勇也は懐かしさを抱き、気分のよさを感じたものである。

 五時間目は体育の授業だった。体育館近くにある更衣室で体操服から制服に着替え、教室に戻ってきたばかり。教室後ろにあるロッカーに体操服の入った袋をしまい、窓際の一番後ろにある席に座ったところ。

(あとは古文だけか。飯食って、体動かしたからな、まともに受けていられる自信がないなー)

 そうやって次の授業に眠ってしまうことを『仕方がない』と事前に処理し、今から寝る気満々だった。転校してきて二週間、すでに眠っていい授業とそうではない授業の見極めはできている。

 この祇吹高等学校では来週の火曜日、五月二十九日からは中間テストが行われるのだが、今日は月曜であるためにまだぎりぎり一週間前ではない。勇也は『一週間前』というキーワードがないと積極的に授業に向かっていくことのできない特徴を持つ生き物だった。

 教室では男子の姿があるが、まだ女子は戻ってきていない。大名希市での学校でもそうだったが、同じ学校に通う同い年なのに、男女の間には着替える時間差が存在するようである。

(しかし、よく降るなー)

 雨のせいで、いつも窓から見えている海に霞がかかっているようにぼんやりしていた。空にいつもの青さを見つけることは叶わず、暗い灰色の雲はどこまでも広がっている。天気について勇也は詳しいわけではないが、それでも今日はもう止みそうにないと思った。

「…………」

「おーい、勇也くーん」

「はっ……?」

 勇也の席は教室窓側の一番後ろ。といえば、左側は窓だし、教室全体を見渡せるため、教室で一番強襲されにくい場所といっても過言ではない。だというのに、背中をつつかれた。驚きである。

 振り返ると、この学校の制服は着ているものの、このクラスの人間でない女子がいた。だがしかし、まだ転校してきて二週間しか経っていない学校生活で、クラスメートの名前も全員分は分からない状態において、それは勇也にとって確実に見覚えのある顔。

「えーと、確か、鳳凰院ほうおういんさんとか仰いましたっけ?」

「あい……? いや、よくもまあ、毎回毎回そうやって仰々しい名字をすぐ思いつけるものなんだよ」

「一応は準備してるからな。いつ背の低い女子に遭遇しても大丈夫なように」

「……背が低いのは余計なお世話なんだよ。あと『遭遇』ってのは、なんだか珍獣扱いされてる気分がするんだよ」

「うんにゃ、『扱い』はなくしてもらっても構わないぞ」

「あい……?」

 少し視線を上げて、頬に人差し指を当てて考え込む隣のクラスの女子。五秒後に、その意味を理解する。

「……あたし、珍獣じゃないんだよ」

 今日も今日とて、夏希は元気だった。天気が悪いことも関係なし。

「勇也くんは性格に難があるんだよ」

「で、どうしたよ?」

 これまでは『偶然』という形で、外でちょくちょく会っていた。しかし、学校で会うのはこれが初めて。勇也は頬杖をし、さっさっさっと小動物のように素早く背後から前の席まで移動した夏希を見つめる。

 夏希がこうしてわざわざ隣のクラスまで会いにきた理由を探る必要がある。いい予感はまったくもってしないが。

「まさか、また牛べえのコロッケでもたかりにきたわけじゃあるまいな?」

「是非お願いしたところではあるんだよ。牛べえのコロッケは毎日食べても飽きないから、三食でもいけちゃうんだよ。世界三大珍味に指定されてもおかしくないんだよ。トリュフさん、さよならなんだよ」

「珍味じゃないだろ、珍味じゃ」

 何の苦労もなく、駅前の商店街で買うことができる。しかも百円出せばおつりがもらえる手軽さ。

「でも、そうだな、珍獣が珍味を所望するのは、どことなく分かる気がするな」

「……その性格の悪さ、つける薬がないんだよ」

「お前のはどうにかなるから、ちゃんと毎日牛乳飲むんだぞ。よし、この際、牧場いって住み込みさせてもらえ」

「……大きなお世話なんだよ」

 膨れっ面。

「でね、勇也くんは学校が終わったら今日も病院にいくのかな?」

「んっ!?」

 いきなり出てきた『病院』というキーワードに、勇也は全身を硬直させるほど動じてしまった。今日までずっとクラスメートには病院のことを話していない。入院している妹の美沙杞のこと、知られなくないから。

 美沙杞についてこの学校で知っているのは、担任の先生と目の前で小首を傾げている夏希だけ。担任にはしっかり口止めしているので、もし学校にいるときに美沙杞について誰かに尋ねられたら、犯人は間違いなく夏希ということになる。それはつまり、夏希さえ喋らなければ絶対にばれることはない。口封じの必要性、あり。

 勇也の目が怪しく光る。

「猛烈に殺意が芽生えてきた」

「そ、そんなにあっさり物騒なこと言わないでほしいんだよ!? やめてほしいんだよ、そんな変な目で見るの」

「それはお前次第だ」

「あい? いや、意味が分からないんだよ。まったく分からないんだよ」

 危険地域からの脱出を図るために少しだけ身を引くも、それはあくまで冗談っぽく、夏希は自分の用を伝えるために口を開く。

「もし今日、勇也くんが病院にいくんだったら、あたしも連れてってほしいんだよ」

「断る」

 即答。

「いいから、もう教室帰れ」

 壁にかけられている時計を目にすると、あと三分で六時間目の始業のチャイムが鳴る。教室には男子につづいて、女子も続々と戻ってきた。

「自覚なかったかもしれないが、お前はこのクラスにいていい人間じゃない。だから早く帰れ。この疫病神が」

「……意味も分からないのに、ひどい言われようなんだよ」

「その存在がこのクラスに不利益を呼ぶんだ。さあ、とっとと帰れ。しっしっ。このちびっこ悪魔が」

「……存在を否定されたんだよ。ちょっとショックなんだよ。しかも、それとなく意味の分からない悪口のなかに身長のことも含ませてるんだよ」

 がくっとうなだれる夏希。けど、すぐに顔を上げる。とても元気に。それこそが夏希であるから。

「とにかく、今日は一緒に病院いくんだよ。だからね、ホームルーム終わるの、待ってるんだよー」

「断ると言った。というより、お前にはもう二度とこの教室の敷居は跨がせない。覚えとけ」

 それは、教室を出ていく夏希に投げかけた言葉。に対し、夏希はこちらの声に振り返ることなく出ていった。その姿に『ああ、きっと分かってくれたに違いない』と都合よく解釈する勇也。

(ふー、これで一安心だ)

「菴沢君、夏希と知り合いだったんだね」

 勇也の隣の席、岡本儚香が更衣室から戻っていた。今日もいつものように大きな洗濯ばさみのような髪止めで背中まである長い髪をまとめている。その眼差しは同学年の女子と比較すると鋭いものだった。

「それもあんなに親しそうにして。いつの間に?」

「あれ、知ってるのか、あいつのこと?」

「そりゃねー。クラス二つしかないわけだし、部活も同じなわけだし」

 そう言って岡本は目を細め、勇也のことを見つめる。机に頬杖をして、なんとも意味深長に頬を緩めながら。

「で、転校してきてまだ二週間しか経ってない菴沢君が、隣のクラスの、それも女子のことを知ってる理由はなんなのかしらね? それもあーんなに仲良さそうにして。私としては是非とも教えていただきたいところですけど」

「ぐ……」

 勇也の意識が硬直する。きっと顔面も硬直しているに違いない。まるで蛇に睨まれた蛙のように、身動きできなくなってしまった。

(まずい)

 このままそうして見つめられては、うっかり口を滑らせ、美沙杞のことを知られてしまう危険性が凄まじく高い気がした。

「これはまずいぞ」

「何がよ? そういうことは思っていても、口に出さないと思うんだけど……で、まずいのは、菴沢君と夏希の関係がってこと? 随分おもしろいわね」

「それはお前の思い過ごしだ、ちっともおもしろくないから安心してくれ。それと、さっきの女子とは一切関係がないから。さっきのはあれだ、落ちてる石に躓いたっていうか、ただ道を尋ねられたから親切に教えてあげただけに過ぎない」

「……なんで地元民が転校生に道をくのよ?」

 ばっちりな指摘である。

「菴沢君、もしかして、もう隣のクラスの女子に手出しちゃったとか? ろくにこのクラス全員の顔と名前も覚えてないくせに。でも、そうよね、夏希ってちっちゃくてかわいいもんね。その気持ちは分からなくはないわよ」

 岡本はかわいいもの好き。それも無類の。部屋には大小さまざまなぬいぐるみで溢れている。その大人っぽい容姿や発言からは想像もつかないほどに。

「けどね、夏希は私の親友だからね。変なことしたら承知しないから」

「あはははは。いやだな、岡本さん、目が怖いですよ」

 同学年の女子という存在に、背筋に寒けを覚える勇也だった。

「逆なんだよ。俺が道を尋ねたんだ」

「人生の?」

「……灯台までの。それで顔見知りになっただけ」

 岡本相手には嘘が通用しないことはここまで二週間の経験で分かっている。生まれつき備わっている能力なのか、これまでに会得してきたものなのか、とにかく岡本は嘘を見破る能力に長けていた。だから、肝心な部分にフィルターをかけておき、それ以外のことを正直に話すように心がける。それが転校してきてからこれまで二週間の間に学んだ岡本との正しい接し方だった。

「どうやっていけばいいか分からなかったから、案内してもらったことがあるんだよ。竜頭岬まで。そしたら同じ学校だっていうからさ」

「ふーん……それは本当のことみたいね。まだちょっと隠してることはありそうだけど」

「なぜ分かる!?」

 驚愕。そして震撼。

 と、次の瞬間、六時間目始業のチャイム。勇也の前の席には、どこで油を売っていたのか、野球部の藤圭介が滑り込むように戻ってきた。

 本日最後の授業開始。

 その授業中、勇也はずっと意識して、なるべく右側に顔を向けないように心がけた。


 放課後。

 雨が降っていてグラウンドが使用できないことと、来週から中間テストということで、今日は藤圭介によるあまりにもしつこい野球部勧誘は実行されなかった。そんなこと勇也が転校してきて初めてのこと。なんだか毎日あの強引な誘いを断りながら帰ることが体に染みついているため、ないとないで少しだけ物寂しい思いもあることはあるが、ともあれ、平和に帰れることが一番である。

 教科書が一冊も入っていない鞄を肩にかけ、勇也は教室を後に。

「…………」

「やあ。待ってたんだよ、勇也くん」

「…………」

 下校しようと廊下に出た直後、夏希の笑顔に出くわす。

「……お前、今日も部活があるだろ?」

「馬鹿なんだよ、勇也くん。こんなに雨が降ってるのにあるわけないんだよ」

 夏希は陸上部。今朝からの雨でグラウンドはとても使用できる状態にない。

「さあ、出発なんだよ」

「あ、いや……そういや、今日は特別に体育館で練習やるって、さっき岡本が言ってた気がするぞ」

「儚香ちゃんが?」

「ああ。なんでも、今こそ部活に青春をぶつけるときだから、今日という今日は特別に体育館でみっちり練習するんだってさ」

「ううん。私、そんなこと言ってないけど」

「……でしょうね」

 振り返ると、不気味なほどにこやかな笑みを浮かべる岡本儚香。勇也は身の危険を感じた。このままここで生涯を閉じること、悔いが残ってしまう。だから、生きる。

「じゃあ、また明日」

「待ってよ、菴沢君。今から私も帰るところだから、一緒にいきましょう。夏希もそうでしょ?」

「うん」

「仲のいい二人の邪魔しちゃ悪いから、遠慮して俺は先に。これにてご無礼を」

「ご無礼しなくていいわよ。だって、夏希は菴沢君に用があるみたいだから」

「そうなんだよ。あたしは勇也くんと一緒に帰るために待ってたんだよ。二組のホームルームっていつも遅いんだよ」

「…………」

 これでもかというぐらい『仕方ない』という言葉を粉々になるほど噛みしめ、勇也は夏希と岡本と下校することとなる。考えてみると、転校してきて初めて誰かと一緒の下校だった。

 一階の下駄箱で下履きに履き替え、三人はそれぞれ茶色と赤色と深緑色の傘を差して歩いていく。それぞれの身長によって高さに段差ができていた。しかし、傘に落ちる雨音は、三つとも変わるものではない。

「…………」

「今日はね、勇也くんと一緒に病院にいくんだよ」

「あら? 夏希、もしかして菴沢君に傷物にされちゃったの。けしからないわね、私だってまだ手を出してないっていうのに」

「……そんな事実、断じてないから、安心してくれ」

「今日はね、勇也くんの妹さんのお見舞いにいくんだよ」

「あら? 菴沢君って妹いたんだ。菴沢君の妹って、かわいいのかしらね? にしても、一緒にお見舞いだなんて、もう家族ぐるみの付き合いじゃない?」

「……その捉え方、語弊があるぞ」

「そうなんだよ。今日が初めてお見舞いなんだよ」

「あら? なら、今日が親族への対面ってことなのね。心配だわ。私も一緒にいった方がいいかしら?」

「……お断りしますし、そちらの小さい方も遠慮していただけると助かります」

「そんなの駄目なんだよ。だって、さっき約束したんだよ」

「あら? 菴沢君はこんなにもかわいい夏希の約束を反故にしようっていう気!? いい根性してるじゃない。この件について、今からじっくり話し合いましょうか」

「……反故以前に、してないからな、そんな約束。それは小さいのの妄想でしかない。契約は交わされていないんだよ」

「あい? そんなことないんだよ。だって、あたしがいった方が、妹さんも喜ぶはずなんだもーん」

「あら? 確かにそうね。夏希がいった方が、ぶっきらぼうな菴沢君と顔を突き合わせてるより、よっぽどいいわね。なら、これはもういくしかないわ。うーん、私はどうしようかな? 私、部活が休みになって暇なんだよなー」

「……お願いします。そちらの小さいのだけにしてください」

 妥協。ただでさえ入院している美沙杞のことを知られたことだけでも災難なのに、岡本にまでのこのこついてこられては、明日から学校にいけなくなる。

「病室はそんなに広くないから、そこのコンパクトな少女だけでお願いします」

「仕方ないわね。私は帰って勉強することにするわよ」

「岡本さん、ありがとうございます。この恩は忘れない限り覚えておきます」

「……忘れること前提にしてるわけね」

「二日ぐらいなら、努力いたす所存であります」

 といった会話をしていたら、あっという間に勇也が現在住んでいる祖母の家に到着した。

『もう一回言っとくけど、夏希に何かしたら承知しないからね』という捨て台詞を残した岡本と別れ、なぜか我が物顔というか、実に慣れた感じで玄関までついてくる夏希を残し、やはり今日も制服から着替えることなく、祖母が玄関に用意してくれた青色の手提げ鞄を持って外に出た。

「おい、今ならまだ間に合うぞ。早く帰らないと、この雨でお前みたいな小さいのは流されちまうといけないから。身を案ずるならさっさと帰れ」

「勇也くん、それは?」

「聞いちゃいないし……ああ、美沙杞の着替えだよ」

「ああ、毎日着替えを届けてあげてるんだね、やさしいお兄ちゃんなんだよ。尊敬しちゃうんだよ」

「そんな尊敬する人物からの助言だ、さっさと帰れ。頼むから帰ってくれ」

 しかし、その願いは受け入れられることはなかった。

 そのまま二人は実にたわいない話をしながら、駅前にある豊知大学付属総合病院に到着。

 先週の金曜日、勇也はこの病院の屋上に小学生の相川星乃を連れてきた。そして、すでに亡くなっている西岡恭一郎の最後を見送ったのである。それはとても不思議な体験だった。あれはもしかしたら恭一郎の体から抜け出した魂を見ていたのかもしれない。結局、なぜ勇也にだけあの姿が見えていたのかは謎のままだが、ともあれ恭一郎は笑顔でこの地を離れることができた。そうすることで、ずっとショックを引きずり、ずっと落ち込んでいた星乃も元気にすることができたのである。そして、次の日もその次の日も、星乃は病院にきて美沙杞の遊び相手になってくれた。ああして美沙杞の友達になってくれたこと、さらには塞ぎ込んでいた星乃が立ち直っていたこと、勇也はとても嬉しかったと、強く胸に残っている。


 玄関ロビーを経て、エレベーターで最上階の五階へ。勇也はいつものように501号室の扉を小さくノックし、いつもではない隣人という存在に頭を重くしながら病室へ入っていく。

「美沙杞、元気してたか?」

「おかえりなさい、お兄ちゃん。うん。いつも通りだよ」

「それはよかった」

 いつものようにベッドの窓側に回り込み、持ってきた青色の手提げ鞄を置く。代わりに、置かれていた緑色の手提げ鞄を足元に置いた。慣れた手つきでパイプ椅子をセットし、腰かける。そうすることで、視線の高さがベッドの上の美沙杞と同じになった。

「しかし、えらい降るよな。まだ梅雨には早いだろうに」

「そりゃ、雨ぐらい降るよ。いつもお天気ってわけにはいかないんだから……ごめんね、こんな天気なのにきてもらって」

「美沙杞、そんなの謝るようなことじゃないからな」

「うん……」

 少しだけ美沙杞の視線が下がる。けど、二秒後には元通り。

 そうして美沙杞は、着ている黄色のパジャマを意識し、襟元にちょっと手を当てる。それは病室にいるのが兄だけではなかったから。

「ところで、お兄ちゃん」

「いや、大丈夫だ。お前が気にする必要はこれっぽっちもない。まったくもって無視してもらって構わんからな」

「どうしたって気になるよ……」

 美沙杞はあまりに無茶を言う兄に大粒の汗を浮かべつつ、入口近くで立っている人物を目に。

「お兄ちゃんのお友達ですか?」

「…………」

「あの……」

「……とってもとってもかわいいんだよ!」

 これまでずっと扉の近くで立っていたのが、弾けるように動きだしたかと思うと、制服のチェックのスカートをばたばたっさせながら、夏希は部屋中央にあるベッドまでやって来た。

「美沙杞ちゃんっていうのかな? じゃあじゃあ、美沙杞ちゃんって呼んでもいいかな? って、もう呼んじゃってるんだよ」

 にっこりとした笑み。

「あたしは城之浦夏希だよ。城之浦、夏希だからね。夏希って呼んでくれると嬉しいんだよ。美沙杞ちゃん、かわいいんだよ。とってもとってもかわいいんだよ」

「あ、あの、ありがとうございます……」

「お願いがあるんだよ。美沙杞ちゃん、是非ともあたしの妹になってほしいんだよ。勇也くんの妹やってるより、断然あたしの妹の方がいいんだよ。そっちの方が妹冥利に尽きるってなもんだよ」

 無理な勧誘をしつつ、夏希の目が星々のきらめきように輝いていた。

「勇也くんは意地悪なんだよ。それも筋金入りなんだよ。それなのに、妹ちゃんがこんなにもかわいいなんて、神様はもう少し平等に兄妹を扱ってあげるべきだったんだよ」

「それ、どういう意味だ!?」

「あい? そのままの意味なんだよ。勇也くんはちょっとでいいから、美沙杞ちゃんのかわいらしさを見習うべきなんだよ。っていうより、今からでも遅くないから、美沙杞ちゃんの爪の垢を煎じて飲むべきなんだよ。それが世のため人のためなんだよ」

「いや、お前が飲め、お前が」

「勇也くん勇也くん、今にして思うと、儚香ちゃんを連れてこなくて正解だったんだよ。儚香ちゃんがいたら、きっと美沙杞ちゃん、ただじゃ済まなかったと思うんだよ。だってだって、美沙杞ちゃん、こーんなにもかわいいんだよ。儚香ちゃんはかわいいものを見ると、目の色が変わるんだよ」

「……そ、そりゃ、危なかったな」

「うんうん」

 元気炸裂の夏希。それが取り柄であるように。

「だから改めまして、美沙杞ちゃん、是非ともあたしの妹にならないかな?」

「なるわけないだろうが!」

「そこ、うるさいんだよ。真剣な話をしてるんだから、外野は黙っててほしいんだよ。これは本人同士の問題なんだよ」

「俺は無茶苦茶内野だ」

 美沙杞の兄。

「よし、お前、もう帰れ。頼む、帰ってくれ。これ以上無闇に騒がれたら院長から苦情がくる。そんな理不尽な思い、俺も美沙杞もするわけにはいかない。ほら、さっさと帰れ。しっしっ」

「あ、そうだ、勇也くん。いいこと思いついちゃったんだよ」

 夏希の目が輝きを増す。まるっきり勇也の執拗なまでの苦情が聞こえていない状態で。

「じゃあ、勇也くん、突然なんだけどね、美沙杞ちゃんと一緒に暫く外で時間潰してきてほしいんだよ」

「な、何を言いだすかと思えば……お前が出てけ、お前が」

 もうこれ以上、好き放題にさせるわけにはいかない。ここは学校でもなければ商店街でもない、病院なのである。

 びしっと指差す。

「なぜ俺と美沙杞が出てかなくちゃならんのだ!? 出ていくはお前だ! お前が出てけ! この小人族の住人め」

「そんなこと、意地悪星からやって来た侵略者に言われたくないんだよ。その性格の悪さでこの星を侵略しようとしたって、そうはさせないんだよ」

「言ってみろよ!? その意地悪星とやらがどこにあるか言ってみろよ!? 太陽系にあるのかよ!? ああ!? アンドロメダ星雲にあるのかよ!?」

「あい? えーと、それは……」

 困惑するよう、夏希は視線を何もない虚空に彷徨わせて……小さく口を動かす。

「……みんなの心の中なんだよ」

「あるか、んなもん!」

「ねぇねぇ、お兄ちゃんお兄ちゃん」

 ポジションとして、二人のやり取りの間に立つことになった美沙杞は、勇也の袖を引っ張る。

「わたし、散歩いきたいな。雨降ってるけど、一日中ここでじっとしててもつまんないし。だから、夏希さんの言う通りにちょっと時間潰してこようよ」

「あのな、美沙杞。別にこんなのに気を遣う必要なんてないんだぞ。追い出してやればいいんだよ、こんなやつ」

「ううん。そんなんじゃないから。本当にお散歩にいきたいの。だから、お兄ちゃん。お願い」

「……そうか。なら」

 特大の『仕方がない』という言葉を頭に、勇也は部屋の隅にある車椅子をベッドの前まで移動させた。ベッドの美沙杞は素直にそこに移動する。勇也はそれを押して病室を出ていく。

「お前、早く帰れよ。もう二度とくるんじゃねーぞ」

 そうきっちり言い残して。


 病室を出て、すぐのエレベーターの前。ボタンを押して扉が開くのを待つ。

「まったく、なんて図々しいやつだ。よりにもよって、俺たちに出てけだなんて」

「お兄ちゃん、随分と仲がいいんだね、夏希さんと」

「はあ!?」

 信じられない発言を妹にされた。どこをどう取ればそんな勘違いに至るのか、疑問でしかない。

「どこが!?」

「はははっ。そういうところがだよ」

 エレベーターの扉が開いた。美沙杞はとても楽しそうに車椅子を押してくれている勇也のことを振り返る。

「きっと、夏希さんには何か考えがあったんだよ。それをするためには、わたしたちが邪魔だったんだね。だから、暫く好きなようにさせてあげようよ。きっと夏希さんなりの素敵なことが待ってるはずだから」

「小学生に気遣われる高校二年生って……まあ、見た目は小学生と変わらないな」

「そうだね、かわいいもんね、夏希さん。もしかして、お兄ちゃんのタイプ?」

「馬鹿なことを言わない」

 ずんずんっと足音を立てながら、勇也はエレベーターのボタンを押した。今日は雨が降っているので外に出るわけにはいかず、同じ理由で屋上にも出るわけにはいかない。いける場所といえば、ソファーのある一階のロビーぐらいしか思いつかなかった。

 エレベーターが一階に到着する。すると、学校の教室二つ分ぐらいのロビーには診察待ちの人間で溢れていた。月曜日ということで、前日の日曜日の分も混雑しているのかもしれない。

 勇也は空いていたロビー隅のソファーに美沙杞を座らせて、自分も隣に腰かける。周囲のソファーはだいたいどこも埋まっていた。竜天神町の病院はここしかないため、患者が町中から集まってくるのだろう。いや、電車の駅が近いため、近隣の町からも集まっているに違いなかった。

「あいつはな、ただ図々しいだけなんだよ。この前もたまたま商店街で会ったら、コロッケコロッケうるさいんだぞ」

「夏希さん、コロッケ好きなんだ?」

「好きっていうか、あれはもはやコロッケの亡者だね。『ぎゅうべえのコロッケなんだよ。もう世界一なんだよ。コロッケ食べないと蕁麻疹じんましんで死んじゃうんだよ』とかなんとか、うるさいのなんの。まっ、実際おいしかったけどさ」

「ふーん。いいないいなー、おいしいなら、わたしも食べてみたいなー」

「よし、今度こっそり買ってきてやるよ。内緒だぞ」

「勝手に食べたら怒られちゃいそうだけど……うん、ばれなきゃいいもんね。楽しみにしてるね」

 顔を見合わせていけないことを計画する兄妹は、小さくほくそ笑んだ。置かれている現代の医療社会に対する、小さな反乱である。

「でも、やっぱり、夏希さんは他の人とは違うんじゃない? だって、お兄ちゃんも遠慮なく喋ってたみたいだし」

「そういや、あいつだと、不思議とそういった意識はないな。遠慮する必要を一切感じないというか、うーん……あいつがずけずけと言ってくるからかな? クラスは違うんだけど、なんとなく喋りやすいといえば喋りやすいな」

 それは勇也も不思議に思っていたこと。転校する前の日に竜頭岬で会っていたとはいえ、クラスメートと接するよりも夏希と喋っている方が自然でいられる。美沙杞のことも夏希にだけは自然と打ち明けていたし。まるで先月まで通っていた大名希市の学校の友達のような感じがある。いや、それよりもより強い親しみを感じているかもしれない。

 まだ会ったばかりなのに、不思議である。

「なんだろうな? なんとなく波長が合うというか、どことなく懐かしい印象があるというか……」

「それはさ、もしかしたら、お兄ちゃんたち、もっと前に会ってたんじゃないの?」

「そんなことあるかよ。今月引っ越してきたばかりだぞ」

「ううん。もっともっと前の話」

 引っ越してきた今月のことでなく、もっともっと前の話。美沙杞は投げかけるように言葉をつづける。

「以前に夏希さんと会ってたのかもしれないよ。だってね、お兄ちゃんもわたしも、まだちっちゃかった頃、ここにいたんだから」

「はぁ!?」

 美沙杞が言っていることが理解できない勇也は、声が裏返った。

「ここにいたって?」

「この町に」

 祖母の家がある、この竜天神町に。

「この前ね、おばあちゃんが言ってたの。わたしが生まれて間もない頃、お兄ちゃんもわたしもおばあちゃん家に住んでたことがあるんだって。っていっても、わたしは赤ちゃんだったから全然覚えてないけど」

「いや、俺もそんなこと知らないぞ。全然知らない」

「でも、おばあちゃんがそう言ってたから」

「ふーん、そうなのか……」

 その話を信じるとして、美沙杞が生まれた頃となると、勇也は六歳。まだ就学すらしていない。だとすると、もしその話が本当だとしても、勇也が覚えてなくて当然かもしれない。

「そっか……こっちに住んでたことがあったんだな」

 そう言われると、竜頭岬であったり、駅前の商店街であったり、海の眺めであったり、どことなく懐かしい気持ちがしていた、ような気がする。誘導尋問のように、そう言われたからそう思っただけかもしれないが。

「しかし、まったく覚えないな……けどさ、俺、幼稚園は向こうだったぞ。ちゃんと卒園式の写真も残ってるし、入園したときからのアルバムもある」

「うーん、その辺のことはおばあちゃんに訊いてみないとよく分からないけど……でも、こっちにいたんだとしたら、もしかしたら、その頃に会ってたのかもしれないよ、夏希さんと。だからこうも意気投合って感じなんだよ」

「うーん……」

 けれど、勇也には納得いかないところがある。

「そういったことが万一あったとしても、俺は断じてあいつと意気投合した覚えはまるっきりないけどな」

「きゃはははっ。お兄ちゃんって、夏希さんのことになると向きになるよねー」

「なってないなってない。まったくもってなってない。あんなやつ眼中にもないね。実際小さいから目に入らないし」

「だからそういうとこがだよー」

「どういうとこだよ?」

 そうした、勇也にはなんとも気まずいような納得いかないようなやり取りをしながら、一階のロビーにおいて兄妹の会話に興じていた。


 病院一階のロビーに夏希がやって来た。握り拳を腰に、目くじらを立てた状態で。

『もー、随分探したんだよー。いつまであたしを待たせる気なのかな? さっさと戻ってきてほしいんだよ。もう準備万端なんだよ。あい? ふふふっ、それは秘密なんだよ。お楽しみなんだよー。じゃあ、早く戻るんだよー。レッツゴー』

 にこやかに笑う夏希とともに、勇也と美沙杞は五階の病室に戻っていく。

 501号室の扉。主である美沙杞がこうして廊下にいる以上、ノックする必要などない。歩いてきた動作のままにがちゃりっと扉を開けた。

 刹那、そうして目に入ってきた光景に、勇也は暫く我を失うことに。

「…………」

「わあーっ……凄い!」

 全身硬直状態の勇也と違い、車椅子の美沙杞は、口に手を当て、双眸を見開いている。

「動物さんたちでいっぱいだねーっ!」

「ようこそなんだよ。ここはね、美沙杞ちゃん専用の動物園なんだよー」

 夏希は美沙杞の車椅子を押していく。

「ここにはライオンさんの親子がいるんだよ。あっちにはペンギンさんがみんなで遠足してるところなんだよ。でねでね、あそこは象さんが今からご飯を食べようとしているだよ。みんなみんな、美沙杞ちゃんに会いにきたんだよ」

「凄い凄い。夏希さん、凄いよ。動物園だよ」

 美沙杞の目の前、そこにはたくさんの色が溢れている。ベッドの上に犬が座っていたり、台の上に猿が立っていたり、窓際にはキリンが十頭並んで立っていたり。テレビの上にも本棚にもさきほど勇也が座っていたパイプ椅子にも、もうさまざまなところにたくさんの動物が溢れていた。

 それらはすべて、色とりどりの折り紙で作られている。

「凄い凄い、わあー、パンダさんまである。かわいいよー」

「こっちの猫さんは、お魚大好きなんだよ」

「凄いなー。夏希さんって、折り紙上手なんですねーっ!」

「えへへへっ。そんなことないんだよ。こんなの美沙杞ちゃんだってできるんだよ。今から一緒にやらないかな?」

「教えてください教えてください。お兄ちゃんに折り紙の本買ってきてもらったんですけど、全然うまくならなくって。お兄ちゃんもあんまりだし」

「いいんだよいいんだよ。ちゃーんと折り紙持ってきてるからね、これから一緒にやるんだよ。こんなこと、不器用を極限まで高めた勇也くんじゃとても無理なことなんだよ」

 どこか勝ち誇った表情の夏希。

「よーし、美沙杞ちゃん、一緒に折り紙するんだよ」

「はい。お願いします」

「うんうん」

 こうして夏希による折り紙教室が開始された。


「わっ。もうこんな時間なんだよ。そろそろ帰られないといけないんだよ」

 壁にかけられた時計は午後六時を回っている。

「いけないな、なんかいっぱい散らかしちゃったんだよ。美沙杞ちゃんといるのが楽しくて、ついなんだよ」

「ううん、気にしないでください。夏希さんのおかげで折り紙がちょっとは上達できましたし、それにこんな素敵な動物園に招待してもらえたんですから」

 色とりどりの動物が美沙杞のいるベッドを囲んでいた。そこには美沙杞の作ったコアラもいる。

「今日はありがとうございました」

「えへへへっ。美沙杞ちゃんに気に入ってもらえてほんとにほんとによかったんだよ。実はね、この前勇也くんに美沙杞ちゃんが動物園にいきたがってるって聞いてたんだよ。だから、一所懸命作ってきた甲斐があったってもんなんだよ」

「はい、本当にありがとうございました。わたし、いきたかった場所が二つあったんですけど、これで片方は叶うことができちゃいました」

「あい?」

 夏希の目がぱちくり。

「美沙杞ちゃんは動物園と、まだいきたいとこがあるのかな?」

「あ、はい」

 随分と打ち解けたのか、それ以上に本当の姉妹のように仲良く横に並び、美沙杞は窓の外を指差している。

「今日は雨であんまり見えないですけど、あそこの灯台にいってみたいです」

「竜頭岬の灯台にいきたいのかな? いいんだよいいんだよ。美沙杞ちゃんが退院したら、あたしが好きなだけ連れてってあげるんだよ」

「本当ですか!? お願いします」

「うんうん」

 にっこり。

「でも、どうしてあそこがいいのかな? 電車でちょっといけば水族館だってあるんだよ?」

「水族館もいいですね、いってみたいな。でも、あそこにいってみたいんです」

 少しだけ美沙杞の笑みが小さくなった。

「だって、あそこなら、お空にいるお母さんからも見つけてもらえると思うから」

 美沙杞にしては珍しく、相手の顔を見ずに言葉をつづける。

「わたし、お母さんって写真でしか知らなくて、会ったことないから。だからきっとお母さんもわたしのことあんまり知らないだろうから……でもでも、灯台にいけば、お空にいるお母さんにもわたしのこと見つけてもらえるような気がして」

 テレビの横に写真がある。美沙杞の知らない美沙杞の母親の笑顔。

 そんな母親に、自分の存在を見てもらいたい。

「凄いんですよ。夜になると光が遠くの海の方までずーと照らしてるんです。それがここから見えるんですよ。あんな強力な光のとこにいれば、絶対見つけてもらえる気がします」

 そうして、成長した自分の姿を見てもらいたいから。空にいる母親に。

「だから、灯台にいってみたいんです」

「うんうん。それは絶対いかなきゃ駄目なんだよ。よし、連れてってあげるんだよ。ちゃんと指切りするんだよ」

「あ、はい」

 指を絡める美沙杞の笑顔は、眩いばかりに弾けていた。

「ほら、お兄ちゃん、夏希さん帰るみたいだよ。送ってあげて」

「俺が?」

 首を振る。きっぱりと否定。そこに断固たる意思を込める。

「そんな必要はない。なんで俺が見送りなんてしなきゃいけないんだよ」

「そりゃ、それをわたしができればいいんだけど……」

「あ……」

 美沙杞にできるはずがない。そうやってできない困惑した表情をいつまでも浮かべさせておくわけにはいかない。勇也は慌ててこくこくっ頷く。

「……あ、ああ、うんうん。俺にどーんと任しとけ。見送ることに関して右に出る者はいないからな」

「うん、頼んだよ」

「おう」

 少しだけ寂しそうに唇を尖らせた美沙杞の姿に、勇也は緑色の手提げ鞄を持って病室を後にした。いつまでも手を振っている夏希とともに。

 そうして二人で通路を歩いて、エレベーターを待つ。

「しかし、意外だったな。お前があんなに折り紙得意だったとは。細かいことに向いてるとは思えないけど。まあ、体はそんなに細かいからな」

「細かいっていうのは、人間を示す表現じゃないんだよ。あと、その偏見、とってもとっても失礼なんだよ。わたしと折り紙は、もう切っても切れない間柄なんだよ」

「それはいったいどんな柄なんだよ、どんな!?」

「小さい頃にね、お母さんがこの病院に入院してたことがあるんだよ。わたしね、今の勇也くんのように毎日お見舞いにいっててね、その時に、教えてもらったんだよ。お母さんに褒めてもらいたくて、いっぱいいっぱい練習したんだよ」

 エレベーターの扉が開いた。二人で乗り込んでいく。

「実はね、今日のこと、まったく同じことをしてくれたんだよ、お母さん。あたしが動物園にいきたいってわがまましてたら、じゃあ作っちゃおうねって。嬉しかったんだよー。次の日にいったら、病室が動物園になってたんだよ。あの時はもう、お母さんって魔法が使えるって思ったもんだよ」

「ふーん……」

 ちんっというベルとともにエレベーターは一階に到着。ロビーを抜け、玄関で傘を差す。雨は勢いこそないものの、それでも路面に無数の波紋を作っていた。まだ午後六時を少し回っただけだが、今日は雨雲が空を覆っていることもあり、随分薄暗い印象がある。すぐ近くにある商店街の明かりがやけに頼もしく見えた。

「どうする、ちょっと商店街でも寄ってくか? 美沙杞の相手してくれたお礼ってわけじゃないけどさ、牛べえのコロッケでも食べてこうぜ」

「うんうんうんうん。それがいいんだよそれがいいんだよ。牛べえのコロッケを出されてしまっては、あたしに断る術なんかないんだよ」

「……いくらでもあると思うけどな」

 病院を後にした二人は、そのまま人で賑わう商店街の方に足を向ける。賑やかなイルミネーションが、暗い雨空の下できらめいていた。歩いている道にはいくつもの小さな水溜まりができている。

「あ、そういや、お前って確か、毎日竜頭岬にいってるって言ってなかったっけ?」

 以前商店街で会ったとき、夏希がそんなことを言っていた気がした。灯台からの景色はいいが、よっぽどの物好きでもない限り、さすがに毎日通うような場所でもないと思ったことを覚えている。

「今日はいいのか?」

「あい? ああ、勇也くんにしてはよく覚えてたんだよ。これを奇跡と呼ばずして何を奇跡と呼ぶことができるのかな? よしよし、えらかったんだよ、勇也くん。ようやく生まれてきたことの喜びを知ることができたのかな?」

「……なぜ上から?」

「いつものお返しなんだよ」

 喜色満面の笑み。

「今日はいいんだよ。絶対いかなくちゃいけないってことじゃないんだよ。散歩っていうのか、習慣っていうか、わたしにとって竜頭岬にいくことは趣味みたいなもんなんだよ。それに……」

 今までずっと元気で明るかった夏希の表情に、その瞬間、陰ができた。そんな寂しさを含んだ顔をするのは珍しいこと。

「……えーとね、今日みたいな雨の日にね、あたし、あそこで怪我しちゃったことがあって、雨の日はなるべくいかないことにしてるんだよ……」

 夏希は雨の叩く赤色の傘をくいっと上に上げた。その分傘に付着していた水滴が夏希の周囲に落ちていく。

「そんなことよりも、今は牛べえのコロッケなんだよ。とってもとっても楽しみなんだよ。わーいわーい、勇也くんの奢りなんだよ。こうなったら、今夜は牛べえで食べ明かすんだよ。牛べえコロッケパーティーは二十四時間ノンストップなんだよ」

「……一個食べたらすぐ帰るからな」

「あい? そ、それは殺生っていうもんなんだよー」

 少女の叫び、天より降り注ぐ雨音に吸収されるように消えていく。いつもの笑みが戻っていた。

「でも、あんまりたくさん食べちゃうと晩ご飯が食べられなくなっちゃうから、我慢することにするんだよ。うん、さすがはわたし、自制心が半端じゃないんだよ。大人の証なんだよ」

「……そんなことで子供であることを否定したところが、子供であることを証明していると思うけどな」

 何を成し遂げたかのような達成感ある表情の夏希に、勇也は大粒の汗を浮かべる。

 と、その顔を見ていて、不意に美沙杞が口にした話を思い出した。

「そういやさー、さっき美沙杞に聞いたことなんだけどな。って、美沙杞もばあちゃんに聞いた話なんだけど」

 それは夏希に病室から締め出され、ロビーで話していたときに耳にしたこと。

「俺と美沙杞って、以前もここに住んでたことがあるんだって」

「……以前に、住んでた……」

「ああ。ちょっとの間だけだったらしいけど」

「そう……」

 かけられた勇也の声に、その内容に、牛べえのコロッケについて無邪気に胸躍らせ、跳ねるように歩いていた夏希の表情がなくなった。そうして言葉を返すこともなく、相槌すらなくなり、ただ勇也の隣を歩いていく。

「…………」

「夏希はずっと竜天神町 こ  こ なんだろ? だからさ、もしかしたら、以前にも俺たち、会ってたのかもしれないんだ。なんか最近知り合ったって感じじゃないし、もしかしてって。って、俺はここに住んでたことすら覚えてないんだけどね」

「…………」

「うーん、なんで俺たち、こっちに住んでたんだろ? 大名希にある家は俺が三歳のときからあったのにな。でも、美沙杞が生まれたときは六歳だったから用はないはずだけどな。うーん……今日ばあちゃんに訊いてみようかな?」

「……あのね、勇也くん」

 それは夏希にしては珍しく抑揚のない、まるで感情がないような静かな口調。

「もしでいいんだけどね……来週のテストが終わって、それで少し時間があるなら、付き合ってもらえないかな?」

「うわ、いきなり愛の告白ですか?」

「テスト最終日の水曜日がいいんだよ。勇也くん、一緒にいってほしい場所があるんだよ」

「……愛の告白ってところは軽くスルーするわけね……別にいいけど、美沙杞のことがあるけど、テストの日なら昼に終わるからな」

「うん。じゃあ、竜頭岬に二時でいいかな? 予定しててほしいんだよ。」

「おう」

「じゃあ……」

 夏希は一度俯く。その耳に商店街の喧騒と雨粒の音を聞きながら、意識して力いっぱい顔を上げた。

「じゃあ、今はとにかく牛べえのコロッケなんだよ。早くするんだよ。早くしないと売り切れちゃうんだよ。売り切れちゃったら二度と今日の牛べえのコロッケは食べられないんだよ」

 次に踏み出す足に少しだけ力が入る。しかし、運が悪いことにそこには水溜まりができていた。夏希が足を踏み出したことで、当然そこに溜まっていた水が弾かれる。

 弾かれた水は、これまた運が悪いことに隣人の足元にかかっていた。制服のチェックのズボンに、びちゃっと。

「あっ……あは、あははは。わたし、ちょっとだけお茶目なことしちゃったんだよ。えへへへ」

「…………」

「えへへへっ。もしかしてもしかすると、怒ってるのかな? 勇也くん、決してわざとじゃないんだよ。そのことはしっかり主張しておきたい気持ちがあるんだよ。今のは神に誓ってわざとじゃないんだよ。コロッケの神様に嘘はつかないんだよ」

「……たった今、牛べえのコロッケは売り切れました」

「あい!?」

 仰天。

「そ、そんなことないんだよそんなことないんだよ! 突然変なこと言わないでほしいんだよ!」

「お前さ、いつもいつも、そうやって無駄な元気出すのはやめろよな。いい加減、ちょっとは落ち着いて行動しろってんだよ。ったく……あーあ、もう、おかげでこっちにとばっちりだよ。まだ月曜日で、今週ははじまったばかりなんだからな。洗濯して、明日までに乾けばいいけど」

「だ、大丈夫なんだよ。ちょっとぐらい、きっと勇也くんなら気合でカバーできるんだよ」

「ほほーう。それは興味深い対応策だな。気合でカバーねー」

 勇也の目がきらりっと光る。

「じゃあ、その気合とやらの見本を示してもらおうか? 城之浦夏希さん」

「……こ、こんな時だけちゃんとした名字を呼ばれたんだよ!?」

「いいか、そこに立ってろ。俺がされたのとまったく同じことをしてやるから」

「そ、それは遠慮しておくんだよ。そして今は早くいくんだよ。牛べえにいくんだよ。わたしたちのことをコロッケが待ってくれているんだよ」

「こら、逃げるな。おい」

「牛べえが待ってるんだよ」

「だから、そうやって無駄に走るなって言ってんだろうが」

 そうして賑やかにはしゃぎながら、二人は商店街西方に位置する牛べえを目指していく。

 それはもう、互いに気心が知れた旧友であるかのように。


       ※


 五月三十日、水曜日。

 月曜日から今日まで、祇吹高校では中間テストが行われた。なぜかこの学校、テスト期間になると始業が三十分遅くなり、午前九時からとなる。電車やバスといった時間の都合がない勇也は、『へー、なんて素敵なシステムなんだ。三十分もゆっくりしてられるなんて』と感激した。

 そんな三日間は瞬く間に終了し、明日からは通常授業。五月に転校してきたばかりで、ごたごたが多かったにしてはテストの手応えがそこそこあり、勇也は気分よく昼の放課後を迎えていた。

 今日から部活動が再開されるクラスメートの嘆きにも似た『しまった、ジャージ忘れたあぁ』という声を横目に、廊下に出ると隣のクラスの夏希から声をかけられ、勇也は小さく頷いてから下校する。

 病院へはいつものように夕方にいけばいい。今は帰って祖母と一緒に昼食して、少しまったりするといった呑気な展開を下校時は期待したが……現実は厳しいものとなった。

『美沙杞がぁ!?』

 帰宅直後、祖母から美沙杞の体調不調を告げられたのである。勇也は制服であるカッターシャツ姿のまま家を飛び出し、灰色の雲が一面を覆っている空の下、広大な太平洋を眼前にしながら病院まで駆けていった。


 美沙杞は朝から発熱していたという。三十九度で、勇也が駆けつけたときも顔を真っ赤にして呼吸が苦しそうだった。大名希市にいたときも何度かこういったことがあり、心配だが、勇也ではどうすることもできない。

 せめて寂しがらないように、折り紙の動物に囲まれた病室で、ただパイプ椅子に腰かけて美沙杞のことを見守るのみ。

 窓の外を目にすると、雨が落ちてきた。空を覆う雲は厚く、今日は止みそうにない。傘を持ってこなかったことを後悔するも、後の祭り。帰るときに地下の売店で購入することとなるだろう。


 午後八時。最近は随分と日が長くなったが、さすがにこの時間は真っ暗である。覆っている雲のせいで月も雲も見ることなく、病室から眺められる太平洋は暗闇のよう。

 美沙杞の熱は三十七度まで下がっていて、顔の赤みも薄らいできている。ほっと一安心すると、勇也の腹が『くぅー』と鳴った。昼食を抜いていたので、腹も減るはずである。

『また明日くるからな』

 目を覚ました美沙杞は、自身の病状に申し訳なさそうに視線を落としていたが、その頭を撫で、勇也は口角を上げて微笑みかけた。


 勇也が病院を出るときも雨は降っていた。売店で二百円のビニール傘を買い、商店街の方へと歩いていく。

『菴沢君』

 後ろからかけられた声に勇也が振り返ると、そこにはクラスメートの岡本儚香が立っていた。いつものように大きな洗濯バサミで髪の毛を縛っているものの、いつもの制服ではないTシャツにロングスカート。

「偶然だな。買い物か?」

「ねぇ、菴沢君、夏希見なかった?」

 岡本は少し声を荒げて、肩を上下させている。慌てていた。

「いなくなっちゃったの、夏希」

 学校から帰ったものの、昼過ぎに家を出て以来、まだ家に帰らないという。今日は陸上部もなく、傘も持たずに出かけたらしい。近所である岡本は夏希の母親に相談され、こうして捜しているところ。

「夏希、いつもこんな遅くなることなんてないはずなんだけど」

「あいつ、とてつもなく小さいから見つけられないだけなんじゃ」

「菴沢君!」

「……すみません」

 凄い形相で睨まれて、ただただ肩身の狭い思いをする勇也。

(って、そういえば)

 同時に、いやな予感が電流のように全身を駆け巡る。

(そうだ……)

 勇也の全身が一気に熱を帯び、総毛立つ。美沙杞の発熱を聞かされたとき以上の、まるで全身を狂わすような驚異。

(まさか!?)

 勇也は駆けだしていた。


 灯台の明かりは、雨の日でも関係なく航海の安全のために海を照らしている。

 そんな灯台の明かりが灯ることのない足元……勇也のいやな予感は的中した。

「どうして、お前……」

「……お、遅かったんだよ」

 白いコンクリートの段差に腰かけ、灯台を背に膝を抱えている夏希。頭上にはひさしのような出っ張りがあるが、だからといって雨をすべて防ぐことはできない。髪は濡れ、着ている黄色のワンピースはその色を鈍く深めていた。

「……ずっと、待ってた、んだよ」

「おい!」

 ゆっくりと横に倒れていく夏希に、勇也は咄嗟に傘を投げ出して支える。

(こいつ)

 袖から出た腕は、まるで氷のように冷たかった。

「お前、今までずっと」

 今日の午後二時、勇也と夏希はここで待ち合わせをしていたのである。約束をしたのは先週で、今日も学校から帰る前に声をかけられた。

 なのに、美沙杞の一件ですっかり忘れていたなんて。

「なんでこんなぁ」

 待ってなくても帰ればいい。勇也なら三十分で帰るだろう。なのに、それを六時間も待つだなんて。

「馬鹿野郎がぁ!」

 それは抱えている夏希にかけたものでなく、自身にぶつけたもの。

(なんでこんな……)

 タクシーや救急車が頭を過るも、自分が動いた方が早いと思った勇也は夏希を背負い、一緒にかけつけてくれた岡本に傘を差してもらいながら、夏希を家まで送り届ける。

 その胸に、どうしたところで清算することのできない巨大な自責の念を抱いて。


       ※


 六月一日、金曜日。

 夏希は昨日も今日も学校を休んでいた。風邪である。傘もなく、外でずっと雨に打たれていたのだから、当たり前といえば当たり前の話だった。

 昼休み。

 弁当を食べると、勇也は岡本に渡り廊下まで呼び出された。上げられない視線のまま、南校舎と北校舎をつなぐ渡り廊下に辿り着く。

「…………」

「安心しなさい、夏希の熱は下がって、今日は念のために休んでいるだけだから」

「…………」

「そんな惨めに下向かれても……自分がしたことをなかったことにはできないわよ」

「…………」

「しっかりしてちょうだい。まったく……」

 岡本は手を腰に、小さく息を吐く。

 今日は天気がよく空には青空が広がっており、蒸し暑さは感じなかった。渡り廊下から見える中庭にはバスケットゴールがあり、六人の男子生徒が三対三に分かれて試合形式の遊びに興じている。その様子を女子三人組が見ていること、ここから観察できた。

「夏希はね、家が近所で小さい頃からいつも一緒なの。親友だし、私にとって姉妹みたいに大事なの」

「…………」

「そんな夏希が不幸になるなら、そんなのとても見てられないわ。お節介と思われたって、私は夏希のためにいつだって手を貸すわ」

「…………」

「いい、菴沢君。もし、あなたが夏希を不幸にさせようと思ってるなら、金輪際近寄らないでちょうだい」

「…………」

 ただただ俯くばかりの勇也。言葉が出てこない。

「…………」

「ねぇ、そうやって黙ってれば、どうにかなると思ってるわけ!? 時間さえ経てば誰かが解決してくれることなのかしら!?」

「…………」

「何とか言いなさいよ!」

「…………」

 下げるばかりだった視線……小さく上げる。

「……悪かったな」

 思い浮かぶもの、それは言い訳しかない。そんなことを言ったところで、どうにかなるものでないことは分かっているのに。

「あの日は妹のことがあって、それで……」

「それで?」

「まさか雨の中、あんな何時間も待ってるなんて、思いも、しなかった……」

「それが夏希なの!」

 岡本の知る城乃浦夏希。

「とても真っ直ぐで素直で、誰のことも信じて疑わない、そういう子なのよ、あの子は。私はずっとずっと見てきた。小さい頃からずっと」

「…………」

「でも、夏希だから許しちゃうのよ、そんな菴沢君のことだって」

 両の拳を握る。声を震わせて。

「まったく、なんでこんなやつ」

 小さく呟き、

「いい、明後日の日曜日、十時、駅のベンチ、そこにいきなさい」

 ぶつけるように言葉を残した岡本は、くるりっと後ろを向く。

「今度こそ、絶対だからね」

「…………」

 こちらに背を向けて教室の方に歩いていく岡本の姿を目に、勇也はどうとも反応することなく、ただ呆然と立ち尽くすのだった。


       ※


 六月三日、日曜日。

 午前十時十分。竜天神町の駅。外に設置されているベンチ。そこに腰かけている勇也。家のある大名希市に比べればあってないようなものだが、それでも駅には人の行き来があり、数人が勇也の前を通り過ぎていく。近くには郵便ポストや自動販売機があり、掲示板には早くも神社で行われる夏祭のポスターが掲載されていた。どうやら花火大会もあるらしい。

 勇也は白いシャツを着て、ぼぉーっと豊知大学付属総合病院を眺めている。今日はまだ足を運んでおらず、夕方にいく予定のために手提げ鞄を持ってきていない。用を済ませて一度家に戻るのである。

「…………」

 待ち合わせ。十時にこの駅のベンチ。すでに十時十分で、待ち合わせた時間から十分という貴重な時間が経過している。それは、待ち合わせを望んだ方の遅刻。

「…………」

「おはよー、勇也くん。お待たせしちゃったのかな?」

 半袖の青色のワンピース姿、夏希が現れた。十分遅刻で。堂々と。悪びれることもなく。小さく肩にかかる髪を揺らした。

「さあ、いくんだよ」

「…………」

「ああ、ごめんね、遅刻しちゃったんだよ。でも、これでおあいこなんだよ」

「悪かったな、この前は……」

 立ち上がり、深々と頭を下げる勇也。

「本当に、悪かった」

「だから、これでおあいこなんだよ。気にすることないんだよ」

「そうか……」

 ほっと胸を撫で下ろす勇也。この会話ができていること、本当によかった。

「で、今日はどうするんだよ?」

「それはまだ秘密なんだよ。じゃあ、勇也くん、あっちなんだよ」

 夏希は勇也を連れ、近くの踏切を渡って海側へと出る。堤防沿いを西方に向かって歩いていく。進行方向には海に突き出した竜頭岬が見えた。その上には小さな白い灯台がある。

「…………」

「なあ、どこいくんだよ?」

「…………」

「……今のとこ、なぜ無視されたのかが理解できんところだけど」

「…………」

「おーい、夏希さーん? もしかして、テストの点が悪過ぎて、もう立ち直ることができないんですか?」

 からかい半分だが、それに対して相手からの返答はない。

(うーん……)

 今日はやけにからかい甲斐がないというか、実に素っ気ない夏希に唇を尖らせつつ、勇也は顔を海の方に向けながら歩いていく。

(まあ、腹でも空かしてるんだろ)

 楽観的に考え、顔を潮風に向ける。こちらに向かっていくつもの白い波が押し寄せてくる太平洋を目に、髪を潮風に靡かせていく。海の堤防と電車のレールに挟まれた道を、一歩、また一歩と。

 この道は、転校前日に勇也が竜頭岬まで歩いていった道。あの時、竜頭岬で夏希と出逢ったのである。

「にしても、まだ六月に入ったばかりだけど、結構暑いよな? こっちの夏って暑いのか?」

「……勇也くんは覚えてないのかな? この辺りには小さい頃に住んでたことがあるって、この前言ってたんだよ」

 前を向いたままの夏希の声。

「それぐらいのこと、覚えていてもおかしくはないと思うんだよ」

「覚えてないよ。ってのか、それが夏かどうかも知らないし。ばあちゃんの話だと、せいぜいいたのは一か月ぐらいだってことだけど」

「そう……だったら、夏だったかもしれないんだよ」

「かもしれないけど……」

 いつもよりとしたものでありながらも会話を交わしていき、歩いていくこと十分……二人は絶壁と思われる竜頭岬に到着した。

「……相変わらずでかいな、ここは」

 竜頭岬は、間近で見上げるとほぼ首を直角にしないといけない。岩肌には何本か大きな木が斜めに生えており、緑の苔のようなものも確認できる。

「こりゃ、首が痛くなりそうだ」

「勇也くん、こっちなんだよ」

 夏希は竜頭岬の崖と、そこまで伸びている堤防の間にある隙間を手で示す。そちらは堤防の向こう側であり、海だった。

「あっちいくんだよ」

「いや、そこって」

「うん。勇也くんと最初に会った場所なんだよ。あの時は、はははっ、あたしぶつかっちゃったんだよ」

「ああ……」

 堤防の向こう側、そこには水面から顔を出している巨大なテトラポットがたくさん置かれている。前をいく夏希はその上を跳ねるようにして進んでいく。崖沿いを、まるで崖の向こう側を目指しているように。

(まったく、こんな場所に何があるっていうんだよ?)

 勇也は今日、夏希に呼ばれてここにいる。どうしてもついてきてほしい場所があると言われて。その約束を果たすのが、今日である。

(まっ、テストも終わって暇だったし、どうでもいいけどさ)

 夏希につづいて勇也も水面から顔を出しているテトラポットへと足を伸ばした。

 真下には波が押し寄せており、白い泡をたくさん弾けている。巨大なテトラポットは勇也が乗ったぐらいではびくともせず、とても安定している。前方をいく夏希を追いかけるようにして崖沿いを進んでいくと、テトラポットがなくなり、奥には水面からいくつもの岩が顔を出していた。

(……っ……)

 そうして水面近くの低い位置から見た海の風景や、波の上にあるテトラポットを渡っていく動作……勇也は違和感なくすんなりと行えたというか、まるで不慣れな感じがしなかった。まるでそういったことを以前経験したことがあるみたいに。

(…………)

 この場所を、その行動を、どこか懐かしいような思いを抱きながら、岩の上に足を伸ばしていく。

 そして竜頭岬の先端にある岩の上に、先にいっていた夏希は立っていた。

 勇也は二つ手前の岩に。

「なあ、こんな所にさ、何があるっていうんだよ?」

「じゃじゃーん、ここなんだよ」

 夏希が示すところに、穴があった。大きな穴がぽっかりと。

「あたし、先にいくね」

「あ、おい」

 竜頭岬の先端に、陸地からでは絶対に分からない大きな穴が空いていた。まるで崖にできた洞窟である。覗いてみると、それが奥につづいている。高校生となった今ではそれほど感情が湧いてこないが、小学生の頃なら秘密基地として重宝されることだろう。家族や学校のみんなに自慢したに違いない。

(……ここ……)

 崖の穴は、高さ二メートルほどの半円。中にも白い波は押し寄せていき、水面から出ている岩の上を夏希はこれまでと変わることなく進んでいく。その姿を目に、勇也の心に、小さな棘のようなものが刺さる感覚があった。ちくりっと勇也そのものが刺激されたのである。

 それは、ここまでテトラポットの上を移動しているときに感じていたものが、より強くなった。

(……ったく、なんだってんだよ?)

 自身の内側で何かが動きだそうとしているのが分かる。分かるも、勇也にはその感覚だけで、それがいったいどういったものなのか、輪郭すら捉えられていなかった。

(……この、奥か)

 ごくりっと喉を鳴らし、勇也も洞窟に入っていく。

 高さは充分あるが、それでも少しだけ背を丸めるように進んでいくと、五メートルほど先に夏希が立っていた。入口が南側にあることで太陽光が入ってくるので、明かりの心配はない。

「へー」

 勇也は夏希の横に並ぶ。水面から出ている岩はこうして立っている場所までしかなく、そこから先は水で満たされており、進むことができなかった。

 足の先からは、半径五メートルほどの空間となっている。丸い水面が小さく揺れ、天井は多少ごつごつしているものの鍾乳洞のような突起はなく、ドーム状に丸くなっている。まるでここにあった巨大なボールがすっぽりとなくなったように。

(ここって……)

 足元のすぐ下には、小さく揺れる水面。押し寄せる波の音。口を動かすと反響する声。とても静かな空気。

 まるで世界から忘れ去られた場所のように思える。

(…………)

 勇也の感覚が、この空気に何かを感じ取っている。しかし、それをうまく言葉にすることはできない。ただ、何かが確実に勇也の心を揺り動かしていた。

(…………)

「ここなんだよ、あたしが毎日きてる場所は。最初に勇也くんに会ったときも、ここの帰りだったんだよ」

「ふーん、そうなんだー……まあ、珍しい場所っていうか、いいとこではあるな。夏なんか涼しそうだし。足場が悪いから、ここで休憩ってわけにはいかないだろうけど」

「うん……」

 夏希は奥にある半円の水面を伸ばした手で示す。

「あのね、勇也くん……ここにはね、竜天神様っていう神様がいるんだよ。それでね、竜天神様はね、誰のどんな願いも一つだけ叶えてくれるんだよ」

「ふーん、そんな習わしがあるのか」

「あたしね、小さい頃にもうその願いを叶えてもらったんだよ」

「へー、そうなんだ……だったらさ、もう来てもしょうがないんじゃないのか? その神様とやらに頼む願いはなくなっちまったんだろ?」

「ううん、そんなことないんだよ」

 とても静かな声。空間に反響する夏希の言霊。

「叶えてもらったこと、竜天神様にお礼を言いたいし、それにね、えへへへっ、あたしにはもう一つ願いができちゃったんだよ。だからね、この場所には、もう一つの願いを忘れないためにきてるんだよ」

「そうか、願いは一つしか叶えてもらえない、っていう迷信なんだもんな。二つ目は無理なのか。だからせめて今度はそれを忘れないためにか……うん、忘れっぽさは、いかにもって気はするけどさ……で、その願いってのは? まあ、当然その身長に関することなんだろ? うんうん」

「……違うんだよ」

「じゃあ、何だっていうだ?」

「うん……」

 夏希は奥の方を見つめる。さすがにそこまでは外の光が届くことはなく、薄暗い。押し寄せる小さな波が岩肌にぶつかって白く弾けた。

「あたしね、小さい頃に、ある人に命を助けてもらったことがあるんだよ」

 それこそが、夏希をこの場所に縛りつける人物でもあった。

「命を助けてもらったからね、まさしく命の恩人なんだよ。その人にお礼が言いたかったんだけど、あたしが病院にいる間に、どっかいっちゃったんだよ。だから、残念だけどまだお礼が言えてなかったんだよ」

「へー……」

「だからね、その人にお礼を言える日がくるまで、そのことを絶対忘れないように、なるべく時間を見つけてここにはくるようにしてたんだよ」

「そうなのか……」

「これまでずっと、できるだけ時間を見つけるようにしてきたんだよ」

「…………」

「部活で疲れてるときだって、ちゃんとくるようにしてたんだよ」

「…………」

「ねぇ、勇也くん」

 夏希は見つめる。入口から入ってくる光に照らされた勇也の顔を見つめる。その瞳に、ありったけの感情を込めて。

 勇也のことをこれまでにない呼び方をすると同時に、その体に込み上げてくるすべての感情をぶつけるように、夏希は言葉を口にする。

「ありがとね、ゆうくん、あたしのこと助けてくれて」

 それは遠い夏の日のこと。

 この瞬間に結びつく時空の思い出。

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