第2話


 青色はやがて茜色に染まる



       ※


 五月七日、月曜日。

 ゴールデンウイークが明けた。世間には今日からまた『日常』が戻ってくる。日本国中に、とうとうやって来た今朝という瞬間にうんざりしながらも、たった一週間の間に随分と重くなってしまった体を引きずるようにして家を出ていく人間で溢れていることに違いにない。

 そんななか、真新しい半袖のカッターシャツと茶色と白のチェックのズボンに身を包んだ菴沢勇也は、まさしく心機一転。今日は転校初日。緊張していた。普段はそんなことないのに、昨晩は四回も目が覚めたほどに。

「…………」

 一昨日引っ越してきたこのりゅう天神てんじん町は、海も山もある自然に溢れる町で、今日から通う祇吹高等学校は山の方にある。住まわしてもらっている祖母の家から北方に向かって歩いていくこと二十分。げんなりした気持ちで最後のあまりにも長く急勾配な上り坂を上がっていき、ようやく辿り着いた祇吹高等学校。同じ制服を着た大勢の生徒が吸い込まれるように門に入っていく。初登校のために戸惑いはあるものの、『登校』はどの学校だって同じだろう。勇也もそれにつづいていった。

 敷地内には鉄筋の校舎が二つ。校舎北側には体育館があり、校舎南側には広大なグラウンドが広がっている。その広さ、野球の試合が同時に三試合はできることであろう。山の中腹ということで、そこから真っ青な海と、向こう側にある水平線を眺めることができる。太平洋に突き出るようにある竜頭岬も、そこにある白い灯台もばっちり見ることができた。そういった景色を立ち止まって見渡したいところだが、いかにも『転校生』な感じがあるので、首を僅かに動かす程度で、歩は決して止まることはない。

 校舎一階には職員室がある。それは、先月まで通っていった大名希市の学校と比べて三分の一ぐらいの広さで、せいぜい教室一つ分の小さなもの。職員の数も職員室の面積と比例して少なく、ざっと見渡して二十人程度である。

 勇也は、職員室で担任のさきを紹介された。楕円の眼鏡をかけた、まだ三十歳前の音楽教師。その担任に、職員室にいる教師全員に自己紹介を命じられた。突然のことにどぎまきしながらも、至って無難に名前を名乗って頭を下げると、職員室で拍手が起こる。『大丈夫か!? そんなに線細くてよ。しっかり頑張れよぉ!』といったやたらと野太い声が拍手に混じっていた。きっと奥にいたジャージ姿の五分刈り教師だと瞬時に察するものの、あまりそちらに目を向けないように心がける。ああいうのはきっと、生徒として目をつけられたくない教員に違いないから。

 八時三十分に始業のチャイム。勇也は担任の田崎に連れられて校舎二階の二年二組の教室に案内された。二年生のクラスは二つしかないという。教室は校舎の一番西側。

 よくある漫画のシーンのように『まず最初に教師が教室に入っていって、転校生は廊下で待たされて、中から呼ばれてからがらがらっと扉を開けて入っていく』なんてことはもちろんなかった。一緒に教室に入り、黒板の前に立つ。興味津々という目と、奇異を見るような目と、品定めしているような目と、珍しいものを見るような目と、その他のさまざまな三十人の視線を受けながら、職員室でしたのと変わらない無難な挨拶をした。

 自己紹介が変だったわけではないと思うが、教室中がざわざわしている。このクラスは元からざわざわしてるクラスなのかもしれないが、きっと違うと勇也は思った。この時期の転校生が珍しいのだろう。

 勇也は不意に思い出したことがあり、意識して教室中の見渡してみる。窓側から廊下側へ順番に一人ずつ、特に女子生徒を見渡していって……何度か目が合ったクラスメートもいるが、気にせずに全員の顔を見てみる。

(なーんだ)

 この教室に、昨日灯台で出逢った少女の顔を見つけることはできなかった。

(なるほど、外れる確率も五十パーセントなわけね)

 運がよかったのか、窓側の一番後ろの席を用意してもらえた。日当たりもいいので、居眠りし放題の快適空間。特等席といっても過言ではない。もちろん転校してきていきなり爆睡というわけにはいかないだろうから、暫くは真面目に授業を受けるつもりだが、そんなめっき、すぐ剥がれること、ここにいる誰よりも勇也がよく知っていた。


 転校生にとっては何もかもが新鮮な一日だが、他の生徒からすればなんてことはない通常授業。一時間目は化学だった。教科書はすべて揃っていたため、問題はない。内容は前の学校ですでに習っていた範囲だったので、頬杖をつきながらなんとなく聞き流す程度でよかった。授業中にちらちらっとクラスメートの視線を感じたが、気づかない振りをして授業を受けていく。

 そして一時間目の終業のチャイムが鳴った。教室前方の掲示板に貼ってある時間割表によると、二時間目は世界史なので、音楽や体育のように教室を移動する必要はない。十分という休み時間、少しのんびりできるかもしれない。

 なんてことにはならなかった。なんせ、転校生であるから。それも初日。

「…………」

「なぁ、菴沢」

「……ぁ?」

 今にも机に突っ伏して眠ってしまおう、という絶妙なタイミングでかけられた声。顔を上げると、前の席の男子生徒が振り返っていた。髪は短く、無理しているとしか思えないほど満面の笑みをこちらに向けている。

「えーと……」

ふじだよ。ふじ圭介けいすけ。よろしくな」

「あ、うん。よろしく」

「お前さ、前の学校で部活やってたのか?」

「前の学校で部活やってたのか……?」

 いちいちそうやって口で繰り返さなくても、告げられた内容はちゃんと理解している。できているが、告げられたことの返答の仕方を考える時間がほしくて、わざと鸚鵡返し。

(さて、どうしたものか……)

 考えてみる。『部活』は放課後や下手すると始業前に関係すること。だとすると、その返答は慎重にしなければならない。藤の身長は勇也と同じかそれより少し低いぐらいだが、ごつごつした顔に短髪は見るからに運動部。であれば、問われたこの話題から流れる先には、勧誘が待っているに違いない。

 勇也には部活をしている暇はなかった。早く帰って、毎日しなければならないことがある。相手の輝いている目を前に、『うーん、どうしたもんか?』と考えて、窓の外に見ることのできる海を認識することにした。昨日の竜頭岬からほどではないが、ここからでも町の様子と青い海を同時に見ることができ、そこそこいい眺めである。

「まだ寒いからあれだけど、ここってさ、海水浴できるような場所あるのかな? こんなに海近いけど」

「海水浴? んにゃ、この辺じゃ泳げないよ。ってより、泳ぎたければだいたい川かな。っていっても、川で泳いでるのなんてだいたい小学生だけどな。海水浴場っていえば、電車で二駅いかないとないな」

「海水浴はできないわけね。そっか、そりゃよかった」

「よかった……?」

「だってさ、ということは、この辺には海水浴客がうろちょろしないってことだろ? テレビのニュースなんかで、不必要に騒いだり、ごみいっぱいだしたりして、夜遅くに花火やって意味なく喚いたり、あんなやつら迷惑極まりないだろ。だからよかったよ、そんなやつらに生活を乱されなさそうで」

 本当によかった。空気がきれいで、静かな場所がよかったから。それを求めてこの町にはやって来たのである。

「釣りはできるっぽい?」

「ああ。オレのじいちゃん元漁師だから、船持ってるんだ。だから、たまに連れてってもらえる」

「船持ってるの? そりゃ凄いな。いつでもいいからさ、よかったら休みの日に連れてってくれよ。っていっても、あんまりうまくなくないけど。竿もないし」

「ああ、竿ぐらい貸してやるよ。じいちゃんの都合がよければいつでもいいぜ」

「ありがと。楽しみにしてるよ」

 そうして二時間目の始業のチャイムが鳴る。

 チャイムが鳴った以上、授業の準備をするために藤は前を向くことに。

 そんなすぐ前の席の藤に、勇也は密かにほくそ笑んでいた。『部活についての質問に対し、この町に慣れていない転校生らしい感じでそれとなく話を逸らし、この件を有耶無耶する』という壮大なプロジェクトを見事に完遂することができたからである。

 完璧だった。

「…………」

 すでにチャイムは鳴っているが、すぐに世界史の教師は教室に入ってこない。きっとチャイムを合図に職員室から出てくるのだろう。勇也にとってそういう教師は、チャイムとともに入ってくる教師よりも断然いい教師のような気がした。『遅れてすまない』なんて言う教師、『まったくもってすまないことなく、本当にありがたいですよ』なんて思う方である。授業を受ける生徒の主観として。

「…………」

「……でさ、結局菴沢君は前の学校で何部に入ってたの?」

 その声の主は、勇也の右隣の席の女子。とてもはきはきとした、少し高い声。おかもとほう。長い髪を後ろで大きな洗濯ばさみのようなものでまとめている。目つきが鋭いというかきついというか、とても気の強そうな感じのする女子生徒。

「結局のところ?」

「…………」

「運動部?」

「…………」

 気づかれた。

 もう始業のチャイムは鳴っているので、早く教師が来てくれることを願うばかり。そんなこと滅多に願うことはないのに、そういうときに限ってやたらと遅い。

 気がつくと、前の席の藤も後ろを振り返っている。ごつごつした顔が『あ、そうだ、すっかり忘れてたぜ』みたいな顔をして。

 勇也は小さく息を吐き出す。心では大きく舌打ちをしながら。

「突然のことでびっくりするかもしれないけど、俺が前にいた大名希ってさ、UFOの目撃情報がやけに多いんだぜ。右見ても左見てもさ、もうしょっちゅう飛んでんの」

 そうやって語りかけた話、前の席の藤ならともかく、変わることのない鋭い目つきを向けてくる右隣の岡本儚香を煙に巻くことは到底できるはずなく、勇也が元野球部員であることを知られてしまうのだった。


 放課後。

『なぁ、いいだろ? 別に今すぐ入れってわけじゃないんだからさ。とりあえずってことで、まず見学だけでもしてってくれよ。それで、もしよければ入部してもらってだな、一緒に甲子園目指そうぜ。なぁ、いいだろ? ちょっとだけでいいからよ。まずはグラウンドにいってみようぜ。よし、それがいい。よし、そうしよう。いやいや、ほんとにちょっとだけだから。ほら、善は急げだよ。そりゃもうグラウンドいってみれば楽しいって。楽しいことてんこ盛りだな。だからさ、まず見学してみようぜ。なっ? 頼むよ。まずはそこからじゃん? お前も爽やかな風に吹かれて野球やろうぜ』

 帰りのホームルーム直後、二年二組の教室において、腕をぐいぐいっ引っ張りながら、必要以上に勧誘してくる藤に、五十回以上首を横に振りつづけ、半ば食い逃げするように全力疾走で教室を出てきた勇也。廊下を駆けて、階段を疾走に、下駄箱では二秒もかけることなくスリッパからスニーカーに履き替え、まだ生徒が疎らな西門を抜けていく。

 転校初日からとても体力を使う日だった。何がいけなかったかって、体育の授業でやったソフトボールで、三打席すべてツーベースヒットを打ったのがいけない。わざと空振り三振をすればよかったのだろうが、ついボールに体が反応してしまった。元野球部ってだけでも与えてはいけない情報だったのに、そんな活躍をしたがばかりに、野球部員の藤に付きまとわれることになる。さんざんだった。

 とはいえ、藤は決して悪いやつではない。そればかりか、クラスの中心的な存在。まだ一日しか過ごしていないのだが、それだけは分かった。クラスで笑い声が起きているとき、

だいたいいつも藤が絡んでいる。ちょっとお調子者でありながら、クラスのまとめ役もであった。そんな藤だからこそ、転校生の勇也のことも気にかけてくれたのかもしれない。転校初日にクラスから無視されるよりは断然ましだが、しかし、しつこくつきまとわれるのは困ってしまう。野球は決して嫌いではない。元野球部である以上、できることならまたボールを触ってみたい思いはある。けれど、勇也には不可能。単純に部活をやっている時間がないのだ。放課後は早く帰らなければいけない。やらなければならないことがあるのだから。

「…………」

 学校から今生活している祖母の家までは、ほとんど直線的に南下していくから、迷うことはない。今朝登校するときに苦労した坂を下っていき、右手に樹木が多く繁る神社を見ながら東西に伸びる県道に辿り着く。交差点は赤信号で、そこに黄色の看板が立てかけられていた。最近ここで交通事故があったらしく、その目撃者を探しているという内容。

 信号が青になってその県道を渡ってすぐのりん川に架かる神通じんつう橋を渡っていく。ここは河口が近く、川は五十メートルと大きかった。そのまま古い日本家屋が並び、間に田園風景のある道を歩いていけば、祖母の家に到着。

 祖母の家は昔ながらの日本家屋で、石の塀に囲まれた二階建ての建物は土の壁。黒光りする立派な大黒柱は、玄関を入ったすぐそこに見ることができる。よく日の当たる庭には多くの樹木が植わっていて、大根や葱のある小さな畑もあった。ここは他界している勇也の母親の実家で、勇也がやって来るまでずっと祖母一人で暮らしていた。そこに一昨日から勇也がお世話になるようになったのである。

 七十歳の祖母はとても元気そうだった。一人で暮らしていても近所付き合いが盛んにあるようで、ちっとも寂しそうでなく、毎日元気に畑仕事に汗している。とても活き活きとしていた。笑うと顔の皺がさらに増えて、細い目がどこにあるのか区別できなくなる。そんな姿、勇也にはもうほとんど記憶が残っていないが、幼い頃に亡くなった母親を思い起こさせるものがあった。

 勇也は祖母の家に帰って、制服から着替えることもなく、あらかじめ祖母に用意してもらっていた大きな青い手提げ鞄を持って家を出る。

 祖母の家からさらに南下していき、十分後に駅前の商店街に着くことができる。その手前にほう大学付属総合病院はあった。鉄筋コンクリートの五階建てで、この辺りでは一番大きな建物である。

 勇也は、引っ越してきた一昨日も昨日も、この病院にやって来ていた。駐車場は日の当たらない北側にあり、玄関は駅のある南側にある。芝が敷かれた庭があり、そこでは多くの入院患者と看護師が日向ぼっこやお喋りに興じていた。それらを横目に、ガラス張りの自動ドアを経て玄関ロビーへと入っていく。

 自動ドアが開いた瞬間、勇也の鼻には病院独特の薬のようなアルコールのような匂いがして、けれど、それは一昨日までいた大名希市にある病院と変わらず、『ああ、どこでもこの匂いは同じなんだな』という感想を抱く程度。ロビーにあるソファーで診察を待つ人間を目にしながら、エレベーターへと向かっていった。

 エレベーターが一階に到着。車椅子が優に三台は入れるだろう大きなエレベーターにパジャマ姿の中年と一緒に乗り込み、最上階の五階へ。エレベーターを出たすぐに501号室がある。扉の横には『いおりざわ』というプレートがあった。昨日同様に、扉を軽くノックしてから入っていく。

「来たぞ。美沙杞、今日もおとなしくしてたか?」

「うん。もうばっちり」

「何がだよ?」

「うーん……全部?」

 部屋の中央にベッドで首を小さく傾げている女の子、菴沢美沙杞。小学五年生。黄色のパジャマ姿で、真っ白な肌が露出している。ベッドは半分起こした状態であり、今まで読んでいただろう本に栞を挟んでベッド横にある台に置いた。その際、耳を覆うぐらいに短く揃えた髪の毛が小さく揺れる。

「お兄ちゃんお兄ちゃん、新しい学校、どうだった?」

「うーん……まあまあかな」

 勇也はベッドの窓側に回って、網戸となっているために少し揺れている真っ白なカーテンを意識しながら、持ってきた手提げ鞄を枕元に置く。

 今は置いたのは祖母の家から持ってきた青色のもので、緑色の似たような手提げ鞄はその横に置かれている。勇也はそれを手にし、自分の足元に移動させた。近くに畳まれていたパイプ椅子を設置して、ゆっくりと腰かける。

「学校さ、山の方にあるんだよ。あっちの方。でさ、えらい坂の上にあって、毎日通うのはちょっとしんどいかも。けどさ、みんな平気な顔して歩いていくんだよな。信じられないねー」

「ふーん、山の方にあるんだね。学校からこの病院は見えた?」

「うーん、見えるのかな? どうだろ、灯台は見えたけど……今日はいろいろごたごたしてて、そんな余裕なかったなー」

 今日は休み時間すべて、部活に勧誘してくる藤圭介にまとわりつかれることとなった。新しい学校に慣れるとか、周辺の景色を楽しむとか、そんなことをしている余裕が微塵もなかったのである。

「明日確認してみるよ」

「いいないいなー。わたしも一緒にいきたかったなー。お兄ちゃんと一緒に頑張って坂を登ってさ。眺めなんて、きっと凄くよかったんじゃない? いってみたいなー」

「美沙杞もすぐいけるようになるって。まっ、あれだ、眺めに関しては、ここだって充分凄いだろ?」

「うん。海がばぁーって広がってて、素敵だわ。でも、山からなら、この町も全部見渡せるわけでしょ。絶対いいよ」

「そんなもんかね」

「そんなもんだよ。今度はわたしも一緒にいくからね。でも、どうせなら、灯台の方がいいなー。昨日のお兄ちゃんの話聞いたら、わたしもいきたくなっちゃった。今度はわたしも連れてってね」

「あ、ああ、今度な……」

 目の前の美沙杞が楽しそうにすればするほど、勇也の心がずしりっと重たくなっていく。理由は、勇也が一昨日この竜神町にやって来たことに起因していた。

 なぜ五月のゴールデンウイークという半端な時期に、勇也がこの竜天神町に引っ越してこなければならなかったかというと、美沙杞の病気によるもの。家のある大名希市は地方都市として栄えた街で、そこにある病院はもちろん医療設備が整っている。しかし、それほど設備が整っていても、美沙杞の病気を治療することはできなかった。

 すでに他界しているが、勇也たちの母親は体が弱く、どうやら妹の美沙杞にも遺伝したようである。小学校入学当時は一年の四分の三はなんとか通うことができたが、年々出席日数は減っていき、今年は一月からまったく通うことができなくなり、ずっと病院のベッドの上にいることしかできなくなった。症状としては、突然咳がひどくなって発熱したり、手足が麻痺して動けなくなったり、貧血になって意識が朦朧としたり……美沙杞の病気は、現代の医学をもってしても治療することはおろか、病名すら解明することができていないのである。

 回復の兆しはなく、このままでは美沙杞はどんどん衰弱してしくばかり。だからといって妥当な治療方法があるわけでなく……担当医師の助言もあり、藁をも縋る思いで環境を変えることにした。医師がお手上げだとしたら、せめて空気のきれいな田舎でゆっくり静養すべく、ゴールデンウイーク中に準備を進め、一昨日この竜天神町に引っ越してきたのである。ここなら祖母の家に厄介になることができるし、大名希市にも車で二時間弱ということで、仕事の都合で大名希市を離れられない父親も休みには会いにくることができる。

 勇也がこの竜天神町に引っ越してきてから今日で三日目。この竜天神町に引っ越してきた具体的な効果は、まだよく分からない。しかし、勇也の目には、大名希市のビルに囲まれた病院にいるより、日差しがとても眩しく窓からは広大な海の見えるこの人工物の少ない自然豊かな環境は、美沙杞にとっていい影響を及ぼしているように見えた。病室に入ったときにこちらに向けてくれるその笑顔が、これまでよりも輝いているように見えたからである。

「何読んでたんだよ?」

「これ? 看護師さんに貸してもらったの。象さんの話。まだ途中だからよく分かんないけど、象さんが旅をしているの」

「象が旅してるのか。旅してるぐらいだから、いきなり町にもやってくるんだろうな。そりゃ大変だな。象がその辺闊歩してたら、簡単には保健所も手が出せないだろうから。大きいもんなー」

「にゃははっ。もー、お兄ちゃん、お話だからねー」

 笑顔。両方の頬にえくぼのできるとてもかわいらしい笑み。

「象さんって大きいんでしょ?」

「そりゃな、象だからな。そっか、美沙杞は見たことなかったんだっけ?」

「どんな感じなの? こんな感じ? それともこーんな感じ」

 美沙杞の手と手の幅が、声に合わせて大きくなっていく。

「こーんなこーんなこーんな感じ?」

「それよりもっと大きいよ。美沙杞なんて簡単に踏み潰されるだろうな」

「うわ、凄い……見てみたいな。動物園、一度でいいからいってみたい。この辺りにあるかな?」

 越してきたばかりのこの辺りのことはまだ分からないが、しかし、家のある大名希市にはあった。だが、美沙杞は一度もいったことがない。家族のイベントとして学校行事としても。それはもちろん病弱な体のせいである。

「そういえば、お兄ちゃんってお母さんと一緒に動物園いったことあるんだよね? 前そう言ってた」

「あ、ああ。まあな……」

「どうだった?」

「んっ? ああ、まあ……」

 言い淀む。勇也は少し不自然に相手から視線を逸らして、病室内をゆっくりと見渡す。

 美沙杞のいるこの病室は個室で、部屋の広さは大名希市にある家の勇也の部屋とほとんど変わらない。白い壁には滝の写真があるカレンダーがかけられていて、その上には丸い時計が設置されている。ベッドの頭の方にかけられているハンガーには薄いカーディガンがあり、外に出るときに美沙杞に着用するもの。棚には絵本が数冊置かれていて、隣には電気ポットと湯飲み、その隣にある花瓶には黄色の花が生けられていた。ベランダの方には大きなガラス張りの窓があり、ここからでも青く広大な海を眺めることができる。ベッドの足元の方には、今は電源の入っていないテレビが設置されていた。そしてテレビ台に、一枚の写真が飾られている。

 写真に写っているのは、とても髪の長い女性。半袖の真っ白なワンピースを着ていた。その腕にはタオルケットにくるまれた赤ん坊を抱き、目を細めたとても幸せそうな笑みを浮かべている。

 生まれたばかりの美沙杞と、他界する一か月前の母親の姿。

「…………」

 母親は、勇也が六歳のときに他界した。それは写真が撮られた直後のこと。死には母親の体の弱さと、美沙杞を出産した疲労が関係していた。

 美沙杞が生まれて一か月で他界したので、当たり前の話だが、美沙杞には母親に関する記憶がない。六歳だった勇也にだってほとんど記憶が残っていないのだが、それでもまったくないというわけではない。鮮明ではないものの、少しなら残っている。美沙杞はよく母親のことを勇也に尋ねてきた。写真でしかない知らない母親という存在を知りたいのだろう。そんな美沙杞のため、勇也は僅かしかない記憶をどうにか思い出しながら語っていく。動物園の話はその一つだった。

「なあ、美沙杞、こんなにいい天気だからさ、外に出てみないか?」

「うん。いくいく」

「体は大丈夫なんだよな?」

「うん。もうばっちり」

「よし」

 勇也は部屋の隅に置かれていた車椅子を用意し、一緒に501号室を後にした。


 空は少しだけ赤みを帯びてきた。吹いてくる風が、多少の冷たさを含んでいる。昼間は日差しが強く暑いぐらいだが、五月の夕方はまだまだ気を許すことはできない。

 病院の庭に設置されているベンチに座り、自分がいくことのできなくなった『学校』について興味を示す美沙杞に、勇也はちょっと大げさではあるが今日一日のことを冗談も交えて話していき……そうして今、夕方を迎えていた。外に出てから一時間ぐらいだろう。

「美沙杞、そろそろ戻ろうか? あんまり長くなるのもなんだし」

「ねぇねぇ、お兄ちゃんお兄ちゃん、あの子、ずっといるよ」

「んっ……?」

 カーディガンを羽織った美沙杞が示している方向、そこには勇也たちが腰かけているものと同じベンチが設置されており、一人の女の子が座っていた。小学五年生の美沙杞と見た目は変わらず、特徴的なのはその髪の長さで、後ろで縛っているものが背中にまで達している。

「なんだろう?」

「わたし、あの子、昨日も見た気がする」

「うーん、入院してるわけじゃないんだろうけど」

 女の子の服装は薄い緑色の病院服やパジャマでなく黒いワンピースであるため、どうやら入院患者ではなさそう。

 遠目だが、今はどこか寂しそうな雰囲気で、じっと俯いている。ここは芝が敷かれた病院の中庭で、周囲では看護師や患者が楽しそうにお喋りに興じているのに、そこで一人落ち込んでいるみたいに、元気がなさそうである。垂れている長い髪はまるで萎れているようだった。

「別に具合が悪いって感じでもないな」

 言いながら、ベンチにいる美沙杞を両腕で抱えて車椅子に戻す。

「誰か待ってんじゃないのか? ここで親が働いてるとか」

「うーん、そんな風に見えないけどなー……ちょっとだけいい、お兄ちゃん?」

 そう言って自力で座っている車椅子を動かしていこうと美沙杞。けれど、車椅子が動くことはない。

「お兄ちゃん?」

「今日はもう遅いから、部屋に戻ろう。あんまり風に当たるのもよくないから。今日は我慢」

「ぶー」

「かわいい妹でよかったよ」

 冬眠前のリスが食べ物を口いっぱいに溜めているような膨れっ面を指でつんつんっつつき、勇也は車椅子を玄関ロビーの方へと押していく。勇也がしっかり握っているので、どうあっても美沙杞のいきたい方向に進むことはできない。

「ほら、ちゃんと前見てろ」

「ねぇねぇ、あの子のこと、心配じゃない? 元気ないみたいだよ。いやなことでもあったのかな?」

「俺はお前のことの方が心配だよ」

「ぶー。わたしのことはいいからさ。だってだって、こーんなにも元気なんだから。だからだから、あの子のことが心配だよ」

「…………」

 進行方向に対して、上半身だけで後ろを振り返り、訴えるように儚い目でベンチの方を見つめる美沙杞に、勇也は小さく息を漏らす。五秒後には、その頭にぽんっと手を置いた。この辺りの甘さを自覚しつつ、勇也は口を開ける。

「……分かったよ。帰るときにちょっと声かけてみることにするよ。だから今はまず部屋に戻ろう」

「約束だよ」

「おう」

 そして玄関の自動ドアを経て、待合室のソファーが並んでいる玄関ロビーに到着。そのままエレベーターに向かっていく。エレベーターは広いので、車椅子で入ってもへっちゃらである。

(そうか、同い年ぐらいだし、あの子なら、美沙杞の友達になってくれるかもしれないな)

 この竜天神町には一昨日引っ越してきたばかりだし、大名希市にいるときだって美沙杞はほとんど学校にいっていなかったため、友達と呼べる人間はいなかった。だからもし、あのベンチにいた女の子がそうなってくれるなら、病院生活の長い美沙杞の気持ちが少しは晴れるかもしれない。

「じゃあな、美沙杞。また明日」

 501号室に戻り、勇也は緑色の手提げ鞄を手にして廊下に出た。エレベーターで一階に到着。玄関を抜けて中庭を見てみるが……黒いワンピースの女の子はいなくなっていた。

(あっちゃー、帰っちゃったか……)

 美沙杞に声をかけると約束した手前、少しだけ心が痛むも……いないものは仕方がないと開き直ることにする。『しょうがない』と。

 しかし、その足には迷いがあるというか、すぐには祖母の家がある方に向かなかった。

(…………)

 その胸には約束を守れなかった気まずさがあり、その思いが勇也の足を商店街へと向けていた。家とは反対方向である。

(……本でいいよな)

 自身を渦巻く気まずさを埋めるためのプレゼントを購入すべく、夕食の買い出しで賑わう駅前商店街を歩いていく。

 頭上の空は一面茜色に満たされていた。その色に染まった駅前の商店街は人通りが結構あるのに、どこか物悲しいものが漂っている気がする。

「…………」

「おっす」

「はっ……?」

 と、いきなり勇也は背中を叩かれた。振り返ってみたが、誰もいない。『あれ、おかしいな?』と傾け、地面と平行だった視線を少しだけ下げてみると、そこに頭があった。

「……えーと?」

「はははっ。やっぱりなんだよ。菴沢勇也くんなんだよ」

「……ああ」

 突然声をかけてきた少女に、それが誰であったかを思い出し、勇也はぽんっと手を打ツ。

「確か、大河内おおこうちさんとか仰いましたっけ?」

「あい……? あたし、城之浦なんだよ……」

 そうやって寂しそうにぼそっと言い放つ少女、城之浦夏希。白シャツにチェックのスカート姿は、祇吹高等学校の夏服の制服。今は下校の途中で、肩から斜めに青いスポーツバッグをかけていた。

「ひどいんだよ、勇也くん。名前、覚えてほしいんだよ」

「冗談だよ、冗談。城之浦だろ。ちゃんと覚えてたよ。うん、確実に覚えてた。忘れるはずがなかったんだ。もう完璧だったぜ。がっはっはっは」

「……今の、とても冗談には思えなかったんだよ」

「俺もそのつもりはなかったからな」

「…………」

 黙って勇也を見上げる夏希の眉間に、とても深い皺ができる。やけに鋭くなった両目からは、殺人光線が出てきそうな勢いを有していた。

「…………」

「……あ、そうだ。五十パーセントの確率、見事に外れたじゃねーか?」

「あい?」

「クラス」

 勇也は昨日、竜頭岬でこの夏希と会っていた。その際、なぜか自信満々に『絶対同じクラスになれるから、名前を教えてほしい』とせがまれ、今後の学校生活を考えて正直に名乗ったのである。けれど、二年二組にこの小柄な女子生徒はいなかった。

「なんで外すかな!? いやー、信じられなかったね。とても信じられることじゃなかったよ。これはもはや裏切り行為としか思えないね」

「そ、そんなのあたしのせいじゃないんだよ。クラス二つしかないんだもん、なら、同じクラスになると思うんだよ」

「なれなかったけどな」

「あ、い……」

 しょんぼり。けれど、すぐにその顔を上げる夏希。

「でもでも、隣のクラスなんだから、これはもう同じクラスといっても過言じゃないんだよ。うんうん」

「過言だろ?」

「四捨五入すると、同じクラスだよ」

 強引にまとめ、夏希は白い歯を出して大きく笑った。そうすればすべてが丸く収まるかのごとく。

「えーと、勇也くんは何してるのかな?」

「本屋ってどこ?」

「本屋さんを探しているのかな? うーんと、本屋さんはあっちなんだよ」

 夏希が手で示しているのは、商店街の西方。

「いきたいのかな?」

「案内したかったら、その権利を与えてやってもいいけど」

「なぜそうも上からなのかな……?」

 夏希の額に大粒の汗。

「仕方がない、案内してあげるんだよ。日本には『乗りかかった泥船』って言葉があるんだよ。よし、ここは一つ、ぎゅうべえのコロッケだけでよしとしてあげるんだよ」

「……報酬を得ようとするわけ?」

「そんなの決まってるんだよ」

 きっぱり。

「こんなにかわいい子と一緒に商店街を歩いていられる正当な対価としてなんだよ。これでも安いぐらいなんだよ」

「裁判長、意義あり」

「却下なんだよ」

 ばっさり。

「判決は、牛べえのコロッケで決まりなんだよ」

「…………」

 それから暫く、勇也は夏希からどんな言葉をかけられようとも、一切口を開けることはなかった。

「…………」

「いやー、楽しみなんだよ」

「…………」

「早くしないと牛べえのコロッケがなくなっちゃうんだよ」

「…………」

 理不尽でとても小さな裁判長に、勇也は自身の正当性を示すように完全たる黙秘権を行使である。


(どっちかだな)

 勇也の手にあるのは二冊の本。『かわいいワンちゃん』というものと『動物図鑑』というもの。どちらもこの井上いのうえ書店から選び抜いた本である。

(うーん、こっちだと犬限定になっちゃうし、こっちはちょっと固いかもしれないな。迷うなー)

「迷ったときは、両方買っちゃうっていう手もあるんだよ」

「読心術!?」

 隣人の存在に、勇也の両目が丸くて巨大になった。

「そんなことで会得したと思っていい気になってんじゃねーぞ」

「……それ、確か、昨日のあたしの台詞なんだよ」

「あのね、両方ってのは、経済的な理由から、パスだな」

「……勇也くんって、心も貧しいんだよ」

「『心』こそ関係ないだろ、今のとこ。訂正しろ」

「却下なんだよ」

「…………」

 大きな本棚が四列並んで、それで店いっぱいのこじんまりとした井上書店。客は勇也たち以外には、出入口付近で雑誌を立ち読みしている背広姿の中年が一人だけ。初老と思われる眼鏡をかけた店員は、商売をする気があるのかないのか、店の奥のカウンターで新聞を読んでいた。

「どっちもよくて、どっちもよくないって感じだなー」

「それ、どうするのかな?」

「妹に買っていってやるんだよ。病院にいて、退屈だろうから」

「ふーん。勇也くんの妹さんって、動物が好きなのかな?」

「まーな。まだ動物園にいったことがなくて、いきたがってるんだ」

「動物園楽しいもんねー。うーん、この辺りにはないから、残念なんだよ。あったら連れてってあげられるのに、とってもとっても残念なんだよ」

「あったからって、すぐいけるってもんでもないけどさ……まあ、とにかく今は、本で我慢してもらうしかないんだよね」

 そうやって夏希に向けて平然と会話を交わしている勇也は、頭の隅で置かれている状況を不思議に感じた。

 妹の美沙杞のこと、ましてや美沙杞が入院しているということは、学校では誰にも知られないように注意している。担任にも口止めしていたぐらいなのだから。話すと、まず間違いなく美沙杞のことを同情されそうで、それが怖かった。

 美沙杞は生まれたときから体が弱く、そんな弱い体が美沙杞にとっては当たり前のこと。その当たり前を同情されると、美沙杞の存在そのものが見下されているような気がして、そんな扱いは耐えられない。

 だからこそ、勇也はあまり美沙杞について話そうとはしなかったし、これからもずっと隠し通すと決めている。である以上、部活に勧誘してくるクラスメートの藤圭介に対して、入院している美沙杞の世話をするから部活をやっている暇がないということを伝えられず、断るのに苦労した。

 だというのに、勇也は夏希に話しているではないか。夏希相手にはそれを話すことが自然であるかのよう、一切気を張ることも警戒することもなく、まるで幼少の頃からよく知る親戚のような感じで接していたのである。夏希とは昨日会ったばかりだというのに。

「ちょっと高いけど、図鑑の方でいいかな。いろいろ載ってるし」

「ねぇねぇ、勇也くん。あっちにこんなのあったんだよ」

 夏希が手にしているのは折り紙に関する本。表紙にはピンク色の兎がある。その隣には白黒のパンダもあった。

「折り紙、おもしろいんだよ」

 それはもう、夏希としてはこの上ないほどに会心の笑み。

「ねっねっねっねっ、これはとってもいい考えで、折り紙は暇潰しにはもってこいなんだよ。というより、折り紙にこそ人間は時間を使うべきなんだよ。それはもう楽しくて楽しくて仕方ないんだよ」

「…………」

「きっと妹さん、毎日折り紙しては、目の前に並ぶ本日の成果ににんまりしちゃうことなんだよ」

「…………」

「妹さんのそんな様子、今からとっても楽しみなんだよ。妹さんの好きな動物だって折れちゃうわけなんだよ。うん、もうこれっきゃないんだよ」

 夏希はまだ美沙杞との面識はない。だというのに、早くもその目を夢見る少女のように輝かせ、見たことすらない美沙杞の笑顔を妄想で膨らませている様子。

「うふふふ」

「やっぱり図鑑でいいかな」

「あい……!?」

 きょとん。五秒後に、目をぱちくりっ。

「……ちょ、ちょっと! あたしの話聞いてたのかな!?」

「ああ、ちゃんと聞いてたぞ。孫悟空と猪八戒の出会いについてだろ? あれは感動的だったよなー」

「……うん、確かに妹さんの好きな動物が出てくる話ではあるんだよ。けど、そんな話をしてたんじゃないんだよ。だいたい今言ってる動物とは系統がちょっと違う気がするんだよ……そんなことにより、これなんだよ、これ」

 夏希は、両手で持った折り紙の本を勇也の顔へと押しつける。

「折り紙がいいんだよ。これ買ってけば、妹さん、とってもとっても喜ぶんだよ。もう笑顔満開なんだよ」

「……誰が折るんだよ」

「もちろん妹さんなんだし、勇也くんも一緒なんだよ」

 そう勇也を指差してみて、はっと気がついたように目を見開いた。そのまま元気なく萎れるように俯いていく夏希。

「……でも、勇也くん、いかにもこういった細かいことに向いてなさそうなんだよ。残念ながら、とってもとっても不器用さんなんだよ。ろくに自分の爪も切れないぐらい鈍ちんに決まってるんだよ。それは、とっても悲しいことなんだよ。不器用ってのはもう、罪でしかないんだよ」

「…………」

「けど、そこは大丈夫で、大丈夫ったら大丈夫なんだよ。ふっふっふっ。微力ではありますが、あたしも手伝ってあげるんだよ。なら、これでもう大丈夫なんだよ。だから折り紙に決定なんだよ。こう見えても結構器用なんだよ、あたし。というより、どう見てもあたしは器用なんだよ」

「…………」

 悔しいことだが、勇也には夏希からの提案、それほど悪いものには思えなかった。本を読むだけではなく、折り紙をして指を動かすことは血行にもいいだろうし、もちろん暇潰しになる。想像してみる……折り紙の動物に囲まれたベッドの上で、美沙杞の笑顔が弾けている未来が見えた。

 折り紙、あり。

「まったく、仕方ないやつだな。よし、こうなったら清水の舞台から飛び下りる気持ちで、百歩譲って採用してやるよ。よかったな、感謝しろよ」

「うん、とってもよかったんだよ……って、なんでそうも上からなのかな?」

「んなもん、我慢しろよ。この身長差はどうにもなるもんじゃない。そう、生涯変わることはないだろう」

「……そういう上じゃないんだよ」

「よし、買ってくる」

 夏希に差し出されていた折り紙の本を手に取り、持っていた二冊を夏希に押しつけて、勇也はレジで会計を済ませた。買おうとしていた図鑑よりも安くついたので、それもそれでよいこと。

 外に出てみると、店に入ったとき同様にまだまだ空は茜色一色だった。商店街の賑わいには勇也たちのような制服姿も目立つようになっている。

 そのまま勇也は夏希の案内によって近くにあった文房具屋までいき、折り紙を一冊購入した。

「さっ、帰るか」

「じゃあ、ここでお別れなんだよ」

 夏希は勇也が向いているのとは反対、商店街西側を手で示した。

「ばいばいなんだよ」

「そっちなのか、家?」

「ううん。あたしの家は港の方なんだよ」

 天神港は商店街の東の方角で、今勇也が向いている方向。にもかかわらず、夏希は反対の西側を示している。家に帰る前に寄る場所があるみたいに。

「今から竜頭岬にいくんだよ」

「岬って、昨日の?」

「うん。あたしね、時間がある日はいつもいくようにしてるんだよ。じゃあね、勇也くん。また明日なんだよ」

「ああ」

 とっとっとっ、と元気に走っていってしまう小さな背中に、勇也の頭にはふとした疑問。

(なんであの岬に? そりゃ景色はよかったけど、そんな毎日通うような場所じゃないと思うけど)

 瞬間、勇也の頭には引っかかるものがあった。

(そういや、昨日あいつ、なんか変なとこから出てきたな?)

 昨日のこと。海岸沿いにある堤防の切れた箇所と、壁のように巨大な竜頭岬の間から、夏希は突然出てきて勇也とぶつかった。とすれば、夏希は堤防の向こう側から出てきたことになる。堤防の向こうは海。

 海から出てきた?

 なぜ?

(なんかあるのかな?)

『堤防の向こう側にいったい何があるのだろう?』考えたところで分かるはずがない。竜天神町には一昨日引っ越してきたばかりなのだから。

(まっ、どうでもいいけど)

 そうやって考えたところで結論が出ないことは、『まっ、どうでもいいけど』という言葉でだいたい処理できる。勇也がこれからも人生を全うしていく上での揺るぎない鉄則であった。

 気にしない気にしない。

(さっ、ばあちゃんが心配するといけないから、帰るかな)

 病院から持ってきた緑色の手提げ袋を手に、買ったばかりの折り紙と本が入っていることを意識し、勇也はまだまだ茜色に染まる賑わった商店街を歩いていく。どこからか、肉が焼けるような香ばしい匂いが漂ってきた。空腹を得る。

(……そういや、あいつ、なんとか屋のコロッケがああだこうだって騒いでた気がするけど、まっ、いいか)

 本人にとってどうでもいいことは、まさしくどうでもいいことである。

 気にしない気にしない。


       ※


 五月八日、火曜日。

 世間ではなんでもない一日だろうが、菴沢勇也にとっては転校二日目のまだまだ慣れることのない学校生活。大名希市の学校に通っていたときでは得られなかった大きく重たい疲労を蓄積しつつも、長かった六時間目の授業を乗り越えた先にある帰りのホームルームを終えることができた。

『だから、ちょっとぐらいいいだろ? なっ? ちょっとだけだからさ。見学だけでもしてこーぜ。別に金取るわけじゃねーんだからよ、ちょっとグラウンドに顔出せばいいだけのことだから。そんでやりたくなったら、グローブ貸してやるし。そうやってみて、それでも合わないっていうなら、その時考えればいい話なんだしさ。なっ? まずはグラウンドだ。グラウンドにいきさえすれば、お前だって体がうずうず疼いてくるはずだから。野球人の血にはな、白球を見ると居ても立ってもいられない成分が多く含まれているんだぜ。だからさ、とにかく一度でいいから見学してこーぜ。なっ?』

 昨日に引き続き、あまりにもしつこい野球部勧誘の藤圭介を、今日も今日とてどうにか振り切って学校を後にした勇也。相手をするのにうんざりだったが、同じクラスであるばかりか席は前後なだけに逃げようがない。西門を出た下り坂で大きな息が漏れていた。

「…………」

 朝は地獄にしか思えない学校前の坂道を下っていって、大きな樹木のある神社を右手に南下。そのまま県道を越えた先にある川幅五十メートル以上ある鱗川に辿り着く。そこに架かる神通橋を渡り、古い日本家屋の家並みを目にしながら祖母の家へと帰ってきた。

 今日も半袖のカッターシャツにチェックのズボンという祇吹高等学校の制服から着替えることなく、祖母に用意してもらった緑色の手提げ鞄を手に外に。祖母は不在だったので、畑仕事をしているか、近所で話し込んでいるに違いない。『いってきます』誰からも返事がないことを承知しながら言葉を残し、外に出た。目指すは駅前にある豊知大学付属総合病院。

 今日はとても日差しが強かった。歩いていると額に汗が噴き出してくる。『五月上旬でこんなに暑いなら、八月にはきっと世界が焼けて、人類滅亡じゃないか!? いやー、恐ろしー』とわけの分からない妄想を抱きながら、病院の南側にある玄関へ。

(あれ?)

 玄関のある病院の南側には芝生が敷かれた庭がある。花壇もあれば大きな樹木も何本か植わっており、設置されているブランコでは小さな子供が遊んでいた。ベンチには多くの入院患者がお喋りに興じている。

 そこに、見つけた。

(あの子だ)

 昨日の夕方、美沙杞が気にかけていた女の子、それが今日もベンチに一人で座っている。昨日同様に長い髪を後ろで縛っており、それが背中に達していた。着ているのはパジャマや病院服ではなく半袖のワンピースであるため、やはり入院患者ではないのだろう。

 女の子は、今日も今日で悩みでも抱えているように俯きながら、賑やかな喧騒に馴染むことができず、弾かれるようにぽつりっそこに座っている。

(ラッキーかもな)

 昨日は声をかけると美沙杞に約束しておきながら、結局できなかった。声をかけようと外に出たとき、女の子がいなくなっていたからである。相手がいないのでは仕方がないと思うも、約束をした手前、そのことを気まずく感じていた……が、今声かければ約束を破ったことにはならない、はず。ちゃんと声をかけるのだから。

 勇也は病院の玄関を前にして方向転換をし、俯き加減でベンチに座っている女の子へと歩み寄って、腰かけている女の子を前にして視線を合わせるように中腰となる。浮かべる表情は、まさに万人に好かれる笑みを意識した。

「こんにちは」

「……は、い」

「昨日もここにいたね?」

 語尾にクェスチョンマークをつけてはいるものの、質問ではなく確認といった意味合い。勇也は女の子が座っているベンチに腰かけた。

「ここで何してるのかな?」

「……別、に」

「知り合いが病院にいるのかな?」

「…………」

「…………」

 こちらの問いかけに対し、返答はあまりにも希薄なもの。難敵っぽい印象を受けた。

(うーん……)

 初対面なのだ、勇也はあまり質問攻めをしてもいけないと思い、まずは自分のことを話すことにする。妹のことはあまり口に出したくないが、相手はこの病院にいる人間なので、少しは警戒心を解くことに。

「俺の妹さ、この病院に入院してるんだよね。一番上の階。あの辺かな? いや、もうちょっと手前かな? うーん……」

 見上げたところで美沙杞の姿が見えるわけではない。そればかりかどこも同じようなベランダが並んでいるので、美沙杞がいる501号室がどれなのかがよく分からなかった。頭を捻りながら腕組みをするが、そんなことにこだわる必要もないと、組んでいた腕を解いた。

「妹ね、体が弱いんだ。生まれつき」

「…………」

「今年五年生になったんだけど、学校もずっとお休みしてる。今年になってから、まだ一度もいってないんだよね。こんなこと初めてだよ」

「…………」

「本人は学校にいきたがってるんだけど、どうしようもなくて、ね。なかなか許可が出ないんだ」

「…………」

「あ、そういえばさ、何年生なのかな?」

「……五年です」

「ほんとぉ? 妹と同じなんだ」

 その共通点、なんとなく勇也の気持ちが明るくなる。

「実はね、この病院にはきたばかりで、妹のやつ、友達がいないんだよね。この病院に入るために引っ越してきたばかりだからさ。よかったらなんだけど、妹の友達になってもらえないかな? 喜ぶと思うから」

「……駄目です」

「駄目……?」

 目をぱちくり。そんなにも早く、それもはっきり拒絶されるとは思わなかったので、思わず勇也の顔が引きつってしまう。

 同時に、今まで意識してそちらを見ないようにしたが、思わず横を向けた。変わらず下を向いている女の子に言葉を投げかけていく。

「だ、駄目なんだ……どうして駄目なのかな?」

「駄目です。駄目なんです。ごめんなさい。わたし」

 女の子は静かに立ち上がる。表情は能面のように感情が乏しく、ただただ静かに声を残していく。

「わたし、誰かの友達になれるような資格、ありませんから」

「…………」

 立ち上がったと思うと、商店街の方に歩いていってしまう女の子に、勇也は頭をぽりぽりっ掻く。

(参ったなー。別に嫌われたわけじゃないと思うんだけど……)

 女の子の扱いの難しさをまざまざと突きつけられていた。

 苦笑い。

「はぁー……参ったね」

「あんなこと言ってるけど、ほしはいやなやつじゃないんで、嫌わないであげてね」

「っ……?」

 声がした。背後からの声。勇也は振り返ってみると、男の子がいた。今までそんな気配なかったのに。

 男の子は勇也の方ではなく、女の子がいってしまった商店街の方を見つめている。

 問いかけてみる。

「えーと……あの子の知り合い?」

「……はい……?」

「いや、驚かれても……」

 困ってしまう。話しかけられたから、こちらが言葉を返したら目を丸くして驚かれるなどと、理不尽なこと極まりない。『もしかしたら女の子の扱いではなく、子供そのものの扱いが苦手だったのでは!?』と勇也は少し頭を抱えてしまった。

「いや、あのさ、その口振りからすると、あの女の子のこと知ってるみたいだから。知り合いなのかな? って」

「えっ……」

 白に黒線のあるスポーツウエアを着た男の子は、耳にかかった髪を揺らして、自分を指差している。まるで目の前にいる相手が自分を見ていることが信じられないような顔をして。

「あれ? あれ? あれれれれ?」

 ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちっ。瞬きが増量していく。男の子は周囲を見回すが、他には誰の姿もない。またしても瞬きが増えていく。

「あれれれれ? もしかして、いや、そんなはずはないと思うけど……けど、もしかするかもしんないから……にーちゃん、おれに話しかけてるの?」

「……まあ、他に誰もいないからな」

「にーちゃん、おれに話しかけてるんだね!? ここにいる、このおれに話しかけてくれてるんだよね!? うわー、びっくり!?」

「……いやいや、なんでそこで驚く必要があるのか、理解できないところだけど」

 勇也の額には大粒の汗が浮かぶ。『本当に最近の子供って難しいな』という感想。

「とにかく、あの子……ああ、もう見えないけど……お前、今までここにいた女の子と知り合いなのか?」

「えっ……あ、ああ、うん。うんうん。知り合い知り合い。これでも一応クラスメートだから」

「そうか……なら、あの子、昨日もここにいたけど、理由は分かるか?」

「あ、うんうん。なんとなくは分かるよ。うん」

 男の子はさきほどまで女の子が座っていたベンチに腰かけ、口元に軽く握った手を当ててごほんっと咳払い。

「星乃はね、その……ああ、星乃ってのはさっきの子の名前ね。あいかわほし。ああ、そういえば、にーちゃんの名前は? ああ、おれは西岡にしおかだよ。西岡恭一郎きょういちろう。なんか『郎』が最後についてるところが、古臭い感じがするんだよね」

「菴沢だ」

「いおり、ざ……?」

 うまく聞き取れなかったのか、恭一郎の口は半開き。

「……なんかちょっと難しそうだから、やっぱにーちゃんでいいよね。うん、それがいい。うんうん」

 満足そうに頷く恭一郎。嬉しそうに頬は大きく緩んでいた。

「あのね、星乃にはとっても辛いことがあったんだ。だから一人でずっとここにいるの」

「辛いことって?」

 勇也が口にしたのは当然の疑問。

「宿題忘れて廊下に立たされたとか?」

「……小学生馬鹿にしてる?」

「泳げないから、来月のプール開きが今から憂鬱とか?」

「まっ、確かに泳ぎはあいつ、得意な方じゃないけど、違うよ。そういうことはあいつなりに頑張るだから」

「給食で嫌いなおかずばっかり出るとか?」

「そんなに好き嫌いがある方じゃないけどね、あいつ。おれはピーマン苦手だけど。黄色いのとか赤いのは平気なんだけど、緑が駄目なんだよね。なんで緑のって、あんなに苦いんだろ?」

「じゃあ、美術の絵がクラスで一人だけなかなか完成できないもんだから、いつも教室に残されるとか?」

「あいつ、絵は得意な方だよ」

「動物が苦手な以上にアレルギーがあるのに、飼育委員に押しつけられたとか?」

「そんなの理不尽過ぎるよね。もちろんそれも違うよ」

 恭一郎は両腕を上げて、首を大きく横に振る。

「いやだなー、まったく。にーちゃん、小学生のことまるで分かってないんだね。なんでかな? にーちゃんだってそういう時期があったんでしょ? なんでそんな風になっちゃうの?」

「いや、当時の悩みっていえば……面倒な宿題のこととか、とか、とか、しかなかったけどな」

「……なんて浅い小学生だったんだ、この人」

 恭一郎の苦笑いが止まらない。

「星乃はね、落ち込んでるの。物凄く落ち込んでるの」

 だからああして、まともに顔を上げることもなく、ここに座っていることしかできなかった。他にすべきことがたくさんあるというのに。

「春休みにね、星乃のクラスメートがさ、事故にあったんだ。今はこの病院に入院してる」

「そりゃ、大変だな」

 妹が入院している勇也は、もしかしたらあの女の子と近い境遇にあるのかもしれない。そう考えると、落ち込んでいる心情も、分からなくはない。毎日学校で会っていた人間が、事故に遭って会えなくなったのである。しかも春休みからだから、もう一か月以上。きっと寂しいに違いない。それ以上に心を痛めていることだろう。

「ああ、それであの子、毎日ああして見舞いにきてるわけか?」

「ううん、違うよ。見舞いになんてきてないよ」

「なんでだよ?」

 疑問符が舞う。

「今日もきてたし、昨日も見たぞ。ここにいるってことは、事故に遭った子の見舞いにきてるんだろ?」

「違う違う。見舞いになんてきてないよ。星乃は見舞いきてるわけじゃなくて、ここにきてるだけ」

 星乃はこの豊知大学付属総合病院の庭に設置されたベンチにきているだけで、断じて入院中のクラスメートに会いにきているわけではない。事実、建物には入ってすらいないのだから。

「おれの知る限りは、まだ病室に一度も顔を出してないね」

「なんでさ?」

 星乃の行動、勇也には理解できない。クラスメートが入院して、かつ、この病院のベンチにまできているのであれば、病室に顔を出すのは当然ことのように思える。

 それなのに?

「もしかして、見舞いのこと気にしてるとか? 何買ってけばいいか分からないとか? はははっ。そんなの気にする必要ないのに。ただ顔を出すだけでいいんだよ。入院患者ってのは、だいたいは暇してるんだから。話し相手になってくれるだけで充分なんだ。特に子供はさ、退屈だろうから。友達がきてくれれば、そりゃ嬉しいだろうな」

「ううん、そんなんじゃないよ。星乃はそんなこと気にしてるんじゃなくて、その……ショックがあまりにも大きくて、そこから先に踏み出そうとする勇気が持てないんだよ」

「ショック?」

「うん」

 恭一郎は大きな壁のようにある病院の建物を見つめる。

「クラスメートが事故に遭ったんだ。それで今ここで入院してる。その事故ね、星乃の目の前で起きたんだよ」

 突如として自分の目の前でクラスメートが事故に巻き込まれ、そこで大量の血を流すこととなる。目の当たりにした者のショックは計り知れるものでないだろう。

「そのショックから、まだ立ち直れていないんだ」

 それは事故があった春休みから、ずっと。ずっとここのベンチにやって来るものの、それから先の一歩を踏み出すことができずにいた。

 心に、あまりにも大きな傷を負ったばかりに。

「馬鹿だよね、あいつ。いつまでもそんなこと抱え込んじゃってるからいけないんだよ。ずっとそんなこと引きずっちゃってさ。忘れちゃえばいいのに」

「いや、そんなの無理だろ。忘れられるわけない。ってより、あの子は馬鹿なんかじゃないよ」

 軽い口調で星乃のことを愚弄している恭一郎に、勇也は反論。

 星乃のやっていることを理解することはできないが、けれど、馬鹿にしていいものでもない。

「ここにきてるってことは、そこから先に踏み出そうとすることを諦めてないってことなんだよ。あの子はまだ先に進む気があるんだ」

「…………」

「どんなにショックが大きくたって、時間が経てば心の傷だって癒えるというか、そんなの段々と小さくなっていくもんなんだ。もちろん、まったく消えてなくなっちまうかどうかは別だけど……だから、今は我慢するときなんだよ。きっとあの子は今それをしてるんだよ。とても辛いことだと思うし、けど、逃げるわけにはいかないんだ」

「…………」

「俺だって似たようなことがあったんだ。小さい頃に母さんが死んで、暫く落ち込んでた。まっ、今じゃほとんど当時のことは覚えてないけど。でも、こうしてちゃんと、してるかどうかはともかく、なんとかなってるんだから。あの子は今、耐える時期なんだ」

「…………」

 恭一郎は勇也の顔を見つめる。その瞳はこれまでのようなおどけた感じではなく、真剣そのもの。見つめて見つめて見つめて見つめていって、恭一郎はその頬を緩めていた。

「……にーちゃん、なんだかちょっと格好いいこと言うね」

「もちろんだ。それが俺の魅力だからな。百八つある内の」

「だったらさ、そんな魅力満点のにーちゃんに、お願いしていいかな?」

 さきほどと同様に恭一郎は見つめる。斜め上にある勇也の顔をとても純粋で真っ直ぐな眼差し。

「星乃のこと、お願いできないかな? あいつがちゃんと立ち直れるようにさ」

 頭を下げた。深く、とても深く。そんなことするの、恭一郎の人生で初めてのこと。

「どう、かな?」

「……お前、あの子のこと、好きなのか?」

「へっ……ああ、うん」

 はにかみ。

「好きだよ。うん、好き。だから、にーちゃん、お願い」

「なるほどな、好きな子のこと、ほっとけないもんな。けどさ、だったら、自分がしようと思わないか? 好きな子のことだから、やっぱり力になりたいだろ? だからお前が」

「ううん、そうは思わない。思わないっていうか、思えないっていうのか……」

 恭一郎は一度どこでもない虚空を見つめてから、相手に視線を戻す。

「……だってね、んだ。背中を押してやるために、どんなにおれが声を出しても、絶対に届きはしない。だからね、残念だけど、おれじゃ駄目なんだよ」

「そうやって簡単に諦めるの、よくないと思うけど……」

 かけられた返答に得心がいくとまではいかないが、依頼されたことに関して、勇也は少し考えてみる。

 恭一郎が真剣に頼み込んでいるようだが、断ったところで責められるものではない。しかし、星乃については昨日美沙杞にも頼まれていたので、恭一郎の頼みを断ってもやることはほとんど変わらない気がする。なら、ここはいい顔をするに限る。どうせ同じ頼みなら、背負いこむのは一人分も二人分も同じだから。

「女の子の扱いに関して、抜群の経験を持つ、この俺にどーんと任してけ。よかったな、もうこれで安心だぞ」

 胸を張ってみる。相手を安心させるように自信満々で。

 さきほど星乃に逃げるように立ち去られた実績があるものの、もちろんそんなことは口に出さない。

「これでもう全部ばっちりだ」

「さすがに頼もしいね、にーちゃん」

「そんなこと、いちいち言うまでもないことだぞ」

「頼んだよ」

「おう」

 そうして男と男の子の約束を交わし、勇也は美沙杞の待つ501号室に向かうため、病院玄関へと向かっていった。

 今日は美沙杞に昨日買った折り紙とその本を渡し、それから暫く、折り紙の難しさとその奥深さに悪戦苦闘することになるのである。


 夕方。空は一面、鮮やかな茜色で染め上げられている。

 駅前商店街。この時間帯は今日も人で溢れていた。知っている顔はないが、勇也が着ているものと同じ制服を見かけることが多い。もしかすると、この辺りの買い物といえば、この商店街しかないのかもしれない。

「……っ」

 歩いていて、不意に背中を叩かれた。振り返ってみたが、誰の姿もない。首を傾け、『なんとなく今と同じようなことが昨日あったな』と感じていて、すぐ視線を下げてみると、そこには小さな少女が。

『昨日とまったく同じだ』そう苦笑して、勇也は口を開く。

「えーと、確か西さいおんさんとか仰いましたっけ?」

「あい? ぶーぶー、城之浦なんだよ。なんで間違えるのかな? というより、覚える気はあるのかな?」

「いや、別段」

「……覚えてほしいんだよ。というのか、名前間違えるの、失礼なんだよ」

 夏希の両の頬には空気がたくさん溜められた。けれど、本気で怒っているわけではない。

「今日も会えたんだよ。これは凄い偶然なんだよ」

「……これはもう偶然ってより、お前に尾行されてるとしか思えんな」

「あい?」

 大きな瞳をぱちくり。そしてすぐ、胸の前で大きく手を横に振る。

「そ、そんなことないんだよ。まったくもって偶然なんだよ」

「偶然がこうもつづくとは思えない」

「つづいてしまっているものは、仕方ないんだよ。あたし勇也くんのことなんてこれっぽっちも尾行する気はないんだよ。その素質というか、ハードボイルドさは充分備わってると思うけど、決して探偵さんになった覚えはないんだよ」

 白シャツにチェックのスカートという祇吹高等学校の制服に身を包んだ城之浦夏希は、今日も肩から斜めに青いスポーツバッグをかけている。吹いてきた風に、肩にかかる髪が揺れていた。

「勇也くんはどこにいくのかな?」

「昨日いった文房具屋」

「ははーん、さては」

 きらりーんっと夏希の目が光る。相手の目的を素早く察していた。

「早くも折り紙の虜になったのかな? 夢中になって、昨日買ったやつがなくなっちゃったのかな? さすがは折り紙の魅力、半端じゃないんだよ」

「…………」

 まんまと折り紙の魅力に乗せられている悔しい思いと、そのものずばりを言い当てられた現状……自分の行動の安易さを嘆き、言葉がうまく出てこなくなる勇也。

 ただなんとなく、やけににやにやしている夏希のことを見ていられずに、顔を逸らして歩いていく。

 歩幅をいつもより広くして。

「…………」

「あっ! 思い出したんだよ!」

 いきなり大声の夏希。一斉に向けられる周囲の目を一切気にすることなく、というよりは気づくこともできずに、夏希は勇也の腕を掴まえた。

「昨日からずっと頭に引っかかってることがあったんだよ。なんだろなんだろ? って思い出せそうで、けど、思い出せなかったんだよ。ずっとずっと気になってったんだけど、今ようやく思い出せたんだよ」

 にやにや。にやにや。夏希の笑みが溢れていく。

「牛べえのコロッケなんだよ」

「いや、用があるのは文房具屋だから。じゃあな」

「……昨日商店街を案内してあげたんだよ。その報酬が牛べえのコロッケなんだよ。それ、すっかり忘れてたんだよ。あたしが牛べえのコロッケのこと忘れてたなんて、一生の不覚でしかないんだよ」

「……その件に関して、一切記憶にございませんが」

「あい?」

 夏希は相手の顔を見上げて、小さく首を振る。

「勇也くんの記憶力の乏しさはこの際気にする必要はないんだよ。だけどその点については安心してほしいんだよ。あたしはばっちり覚えてるんだよ。牛べえはあっちだから、早くするんだよ」

「…………」

 小さな体に見合わず、結構な力で引っ張っていく夏希に引きずられるようにして、勇也は昨日いった書店近くの牛べえにいくことに。

 牛べえはファーストフード店のようなカウンターだけの店で、みたらし団子やお好み焼きといったものを販売している。エプロンをした年配の人間が奥の方で鉄板に油を敷いていた。その横では油を扱っていた。コロッケもそこで作られている。

 勇也は、渋々という雰囲気を全面的に表しながらも、コロッケを二つ購入し、店の前のベンチで食べることにした。

「あ、結構うまいな」

「そうなんだよそうなんだよ」

 恵比寿顔。夏希の頬は今にも落ちてしまいそう。大きな瞳は糸のように細くなっていた。

「えへへへっ。牛べえのコロッケはね、もう世界一なんだよ。ほくほくで、外の衣がぱりっとしてて、ジューシーで、とってもとってもおいしいんだよ。一度でも食べたらもう病みつきなんだよ。牛べえのコロッケなしでは、もう生きていけなくなるんだよ」

「よし、牛べえが潰れれば、お前は死ぬわけだな? なら、従業員の人には悪いけど、そう願うしかない」

「牛べえは永遠に不滅なんだよ」

 きっぱりはっきりとした強い口調で言い放っていた夏希。肩までの髪を振り乱しながら。火花が出そうなほど激しい目力で。眉間に皺を寄せる。

「いくら勇也くんでも、言っていいこととそうじゃなことがあるんだよ。地球が滅亡しても、牛べえは営業してるんだよ」

「……客こないだろ、それ?」

「こ、細かいことは、牛べえのコロッケのおいしさがカバーしてくれるんだよ」

「……さて、折り紙でも買ってくるか」

「ああ、食べるの早いんだよ。もうちょっと待ってほしいんだよ。あんまり早く食べると消化に悪いんだよ」

「お前が味わい過ぎなんだ」

「そんなに急いで食べても、大きくはなれないんだよ」

「……お前が言うな、お前が」

 嘆息。とても大きく、腹の底から。

 まだまだ明るいが、近くに設置されている街灯はすでに点灯している。明かりが漏れる部分がガラス張りの四角い形となっていて、全体的にレトロな感じのする電灯。商店街の煉瓦を敷きつめられた地面とぴったりマッチしていた。

「お前、これからどっかいくのか?」

「あい? うん。今日も竜頭岬にいくんだよ。ばっちり時間に余裕があるんだよ。冬はすぐ日が暮れちゃうからなかなかいけなかったけど、最近は長くなってきたんだよ。勇也くんはお見舞いの帰りなのかな?」

「ああ」

 勇也は青色の手提げ鞄を持っている。家から持ってきた緑色の鞄は病室に置いてきていた。

「あそこの岬って、そんな楽しいことがあるのか?」

「あい? うーん、楽しいことっていうか、趣味って感じではないんだけどね、うーんと、習慣なんだよ。お散歩みたいな感じなのかな? あたし、歩くのも好きだし、走るのも好きなんだよ」

「ふーん。犬と一緒で散歩好きなんだな? 走ったりするの」

「あい……? うーん、犬っていうのは、褒められてるのかな?」

「犬といえば?」

「かわいい」

「なら、褒めてることにしといてくれ」

 勇也にはとても理解できない好みだったが、他人の趣味をどうこういえるものではない。

「だったらさ、走るのが好きなら、陸上部にでも入ればいいじゃんか? 確かあると思ったけど」

「えへへへっ。ばっちり入ってるんだよ」

「へっ……あ、いや、だって、ここにいるから」

 時刻は午後六時を少し回ったところ。赤くなったとはいえ、まだまだ太陽は西の空に顔を隠していない。

「練習は?」

「ばっちりやってきたんだよ。でもって、これが下校途中なんだよ。野球部はまだやってたみたいだけど、陸上部はそんなに遅くまで練習やらなくて、量より質を重んじてるんだよ」

「そ、そうなんだ……」

 勇也は病院で美沙杞の相手をしてから、この商店街にいる。夏希は学校で部活の練習をから、この商店街にいる。病院にいる時間も部活の練習時間も、だいたい同じ時間なのだろう。

 だとすれば、放課後それぞれが同じぐらい時間を潰してきてこの商店街にいるのだから、こうしてばったり顔を合わしたのも、あながち偶然と呼ぶものではないのかもしれない。なんたって二日連続なのだから。

「これからは、もうちょっと遅くまで病院で美沙杞の相手してようかな?」

「あい?」

「……こっちの話だよ」

 苦笑い。

 横にいる夏希は地元民。であれば、この辺りのことについて勇也よりは知っているはず。今気になっていることを尋ねてみることに。

「この辺のさ、小学校ってどこにあるか知ってるか?」

「うん。天道てんどう小学校なら、あっちの方にあるんだよ」

 夏希は近くのスーパーを指差している。ここから東北東の方角。

「あたしの出身小学校なんだよ」

「ふーん。お前がいたってことは、きっと入学するのに身長制限があるんだろうな。高さ制限みたいな」

「あい? それ、どういう意味なのかな?」

「……冗談という冗談の冗談でありながらの冗談であるような冗談でもあるものではある気がする冗談めいた話だ」

「……それって、冗談なのか冗談じゃないのか、よく分からないんだよ」

「この辺りには高校が一つしかないぐらいだからさ、きっと小学校もそこしかないんだろう?」

「凄い。勇也くん、エスパー?」

「ではないけど」

 頭に思い描くのは、病院の庭にいた一人の女の子。

「春にさ、この辺で事故があったって知ってるか? えーと、小学生が犠牲になったっていう? 俺もあんまり詳しくは知らないんだけど……いやー、世間に疎いお前のことだから、きっと知らないんだろうな」

「ちゃんと知ってるんだよ。あと、そんな決めつけ、失礼なんだよ。世間こそあたしのフィールドといっても過言じゃないんだよ。あたしは常にアンテナを張りめぐらせてるからね、この竜天神町のことならなんでもお任せなんだよ」

 夏希はようやくコロッケを食べおえ、手で持つための包み紙をくしゃくしゃに丸める。

「あれは確か、神社の方じゃなかったかな? 男の子が車に轢かれちゃって……なんか轢き逃げみたいでね、まだ犯人が捕まっていないはず、だよ……」

 決して楽しい話をしているわけではない。そのため、いつも明るい夏希もちょっと表情が曇る。

「悲しいことなんだよ、轢き逃げ事件なんて」

「そうだな……」

 思い返される女の子の表情は、あまり感情が出ない静かなものだったが、辛そうには見えた。目の前で事故があり、その犠牲者を目の当たりに、ショックのあまり心を閉ざしたに違いない。

 ましてや、それが轢き逃げ事件だったとは。

「…………」

 あまりにも愉快ではない話をした影響か、そこで二人に会話が途切れた。

 風が吹く。今のは珍しく山からのものなので、潮風ではない。二人の髪がそれぞれの長さに応じて揺れていた。

「……じゃあな、もう帰るからさ。ああ、その前に折り紙買ってかないと」

「案内してあげてもいいんだよ? 勇也くんきっと、まだ道よく分からないと思うんだよ。その顔、そこまで記憶力があるとは到底思えないんだよ」

「そうすると、またコロッケなんだろ?」

「そんな意地悪くないんだよ。そんな偏見の目で人のこと見ちゃいけないんだよ」

「なら、いらないんだな?」

「でもでも、勇也くんがどうしてもっていうなら、ご馳走になってもいいんだよ。それは仕方のないことなんだよ」

「はははっ。遠慮させてもらうよ。もう大丈夫だから。じゃあな」

「あ、うん、また明日なんだよ」

「俺たち、学校じゃ一度も会ったことないけどな」

 夏希と別れ、夕焼けに染まる商店街を歩いていく勇也だったが……昨日夏希に案内してもらった文房具屋への道をろくに覚えておらず、店に辿り着いたのはそれから一時間後のこと。その結果、辺りはすっかり暗くなっていた。文房具屋の明かりが見えたとき、思わず涙が出そうになったほどである。

 そんなこと、とても夏希に知られるわけにはいかず、その日のことは永遠に勇也の胸の奥底のさらに奥に封印されることとなった。

 意地である。


       ※


 五月九日、水曜日。

 世間ではごくあり触れた水曜日だろうが、転校三日目の勇也には、やはりまだまだ慣れることのない学校生活に、少し疲れの色が出てきたことは否めない。考えてみれば、先週の土曜日にこの竜天神町に引っ越してきて、日曜日は部屋の掃除と荷物の片づけに追われ、月曜日から新しい学校生活ということで、今日までずっと慌ただしく休まる日がなかった。

『今日という今日こそは一緒にきてもらうからな。いやー、グラウンドは気持ちいいぞ。なんたってグラウンドだからな。ホントにいい。いいったらいい。だってよ、グラウンドなら野球ができる。なら、野球するしかないだろーな。よし、じゃあ、野球に青春捧げてみようぜ。一緒に甲子園目指そうぜ。これから毎日白球追いかけていこうぜ。ほらほら、もうこうなったら野球しかないだろ。野球するっきゃないんだろうが。いつまでもこんな教室にいるから駄目なんだよ。外に出れば気分もすかっ! とするって。太陽の下で元気にボールを追いかける。かー、気持ちが高ぶってしょうがない。いいか、お前の骨格はな、ボールとバットでできてるんだからな。なら、もう野球するしかないだろ。よーし、今日もホームランだー』

 今日も今日とて野球部に勧誘してくるクラスメートの藤圭介の大きく広げられた魔手を、まるで針の目でも通すかのような細かく巧みなフットワークで次々に躱し、放課後どうにか西門を潜って敷地外に出ることができた勇也。ただ下校するだけでもいい運動になってしまう。

 学校からほぼ南へ一直線の道を歩いて祖母の家に帰ってきて、祖母に用意してもらった青い手提げ鞄を持って、今日も私服に着替えることなく制服のまま駅前にある豊知大学付属総合病院に向かっていく。

(あ、今日もいる)

 病院に到着。五階建ての建物南側にある庭のベンチに、それとなく期待していたお目当ての女の子が今日もきていることを確認。勇也は口元を緩めて急いで501号室に向かっていく。

 五階にある501号室。扉を開けると同時に、勇也はベッドの上にいる妹に提案した。

「よし、外いくぞ」

「……やって来て早々に。どうかしたの、お兄ちゃん?」

「今日もばっちり天気がいいだろ? なら、外に出るべきだ。人は太陽の下でこそ活動すべき動物なんだよ」

 今言ったこと、確か似たようなことをクラスメートの藤圭介に言われて即座に首を横に振って拒否した実績のある勇也だが、過去のことは気にしない。これっぽっちも気にかけるような必要性などないのだから。

「体調はいいんだろ? なら、いくぞ」

 美沙杞は今までベッドの上で小説を読んでいたが、勇也の提案に栞を挟んで外出用のカーディガンを羽織っている。その間、勇也はいつものように部屋の隅にある車椅子を用意。

「よし、出発」

「あ、お兄ちゃん、いいよいいよ。今日は自分で歩くから」

 美沙杞は用意された車椅子の前でにっこりと微笑み、ベッド横にあるスリッパを履いていた。少しだけバランスを崩したが、すぐに持ち直す。

「なんだか今日はいつもより調子がいいの。痺れもないし。だから自分で歩いてみるね。うーん、やっぱりこっちの病院にきたことがよかったのかもしれないね」

「ホントか!?」

 驚きの歓喜。

「よかった、そりゃ引っ越してきた甲斐があったってなもんだよ」

「うん」

「よかったよかった」

 少し危なっかしい足取りだったが、それでも廊下を懸命に歩いていく美沙杞の姿……勇也は胸に熱いものを感じながらも、微笑ましく見守っていた。本音としてはすぐにでも肩を貸したい心境だが、あまり手を出そうとすると無類の頑張り屋として有名な美沙杞に嫌われてしまう。高校二年生にして、早くも子供の成長をやさしく見守る親の心境だった。

 そして二人はエレベーターで一階にいき、玄関ロビーを通って外へ。太陽はまだまだ西の空には傾くことすらしておらず、真っ青の空に白い雲がぷかぷかっ浮かんでいる。敷地内にある木々の枝葉を揺らす海からの風は、とても気持ちのいいものだった。

「ほら、美沙杞、見てみろよ。あそこ、あの子いるぞ。よし、今日は美沙杞が声をかけてみろよ」

「うん、そうしてみるね。というより、わたしに任せてほしいな。だって、お兄ちゃん、円滑なコミュニケーションに失敗しちゃってるもんね。駄目だよ、女の子にはやさしく接しないと。嫌われちゃうよ」

「……面目ない」

 勇也が声をかけたが、うまくいかなかったこと、隠すことなく正直に美沙杞に話していた。随分と渋い顔をされたこと、今も脳裏に焼きついている。

「今日は美沙杞がいるから大丈夫だ。何の問題もない」

「そんな期待を押しつけられると困っちゃうな。けど。お兄ちゃんよりはちゃんとできる気がするよ」

『さて、どうしたもんかな?』と斜め上を向いて考えながら、決してその足が止まることはない。そうして美沙杞はベンチへと辿り着く。

「こんにちは。ここ、いい?」

 相手の反応を待たずして、美沙杞は隣に腰かけた。

「ごめんね、昨日お兄ちゃんが変なこと言ったんでしょ?」

「あ、いや、俺は別に変なことなんて言ってないけど」

「お兄ちゃん、口下手だから。喋るのは苦手だけど、ああ見えて根はいい人の振りをしてるから」

「おい、まったくフォローになっていないぞ。嘘でもいいから、根はいい人ってことにしとけよ」

「仕方ないから、そういうことにしておいてあげてね」

 冗談を含みながらの、相手に不安を抱かせないようなにっこりとした笑み。美沙杞は少し強張っている相手に警戒されないように話しかけていく。

「わたし、菴沢美沙杞。で、こっちがお兄ちゃん。あのね、よかったら、名前、いてもいい?」

「……あいかわほし

「星乃ちゃんね、かわいい名前だね。わたし、小学五年生だよ。星乃ちゃんは?」

「……同じ」

「そっか、同い年なんだー。うわー、なんか嬉しいなー」

「…………」

「わたし、この病院に入院してるんだ。ってより、先週の土曜日に引っ越してきたばかりでね、全然こっちのこと知らないの。だからね、星乃ちゃん、こっちのことを教えてくれると嬉しいな」

「…………」

 表情の固い星乃は、見知らぬ人間に話しかけられたことに緊張しているのか、縮こまった体で俯いた顔から覗き見るように美沙杞の顔を見る。

 すぐに目が合った。ぱっと反射的に星乃は目を逸らす。少し慌てたかもしれない。『ぁ』という言葉になっていないものが口に出ていた。

「……そ、そんなに詳しいわけじゃないけど……それでも、よかったら……」

「教えてくれるの? わーい、やったね」

 美沙杞の笑顔が弾けていた。両腕を上げて万歳をしている。星乃に気づかれないように『どんなもんだーい』と兄の方に『してやったり』の笑みを向けた。

「あっ、ほら、お兄ちゃん、喉渇いたから、ジュースよろしくね。わたしオレンジでいいよ。星乃ちゃんも一緒でいい? じゃあ、お兄ちゃん、オレンジジュース二つお願いします」

「あー、はいはい」

 目を離すというか、残していく美沙杞の体調が心配ではあったが、楽しそうに話している美沙杞と、細々とながらも口を動かしている星乃の間に、勇也は居場所が見つけられそうになかった。しかし、それ以上に二人の会話している姿がとても微笑ましく感じている。

 勇也は鼻歌混じりの足取り軽やかに病院玄関へ。

(さすがは我が妹。まさかああもすんなり打ち解けるとは。将来はあの人当たりのよさだけで食っていけるに違いない)

『人当たりのよさだけで食っていける職業とは?』を考えながら、ガラス張りの自動ドアを抜けてロビーへ。

(あの子、あのまま美沙杞の友達になってくれるといいんだけど)

「ねえ、あの子、にーちゃんの何?」

「おっ?」

 売店は地下にある。エレベーターではなく階段に向かおうとしたら、横から声をかけられた。顔を向けると、そこには昨日同様に白に黒線のスポーツウエア姿の西岡恭一郎がいた。

「お前、今日も来てたのかよ?」

「まーね。で、星乃と一緒にいる女の子、誰? えらいかわいかったけど」

「……お前は星乃ちゃんが好きなんじゃなかったのか?」

「好きな子がいるからって、かわいい子をかわいいと思っちゃいけない理由はないね」

「言い切られた……一理あるとは思うけど、そのかわいい子には手出すなよ。絶対だ」

「どうして?」

「俺のかわいい妹だからだ」

「……にーちゃん、シスコン?」

「なんとでも言え」

 早くジュースを買って戻るべきかもしれないが、だからといって戻っても二人の会話を邪魔するだけ。いや、勇也がいることで、うまくいっていた二人の関係が変にしてしまうかもしれない。

 そして、ここには勇也の話し相手がいる。暫く逡巡し、少しここで時間を潰すことにした。

「お前に頼まれたからな、あの子のことを気にかけてるところだよ。妹という最終兵器を投入してな」

「そこまで努力してくれてたんだね。さすがはにーちゃん。おれはてっきり自分じゃどうにもうまくいかないから、妹さんに頼ったのかと思っちゃった」

「ば、馬鹿なことを。そんなことあってたまるかよ。あは、あははは」

 やけに鋭い指摘に、勇也の顔が多少強張ったが、心の乱れを相手に悟られていない自信はある。

「お前も見舞いにきたのか? その、事故に遭ったっていうクラスメートの?」

「うーん……まっ、そんなとこかな?」

「俺も学校のやつに聞いたんだけどさ、轢き逃げなんだってな。ひどいことするやつもいたもんだな」

「うん、まーね。なことより、にーちゃん。もうちょっと静かなとこいこ。ここ、人が多いから」

「あ、ああ」

 ロビーには診察待ちをしている人間が大勢いる。見てみると、数人が首を傾けているというか、こちらをなんとも不思議そうな目で見ていた。高校生と小学生が楽しそうに喋っている図が不自然なものに映っているのかもしれないし、下手したらいじめているように思われているかもしれない。そういった奇異の目で見られているのは気持ちいいものではないので、二人はエレベーターで屋上へ。


 屋上には洗濯物を干す竿がざっと数えただけでも二十本以上あったが、今はもう取り込まれているのか、使用されていなかった。

 勇也は建物南側に立つ。屋上はすべて高さ二メートルほどの金網で囲まれていて、それ越しに広大な太平洋が広がっている。今日も水面は太陽の日差しできらきらっと光っていた。庭にいるときもそうだったが、ここでは格別に吹いてくる潮風を気持ちがいい。

 下を見ると、庭にいる美沙杞と星乃の姿を確認できた。どうやらまだうまくいっているらしい。せいぜい二分程度しか喋っていられなかった昨日の勇也とはえらい違いである。

「お前さ、いつから星乃ちゃんのことが好きなの?」

「また唐突だね? いつから? うーん……そんなの考えたこともなかったなー。いつ好きになったんだろう?」

「昨日も思ったんだけどさ、凄いよな、お前。そうやってあの子のこと、好きだって平気で言えるもんな」

「うーん、そりゃ抵抗がないわけじゃないけど、こうなっちゃったからね、今さら照れても仕方ないし……ああ、あれだよ、学校の連中にはもちろん言えないよ、恥ずかしいから。けど、にーちゃんが知らない人だったし、とてもいい人そうに見えたから、おれも構えることなくこうして自然体でいられるのかな?」

「その話を総合すると、俺がいい人って解釈でいいわけだな?」

「うん、そう取ってもらってもいいよ」

「よし、そう受け取っておく」

 立っていても疲れるのでその場でしゃがみ込む。そうすると屋上の縁の影響で下の様子を見えなくなるが、美沙杞の体調が崩れればきっと周りの誰かが看護師でも呼んでくれるだろうし、星乃だってどうにか対応してくれるはず。座って、屋上を囲っている金網に背を預けた。がしゃがしゃっ、と音がした。

「いくらなんでも彼氏ってわけじゃないんだろ?」

「うん。そういう意識はないね。星乃が近くにいるのが自然っていうか……うん、やっぱりそんな意識はなかったな」

 恭一郎もしゃがみ込み、少し視線を上げて何もない虚空を見つめる。何もない空間にこれまでのことを投影するように、これまでの日々を思い描きながら口を動かす。

「おれたち、家はお隣さんでね、しかも母親が同級生ときてるんだ。だから自然といつも遊ぶようになってた」

 それは物心つく前から、ずっと。もう隣にいることが当たり前のように。

「毎日さ、一緒にいることが当たり前で。おれたち、家の中で遊んでるってより、外で走り回ってる方が好きだったなー」

 二人はよく遊んだ。特に夏は近所にある神社で遊んでいた。降り注ぐような蝉の鳴き声を浴びながら、隠れん坊をしたり、昆虫を捕まえたり、木登りをしてはよく怒られたりもした。川に泳ぎにもいった。海に釣りにもいった。神社でやる夏祭にもいったし、家族ぐるみで旅行にも出かけていた。それはもちろん夏だけでなく、春には春できる遊びを、秋にも冬にもそのときできる遊びを一所懸命やっていた気がする。だいたいどれも外を走り回るものばかりだったが。そういった日々が、現在所属するサッカー部と、星乃が所属するソフトボール部での活躍に直結していた。二人とも同学年の子と比べると運動神経が発達していたのである。

「友達ってよりは、近い親戚みたいな感じだったかな? でもさ、男女ってことで、学校のやつらにはそういった意味でからかわれることもあったけど、おれは全然気にならなかった。あいつはどうか知らないけど……」

 小学校はずっと同じクラスなので、からかいといったことは日常的に起きていたが、でも、最近ではそれが当たり前の風景になりつつあった。恭一郎と星乃はいつも一緒。隣同士。さすがに公認されていたのかもしれない。『旦那』と『奥さん』という言葉が平気で使われるほどだったから。

「でも、おれとしては、その、好きとかそんな意識はなかったんだけど……春の事故以来、星乃がああして元気がなくなっちゃって、いつも下向くようになっちゃって……そうなったとき、なんとかしてあげないといけないなって思うようになってさ……そこで気がついたんだと思う。星乃のことを好きだったんだって」

 クラスメートが交通事故に遭った。それも星乃の目の前で起きた事故。星乃はショックのために、それまでの明るい日々が偽りだったかのごとく、覇気を失った。ろくに顔を上げることができず、家でも教室でもどこでも、常に一人で下を向いている。事故のショックに、その重みに潰されたのかもしれない。

 まだまだ残された人生の長い小学五年生の心が、その時すべに深い闇に覆われた。

「けど、なんとかしようにも、おれじゃね……おれじゃ、全然声を届けることができないから。だからさ、にーちゃんが星乃のこと引き受けてくれて、嬉しかったよ。ああ、これでもう安心だって」

「いや、まだまだだぞ。今んところは美沙杞が頑張ってくれてるみたいだが、それもどうなるか分からんからな」

 勇也は立ち上がって下の様子を見ると、まだ美沙杞と星乃はベンチで話していた。

(なるほどね……)

 こうして話を聞いている限り、星乃の落ち込みは随分と根が深そうである。『時間がなんとかしてくれる』なんて楽観的に考えることはできない。

「手助けはできるだろうけど、やっぱり立ち直るのは星乃ちゃん自身だからね。俺たちみたいな他人がどうこうできる問題じゃないかもしれないから」

「そうかもしれないね。けど、他人だからこそ話せることだってあるかもしれないじゃん。知ってる人間じゃ、ちょっとって……おれがにーちゃんに星乃のことが好きだって言えたみたいにさ」

「まあ、一理あるな」

 相手の言葉を受け、勇也は瞬きを五回繰り返した。小学生にしては妙に落ち着いているというか、まるで人生のすべてを悟ったかのごとく大人びた発言の恭一郎に、勇也は違和感を得たというか……小首を傾げる。

(きっとこいつも星乃ちゃんのこと心配なんだろうけど、なんで自分でしようとしないんだろう?)

 やはりそこは疑問でしかない。ろくに声が届かないといったところで、物理的な問題ではなく、相手が心を閉ざしているだけの話。であれば、諦める必要はなくて、これから何回だって何十回だって声をかけつづけていけばいい。そうすることができるのだから。家が隣同士で、家族ぐるみの交遊があるなら、チャンスはいくらだってあるはずである。

(でも……)

 しかし、勇也はその疑問を口に出さなかった。自分が頼まれていたこともあるし、それに、なぜかそう意見しようとする気が湧いてこなかったのである。その、どこか憂いを含んだ目で遠い空を見つめる恭一郎の儚い表情を見ていると。

「あのさ、星乃ちゃんの家教えてくれないか? 今日みたいに病院にきてくれれば俺もいるし美沙杞もいるけど、もし来てくれなくなったら、心配だから」

「神社の近くだよ。その制服、にーちゃん、祇吹高校でしょ? だったらすぐ近くにあると思うけど」

「ああ、そういえば」

 いつも登校時は左手にあり、下校は右手にある。大きな樹木がたくさん植わっている神社、天神神社。勇也はまだいったことはないが、好奇心から一度は寄ってみたいと思っていた。ただ、この三日間は野球部勧誘から逃れるべく、一刻も早く学校から離れることを優先させていたのである。

「あの辺ね、分かったよ」

 勇也はゆっくりと立ち上がった。汚れを払うように尻をぱんぱんっ叩く。

「お前まだここにいるか? 美沙杞にジュース頼まれててさ。あんまり遅くなるとうるさいから」

「あ、うん。頑張ってね。シスコンにーちゃん」

「お前のこと、星乃ちゃんにばらされたくなければ、もう二度とその呼び方するなよ。いいか?」

「……了解です」

「よろしい」

 勇也は屋上に恭一郎を残し、エレベーターで地下一階の売店に移動。美沙杞から注文されていたオレンジジュースを三つ購入する。その足で庭の二人に届けるのだが、『遅い! なんでそうも時間かかるかな!? 子供じゃあるまいし。お兄ちゃん、ちゃんと反省してる!? 聞いてるの!? だいたいお兄ちゃんはね、いつもいつも──』といった嫁をいたぶる姑のような美沙杞の攻撃が待っていた。

 勇也は決して逃げることなく美沙杞の一語一区を甘んじて受け止めていく。『きっとこの様子を屋上からあいつが見てて、腹を抱えて笑ってるんだろうな!? くそー』そう苦笑いを浮かべながら。

 ふと横を見ると、そんな二人の様子を星乃は目を丸くさせていたが、その内小さく笑みを浮かべるようになった。昨日のさんざんたる駄目な印象があっただけに、勇也にとっても嬉しいことである。


 夕暮れ。

「じゃあな、美沙杞。また明日くるから。調子が悪くなったら、すぐ看護師さんに言うんだぞ」

 窓の外はすっかり茜色に染まっていた。勇也は病室に置いてあった緑色の手提げ鞄を持って、小さく手を振っていた星乃とともに501号室を後にする。あれから三人で病室に戻り、変わらず美沙杞と星乃はお喋りに熱中していた。同学年の女の子同士、気が合ったみたいである。とはいえ、九割がた美沙杞が喋っていて、星乃はときどき相槌を打つ程度だったが。しかし、そこに小さいながらも笑顔があったこと、勇也にはとても嬉しかった。

 これはもう、どこからどう見ても、『友達』と呼べる関係になっていただろう。

「ありがとね、星乃ちゃん。美沙杞のやつ、ああやっていつも病院にいるし、この町にやって来たばかりだしさ、友達がいないんだよね。だから、星乃ちゃんと知り合えて嬉しかったみたい。できればまた遊びにきてあげてね」

「あ……はい」

「ありがと」

 相手がこくりっと小さく頷いてくれたこと、勇也も自分のことのように嬉しく、胸が温かくなっていた。

 二人は帰宅するためにエレベーターに乗って一階を目指すも、途中の二階で止まった。そこから紺色のカーディガンを着た主婦らしき人が乗り込んでこようとして、しかし、星乃の顔を見て、目を大きくした驚いた表情を浮かべる。

 それから二人のやり取りを見ていると……どうやらエレベーターに乗り込んできたのは、交通事故に遭ったという星乃のクラスメートの母親だったことが分かった。

 瞬間、勇也はいい機会だと思った。星乃は今まで事故について気にしているものの、そのショックのあまり病室を訪れることはおろか、こうして病院に入ることすらできていなかったのだ。けれど、美沙杞とのこともあり、こうして病院へ入ってくることができている。であれば、事故に遭ったクラスメートの病室を訪れていい頃合いであろう。今こそ次の一歩を踏み出すべきである。

 勇也は星乃にクラスメートのお見舞いをするように勧めた。に対し、星乃はすぐには首を縦に振ることはなかったが……それでも最後には小さく頷いた。前へ進む決意をしてくれたのである。

 勇也も付き添いという形で、星乃のクラスメートの病室へと入っていく。二階にある205号室。病室というより集中治療室で、菌の進入を防ぐためにある透明なビニール膜で仕切られていた。そのため、身内ではない勇也たちは、ビニール膜の手前までいくことができない。

 勇也は星乃とともにビニール膜を覗いてみる。すると、奥にあるベッドを多くの生命維持装置が取り囲んでいるが分かった。装置からいくつもの管が布団の下に入っている。今もちかちかっと光を点灯させているので、生命を維持すべく動いていた。

 勇也は目をベッドの上に移していき、そこに眠っている星乃のクラスメートを目の当たりにして……瞬間、驚愕の事実が待ち受けていたのである!

(なぁ!?)

 病室にいたのは、口にチューブをつけた、まだ意識を取り戻すことのない患者の姿。

 隣に立つ星乃は深刻そうな顔をしてそこで眠る人物を見つめている。だから、そこで横たわっているのが、星乃のクラスメートで間違いないのだろう。

 勇也が驚かされたことは、今日までずっと意識を取り戻すことのない、ベッドで横たわっている人物にあった。

 勇也には目の当たりにしたものが信じられなかったが、しかし、不思議とすんなり受け入れることもできたのである。

 突如として襲われた多大なショックを胸に、勇也はその集中治療室で星乃と別れ、急いで病院の屋上へと向かっていく。

 心情としては、心の奥底から気持ちの悪い蛆虫が一斉に這い上がってくるようだった。それは心臓へと達し、鼓動をおかしなものへと変貌させていく。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ。


       ※


 病院の屋上。

 見渡してみると、広がる空は一面鮮やかな茜色に染められていた。今日は風が強い方で、耳までかかる勇也の髪を乱暴に乱していく。昼間は少し暑いぐらいだったが、この時間になるとやはり半袖では肌寒いものがある。特にこうも風の強い屋上では尚更だった。

 勇也は昨日、一昨日とこの時間は商店街にいて、そこで部活帰りの夏希に会っていた。毎日いっている竜頭岬への通り道だというので、今日もいけば会えるかもしれない。しかし、今日はいかない。今日はここにいる。この豊知大学付属総合病院の屋上に。

 そうして、まだ屋上に残っていた男の子と向き合った。

「びっくりしたよ。やめてくれる、そういうの。心臓が止まるかと思った」

「…………」

「非科学的なことっていうのはさ、テレビの話であって、自分がそんなことに遭遇するななんてことあるはずないっていうか、自分の周りじゃ起きるもんじゃないって思ってたけど、まさか目の当たりにしちまうとはね。はははっ。今でもまだ信じられないけど、信じるしかないんだろうな」

「…………」

んだな」

 勇也の前、白に黒線のあるスポーツウエアを着た恭一郎がいる。二時間ほど前にここで喋っていたのだが、恭一郎はまだこの場所にいた。

んだな」

 見つめる。屋上の隅に座り、金網の向こう側にある広大な海のさらに向こう側を見つめている男の子のことを。世界の茜色をその目に焼きつけるように、じっと眺めている恭一郎のことを。

んだな」

 さきほど星乃とともに訪れた205号室。透明なビニール膜で仕切られた向こう側にあったベッドの上、そこに恭一郎が横たわっていた。その肌は病弱までに青白く、頬は痩せこけていたが、間違いない。

「もうなにがなんだか分かんないよ。別に双子ってわけでもないみたいだし。変な汗が全身からいっぱい出てきちまった」

 けれど、目の前にあったものがとても信じられない不可思議な現象なのに、なぜだか勇也には現状をすんなり受け止められている。一切取り乱すことなく、パニックにもなることもなく、事実を冷静に受け止めて。だからこそ、儚い表情を浮かべながら海の方を見つめている男の子としっかり向き合うことができていた。

「なんかちょっと納得だよ。あ、いや、さっき下にいるときに、ロビーの人にじろじろ見られてたよな? そういうことだったんだな」

 一階のロビーで恭一郎と喋っているとき、やけにロビーで診察を待つ人間の視線を感じた。その時は高校生と小学生というミスマッチな二人の姿に、不審に思われているというか、珍しがられているというか、そういう目で見られていると思っていたが、実際は違ったようである。

「どうやら、俺にしか見えていないみたいだな」

 勇也以外には恭一郎の姿を見ることができない。

「だから周りの人間には、ああも不思議に見られてたんだろうよ」

 恭一郎の姿を誰も見ることができない。であれば、一階のロビーでの会話、あれは勇也が恭一郎と喋っていた間、それをロビーで見ていた人間には、勇也が見えない場所に向けて独り言を言っていたように見えたことになる。それなら奇異の目で見られて当然。勇也が何もない空間に向かって一人で喋っているのだから。

「不思議なもんだな、世の中ってもんはさ。実際にこういったことが起きちまうんだから」

「……怖くないの、にーちゃん? お化けかもしれないよ」

「そんなの、今さらって感じだよ。どってことないね。お前が本物のお化けだろうが妖怪だろうが、太陽系の隅っこにひっそり暮らしてる海王星人だろうがな」

「ふーん、そうなんだ」

 恭一郎は小さく微笑んだ。それはとても楽しそうなものでありながらも、すぐにでも壊れそうな儚さを含んでいる。

「こっちだって驚いたんだよ。なんでおれのこと、にーちゃんには見えるんだろうね? にーちゃんには特別な力があるのかな?」

「俺にも分かるかよ、んなもん。霊感っていうものが俺にあると思ったことないけどね」

 なぜ勇也だけが特別であるか? 本人にもさっぱり原因は分からない。分からないことではあるが、そんなことをいちいち問題にするつもりもない。

「声が届かない、っての、そのものだったんだな」

「うん。嘘じゃなかったでしょ?」

「不思議だったんだよ。お前みたいなのが、どうして自分で星乃ちゃんの力になってあげないのか? ってさ。全然納得いかなかった」

 それによる恭一郎の回答は『声が届かない』であった。

「星乃ちゃんはお前のことを見ることができない。だから文字通り、お前の声は星乃ちゃんに届けることができないってことだったんだな」

 今にして思うと、勇也が最初に恭一郎に声をかけたとき、恭一郎はやけに驚いていた。あれは恭一郎にとって驚異的なことだったのだろう。勇也からすればそこにいる恭一郎にただ声をかけただけなのに、恭一郎からすれば、これまでずっと自分のことを見える人間が皆無だったのに、それが現れたわけだから。

「それっていうのはさ、俺が今こうして見ているお前のその姿は、どういうことになるんだろうな? 体は下にあったから、お前の魂ってことになるのかな?」

「うーん……その辺はおれにもよく分からない」

 力なく、小さく首を振る恭一郎。その目を金網の向こう側に向け、再び真っ赤に染まる大海原を映している。

「にーちゃん知ってる? この星の命ってさ、全部あの海からきたんだってね。それが段々大きくなって、海から陸へ上がるのも出てきて、こうしておれたちがいるんだよね」

「…………」

「生きてるって、物凄いことなんだね。ただそうして一日を無事に過ごすだけで、それってのは、本当は物凄い確率の上で成り立ってることだったんだよ。そういうことに最近気がついたんだ」

 この星に水が存在しなければ、決して今日という日はなかった。海に生命が生まれなければ、決して今日という日はなかった。海から陸へ進出する者がいなかったから、決して今日という日はなかった。進化の過程が少しでも違う方向に向かっていったとしたら、決して今日という日はなかった。

 恭一郎がこの世に誕生したとき、やさしく産湯に浸けてくれる人がいなければ、今日の恭一郎という存在はなかった。

 それらはすべて、天文学的数字を経て得られた現在である。

「命っていうのは、とっても凄いものだったんだね」

「なぁ、お前……」

「あのね、にーちゃん」

 振り向いた。恭一郎は勇也の顔をとても静かな瞳で見つめて、ゆっくりと落ち着いた口調で語りかけていく。それは自分が現在置かれている状況を、小さな体でしっかりと受け止めた状態で。

「にーちゃんにお願いがあるんだ」

 しゃがんでいた恭一郎はすくっと立ち上がった。そうして足を前に踏み出していく。話しかけている人間に向かって近づいていく。

「七十五と二十五を足したらいくつになる? ちょうど百だね。そのこと、星乃に伝えてあげてほしいんだ」

 にっこり。

「来週の金曜日」

 来週の金曜日、五月十八日。

「その日にさ、星乃をここに連れてきてほしいんだ。お願いできないかな?」

 足を前に出す。

「おれね、どうやらもう出かけなくちゃいけなくなっちゃったみたいで」

 歩む。

「このままではいられないみたいでさ、おれ、ここから先は冒険をしないといけないらしいんだよ」

 その足は一切止まることはない。また一歩、恭一郎の足は勇也に近づいていく。

「だからね、その冒険をしっかりおえて、必ず戻ってくる」

 勇也の横に並んだ。

「絶対に帰ってくるから」

 さらにもう一歩。

「その日、星乃をここに連れてきてほしい」

 そうして恭一郎は勇也の横を通り抜けていった。

「お願いね」

「……おい!?」

 振り返る。これまで少しずつ近づいてくる恭一郎に対して、まるで金縛りにあったように体がまったく動かなかった。けれど、その呪縛から解放され、横を抜けていった恭一郎を追いかけるように振り返ってみたが、

「…………」

 勇也の目には、恭一郎の姿を捉えることはできない。ついさっき、自分のすぐ横を通っていったはずなのに、誰の姿もなかった。まるで空気中に溶けていったみたいに。

「…………」

 風が吹く。勇也の髪を乱暴に撫でていく。今日の風はとても強いもの。

 とても肌寒い夕闇だった。


       ※


 それは、相川星乃が初めて西岡恭一郎の病室を訪れた日のこと。

「…………」

 夕食後、星乃は二階の自分の部屋で、黙々と一枚の画用紙に向かった。

 勉強机と漫画が置かれている本棚と水色の布団カバーが少しずれてセットされたベッドとソフトボールのグローブと洋服ダンスに囲まれながら、中央に新聞紙を敷いて星乃は膝をついている。手にした筆で画用紙に絵の具を走らせた。

 学校の図工の授業、クラスで星乃だけが絵を完成できず、持ち帰りの宿題である。昨日までは全然手をつけられなかったが、今日は自然とそこに意識を向けられた。

 それは、そこにいる星乃が、昨日までとは違っていたからかもしれない。

「…………」

 絵は教室から見たグラウンドの光景。描きはじめたのは授業中だったので、そこには本来体育の授業を受ける児童の姿があるはずなのに、描かれた人間の姿はすべて空想のもの。絵には、小さな男の子が立っている。男の子は白黒のボールを空高く力いっぱい蹴り上げていた……それは、白に黒い線のあるスポーツウエアを着た男の子。

「…………」

 星乃は黙々と描いていた。夕食後からひたすら筆を画用紙に走らせていき、走らせていって走らせていって走らせていって走らせていって……午後九時を回ったとき、大きく長い息を吐き出すとともに、静かに筆を置く。

「…………」

 焦げ茶色のグラウンドにいる小さな男の子。とても元気よくサッカーボールを蹴り上げていた。とても楽しそうに。とても嬉しそうに。とても充実していて。とても華やかに。いつも星乃が見ていた男の子そのものである。

「…………」

 星乃の部屋は二階にあるため、パレットの清掃をするにはまず一階の洗面所にいかなければならない。けれど、ようやく絵を完成させられた安堵感からか、なかなかそうしようとする気が湧いてこなかった。絵を乾かすために勉強机に画用紙を広げ、そのまま暫くその絵を見つめている。頬杖をして、口元を小さく緩めながら。

 その目には、元気な男の子のみ。

「…………」

 扉の向こうから電話のベルが響いてきた。一階からである。壁にかけられた時計を見ると九時三十分を回っていた。

 なぜだかは分からない。分からないが、星乃は心に黒に染みが増えていくというか、どんどん落ち着かない気持ちになっていく。全身が妙に熱く、鼓動がどんどん強くなる。

 どっくんどっくんどっくんどっくん。

「…………」

 耳に誰かが階段を上がってくる音がした。

 星乃に予感があり、それはとても歓迎できないもの。それは予測や勘といったものでなく、いやなものであるということが星乃には分かっていた。できることなら、足音はこの部屋の前を通過してほしい。

 星乃は強く歯噛みして、力を入れて瞼をぎゅっと閉じる。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ。

 心臓の鼓動はとても激しいもの。このままでは壊れてしまうかもしれない。

 しかし、さらに心臓を乱すように、扉はノックされてしまった。

「…………」

「星乃、ちょっといいかしら」

「……あ、うん」

「あのね、星乃……今ね、電話があってね」

「…………」

「恭一郎君、亡くなったんだって……」

「…………」

 いつの間にか全身に込めていた力、それが一斉に抜けていく。張っていた風船から空気が抜けていくみたいに脱力し、星乃は天井を見上げる。

「…………」

 視界の正面に木目調があった。いつもベッドに横たわったときに見るもの。

「…………」

 開けられなかった扉の向こうから届けられた母親の言葉。それは絵の完成を待ってくれていたようなタイミングだった。

 描かれた男の子は、今も元気にボールを蹴り上げている。


 翌日に通夜があり、翌々日に葬儀が行われた。会場は恭一郎の家でなく、駅近くの葬儀会館。去年、星乃の祖母が亡くなったときもそこだった。

 葬儀は平日にもかかわらず、式には大勢の人間が参列していて、天道小学校からも多くの生徒と教員が参列している。もちろん星乃もその一人。

 恭一郎の親戚の子供がいた。今日は恭一郎とのお別れというとても悲しい日のはずなのに、その子は楽しそうに会場を走り回っている。そして、元気に声を出して笑っていた。元気にお菓子を食べ、はしゃぎ疲れて隅で眠っている。星乃にはどうにも理解できなかった。

 式は恙なくしめやかに行われ、いよいよ出棺のとき。

 葬儀場の前には霊柩車とバスが停車している。バスには親戚の人が次々に乗り込んでいき、そこには会場での姿もあった。

 星乃はバスに乗ることはない。道路で立ったまま、発車する霊柩車を見送ることしかできなかった。この会場にいる誰よりも恭一郎と一緒にいた時間が長かった自負があるのに、誰よりも恭一郎のことを知っている自負があるのに、誰よりも恭一郎のことを好きであるという自負があるのに、ここから先、一緒についていくことはできない。

 棺桶を乗せた霊柩車が一度クラクションを鳴らし、ゆっくりと動き出す。星乃の視界、黒に金色のある車体はどんどん小さくなっていき、一分もしないうちにその姿は見えなくなった。あの子供を乗せたバスの姿も。

 式のときからクラスのみんなは泣いていた。当たり前である、クラスの人気者が他界したのだ、泣かない方がおかしかった。

 けれど、星乃は瞳から涙が溢れることはなく、ただそこにいただけ。いや、もしかしたら泣けなかったのかもしれない。薄情な子供だから。

 泣くことすらできず。

「…………」

「ほら、星乃。帰るよ」

「……うん」

 そんなこと幼稚園に通っていたとき以来だった、星乃は母親と手をつないで帰路につく。しかし、その視線はちゃんと前を向いていた。決して下を向くことなく、しっかり前を見つめて歩いていたのである。足取りだってとても力強くしっかりとしたもの。クラスのみんなは泣き崩れる子までいたというのに、星乃はしっかり自我を保っていた。

「…………」

 手をつなぐ喪服を着た母親は、なんだかいつもより小さく見えた。それはもしかしたら、星乃が少し大きくなったのかもしれない。

「…………」

「恭一郎君、亡くなっちゃったね」

「…………」

「みんな泣いてたけど、星乃は泣かなかったね。えらかったと思うよ。もし星乃が泣いちゃったら、恭一郎君は心配して天国にいけなかったかもしれないから」

「…………」

「えらかったよ、星乃」

「…………」

 母親からかけられる声にも、星乃はただ前を向いていた。前を向いて歩いていく。そうすることが、今の星乃そのもののように。

 星乃は前を向く。

 前に向かって歩いていく。


       ※


 恭一郎の葬儀から一週間が経った。五月十八日、金曜日。教室の恭一郎の席にはまだ花が手向けられている。

 星乃はソフトボール部に所属していた。放課後はグラウンドで練習がある。しかし、春休みからずっと部活は休んでいた。とてもそんな気持ちになれなかったから。

 あの事故の日から、ずっと。

 放課後に当番の教室掃除をし、教室にいる誰にも声をかけることなく、一人で下校。まるで教室から音もなく消え去るようにして。

 学校の正門を後に、日本家屋がつづく見慣れた通学路を歩いていくと、一台の乗用車と擦れ違う。星乃は前にあるナンバープレートを目で追うと、二つある二桁の数字の合計が九十五であることが分かった。

 星乃は恭一郎と家が隣で、通学は一年生からずっと一緒。学校にいく間、対向車のナンバープレートを見て、合計する遊びをしていた。計算した数字が違っていて、よくもめることもあったが、だいたいは同じものになる。そんな時、たまたま合計が百になったものがあると、気分がよかった。『合計が百の車を見た日は、きっとラッキーなことがあるに違いない』それが二人の間でラッキーナンバーとなり、それからは合計が百になる車を見つけることが目的となっていた。その時の名残が、今も星乃には残っているようである。小さく口角が上がっていった。

 星乃はいつも通りに鱗川を越えて、いつも通り県道沿いを歩いて、家の近くの天神神社までやって来たとき、いつではないことが起きた。

「……ぁ」

 そこに白いシャツにチェックのズボンという制服を着た高校生がいたのである。そればかりか、その高校生が星乃に声をかけてきた。その人は最近知り合った人。駅前の病院入院している菴沢美沙杞の兄、勇也だった。

 唐突に『用がある』と言われ、星乃は小さく頷く。断ろうと思えば断ることもできたが、その時の星乃は申し出に頷くことを選んでいた。その理由、特に言語化できるものではない。

 星乃は家に荷物を置き、外で待っていてもらった勇也とともに駅前の病院へ向かう。春休みからずっとそこに通っていたが、先週の水曜日以降、一度も訪れていない。もう用がなくなってしまったから。

 恭一郎がいなくなってしまったから。

「…………」

 二人の間に会話はない。星乃はただ黙々と勇也の後ろをついていくのみ。勇也も黙々と前を歩いていった。駅前の病院ということで、最初は美沙杞の病室にいくのかと思っていたが、エレベーターで勇也は最上階の五階でなく、さらにその上の屋上のボタンを押している。

「…………」

 時刻は四時三十分。空はとても青かった。潮風は強く、後ろで縛った背中までの髪が大きく揺れていた。

「…………」

 屋上には誰もいなかった。てっきりここに美沙杞がいるのかと思ったが、その姿はない。

 ここまで星乃を案内した勇也は建物南側で腰を下ろす。仕方なく、星乃もそこに座った。

 屋上を囲んでいる金網越しではあるが、広大な太平洋はとても膨大な生命力に満ちているように見え、眩いばかりに輝いている。夏の足音が聞こえてきそうだった。

「……あの、美沙杞ちゃんは?」

 星乃と勇也の接点といえば、美沙杞しかない。

「元気ですか?」

「うん、元気にやってるよ。たまに熱が出るみたいだけどね。ああ、よかったら、帰りにでも顔見ていってあげて。美沙杞のやつ、喜ぶと思うから」

「はぁ……」

 どうやら目的は違うよう。理由もよく分からないまま、星乃は友達の兄と一緒に屋上で風に吹かれている。

「…………」

「…………」

「……あの日」

 呟く。別に沈黙に耐えられなかったわけではない。ただ海を見ていたら、星乃が言葉を口にしてみたくなった。

「きょー君」

 隣人には聞こえていると思う。しかし、口にしようとしていることは、できればあまり聞かれたくない内容。けれど、星乃は口を動かしていく。それを言霊としてこの世界に吐き出しておきたいから。

「事故だったんです。わたしの目の前で、事故に遭ったんです」

 恭一郎の死。

「わたしのせいで、きょー君は死んだんですよ」

 それは春休みのこと。

「それはつまり、わたしが、きょー君を、殺したんです」

 蘇る春の日のこと。


 それは、随分と桜の蕾は大きくなり、すぐでも開花しそうな、暖かな春の日のこと。

 夕方、星乃は部活の練習をおえ、途中まで一緒だった部活員と別れて、一人で歩いていた。この数分後に、取り返しのつかないことをしてしまうとも知らずに。

 その日は学校のグラウンドで練習試合があった。星乃は今年度に新五年生となり、ソフトボール部には六年生の先輩がいる。しかし、それでも星乃は七番センターでスタメン。試合で二本ヒットを打ち、顧問の先生にも褒められた。鼻歌が出るほど、気持ちがいい。

 鱗川に架かる橋を越え、東西に伸びる県道沿いを歩いていく。暫くすると家の近くにある神社が見えた。大きな木が多くの葉をつけ、その枝を空に向かって伸ばしている。

 前方には交差点。信号は赤色が灯っていた。が、直後に青に変わる。星乃は交差点の二十メートルほど手前だったので、走れば間に合うが、歩いていけば着いた頃に歩行者信号が点滅するだろうという際どいタイミング。

 ふと見てみると、自転車に乗った男の子の背中があった。その自転車は、青になったばかりの交差点に入っていくところ。

 白に黒線のあるスポーツウエア姿で、星乃は隣の家に住む恭一郎であることが分かった。

「きょー君!」

 星乃は部活での活躍でとてもいい気分。そのことを大好きな恭一郎にも聞いてほしかった。少しでも早く。

 星乃がかけた声に対して、交差点に入ったばかりの恭一郎は自転車のブレーキをかけ、上半身だけで後ろを振り返る。

 星乃はそんな恭一郎に元気に手を振ろうとしていた。満面の笑みを携えて。

 そんな矢先、大きな音ともに悲劇が巻き起こる。

 星乃の目の前、恭一郎の体が激しい衝撃によって吹き飛んでいった。信号の変わり目に突っ込んできた乗用車に追突されたのだ。激しい衝突音は、見ていた星乃の心臓を突き抜けていった。

 星乃はその場で立ち尽くす。立ち尽くして、交差点を見つめるのみ。そこに横たわるスポーツウエアを見つめるのみ。それ以外のことができなかった。

 路面に倒れる恭一郎は、一切動くことがない。いや、動くことができなかった。乗用車の衝突で、体を動かそうとすること自体を奪われていたから。

 星乃は駆け寄っていくこともできない。声を上げることもできない。救急車を呼ぶこともできない。できないできないできないできない。何もすることができない。できないままに、世界の異変を受け止められずにいた。

 事故現場。乗用車はどこかへ走り去っており、意識のない恭一郎の一番近くにいたのは星乃。しかし、星乃は何もできない。何もしてあげることが。

 呆然と、その目に地面に横たわる恭一郎の姿を映すことしか。


「わたし、何もできませんでした。きょー君が車に轢かれて倒れてたっていうのに、何もすることができなくて、ただそこにいるだけで……」

 病院の屋上、事故のときと同じ茜色が空を染め上げている。

「わたし、何も覚えてなくて……」

 轢き逃げ事件である。目撃者の星乃は何度も警察に質問された。けれど、いつも首を横に振るばかり。事件について、星乃はあれほど近くにいたのに、何も覚えていなかった。

 現在も、事件は未解決のまま。

「思うんです……わたしがあのとき、きょー君に声をかけなければ、あんなことにならなかったって……」

 星乃が声をかけてしまったばかりに、恭一郎の乗った自転車は交差点内で停車することとなり、車に轢かれた。

「わたしさえいなければ、きょー君、死ぬことなんてなかったのに」

 恭一郎が交差点内を直進していけばなんともならなかったのに。

「わたしが、きょー君を、殺したんです……」

 事故から一か月半後、入院先の病院で一度も意識を取り戻すことなく、恭一郎は他界した。

 死。

「わたしが殺したんですよ……」

 髪を大きく乱しながら、抱える膝に勢いよく顔を埋めていく。そうして星乃は、ここまで動かしていた口を閉じる。

「…………」

 星乃がどういった気持ちになろうとも、正面からは潮風が吹いてくる。それが今はなんだか寂しいものに感じられた。

「…………」

「あのさ、星乃ちゃん」

 勇也の声。相手から返答はないかもしれない。しかし、勇也は隣で大きな悲しみによって小さく体を丸めている星乃に話しかけていく。

「星乃ちゃんは、恭一郎のこと、好きだったの?」

「…………」

「恭一郎ってさ、星乃ちゃんといつも一緒だったんでしょ? もしかしたら、近くにいるから、そういう気持ちなんて考えたことなかったかな?」

「…………」

「あのね、星乃ちゃん。恭一郎は、星乃ちゃんのこと、好きだったんだよ」

「…………」

「大好きだったんだよ」

「……どうしてですか!?」

 顔を上げ、星乃は勢いよく顔を上げ、勇也のことを睨みつける。相手が年上だろうが関係ない。そこにはこれまでにない力を込めた。

「どうしたそんなこと言うんですか!?」

 伝えられた勇也の発言、星乃にとって信じられるものではない。

「この前引っ越してきたばかりなんですよね!?」

「そうだよ。こっちにきてまだ二週間しか経ってない」

「だったら、なんでそんないい加減なことが言えるんですか!? 言えるわけないじゃないですか!?」

 星乃は一度唇を強く噛みしめる。

「どうしてですか!? どうしてきょー君がわたしのこと好きだなんて言えるんですか!?」

 絶対に言えるはずがない。星乃にはそうとしか考えられなかった。勇也がやって来たのは今月の五日。に対して、恭一郎が入院したのは先月の二日。事故からずっと意識が戻らず、他界した。

「いい加減なこと言わないでください!」

「いい加減なことなんて言ってないよ。これは本当のことだよ。まっ、こうして星乃ちゃんにそう伝えていることを恭一郎が聞いたら、恥ずかしくて顔が真っ赤になるかもしれないけど」

「やめてくださいよ! どうしてそんなこと言えるんですか!?」

「そりゃ、聞いたからね。本人から。あいつ、えらい堂々としてたな」

「本人から聞いた、って……あの、馬鹿なこと言うのやめてくれませんか!? いくら美沙杞ちゃんのお兄さんだからって、わたしだって怒りますよ」

「怒れるだけの元気があれば、大丈夫だと思う。うん、星乃ちゃんは大丈夫だよ」

 勇也はにっこりと微笑み、ゆっくりと空を仰いだ。そこにある茜色を全身で浴びるようにして。

 そうして、空のある一点に焦点を合わせる。そこに見るべき対象があるように。

「けどね、星乃ちゃん。あいつが星乃ちゃんのこと好きなのは本当のこと。星乃ちゃんがあいつのことを好きなように」

「…………」

「ほら」

「…………」

「星乃ちゃん、あそこ」

「……っ!?」

 星乃はもう相手にしないと決めた。からかわれている。しかも、内容が亡くなった恭一郎に関すること。そんなの不謹慎だし、とても我慢できるものでない。

 だがしかし、星乃はこの場にいるのが耐えられずに立ち去るわけでなく、言われた通りに顔を上げた。示されている上空を見つめる。

 そうして焦点が合った瞬間、目を大きく見開かせることに。

「……きょー、君?」

 茜色に、その姿はあった。

「ぁ──」

 次の瞬間、星乃の意識は、抗うことのできない強力な力によって吸い取られるように消えていった。


 真っ暗な空間。絵の具の黒色よりも黒く、夜の闇よりも暗い場所。

「……っ……」

 星乃が瞼を上げたとき、あらゆるすべてが闇に覆われた空間にいた。病院の屋上で見た茜色など、どこにも存在しない。あるのは闇。前も後ろも右も左も上も下も、すべて闇。

「…………」

 しかし、闇以外に唯一別の色が存在した。白色。淡い小さな白色が、闇に打ち勝つように存在していた。

「……きょー君」

 間違いない。白い光だと思ったのは、恭一郎だった。星乃は恭一郎を認識し、地面もない空間だというのに、足を動かして駆け寄っていく。

「きょー君、どうしたの?」

「よっ。久し振りだな」

 布団カバーのような大きな真っ白なものにくるまれた状態で、恭一郎は立っていた。白い歯を出した笑みを浮かべながら。

「まったくさ、にーちゃんも余計なこと言うよね。内緒にしてくれればいいものを。男の子の純情な心をいったいなんだと思ってるんだ」

「どうして……? どうしてきょー君がいるの?」

「んっ? ああ、頑張ったから」

 当然のことを当然のことのように言い放つ恭一郎。

「大変だったんだぞ。もう何回諦めそうになったか分からないよ。いやー、思い返すだけで大変だった。けどさ、なんとか乗り越えることができたみたいだな。こうしてお前にもう一回会うことができたから」

 今日までずっと恭一郎は旅に出ていた。それは試練と呼ぶもの。『もう一度星乃に会いたい』その願いを叶える一心で、とても遠くてとても険しい旅に出ていた。降りかかるいくつもの困難を乗り越え、絶望の地に屈することなくしっかりと踏みしめていき、幾度となく挫けそうとなる気持ちに鼓舞しつつ、ついに旅の目的を果たす。願いを叶えることができるようになったのである。

 だからこそ、恭一郎はここにいる。ここでこうして星乃の前に立てている。

「といっても、時間はあんまりないんだけどね。あんなに大変な目に遭ってさ、時間がちょっとしかないって、ちょっとやり切れないよ」

「きょー君?」

「とにかくだ」

 こほんっと咳払い。

「頑張れよ」

「っ……?」

「お前のこと、これからもずっと応援してるから……だから、頑張れよ」

「あの、きょー君?」

「お前がいつまでもしてたんじゃ、こっちは心配でゆっくりできないだろ」

「あ……ごめん」

「だからさ! そうやってすぐ下向くなよ」

「……うん」

 言われてみて、俯きたくなる思いを寸前のところで堪えることができた。星乃は自分の中心に力を入れて、恭一郎のことを見つめる。

「きょー君、わたしね……あの日、わたしが声かけたから……」

「あ、そうそう。誕生日おめでとう」

 本日五月十八日は、星乃の十一回目の誕生日である。

「またお前の方が年上になっちまったな。八月には追いつく予定だったんだけど、もう無理みたいだ。これからずっとお前はおれよりおねえさんなんだよ。ずっとずっと」

「やだ……そんな、いや。いやだいやだ。ずっときょー君と一緒にいる。わたし、きょー君と一緒にいるから」

「おねえさんなんだから、そんなわがまま言わないの。でもって、おねえさんなんだから、これ以上おれに心配かけないこと。約束してくれないか?」

「…………」

「星乃」

「…………」

 星乃は見つめる。目の前にある恭一郎の顔を。いつも見てきた恭一郎の顔。ずっと大好きだった恭一郎の顔。

 そうして星乃は、力強く頷いた。そこに断固たる決意を込めて。

「うん、約束する。わたし、ちゃんとするからね」

「うん」

「わたし、大丈夫。大丈夫だからね。きょー君がいなくたって、ちゃんと生きていけるから」

「うん」

「でもでも、きょー君のこと、忘れない。絶対忘れないよ。ずっとずっと覚えてる。だって、好きだから。大好きだから。絶対絶対忘れない。忘れたりしない。約束する。ずっとずっと覚えてる」

 将来、恭一郎以外に好きな人ができても、星乃にとって恭一郎は一生大好きな人だから。

 特別な人だから。

「約束する」

「よし」

 しっかりと見つめ返してくる相手に満足そうに頷き、恭一郎は自身をくるんでいた大きな白色のものを大きく靡かせていった。

「じゃあ、元気でな」

「あ、きょー君……?」

 不意に星乃の意識が薄らいできた。視界が霞み、急激な睡魔に襲われるかのように全身から力が抜けていく。

「きょー……」

 糸のように狭くなる視界。星乃は残された力を振り絞り、そこにいる真っ白な存在に星乃は体ごとぶつかっていく。

 両腕を伸ばして、その体に力いっぱい抱きついていく。

「きょー君、大好きだよ──」

 そうして星乃の意識は白濁していった。

 その心に温かなものを抱きながら。

 その体に大好きな人を感じながら。

 星乃は幸福の笑みを浮かべる。


 風が吹いている。目を閉じていても、感覚として自身の髪が小さく揺れているのが分かった。

 ゆっくりと、星乃の意識が覚醒する。

「……あれ?」

 瞼を上げたそこは病院の屋上。ついさっきまで真っ暗な空間に身を置いていたのに、気がつけば星乃は病院の屋上にいた。隣には勇也の姿がある。

 けれど、今まで一緒だった恭一郎の姿はどこにもなかった。どこを見てみても恭一郎の姿がない。

「……きょー君?」

「あっち」

 勇也は真っ赤に染まる太平洋を指差す。

「これはとっても神秘的なことでさ……って、実はあんまり俺にもよく分からないことなんだけど、海ってのはすべての命の源なんだって。海の水が蒸発して、雨になって山に降って、それが川を流れて海につく。多分そんな感じなのかな? あいつ、海に飛んでったよ。もう見えなくなった」

「きょー君!」

 がしゃがしゃっ。音が弾ける。

 星乃は金網を握った。広大な海を眼前に、向かってくる潮風を全身に受けて、不思議と瞳からは溢れるものがある。

「わたし!」

 溢れるものをそのままに、星乃は全身を使って吐き出していく。

「頑張るからねぇ!」

 向かい風が吹いてくる。負けないように力を入れて、叫ぶ。

「きょー君の分までぇ! 頑張るからぁ!」

 強さを増した潮風は、星乃の頬に流れる涙を撫でていった。

「きょー君に負けないぐらいぃ! 頑張ってみせるからねえええええええええええぇぇぇぇぇーっ!」

 女の子の叫び声は、どこまでも響いていく。

 遠い遠い、海の向こう側まで。

 どこまでも、ずっと。

 空は、茜色から暗闇へと変色しつつある。すでにそこには一番星が見えた。


 その後、星乃は勇也とともに警察に向かうこととなる。

 警察署に向かう道中、『芝居をしてくれ』と頼まれた。うまくできる自信はなかったが、そうすべきだと思い、頷いた。

 教えられたのは二つの二桁の数字。それを合計すると、ちょうど百になるもの。

 それは、ちっともラッキーなものではなかった。

 星乃は、その二つの数字を警察の人間に伝える。思い出したものとして。


 二日後、轢き逃げ犯が捕まったという知らせを受ける。

 けれど、そんなこと、星乃にはちっとも嬉しいことではなかった。

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