みさきのこえ

@miumiumiumiu

第1話


 海と空の青さ



       ※


 五月六日、日曜日。

 潮風。それが常に鼻につき、なんとも気持ちよく胸を叩く。見上げると、真っ青な空がどこまでも広がっていた。白い雲は綿飴のようにほんわかほんわかっ浮かんでいて、快晴である。頭の先から足先まで、全身が一気に染まってしまいそうなほど、世界を覆う青色はあまりに広大なものだった。

「…………」

 菴沢いおりざわゆう。高校二年生。動きやすい白シャツにジーンズ姿で、海外沿いにある堤防を西方に向かって歩いている。目指しているのは前方に見えるりゅうとう岬。この海に面したりゅう天神てんじん町において、そこは太平洋に少し出っ張った岬。そして、上には灯台があった。遠目ではあるが、とても小さくてとしたものである。

 午前十一時、太陽は高い位置にあった。一週間前のゴールデンウイーク序盤から猛烈に暑い日がつづいたが、今日の日差しはとても柔らかくて気持ちのいいもので、吹いてくる風を心地よく受け止められている。その耳には、常に押し寄せてくる波の音。それは勇也にとって、不思議と懐かしさを覚える心地いいものなのだった。

「…………」

 進行方向に対して、左側には前方の竜頭岬までつづいている堤防がある。道路からの高さは百五十センチほどで、勇也の身長は百七十五センチあり、そちらに顔を向ければ、水平線を確認することができた。目の錯覚によって水平線が微かに丸く見え、そこからいくつもの波が白い帯となってこちらへやって来る。水面はきらきらっと輝いていた。

「…………」

 右側には電車のレールが前後に伸びている。たった今、赤色の電車と擦れ違ったところ。後ろの方から踏切の警告音が響いてきた。近くに駅があるのである。昨日、勇也もその電車に乗ってこの地にやって来た。この町に、大きな希望を得るために。

「…………」

 歩く歩く歩く歩く。今はただ前方にある灯台目指して歩いていく……そうして十分後、堤防とレールに挟まれた道を真っ直ぐ歩いていた勇也は、とても巨大な壁にぶち当たった。それは断じて比喩でなく、勇也の前には行く手を塞ぐかのように大きな崖が現れたのである。

(高いなー……)

 見上げてみると、その高さは駅前にある五階建て病院と同じぐらいに思えた。目指していた竜頭岬が、こうして勇也の前に巨大な壁として立ち塞がったのである。茶色い岩肌の崖には斜めに生える木を何本か見ることができた。そんな場所に粘っこくというか、地に足が着いているのか着いていないのか、極めて際どい場所に根を這っている植物の生命力を痛感させられる。

(さてと)

 勇也がここまで歩いてきた道は、この目の前の岬を大きく迂回するように伸びている。それは並行していた電車のレールも同じ。

(向こうかな?)

 岬は海に十メートルほど出っ張っている。こうして見上げている通り、勇也がいる岬の東側は絶壁と呼ぶにふさわしい崖で、ここから上がっていくなど不可能。けど、上には灯台がある。推測すると、迂回するようにつづく道をぐるーっと歩いていけば、きっと上にいくための階段か坂道があるはずである。でなければ、どうやったって灯台には辿り着くことができないから。

(よし、向こうだ)

 ずっと見上げていた巨大な崖。その上にある灯台を目指すべく、止めていた足を踏み出そうとして……意識以前のとても俊敏な感覚がその一歩を中断させた。

「……っ」

「わっ」

「とっとっとっ」

 間一髪、といったところ。急に視界に飛び込んできたものにぶつかりはしたが、勇也が反射的に歩の勢いを弱めていたため、ダメージは皆無。それにしても……目指していた岬は断崖絶壁の崖で、ここまでつづいていた堤防が切れた場所。そんな堤防と崖の間には人がどうにか通ることのできる狭い隙間があり、そこから人が飛び出してきて、勇也は左肩をぶつけたのだ。相手は海側からやって来たので、とても予測などできないこと。一歩後退りするだけで済んだだけでもよかったと思うべきだろう。

「あの」

 勇也にはまったくもって被害ないが、誰かとぶつかったことには変わらない。慌てて相手の方に顔を向けた。相手に怪我をさせていたら大変である。

「大丈夫ですか?」

 堤防から突然出てきた人物は、どうやらぶつかった拍子に勢いよく後ろに下がったようで、堤防の角に背中を打ちつけていた。しゃがみ込んで下を向きながら、痛そうに背中と腰の辺りを押さえている。両手で。

 勇也はその場でしゃがみ込み、声をかけた。

「あの、怪我しませんでしたか?」

「痛たたたたっ……あ、ああ、大丈夫だよ。大丈夫だけど、これはかなり痛くはあるんだよ」

 少し顔を歪め、それでも立ち上がろうとする少女。その目を少しだけ潤ませた状態で、まずは上体を起こしていく。

 少女は着ている白いシャツの胸に青いリボンをつけ、茶色と白のチェックのスカート姿。それは通っている学校の制服。肩からは青いスポーツバッグを斜めにかけていた。

「あー、びっくりしたんだよ。ひょんな場所でいきなりぶつかったから、ほんとにほんとにびっくりしたんだよ。あー、痛かったんだよ」

「大丈夫そうで、よかったです……けど、ぶつかったってよりは、ちょっと触れた程度でしたけどね」

 少し触れた程度と思えるほど、勇也にとって衝撃は小さかった。威力の差は、二人の体格差が影響しているのかもしれない。

「それにしても……」

『それにしても、驚き方が大げさっていうのか、物凄い勢いで下がったから、そんなに強く背中を打ちつけたんでしょうね』という言葉は、勇也の口元までに留めておく。災いの種をわざわざ植えつけるつもりはない。どういったことも平和が一番である。

「どうやら怪我はないみたいですね。よかったです。あー、よかった」

「痛かったから、よくはないんだよ。けど、平気だから、大丈夫ではあるんだよ」

 まだ五月上旬なのに、早くも半袖の制服に身を包んだ少女は、吹いてくる風に肩まである髪の毛を小さく揺らした。瞳はぱっちりと大きく、その目で相手を見ようとすると、身長差のために首を上げることとなる。

「この辺の人じゃないのかな?」

「ええ、まあ……はい」

 ようやく瞳が潤まなくなった少女の指摘通り、勇也はこの竜天神町の人間ではない。この町には昨日やって来たばかりなのだ。

「俺、だいからやって来たんです」

「そんな人が、ここに用があるのかな?」

「えーと、そこ、見てみたくて」

 勇也は、巨大な壁のごとく存在する崖の上を指差す。この位置からは見えないが、その延長線上に白色の灯台があるのだ。

「なんとなく、ですけど。暇ですし」

「だったら、あたしが案内してあげるんだよ。これは、お礼ってことになるんだよ」

 少女にとってさきほどの件は、ぎりぎりぶつかっていないこととして処理されていた。自身の研ぎ澄まされた反射神経により、ちゃんと躱したものと思い込んでいるから。

「あっちだよ」

「あ、いえ、そんなことは」

「まだ部活までは時間があるから、少しぐらい平気なんだよ」

「そうですか……」

 自分の都合だけを言い放って、すでに歩きはじめている少女のとても小さな背中に、勇也は苦笑いを浮かべた。

 これといって断る理由は思いつかない。息を吐き出して、その背中についていくことに。

(にしても)

 勇也はまだ歩きだしてはいない。その顔は、さきほど少女が飛び出してきた堤防と崖の間に向けられている。

 もちろん堤防の向こう側は海で、視界の半分は岬の崖であって、それら以外には大きなテトラポットしか見当たらない。だというのに、少女はそこから飛び出してきた。勢いよく海の方から。

 謎である。

(まっ、いいか)

 なんとなく気になることではあったが、そう思うことは普段生活しているときにも結構ある。そういった場合、だいたいのことは『まっ、いいか』で処理できることだと、先月に十七歳となった人生で学んでいた。

(……って、いなくなってるし)

 ちょっとだけ目を離したつもりだったが、少女の姿が忽然と消えていた。向から案内すると言っておきながら。

 苦笑。案内がなくても困ることはないが。

「…………」

「おーい、こっちなんだよー。早くくるんだよー」

「ああ」

 岬の陸側は、大きな円を描くように曲がっている。そのせいで先にいっていた少女の姿を見ることができなかった。だが今は、カーブしているぎりぎりのところで少女が顔を出して手を振っている。

 勇也はそちらに右腕を上げて合図を送り、断崖絶壁の竜頭岬を大きく迂回していく。

「あの、それって、学校の制服なんだよね?」

「これなのかな? うん、そうなんだよ」

「中学校?」

「なぁ!?」

 少女の口は『あ』の形で止まり、表情は瞬間冷凍されたみたいに凍りついている。と思ったら、二秒という僅かな時間において、今度は河豚や蛙のように大きく頬を膨らませていった。

「立派な高校二年生なんだよ」

「高校生!? それも二年んん!?」

 見開かれる勇也の瞳。口から発したものは、思い切り裏返った素っ頓狂な声に。驚きである。これはもう勇也には驚きでしかない。驚愕といっても過言でないほど。

 眉の間に皺を寄せて、いかにも不機嫌そうに隣を歩く少女は、百七十五センチの勇也の肩ぐらいに頭がある、とても小さな背。顔立ちも幼く、てっきり年下だとばかり思っていたが、見立てが大きく違っていようとは……これはもう破天荒なまでの驚異的なことでしかない。

「あ、そう……高二なんだ。へー。高二なんだ。へー」

「……とても信じられないものを目の当たりにしている、みたいな目をするのはやめてほしいんだよ」

「いや、ほんとに驚いたよ」

「あたし、珍獣じゃないんだよ」

「うん、驚いた」

 勇也がどれだけ驚いていたかというと、あまりの驚きに、思わず足を止めて思考が正常に働かなくなったほど驚いた。その拍子に、思わず敬語がなくなるぐらい。

 そんな勇也に対して、相手は気分が害したのか、勇也を置いてどんどん先にいってしまう。自分が案内するといっておいて、振り返ることすらなく。

 である以上、いつまでも勇也は立ち止まっているわけにはいかない。不機嫌な少女の後ろ姿を目に、十秒間だけ強く地面を蹴って、その小さな背中に追いついた。

「お前、歩くの速いのな」

「…………」

「そんな……」

 もちろんそうやって言いかけた言葉をつづけるわけにはいかない。『そんなに小さいのに、なんで速いんだよ?』なんて言ったら、目を血走らせて発狂され、下手をすると首を絞められるかもしれない。いや、もしかしたら、怒りを通り越して泣きだすかも。

 どちらにしても、いいことは起きないだろう。勇也はこれ以上口を禍のかどにするつもりはなかった。

「…………」

「……ほら、着いたんだよ」

 立ち止まった少女が手で示す方向に階段がある。二人が横に並んでいっぱいの狭い石段。それが急勾配で崖の上までつづいていた。

「向こうの方には車が通れる道があるんだけどね、こっちが近道なんだよ」

「ああ……」

 階段を見上げる。ざっと数えてみて、二百段はあった。勇也が最初この崖を見て『へー、結構高いなー。駅前にある五階建ての病院と同じぐらいかもなー』と抱いた印象は伊達ではない。

 ここは岬の北側のため、陰となって太陽光が届くことはなく、とても涼しく感じられた。しかし、これからしなければならないことが眼前に提示されている以上、気温の心地よさを呑気に感じている優雅さは持ちえていない。

 二百段以上の石段。思わずエレベーターの場所を問いかけたくなるが、もちろんそんなものはないだろう。

 憂鬱。

「…………」

「ほら、いくんだよ」

「…………」

「ほらほら、出発するんだよ」

「……ついてくるの?」

 てっきり案内はここまでだと思っていた。身長のことを言って気まずくなった空気もあったし、どうせなら丁重に断りたい気分。そうすれば、階段のことだってなかったことにできるから。

「ありがと。あの、ここまででいいといえばいいんだけど」

「『乗りかかった船』っていう言葉が日本にはあるんだよ」

「……俺も日本人の端くれですから、存じておりますとも」

 髪を揺らしながら腕を大きく振って元気に階段を上がっていく少女の背中があるなら、引き返すなんてことできるはずがない。

 そうして勇也は、二百段以上ある急勾配な階段に足を踏み入れていき、一段ずつ上がっていって上がっていって上がっていって上がっていって、

「はぁはぁはぁはぁ!」

 約三分後……途中で一回も休憩することなく、頂上に到着。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 したくもないのに、勇也の肩が大きく上下してしまう。額には凄まじい汗。鼓動の大きさは、今にも心臓が口から飛び出しそうだった。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 乱れた息はちょっとやそっとでは整ってくれない。勇也は去年まで野球をやっていたが、『ちょっとさぼっている間にこんなに体調が低下するものなのか!?』と、いつの間にか自堕落になっていた肉体をまざまざと突きつけられて、大いに失望することとなる。

『こんなんじゃ駄目だよ。よし、明日から朝早く起きてジョギングした方がいい』そう胸に誓うも、きっと寝る頃にはこの思いを忘れているに違いなかった。

「はぁはぁはぁはぁ!」

「……大丈夫なのかな?」

「はぁはぁはぁはぁ!」

「これぐらいの階段で、ちょっとだらしないんだよ」

「はぁはぁはぁはぁ」

「ちょっと情けないんだよ」

「はぁはぁはぁはぁ」

「ちょっと頼りないんだよ」

「はぁはぁはぁはぁ」

「ちょっと生きてる価値ないんだよ」

「はぁはぁ……はぁはぁ……」

 好き放題言われている間に、ようやく荒かった息が整いつつある。膝に手をつけ、中腰になって下を見るばかりだった視線を上げ、勇也は少女の姿を目に。

 そしてその少女越しに、向こう側の世界を目の当たりにすることとなる。

「おおぉ!」

 感嘆。

 竜頭岬の上には緑色が溢れていた。岩肌のごつごつした崖の上とは思えないほど、目に眩いばかりの緑色の芝がきれいに生え揃っている。

 そんな緑色の中心に、途中に出っ張りのあるヤクルトの容器みたいな建物がある。目指していた灯台だった。芝の緑色とその奥の青色の世界に、どこかから切り取ってここに貼りつけたんではないかと思えるほどの白色の外観をしていて、岬の上という常に強風に晒されているためか、所々ペンキが剥げかけているが、それはこうして近くで見てみないと分からない。高さは二階住居ぐらいで、もちろん今は太陽が一番高い位置にあるので明かりは点けられていないが、夜になればそこから発せられる光が、多くの航海を安全に導くことだろう。

 けれど、勇也が目を見張ったのは、さらにその向こう側。

「凄いな……」

 灯台越しに見えるのは、勇也がこれまでに見たことのない広大な太平洋。

 前方に人工物は一切なく、陸地すらも見当たらない。あるのは真っ青な海。そんな海が水平線の向こうまで、どこまでも広がっていた。そして水平線を境界にして、広大な空が見渡す限り広がっているのである。

「…………」

 勇也は、目の前に広がる広大な海と大きな空に引っ張られるようにして、駆けだした。崖のぎりぎりの場所には安全を考慮した柵が設けられている。勇也はそこに手をかけ、身を乗り出すようにして、眼前に広がる大きな青色を目に。

「…………」

 言葉はない。眼前の光景に出せる言葉など一つも。勇也はただただその光景を目に焼きつけていく。

 とんでもない宝物でも見つけたみたいに瞳をきらきらっと輝きだした勇也。そんな勇也の耳にかかる髪が揺れ、着ている白シャツはばさばさっと音を立てた。正面から受ける強い風。けれど、それがなんとも気持ちいい。熱せられた体を一気に冷却していってくれた。

 ふと視線を下げてみると、この岬のすぐ下は岩場で、いくつもの大きな岩がごろごろっ転がっている。そこでは、押し寄せてくる波がぶつかって、多くの白い泡を作り上げていた。あそこから糸を垂らせば結構な大物がかかりそうである。

(……っ?)

 頭に引っかかるものが……目にしている岩場の光景、まるで映画に出てきそうなきれいな風景。その場所に、勇也の頭には引っかかるものがあったのである。それがいったいどういったものか、よく分からない。何かが気になっていることは間違いないのだが、うまく形になってくれない。ただ、岩場で弾ける波の姿が、心の深い部分を小さく刺激しているような気がする。

(…………)

 意識して瞬きをする。すると、もう引っかかりは消えていた。消えたというよりは、ぼんやりと浮かんだものを見失っただけかもしれない。眼前にあるのは、すぐ下にある岩場で、押し寄せる波によって大量の白色が弾けている光景のみ。

「…………」

「どうしたのかな? 海がそんなに珍しいのかな?」

「……あ、いや」

 後ろからかけられた声に首を振る。少し頭の隅の方が痛む気がするが、顔を歪めるほどではない。

「海がどうした、じゃなくて……あ、確かにあんまり海は見ないけど」

「もしかして、田舎者なのかな?」

「……田舎者じゃないから、海が珍しいんだけどね」

 近くにベンチが設置されていた。灯台と同じ白色のベンチ。休憩がてら腰かけてみる。座った瞬間にはもうさきほどの引っかかりや頭痛は、吹き飛んでいた。

「いい眺めだねー」

 やはり目の前には雄大な大海原が広がっている。吹いてきて頬を撫でていく風に、思わず目を細める。遠くの海からこの地に押し寄せてくる波の音は、心地よいリズムを勇也に与えてくれた。

 この場所にいると、まるで勇也自身がこの大自然の一部に溶け込んでいくみたいに。

「いいな、ここ」

「羨ましいのかな?」

「……なぜそうも自慢するように? 別にお前の場所じゃないだろうが」

「それはそうなんだよ……けど、地元民として自慢しても罰は当たらないんだよ」

 少女はどこか誇らしげに胸を張っている。そのまま断ることもなく、勇也の隣に腰かけた。

「まあ、あたしもここには久し振りにきたんだよ」

「……あのさ」

 ここまでは長い階段を上がってくるのが物凄く大変で、上がった先に広がっていた絶景に胸を打たれるものが非常に強く、なかなか気づけなかった。しかし、こうしてベンチに腰を落ち着かせたところで、ふとした疑問が。それはこれからの自分と深く関係する確率の非常に高いものであると推測され、是非ともいておきたいこと。

「お前さ、高校生って言ってたよね?」

「わっ。な、なんでそこで半笑いなのかな!? これでもれっきとした高校二年生なんだよ。それを疑うっていうのなら、生徒手帳を出すことだって厭わないんだよ」

「自分で『これでも』って言ってるところが、とんでもなく怪しいな。まあ、アルバイトするわけじゃないんだから、俺相手に年齢詐称してもいいことはないだろうけどさ」

「まったくもう、どう見たってちっとも怪しくないんだよ」

「……是非とも生徒手帳を見せてもらいたいもんだけど、まっ、そんなのどうでもいいや。どってことないし」

「軽く流されちゃってる気がするんだけど、あたしは疑われたままで、気分がよくないんだよ」

 きっと目を吊り上げた少女。声に力が入っている。

「全然まったくこれっぽっちもよくなんだよ。どこからどう見ても、あたしは正真正銘、立派な高校生なんだよ……って、立派かはともかくなんだよ」

「もしかして、ぶき高校?」

「あい?」

 小さく首を傾げる少女。

「そ、そうなんだよ。ってより、この辺には祇吹しかないから、そんなの当たって当然なんだよ。そんなことで読心術を会得したと思わないでほしいんだよ。その満足感、勘違いでしかないんだからね、いい気にならないでほしいんだよ」

「ちっともいい気になんてなってないけどさ……そうか、祇吹なんだね。ふーん。そうか。そうなのかー」

 目の前にいる少女、この竜天神町にある祇吹高等学校の二年生。ということは、勇也がこの町にやって来て初めて会った同級生ということになる。

 一人目が、これまた随分と灰汁あくの強いというのか、個性の強い者に当たってしまったと、苦笑した。

「じゃあ、明日からお世話になるから、よろしくな」

「あい?」

 きょとん。瞬き五回目に、少女が小さく首を傾ける。言われたことがさっぱり理解できない。けれど、ある程度であれば推察できた。

「も、もしかして転校生なのかな? でも、今五月なんだよ。こんな時期に転校生だっていうのかな?」

「まあ、確かに半端な時期といえば半端な時期だわな」

 今日は五月六日。ゴールデンウイーク最終日。

「ちょっと事情があってね」

「分かったんだよ。その辺の事情、よければお姉さんが相談に乗ってあげるんだよ。経験豊富なこのお姉さんがなんだよ」

「……同い年だけどね。家庭の事情だから、相談する気もないし」

 勇也も現在、高校二年生。それこそ見た目通り。

 これまではここから車で二時間のところにあるだい市の高校に通っていたが、明日からはこの竜天神町にある祇吹高等学校に通うこととなる。引っ越してきたのはつい昨日のこと。

「考えてみるとさ、なんかおれたちって、漫画みたいだよな。転校する前に、これから通う学校の同級生と先に知り合っちゃうなんて。あー、おかしー」

「はははっ。そうかもなんだよ。だとすると、いい子に巡り合えたんだよ。とっても自慢できることなんだよ」

「いや、それはどうかと思うけど……」

「あい? あれれ、照れちゃってるのかな? 物凄くラッキーだったんだよ。こんな幸運、人生でもう二度とないんだよ」

 少女は愉快そうに笑う。とてもとても楽しそうに。そんな少女の肩までの髪は、吹いてくる風に流れていく。ここは常に風の強い場所だった。

 少女は乱れる髪を押さえる。瞬間、腕を上げたら袖が視界に入り、今自分が着ているのが、祇吹高等学校の制服であることを思い出した。

「あーっ! すっかり忘れてたんだよ!」

 と突然、ベンチから飛び跳ねる少女。この世の終わりを告げられたかのような、腹の底からの絶叫だった。

「あたし、これから部活だったんだよ。いけないいけない、こんなところでのんびりしてる場合じゃなかったんだよ」

 本当に時間がないようで、急がなければならないことを表すみたいに、その場で股を大きく上げながら足踏み。

「じゃ、じゃあね、また明日なんだよ」

「おう」

「あー、早くしないと遅刻しちゃうんだよ。怒られちゃうんだよー。外周十周は勘弁してほしいんだよ」

 と勢いよく駆けだして、少女は一歩、二歩、三歩、四歩の次の五歩目で止まった。ぴたりと。素早く後ろを振り返る。

「あたし、じょううらなつなんだよ」

「そうか。じゃあな、部活頑張れよ」

「うん、頑張るんだよ。今から急いで絶対間に合わせてみせるんだよ……って、いや、そこはそっちも名乗るところなんだよ」

「パス」

「……ちょっとだけだから。そんなことを億劫に感じないでもらいたいんだよ。ほら、もう時間ないんだよ」

「メリットは?」

「それはねー、うーんと、うーんとね……転校先の学校に通っているあたしにばっちし名前を覚えてもらえることと、明日一緒のクラスになったときに、みんなに紹介してあげられるんだよ」

「残念。まだ一緒のクラスになれる保証はない。俺だってどのクラスになるのか知らないんだから」

「そんなの心配いらないんだよ。二つしかクラスないんだよ」

 祇吹高等学校の二年生のクラスは二年一組と二組しかなく、同じクラスなる確率は二分の一。五十パーセント。運がよければ同じクラスになるだろうし、そうでなければそうはならない。

「絶対なれるんだよ。だって、あたしはそんな感じがしてるんだよ。なら、絶対大丈夫。明日からクラスメートなんだよ」

「これが本当に漫画だったら、そうなるんだろうな。ああ、俺もそうなることを期待してるよ」

「うん、大いに期待してるといいんだよ」

 そう言って小さく手を上げて、駆けだそうとする少女。もちろん二歩進んだところで足を止め、空気を切り裂くように高速で振り返る。

「まったく、ほんとのほんとに時間ないんだからね、あんまり手間かけさせないでほしいんだよ」

「あー、悪い悪い」

 こほんっと咳払い。勇也はしっかり相手に聞き取れるよう、意識してはっきりとした口調で名前を口にした。

いおりざわゆう

「ふーん……」

 少女は自身の中でその名前を繰り返して、少しだけ虚空を見つめ、腕を上げた。

「……名字は変だけど、名前は普通なんだよー」

「…………」

 大きく緩めた頬で手を大きく振って、それしか取り柄がないかのようにとても元気に走っていった少女の後ろ姿に、勇也はなんともやる瀬なくてやり切れない思いがその胸に燻ることになる。

「……お前も変だろ、名字」

 その日勇也が知り合ったのは、城之浦夏希。明日から同じ高校に通う、背の低くてとても元気な少女であった。

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