第三章 4.
何か言い返そうと口を開きかけ、そして結局、口を噤んだ。ベッドの脇から立ち上がり温めていたスープを皿に装って、戻ってくる。
ティセが体を起こすのに手を貸してから、彼女の口元にスープを運んでやる。
「いただきます……」
ティセはそう言ったきり、ゆっくりと食事をする以外なにも喋らなかった。当然、トウヤも一言も口を利かず、ただ機械的に、ティセの唇へ匙を運ぶばかりだ。
「ごちそうさま。もういいです、ありがとうございます」
目を醒ましたとは言え病み上がりのティセは、普段の三分の一ほどしか食べなかった。トウヤは皿をテーブルに置いてから、ティセが横になるのを手伝う。
「ゆっくり休むといいよ。熱も下がったし、食事ができたんだから、大丈夫だ」
「……トウヤさん」
「なんだい?」
「眠るまで、何かお話をしてください」
そう言うティセは、しかし恥ずかしそうな様子だった。トウヤが怪訝な顔で彼女を見返すと、彼女は少し慌てたように付け加える。
「今日だけで、いいんです。なんだか今日は、心細くて……」
「……でも僕は、君に語れるような立派な物語を、何も持っていないんだ」
「じゃあ、トウヤさんのことを話して下さい。聞きたいです」
そうか、と思う。物語を持たない、と言ったものの、それは洗練された物語のことを指すだけだった。
人間が生きている以上、そこには必ず何らかのツイストを孕み、それは時として物語として差し支えないものになるのだ。人間は、一生に一度なら、誰か一人を感動させるだけの物語を描けるという。それは確かに自己満足的な感動かも知れないが、人生とはそういうもので、人生とはすなわち傑作であるべきなのだ。
迷う。語るべきか、語らざるべきか。迷っているうちに、言葉が、物語が、口を突いて飛び出していた。
●
僕と彼女は、窓越しに出会った。彼女はベッドの脇の窓から街を見下ろし、僕は街の中から窓を見上げていた。
始めは同情だったのだろう。自分と同じ年齢でありながら、その体を死に蝕まれつつある、痩せた少女――同情させるには、充分なシチュエーションだ。そして同時に、少女は強い願望を持っていた。
生きたい。
原始的な、生物の持ちうる根本原理。余命などという数字を越えたところで、少女は死に抗い、同時に死を受け入れながら、それでも生きたいと願い続けていた。
僕は彼女に対して、何もしてやることがなかった。
もし仮に、彼女が生を悲観して死ぬことを求めていたのなら、生きることは素晴らしいと説くことができただろう。あるいは彼女が死に蝕まれ苦痛に溺れそうになっていたなら、そんなに苦しむことはないと優しく諭すこともできただろう。
しかし彼女は、どちらでもなかったのだ。死を受け入れ、その死に抗おうとはせず、しかし静かに、もっと生きたかったなぁ、と微笑んで見せるような、気丈な女の子だった。
初めから彼女と知り合いだったわけじゃない。ただ、痩せた色白の少女が街を見下ろす頃、ちょうど僕がその道を歩いて帰っていただけだ。ふとしたことで目が合って、それから毎日、小さく手を振り合うような、そんな名前も付けられないような関係になっただけだった。
そんな挨拶らしきものを繰り返していると、ある日、彼女の家の前に長身の男が立っていた。粗野な印象はないけれど、繊細にも見えない、しかしどこか疲れ切っているような男で、後で聞いた年齢よりも、ずっと老成して見えた。
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