第一章 2.

(いけない……!)

 恐れてはいけない。いや、恐れていることを恐れてはいけない。感情に悪いものはないのだ、感情から発する行動が、感情に善悪を与える。さあ、剣を抜くのだ、今、ここで!

 そう、少女が自身の体に命じた、その時だった。

 雪がちらつくだけだった空から、矢が降ってきた――ように見えた。早すぎて見えないのだ。だが、きゅんきゅんと空を切る音と、魔物の体を貫いて吹き出した血筋が真っ直ぐな線を描いている様子から、少女はそれを矢であると認識した。

 魔物は四つん這いの格好のまま、獣でいうところの背中から腹にかけてを、《矢》で撃ち抜かれていた。一発や二発ではない、数百にも及ぶ《矢》が魔物の体を貫き、辺りにはロウのものとは粘り気の異なる血臭が立ちこめた。

「…………」

 少女は、剣を握ったままの中途半端な格好のまま、魔物を見守った。魔物を襲った風切り音は、すでに止んでいる。魔物は悲鳴らしい悲鳴も上げず、糸の切れた人形のように、自から零した赤黒い血の海に、べじゃりと突っ伏すばかりだった。

 ――耳が痛いような、不気味な静寂。世界がガラスに閉じ込められたような、凛と張り詰めた空気。その静寂に亀裂を入れたのは、小さな足音だった。

 雪を踏む、しゃくりという足音。少女が視線を上げた先には――若い男。

「…………」

 男。男というより、まだ少年と言うに相応しいような顔立ちだ。しかし、異国人なのか、その風貌は少女が見慣れたものではない。そして少年が身に付けている服もまた、少女を寒さから守る毛皮の外套とは異なる、薄くきめの細かい布で編まれたものだった。

 少年は少女を見詰めながら、その口元から白い息を吐く。それだけのことが、彼が人間であるということを、少女に物語って聞かせていた。少年の、白い息を吐いた口が、さらになにかの形を作る。丸くなり、一度閉じて開き、唇の向こうに白い歯が見える。言葉。

 少年がなにかを言っている。しかし、少女にはそれが『なにか』としか認識ができなかった。なにしろ少女は、そのまま意識を失いつつあったからだ。殺されるという恐怖から一転して現れた安心が、彼女を暗闇へと誘っていた。そして少女は、その誘いに抗う術を持たず、ゆっくりと目を閉じていく。

 意識を失う直前、今自分を抱き留めているのが少年なのか、あるいは森を覆う深い雪なのかが、少女は気になっていた。

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