トウヤの森

樹真一

第一章 1.

 少女は魔物を見たことはなかった。だがそれは、思っていた以上に恐ろしいものだった。

 それははじめ、降り積もった雪か、あるいはその重みにたわんでいる木の枝に見えた。しかし近付いて、鉄臭い匂いが鼻孔を突いた時には、それは振り返り、少女の姿を捉えていたのだ。

 巨大な、ひたすら巨大な、四本足の魔物。毛むくじゃらで、両前脚には六本ずつ爪が生えている。その爪の一つ一つが、少女が腰に差した剣よりも長く鋭利に見えた。

 雪に埋もれた森には、魔物が棲むことは知っていし、森に入ってはならないという習わしもあったが、それでも少女は森の中を抜けることを選んだ。このリシュウト国の国土の半分を覆い隠す森を抜けない、人の手による街道を選んだのでは逃げ切れないということを、少女はきちんと理解していた。

 魔物が恐ろしい存在で、どうしてか人間という種族を襲ってくる脅威であることはよく教わっていたが、だからといって、一人で森の中を歩くことがそのまま魔物に殺されるという意味ではないと、少女は勝手に思い込んでいたのかも知れない。確かに近年、森に入って魔物に襲われたという人物はほとんどいなかったが、それは裏を返すなら、誰も森に入らなかったということに過ぎないのではないか?

 ――そんな、森へ入った少女への罰が、今、彼女の目の前にそそり立つ魔物そのものだったのかも知れない。

 魔物は、獣の肉を貪っていた。口の周りを血で真っ赤に汚し、生臭い息と血の雫をこぼしながら少女を睨み付けていた。魔物が食べていた獣は、大型のロウ。ロウは少女の国の国旗にも刺繍される、気高い雪の獣である。恐れと誉れの象徴とされるロウを、家畜の餌のように食らう魔物……当然、ロウよりも凶暴で、人間とは比べものにならないくらい、凶悪なのだ。

 ずしんと、地面が揺れる。少女は驚き、抱えていた荷物を取り落としてしまった。その荷物にくるまるようにして宿っていた小鳥も、驚いたように飛び上がってしまう。

「あ、待って!」

 小鳥はすでに恐怖で粟立っていたのだろう、飼い主である少女の声も振り払い、ばたばたと飛び去ってしまった。小鳥だけではない。少女を加護する精霊たちも、皆一様に震え上がり、なにもできずに少女の周囲を飛び回るばかりだ。すなわち、魔法が使えない。

 ずしん、と再び地面が揺れて、そして魔物が、もう目の前に迫ってしまっていた。その前脚、毛むくじゃらな関節を外に曲げながら、爪と爪をかちゃかちゃとぶつけながら、少女を捕まえようとする。少女はすぐに逃げようとして――荷物に躓いた。背中から、降り積もった雪に倒れ込む。

「っ!」

 すぐさま立ち上がろうと腕に力を込めたところで、魔物の前脚が振るわれた。左半身が潰れたのではないかと思える衝撃。少女と雪と地面は、そのまま軽々と吹き飛ばされてしまった。再び雪の上に転がる少女。痛みはない。怪我をしていないのか、あるいは痛みを感じないほど大怪我をしてしまったのか。

 魔物は、再び少女に向かって飛びかかっていた。その重い体が地面を揺らし、木立からは雪が塊のまま落ちてくる。先ほどよりも荒くなった魔物の息を吸い込んで、その生臭さに思わず顔をしかめる。

(ロウの肉だけでは足りず、私も食べようというの…!?)

 殺される、という実感はなかった。だが、殺そうと思うのであれば、その爪で八つ裂きにするなり、あるいは脚で踏み潰すだけですむものを、どうしてこの魔物は自分を殺そうとしないのかと、疑問に思っていた。

 だが、疑問に思うからと言って、そのまま無闇に考え込むようなことはない。相手が殺さず嬲ってくるのなら、一矢報いる隙はあるということだ。少女は、腰の剣に手を伸ばす。その細身の柄を握った時初めて、自分の体がガタガタと震えていることに気が付いた。恐れているのだ、目の前の魔物を。恐れているのだ、差し迫った死を。

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