①中学2年生 精神科通院と進級

 精神科に通院を始めたのは秋からだった。母親に「病院に行こう」と言われ、行ってはじめてそこが精神科だと分かった。母は数カ月前から通っていたことをその時明かした。おそらく、私の状況をどうしたらいいのか相談し続けていたのだろう。私と母はそれぞれ別の先生と面談をした。

 精神科の先生と1対1の面談が始まったはいいが、私は何を話せばいいのか分からなかった。部活に行けない、学校に行けない。相手が医者といえども、中学生の日常が送れないことを伝えるのはとても恥で、私は他愛もない話をして本題を逸らした。勉強は好き、スポーツは苦手、面白い教師の話。こんな内容ばかり話していて私のメンタルを調べられたのかは分からない。その時は処方箋も出なかった。

 のちに、母づてで私は「起立性調節障害」であったと明かしてくれた。起立性調節障害とは、日本小児心身医学会のHPによれば「たちくらみ、失神、朝起き不良、倦怠感、動悸、頭痛などの症状を伴い、思春期に好発する自律神経機能不全の一つ」と記載がある。精神科に通院する手前は小児科に何度か通っていたのだが、当時の私は自分が貧血だと思って診察を受けていた。

 いわゆる思春期の子供特有の自律神経の乱れであるが、中学生で症状の全てが理解できるわけもなく、同級生達はそんな症状を顔に出すことなく毎日学校に登校していたのだから、俄然貧血症状だと思い込んでいた時ですら自分はサボり魔だと責めていた。


 部活動内で特に衝突していた同級生から頻繁に言われていた言葉がある。

 「皆、辛いんだから」

 そう言っては私を部活動に参加するよう求めて、時に厳しい言葉も放っていた。

 私は辛さのあまり限界に到達していたのだが、自分自身が精神的に追い込まれている状況を理解しきれておらず、言い返す力や語彙力は持っていなかった。 






 3年生に進級するクラス替えのタイミングで通常学級に戻ろう、と決意できたのは2月下旬の頃だった。

 将来のことを考えると特別教室での通学を続ける限り、進学はかなり響くことが一番の理由だった。さすがに高校は卒業しておかないと、という世間体もあった。

 その際、教師から同じクラスになってほしい生徒を避けてほしい生徒がいるか訊ねてきた。クラス替えの会議がこれから開かれるので、事前に希望を聞いておきたい、とのことだった。私は親しかった友人と、「皆、辛いんだから」と言ってきた部員の名前を挙げておいた。

 この希望が通れば、少しは私も学校に行きやすくなる。クラス替えで気持ちもリセットできる。

 嫌な緊張と戦いながら、私は半年ぶりに通常学級へ進んだ。


 張り出されたクラス分けを見て、教師に言った希望が全く通っていなかったことに愕然とした。私の学年は6クラス存在し、部活動で衝突の多かった人とは接触は避けたいと伝えていたのに、6分の1の確率で同じクラスに放り込まれてしまったのは解せない。

 「皆、辛いんだから」と言った元部員は、私の何気ない行動すら許せなかったようだ。

 体育の授業中、炎天下のバスケの試合中に立ち眩みを起こして倒れてしまい、陰で休む私を元部員は「皆辛いのに、勝手に休まないで」と責めてきた。

 合唱練習の休憩中、アルトのパートリーダーだった私は音域の確認のために伴奏を受け持っている友人と「こんな感じかなあ?」と緩い会話をしながらキーボードを2、3音叩くと「皆辛い中、ひとりでふざけないでよ」と叱ってきた。

 「皆が辛い」それが元部員の口癖だった。




 それでも2年生の時と比べたら通学しやすい環境だったのは事実だ。幸いにも親しくしてくれるクラスメートが別にできたことで私は教室で過ごしやすくなり、学年内でも欠席日数は5本の指に入るほど休んでいたような生徒にも関わらず、2学期にはクラス投票で学級委員、自動的に文化祭の実行委員も任された。

 役割を持つと頑張れたことと、ミスを責める人がいなかったおかげで非常にやりやすかった。文化祭では平和学習を兼ねて折り鶴を使ったアート作品を作ったのだが、作業にもたつく私を「遅い!」と叱る人はいなければ、誰かのミスをカバーして協力しあえる、そんな優しい場所だった。部活動は移動中は「急いで!」と叫ぶ先輩や同級生の声が響くのが当たり前で、とにかくテキパキ動くことが重要とされた。

 甘ったれと思われても仕方ない。私はテキパキ動く他の部員達に追いつけなかった。

 折り鶴アートは校舎の戸締まりを知らせるチャイムが鳴るまで時間を忘れて作った。3年の4月に正式に退部したので、文化祭の準備をしていた10月に聴いたチャイムは懐かしさすら覚えた。部活動をしている間は毎日聴いていたチャイムだった。実行委員達と大量の折り紙を片付けながら、皆無意識に「お疲れー」「お疲れ様ー」と笑顔で言いあった。大変な作業だったけど、辛いとは全く感じなかったし、誰も辛いとは言わなかった。

 皆が辛いから~と言っては私を責めていた元部員は自分自身が一番辛いと感じ、誰かと感情を共有したかったのかもしれない。今はそう思うが、正直同情の余地は無い。




 不完全な形で部活動を辞めてしまったのは心残りではあったが、心の健康には変えられない。部員達からなぜ私が学校に行けなくなったか理解されず、嫌々部活を続けようものなら私は壊れていたと思う。

 吹奏楽部をやめて、楽器を演奏する機会がなくなったと思ったが、3年生になって特殊な授業が私に再び楽器を触らせることになった。

 私の通っていた中学は選択授業という科目があり、5教科と音楽・美術から自分の学びたい2教科を選択して教科書以外の教材を用いてより深く学ぶ時間が設けられていた。

 私は国語と音楽を選択した。国語は図書室の本の紹介文を書いたり、当時韓ドラブームもあってハングル文字を書き写したりと、図書室にある本を使って好きなように自学することができた。

 音楽は、箏の演奏だった。箏とは和琴のような楽器なのだが、1曲を半年かけて練習して、文化祭で披露するのが最終目標であった。吹奏楽部でクラリネットが吹けなくなった代わりに、私は箏の練習に励んだ。とはいえ部活動と違い練習は週2回の1時間の授業だけなので、私はプレッシャーを感じすぎずペースを見つけながら、時には自主練に参加して箏の練習をした。吹奏楽部で多少は音感が鍛えられていたのか練習に大きくつまずくことを感じず、2年生の吹奏楽コンクールでは2小節しか吹けなかった時とは違い、文化祭では楽譜全ての演奏を披露した。

 全部演奏しきって、送られる拍手はとても嬉しかった。

 その後、市内で開催されるコンサートにも参加することが決まり、私は久しぶりに学校外で演奏を披露した。

 演奏後、運搬トラックに箏を積んでもらうために移動していると、下りのエレベーター内で今まで指導してくれた選択授業の先生が満面の笑みで言ったのだ。


「今日の演奏が、今までで一番上手だったよね!」


 吹奏楽部にいる間、一度も言われたことがない言葉だった。ひたすらクラリネットを吹き鳴らして、口内から血がにじみ出るまで音を出そうが顧問やリーダーから褒められるなんて到底考えられなかった。どれだけ良い演奏をしても重箱の隅をつつくような反省会は、この箏の練習には不必要だった。

 先生の賛辞が、死ぬほど辛かった吹奏楽部の思い出を上書きしてくれた。この経験のおかげで私は今も音楽が好きでいられて、演奏が楽しいと思える気持ちを取り戻せたのだ。


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