①中学2年生 周囲の目と変化
中学2年生が人生の中で最も多感で繊細な時期であるのは誰しも経験あることだろう。私はその多感で繊細な1年の半分以上を、特別教室で過ごした。
中2に進学して、クラス替えにより環境が変わったことで、再び通常の教室に登校を開始し1学期まではなんとか教室で授業を受けて部活動にも参加していたが、それでも精神は常にギリギリの状態であった。中2の前半は驚くほど記憶が薄いのだ。クラス替えにより親しかった友人とはバラバラになり、新たな環境に馴染めず、休み時間は机に伏せて寝て過ごす私に関わるクラスメートはいなかった。クラス内に友人はいなかった。
部活動の記憶も薄い。練習不足から基礎練習についていけなくなり、頻繁に先輩に怒られる日々が続いた。1学年上の先輩は私と同時期には既に出来ている練習が私は出来ない。案の定先輩に叱られる。私は萎縮していき、息を吹き込んでも思ったような音色が出せず、指が動かなくなっていったのは覚えている。
吹奏楽部の夏のコンクールにはかろうじて参加してもらえたが、私に演奏が許されたのは課題曲と自由曲合わせても2小節のみだった。圧倒的な練習不足で部活動もろくに参加しなかった私には当然の扱いだろう。
それでもコンクールに参加しようと決意したのは、たびたび私の家に訪問する部員達の存在だった。「早く元気になって部活に来てよ」と声をかけられ、鬱陶しいなと思いつつ、当時の私は自分が必要とされている存在なのだと受け取っていた。だからもう一度勇気を振り絞って部活動に参加した。
しかし待っていたのは、部内での孤立だった。練習の間に挟まれる休憩時間で私に声をかける部員はいない。私を避けていたようではなく、私の存在などどうでもよくなった、という印象だった。
あれだけ私を部活に来いと何度も訪問してきたのは、何の為だったんだろう?コンクールの人数合わせ?体裁?顧問に良い顔したいから?
さらに私にショックを与えたのは、私と同じクラリネットを担当していた同級生の部員の存在だった。彼女もまた練習に追いつけなくなり部活動を休みがちになったのだが、復帰した彼女の周りは常に人がいたのだ。他愛もない会話が出来る部員が彼女にはいる。私にはいない。
お互い同じだけ部活動を欠席したのに、彼女もコンクールで演奏を認められた箇所は2小節のみなのに。彼女は部員達に温かく迎えられ、私の元には誰も来ない。輪に入ろうにも弾かれる。私と彼女の違いはなんだったのか。
私って、なぜ部活に参加しているんだろう。練習する節も少なく、私1人だけ自己練習で抜け出すこともできず、誰かの輪にも入れない。成果も出せず、人間関係も築けない。
もう私は、ここにいる資格はないのだ。地方大会のコンクールの終了を目処に、私は部活動の参加をやめた。
夏休みが終わり、2学期から特別教室登校を再開した。特別教室を選んだのは、普通に教室に行くより部員達に会うリスクが減るから。それに吹奏楽部は毎朝、朝練をしている。通常学級に行ってしまうと通常登校をしなくてはならないので、学校から鳴り響く楽器の音を否が応でも耳に入れてしまう。私はそれが耐えられなかった。それならば少し遅れて登校しても出席が認められる特別教室の方が精神的に安定できた。
相変わらずYちゃんは特別教室登校を続けていて、私も居心地は良かった。Yちゃんは2年生に入ってから部活動にほとんど参加できなくなっており、コンクールも参加しなかった。
後で判明したが、Yちゃんは病気を患って通常学級での勉強が困難な状態に陥っていたらしい。元から病弱な子ではあったが、中学で悪化したようだ。彼女自身は部活を続けたかったようだが病気のため諦めることにした、と悲しそうに語っていた。
もし、Yちゃんが休みがろくにないハードな部活を選ばず、のんびり自分のペースで楽しめる部活に入っていたら病気は悪化せずに済んだのだろうか、とたまに考える。実は私も起立性調節障害という、思春期の子供に多い自律神経の病気を発症していた。部活動への不調もそれが一因だった。もし身体に負担をかけず、精神的にも無茶をせずにいれば、自律神経の病気もすぐ治ったのだろうか。どんなに考えても私は専門的な医学の知識はないし、選んだ過去は変えられないし、考えても仕方ない。
過去の失敗から学べることはあるとよく言うが、失敗した先に成功を見つけるのは容易いことではない。
特別教室での登校は束縛されず、誰の視線を気にすることもなく、自分のペースで動くことができることがメリットだ。精神の安定が図りやすい居場所。
そんな環境を選んでも、私は登校を拒む日があった。自律神経の乱れから来る激しい頭痛もあれば、吹奏楽部の朝練の楽器の音で足がすくんで学校に行けなくなる日もあった。そのたびに母は私を諭しつつ学校を休ませてくれた。
この頃から母は私を精神科に通院させるようになった。当時は精神科医となにを話せばいいのかよく分からなかったが、向こうの先生は私の言いたいことの意図を汲み取って、欲しい言葉をくれるのだ。
その期間、早く教室に行けるようになりなさい、強制しなかった母には感謝しかない。
しかし、父は頻繁に休む私を快く思ってなかった。私の進路を心配してくれていたのかもしれない、または私の世話で疲弊している母をなんとかしてやりたかったのかもしれない。
学校を休んだ日の夜、布団にこもっていた私を父が起こして、学校に行かない私に今後の進路の話をしてきた。今のままでは自立できない、高校にも行けないかもしれない。現実を淡々と語った父だったが、未だに忘れることがないのは「これ以上学校に行けないようだったら、施設に入ってもらうかもしれない。そこで自分のことは自分でやる生活を送ってもらうことになる」と厳しい口調で言ってきたことだ。
学校に行けない私は家族に認めてもらえていないのか。私は家を出なくてはならないのか。もしかして父は私を捨てる覚悟すらあるのだろうか。色んな感情が頭の中で駆け巡ったが、それですぐに学校行きを決意できるなら私は特別教室登校を始めていない。
今でも「施設」とは具体的に何を指しているのか分からない。フリースクールか、少年院もどきか、はたまた児童養護施設か……。
結局私は家族から切り離されることはなかったが、過酷な選択肢を与えてくるまで私の存在が両親のストレスになっていたかと思うと胸が苦しくなる。
冬に向かって温度が下がっていくたびに、私や私を取り巻く環境まで冷たくなっていくような気持ちがした。部活に来いと言わなくなったかつての部員達、明確にならない進路。
私を安心させたのは、部活動に苦しむ必要がなくなったことと、他愛もない会話がしあえるYちゃんの存在ぐらいだった。
そのYちゃんは、高校1年生の冬に亡くなった。不慮の事故による身体の損傷と、元の病気により免疫が下がっていたことが重なってーーのことだった。
写真のYちゃんは満面の笑顔だった。葬儀場にはYUIのLIFEが流れていた。彼女が生前好きだった曲らしい。葬儀の席にYちゃんの同級生は私しかおらず、学校関係者には小中のお世話になった先生方が参列していた。
彼女の早すぎる死を、あの当時の部員達が知っているのかどうかは定かではない。
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