悪魔と王と善神と

片山順一

戴冠式の夜

 その日のバドーガル王国は、国王ファン・ラシッド二世の戴冠に湧き返っていた。


 国土のほとんどを砂漠が占め、王都ドゥンガルは岩山の合間にある小さなオアシスでしかない。

 そんな貧しい国にあっても、すべての国民は歓喜していた。


 中央通りを行く正装の国王と王女、儀仗隊や祝福に来た領主たちの頭上には、鮮やかに着飾った国民たちから花が降り注いだ。


 貿易で儲けた金持ちが、貧乏な者に晴れ着と鮮やかな花のつまったバスケットを買い与えたのだ。


 これほどに、目出たいことはないからだ。


 世界中を危機に陥れた大悪魔ドドックの出現から、十年。


 その胸に剣を突き立てて、世界を救った勇者と呼ばれる男が、とうとう政治の世界に現れたのだから。


 貧富の差や伝染病の蔓延、飢餓に役人貴族の腐敗。

 世界の危機は去っても、民を苦しめるものは消えない。


 だが民は信じている。勇者は素晴らしき王にもなりうると。だからこそ先代の王ファン・ラシッド一世は後継者を王子たちでなく、砂漠で生まれたただの青年に委ねて、静かに引退するのだと。


 戴冠の儀はつつがなく行われた。


 ファン・ラシッド一世が、王の名においてファン・ラシッド二世に冠を譲り渡す。油を注がれ祝福を受けるその隣に、生まれたばかりの小さな男児を抱えた王妃が見守っていた。


 それぞれに砂漠とオアシスを領する諸侯も忠誠を誓ってかしずき、自らの持つ剣を捧げた。


 反乱や自領の平定を名目に、参加を断った前の王子を除けば、だが。


    ※※    ※※


 宴の夜更け、王は前日までの多忙を理由に、自室へと引き取った。


 宮殿の頂上、玉座の間に近い自室。天蓋付きのベッドに座り、世界中から集めた名画や、装飾の粋を凝らした壁紙をぼんやりと見つめる。


 突如、目の前の床に黒い炎がともった。


 火でありながら床も布も焼くことはなく、線状に広がり、円と五芒星を形作っていく。


 やがて、中心から細い手が現れた。長い手は床にへばりつくと、がりがりとひっかいた後続く体を引きずり上げてくる。


『が、お、おぉ、へ、へ、久しぶりの現世だ……』


 のどを詰まらせた老人がそのまましゃべるような声が響く。


 王の前に、悪魔が現れた。


 猿の手と体、豚の頭、背中にはコウモリのような翼膜。大の男、三人分の大きさはある。高い天井に頭が届きそうだ。


 悪魔ラフバド。魔物によって隊商が壊滅し、砂漠をさまよい死にかけていた王に声をかけ、十年の約束で力を与えた存在だった。


 百人の男が入った檻を片手でかつぎ、魔法を弾き返し、鉄でできた魔物を鮮やかに切り裂く剣技。


 滅亡の悪魔ドドックを倒した勇者、ラシッドが誇った伝説の力の全てがこの悪魔ラフバドにひそかに与えられたものだった。


『いやあ、まさかあのドドック様まで倒しちまうなんてなあ。おかげでお前の魂は、人間の中では最良になった。持って帰れば俺は地獄の大公閣下だ』


 ラフバドが豚の鼻を鳴らしてふごふごと笑う。最良の娼婦を買った醜い老人を思わせる笑みだった。


『じゃあ、いいよな。契約通り、十年の力はお前の魂と引き換え。その期限が今日だ。ずいぶん頑張ってやっと王になったところで、期限ってのは気の毒だがな。ぶふひひひひ……』


 ここで、自分が倒れることで、国を巻き込む混乱と争乱。乱れる世界と地獄に落ちる魂を想像しているのだろう。


『手を取りな。それであんたは、ただの卒中で死ぬ。力が悪魔の借り物だったってことは、世界中にばれないですむんだ』


 王は差し出された手を見つめた。


 たった十年で、ずいぶん遠く来た。


 警護の傭兵も家族も商人も皆殺しにした魔物から、命からがら逃げてさまよった砂漠。飢えと渇きに倒れ、追ってきた魔物に見つかって助かるならば何でもすると泣き叫んだところに、悪魔の声がした。


 声に乗って魔物を倒した後、奇跡の生存者と遇されたこの国で世界の危機を知らされ、挑んだのだ。


 せっかく助かった自分の身が、世界の崩壊に巻き込まれ滅ぶのが嫌だった。


 いくら強くても、一人では限界があることを知って、各地で仲間を募り、綿密な準備をしてドドックの居城へと乗り込み、倒して。


 その後は、英雄と遇する一方で自分を恐れる世界に居場所を作るべく励んできた。


 横行する盗賊への自警行為や、貧困と疫病にあえぐ村の救済など、地道に積み重ねて、ようやくこの小さな国で王になる道筋と愛しき妻、子も得た。


 その、全てが。十年で失われる。始まりが、ただ契約だったというだけで。


『ああん? 早くしろよ。まあ、今日中だから、まだ夜中まで一時間はあるけど。あのべっぴんさん、最後に抱いとくか。俺は淫魔どもの方がいいけどな』


 豚の鼻息を荒げ、喜びににやついているラフバド。あの恐ろしいドドックと比べて、この悪魔はどれほどのものなのだろうか。


 本人もドドックを倒す気がなかった様だし、砂漠で死にかけているただの少年に取引をするくらいだ。


 契約は、契約。守らなければならない。


 だが力だけを与えて、自分は何もせず十年待っていたこのラフバドが、必死に築き上げたこちらの全てを奪うなんて許されるのだろうか。


 王の右手が、少しずつラフバドの毛むくじゃらの手に近づく。ラフバドはにやにやしながら、自分の手と王の手を見比べている。


『ぶふひひ、そうそう、悪魔の契約には従うもんだ。恐ろしいことになっちまうからな』


 小さな目は手に入る魂しか見ていない。王の左手が豪奢なベッドのシーツをかきわけ、枕の下に入っていることを察していない。


 右手が毛むくじゃらの手に触れる寸前、王は左手でそれをつかんだ。


 ピローソード。寝室で刺客に襲われることを想定した貴族が、枕の下に隠し持つ最後の一太刀。


 王を守るため世界有数の魔法鍛冶師が鍛え上げた優美な刀身は、鞘走りも滑らかに油断し切った悪魔の肩口へと吸い込まれた。


 幾体もの悪魔を斬り倒し、地獄へと送り返した王の一閃。ラフバドではひとたまりもないかに思えた。


 が。


『ああ? 裏切ったのか、ぶふひひひ……』


 豚の顔がふごふごとあざ笑う。効いていない。手応えは確かにあったが、ラフバドの体は水か沼みたいに刀身を吸い込み、一切傷ついていないのだ。


『馬鹿だなあ、お前。確かに俺はドドック様よりめちゃくちゃ弱いけどさあ。契約の力は、契約の主に通じないんだぜ。お前がドドック様を倒せるくらい強くても、俺にだけは敵わないってのによ』


 ラフバドがなめまわすような目で王を見つめる。


『あーあ。俺に逆らったから、お前は悪魔の手先って評判が立つぜ。式典に来てない王子が国を奪い返しにくる。あいつは実の妹が、お前の妻が好きでしょうがねえ変態野郎なんだよ。お前の息子を殺して、妻を奪い取って王になる』


 剣を持った手がつかまれる。力が抜けていく。


『国はめちゃくちゃ、英雄が悪魔の手を借りたスキャンダルで世界もめちゃくちゃ、戦争、戦争、俺は大量の人間を地獄に落とした功績も得るって寸法だ。こりゃあもう、裏切ってくれてありがとうだな! ぶふ、ぶふひひひひっ!』


 耳障りな笑い声、得意の絶頂となって翼を羽ばたかせるラフバド。口から臭う瘴気を浴びつつ、王は右足を上げ、床を一つ踏み鳴らした。


『おん? 悔しいのか……どうにもならねえよ。卒中で死んでりゃここまでひどいことには』


 音もなく、ラフバドの背後の壁がスライドする。床板がひとつの仕掛けになっているのだ。


 闇の中に純白のドレスと鎧をまとった影。その白いひらめきが、一瞬のうちにラフバドの背中に接近。銀色に輝く刃をふるった。


『れ、あ、ぁ……』


 振るったのは、王妃だった。いや、先王の一人娘であり、祝福された聖剣の使い手として王の背中を支え、悪魔の力なしでドドックと戦った世界有数の女剣士だ。


 ドドックを討ち取った後、世界からの迫害におびえ震える少年を抱きしめ、この国で共に生きて欲しいと言った女性だ。


「相手が勝ち誇ったときには、最大の機会が来る。お前に私の力が通じないことは予想してあった」


『さい、しょから、俺をだます、つもりで……ちっぽけなガキだったのに』


 聖剣が傷口をさいなみ、膝をついて息を荒げるラフバド。


『ぶ、ぶふひひ、だが、人が来るぞ。見つかるぜ、お前は借り物の力で英雄になった。スキャンダルだ、王子がキチガイってのも本当だ。地獄で待っててやる』


 苦しげに笑うラフバド。王は王妃と顔を見合わせた。戴冠式で息子を抱いた慈愛の女神のような相貌が、厳しい戦士の顔となっていた。


 王妃はドドックの翼を落とした聖剣を振りかぶる。王はラフバドを見下ろした。


「心配無用だ。お前はドドックの悪行におののき、私に力を与えた心優しき善なる悪魔となる。我が国であがめてやろう、善なる神としてな」


『な、なんだとっ! 馬鹿な、俺は悪魔だ、人間の破滅を願い、魂を奪う存在だ! 俺をねじ曲げるのだけはやめてくれっ!』


 懇願を無視して王は目を閉じ、手を組んで祈った。王妃が剣に力を込める。


「地獄より出た、善神ラフバドよ。誕生、おめでとう」


 王のつぶやきと共に、聖剣がラフバドの体を十字に断ち切る。


 鼻は、二度と鳴らなかった。


    ※※    ※※


 ファン・ラシッド一世の王子の反乱は、戴冠したばかりのファン・ラシッド二世によって鎮圧された。


 貧しき砂漠の国バドーガル王国は、一千年の繁栄を極めたという。


 世にも珍しき豚の顔と猿の体、こうもりの翼をもった善神ラフバドもまたさかんに信仰された。


 その神話にはラフバド自身が策を弄しながら失敗する滑稽なものが多いが、人々は多いに笑い、楽しんだという。


 世界を救った名君、ファン・ラシッド二世は生涯ラフバドを厚く信仰していた。戴冠の日には、必ずラフバドの誕生を祝ったと伝えられている。

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