第11話

地球の資源は無限だと考えられ、人間は地球に対して好き放題してきましたが、人間の活動が地球の処理容量を越えて公害や環境問題などが現れ始めました、地球の資源は無限ではなく有限で…と社会科の教育実習生の今村さんの語ることはあたしに留まらず右から左に流れていく。去年のこの時期にも実習生は来ていたけれど、たいがい彼らは元気がよくて面倒見のいいタイプで、化粧っけがなくて色がないと言っていいほど白くて細くて堅物そうな彼女は中学生と接するに不向きなふうに見えた。台本の朗読のごとく喋り続けている彼女は一生懸命ではあったから前を向いて話を聞いている振りをしていたけれど、本当のところ語られることは耳で跳ね返ってすぐ死んでいった。言葉の残骸が床にぼとぼと積もっていって勿体ないけど、あたし達は大人から与えられることを期待されるほどには吸収せず、いい加減に捨てたり身につけたりする。縁のない透明の眼鏡に照明が反射してどんな目をしているのかよく見えなかったけど、彼女にはたぶん生徒に目をやる余裕がなくて耳を傾けてあげる振りをしたところで意味がないのかもしれなかった。あたしは窓際のよく日の当たる席で、窓からは緑色のジャージ姿の生徒達がグラウンドで体育の授業をしているのが見えた。少し寒くなって緑色のハーフパンツに緑色のジャージの上着を羽織った彼らは枝豆の集まりのようで、銀色のスプーンで掬って口に運んで咀嚼してやるのを想像した。ウマイ、ニンゲンウマイ、オレ、モットニンゲンクイタイ。「じゃあ、清原さん」指名されて、は、と顔を上げる。たまたま窓の外を眺めていたのが運悪く目に留まったらしかったが、質問の内容を全く聞いていなかった。気まずい沈黙が流れ、彼女の顔が苦く曇る。「すみません、もう一度質問の内容を教えてもらえますか?すみません」おずおずと尋ねると、ため息をついてから、「今までの社会の授業でも学んできたことかと思いますが過去に例えばどんな公害が起こりましたか」と反復され、「水俣病とか四日市ぜんそくとか、でしょうか」と思い付いたことを答えると、「そうですね」とそっけなく言われてまた朗読劇のような授業を再開された。


休み時間になって鞄から聖書を取り出して読んでいると、「清原さん」と声を掛けられ、振り向くと実習生の今村さんに見下ろされていた。目を合わせると子どもに視線を合わせるように横にしゃがみこまれた。「清原さんは休み時間はいつも本を読んでいるね。何読んでるの?」教壇に立っている時はいやに固い口調なのに壇上を降りるとそうでもないらしい。「聖書ですけど」と答える声が低くなった。「そういうの興味あるの?珍しいね」「ええ、まあ」「色んなことに関心があるんだね。すごいね」実習期間にクラス全員と話す目標でもあるのだろうか。子供騙しのいい加減な褒め方をしなくてもいいのにと思いつつ「ありがとうございます」と口を小さく開ける。「どうして聖書なの?今時の中学生にはそういうの流行ってるの?」「うちの家エホバなんです。世間の人は悪魔の影響を受けてるから関わったらいけないってママに言われていて」そういうの流行ってるの?冗談めかされるような言い方が気に障って、引かせるためだけに過激な言葉を選んだ。

「え」口が小さな三角になって、「だから一人で本を読んでいるの?」と納得したように続けられた。ああそうかこの子は宗教の家の子なのねと線引きをされたみたいで苛立ちを感じる。そうですあたしは宗教の家の子であなた方とは違う世界で生きているのでむやみにこちらに顔を突っ込んでこようとするのはやめていただけますか?本当は興味もないくせに。「ええ。なので気を使って下さらなくて大丈夫です」聖書を広げているのは構われたいからじゃなくて拒絶を示したいからなのだ。だからあたしのことは放っておいて。でも彼女は意図を読み取ってくれなくて、眼鏡の奥の濡れたように黒い水晶にあたしを映してから、「でもせっかくの学校生活なのに友達とかそういうのも大事なんじゃない?悪魔の影響を受けてるとか言わない方がいいんじゃないかな」と諭された。そうですね、ごもっともです。でも、なんでぽっと出のあなたに家の方針をとやかく言われないといけないんですか?学校の先生達は「教団の子」に慣れていて踏み込んできたりしないのに、思いつきでちょっかいをかけられたのが不愉快だった。「中学でできた友達って案外一生ものになるよ。私もいまだに仲良くしてて今でも時々集まるもん。何て言うか一緒に思春期を過ごした仲間って結構大切なんじゃないかなあ」お前の自分語りは聞いてない。横にしゃがんでいる彼女を見る目が尖る。トイレに行くので、と席を立つとしゃがんだままの彼女より大きくなって一瞬彼女を見下ろしてから旋回する。何かあったら相談してね、と大人の常套句を浴びせられるけど振り向かない。何も分からないくせにうるさい。子供の常套句を頭に浮かべる余裕のない自分にも苛立った。受け流せば良かったのにどうして下手なことを言ってかりかりしているのだろう。大したことないはずなのに感情が手に負えなくて溢れそうになる。悲しいのか悔しいのか分からないけどいっぱいいっぱいになって唇を噛んだ時、廊下の向かいから倉橋さんが歩いてきてその唇がOに形作られ、「清原ちゃん!」と笑い掛けられた。


ウマイ、パンケーキウマイ、オレ、パンケーキハジメテタベタ。世間の人は悪魔の影響を受けているから関わったらいけないと言われていると語ったくせに、学年一悪魔の影響を受けているやもしれない倉橋さんとその日の放課後にパンケーキを食べに行った。実習生の今村さんから逃げてきた休み時間の廊下でのこと、次はどうする?と耳打ちされて、悪いけどもうやめると答えると、それなら友達になろうと言ってくれた。友達。二階の廊下の窓からは赤く色づいた紅葉が見えて、日の光がきらきら廊下を照らしていて、友達という甘美な響きに一瞬で酔った。友達になった記念にラインを教えてよと言われて、スマホを持っていないと答えるとちょっと驚いた顔をされてから、じゃあ学校帰りにデートをしようと誘ってくれた。単純にも今村さんに与えられた憂鬱が吹き飛ぶぐらいには嬉しくてでも信徒以外の人と遊んではいけないという言いつけを忘れるわけはなくて空白の後に、いいよ、と答えた声が震えた。「やったあ。今日?」腕に抱き着かれて女の子の体温にどきりとする。「いいけどあたしそんなにお金ないから大したところには行けないよ?」「ううん、今日はうちの奢りでいい」そんなの悪いよと言いかけたのを上目遣いで制され、「あの、ほら、清原ちゃんを紹介したお金もらっちゃったし」と納得させる言葉を持ち出された。


倉橋さんは山盛りの生クリームとフルーツが載ったパンケーキを口に運びながら、家の話と初体験の話をした。あたしも似たようなパンケーキを注文し、可愛い食べ物を食べながらあまり可愛くない話を聞いた。倉橋さんのお父さんは単身赴任でいなくてお母さんと倉橋さんで二人暮らしをしているそうだ。でも、お母さんには彼氏がいて週に何日かは帰って来ないこともあると語られた。それから倉橋さんの初体験は中学一年生の時で、相手は学園祭で知り合った大学生らしかった。でも付き合っていると思っていたのは倉橋さんだけで、それから連絡が取れなくなったのだと、大学生が中学生と付き合うってヤリモクに決まってるのに馬鹿でしょ、でもお母さんもいい年して色ボケだし血筋なんかなあって自嘲的な笑みを見せ、勝手な話やけど清原ちゃんにはピュアでいてほしいなあと言われた。あたしは宗教の決まりで婚前交渉は禁止されているから、と答えると、コウゼンコウショウって難しい言い方やなあ、でも結婚するまでできへんとかそれはそれで大変じゃない?うち無理かも、といい加減に笑った。倉橋さんがその二つの弱りどころのような話を色んな人にしているのだとしても教えてくれたことが嬉しかった。「うちばっかり喋ってるから清原ちゃんのことも教えてよ」覗き込まれた顔の唇の端に生クリームがついているのを指摘すると、どこ?と舌を伸ばして器用に舐め取っていた。「でもあたしは友達いないしろくな話ないよ」「ふうん、やっぱり宗教って大変なん?」倉橋さんの目はあたしを特別視しない。裏表のない軽快さに載せられて吐露したくなる。小さい頃から家が宗教をやっていて週に三回は集会があること、週末には家を回って勧誘をすること、本当は信徒以外の友達と親しくするのを禁止されていることを打ち明ける。哀れんだり同情したりせずに普通に相槌を打ってくれたのが嬉しかった。そのうちハルマゲドンっていうのがやってきてこの世界は滅びるって言われてるんだけど、神を信仰していた人達は死んだ後の世界で永遠の命を手に入れられるって教えがあるんだよ、とまで明かすと、「何それうける。じゃあうちは死ぬけど清原ちゃんは永遠に生きられるやん。百万回生きたねこみたい」と笑ってくれた。

「そうねえ」と薄く肯定したけれど、この振る舞いを見られていたら神はあたしを許してくれないかもしれなかった。学校の友達と仲良くしないでと恭次を制限しようとし、会を破門された麻子ちゃんを軽蔑したくせに倉橋さんと楽しくお喋りをしている。不安になって、「黒川麻子って知ってる?」と尋ねると、「ああ、知ってるけど、どしたん?」と倉橋さんは言い淀んだ。「その子にはあたしのこと言わないでくれる?」理由も説明しないで唐突に釘を刺すと、「うち結構口が固い方」とどや顔をされた。それから最後の一欠片をフォークに刺した倉橋さんはパンケーキに目を落としたまま、「うちね」と影のある表情をして、「したらいつも三万円もらってる。でも、それってうちが中学生だからやんね。高校生になったり大学生になったりしたらもっと安く買われるんやろなって思う。でもそれって変やんね。勉強も真面目にやってなくて何にもないのに、何にもない今がなんで高く売れるんだろう。みんな、空っぽにちんこ突っ込みたいんかな。その方がすっきりできるんかな。よく分からんけど」と言い終わってから隙間を埋めるように笑った。「死にたいよね」という言葉が口から出てきて自分でも驚いたけど、「清原ちゃんも?一緒や」と返してくれたのが嬉しかった。死にたいなんて口にしたのは初めてだったけれど言ってしまえばそれはずっと眠っていた本心であったように馴染んで、「死にたいね」と繰り返すと、「でも清原ちゃんは死んでも永遠の命をもらえるらしいやん」とおどけられて顔を合わせて吹き出した。やっぱり神はもうあたしを許さないかもしれない、という思いが色濃くなる。でも、あたしの信仰はあたしが選んだものじゃなくてママに与えられたものだった。ママのせい。責任転嫁が空になったお皿の上に落ちていって可愛いエプロンをつけた店員さんがまもなくそれを下げてくれた。


あたしは常に恭次と二人で登校して下校する。けれど、今日は残って中間テストの勉強をするから先に帰っておいてと嘘をついて倉橋さんとパンケーキを食べに行った。それなら俺も図書室で残ってるよと恭次は言い、集中できないから一人で残りたいとダメ押しすると渋々了解された。学校の子と仲良くしないでとお願いしたのは最近のことだったのに、自分が言ったことを棚に上げて手首に繋がった双子の鎖を不自由に感じてみたりして。最近のあたしは方針が定まらない自己中なやつで、自分を自分でコントロールできなくて恭次にとばっちりの飛沫をかけてしまう。恭次はたぶん嘘を見通していて見逃してくれているのだろう。パンケーキ屋さんの後にお邪魔した倉橋さんの部屋は全体的にピンクっぽい部屋でフリフリのベットカバーにぬいぐるみがたくさん載っていた。お母さんは仕事で留守にしていて、メイクをしたことがないと言ったあたしのために倉橋さんは化粧をしてくれた。鏡に映るのは初めて見るようなあたしで、太く長くなった睫毛や瞼にできた影や頬にさしたピンク色やツヤツヤ光る唇にわくわくした。清原ちゃんは美人だけどメイクしたらもっと美人と褒められて嬉しかった。本当のことを打ち明けあうのも死にたいねって笑うのも化粧してもらうのも放課後にパンケーキ屋さんに行ったり、お友達の家に寄せてもらうのも初めてのことで楽しかった。すごくすごく楽しくて楽しい時間は早くてあっという間に夕方になった。

学校で残って勉強しているといっても学校は六時半ごろには閉まるのであんまり遅くなると怪しくて、ママに怪しまれないだろうギリギリの時間にはなっていた。秋になると日が暮れるのが早くなって、倉橋さんの家を出ると外は既に暗くなりかけていた。目新しい黒を纏いはじめた空の下で、友達の余韻が冷めないまま家へ向かった。明るい余韻に重い憂鬱の両方が重なってきて、どうして家は普通じゃないのかと考えてしまう。あたしは神に白旗を上げたけど、だってそれはママが選んだものだったと、ママに与えられたものを大切にしてきたんだと気付いてしまって、今ここにいるあたしもこれまでのあたしも脆いものに思えた。ほろほろほろ。あたしの心はクッキーのように崩れて足がもつれる。家に着くと鞄も置きに行かずに洗面所に向かった。いつもより彩りのある顔をしたあたしを記憶に残しておくように数秒見つめると、ママのクレンジングを探して顔をこすった。冷たい水を顔に浴びせて落としながらせっかくのメイクを流さないといけないことを残念に思った。よく洗い流してから顔を上げると普段通りのあたしが鏡に映っていてなんだか悲しくなった。寂しくて顔を拭いたタオルを手に持ったまま床にしゃがみこむ。せっかくなのにもったいなかった。ママに見つかる前にメイクを落とさないといけなかったことがうらめしく、木製の棚を見上げて睨んだ。どうしてあたしは友達と遊ぶことにひそひそしないといけないんだろう。そうしていると、洗面所の扉が開いてびくっとした。ママだったら気まずかったけど扉を開けたのは恭次だった。床に座り込むあたしに不思議そうな顔を向け、「夕食らしいけどもう食べれる?って」と伝えられた。今日のご飯は何ですか。トンカツですか餃子ですかエビフライですか悪魔サタンの素揚げですか。無言の問いかけに当然返事はかえってこない。恭次の手を引っぱると腰が落ちて、いいこいいこの恭次が床にぺったん座った。手を伸ばして頬を撫でると目を見開かれ、問いかけるような顔をされたけれど無視する。恭次の部屋着の黒いズボンによいしょと載って、うんと近くで目を見て、顔を両手で包んでキスをした。んぐ、と声を立てられてどきりとしたけど恭次はきっとあたしを拒否してない。口に舌を入れてぬるぬるした肉を舐めながらこういうキスをするのは二回目だと考える。舌を深く入れて口いっぱいを占領するように舌を動かすと、固まっていた恭次がようやく舌を出してきた。太股から伝わる体温にすら興奮する。犬みたいと笑った時とは違ってお互いの舌がお互いを求めて動いているのが不思議だった。舌ごときの小さな器官に支配され、そこから全身に広がる感覚に夢中になった。これが気持ちいいということなのかもしれないと初めての感覚を覚えて貪欲になる。この感覚をもっと拾い上げて味わいたい。もれる息があたしのものか恭次のものか分からなくて混ざり合った頃、「もう夕食よー」とママの声が聞こえた。行かなくちゃいけないのだけど離れようとはしない。美味しい、美味しいよと舌を舐め合って震える。

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