第9話
ここのところ体育祭に向けての練習が続いている。体育の時間は全てそれに充てられ、運動な苦手なあたしにとって普段の体育の授業も体育祭の練習もどのみち嫌なことには変わりなかったけど、日陰のないグラウンドで熱気にさらされて体育座りをして先生の話を聞かされたり競技の順番待ちをさせられたりすることは不快だった。今日は二組との棒取りの合同練習で、十人ほどが割り振られたチーム同士が戦っているのを座って見ていた。頭を触ったらじりじり熱くなっているほどに強い太陽に当てられた身体がチーズのように溶け出して、グラウンドの砂と混じることを想像する。六年生の時に修学旅行で訪れた広島の原爆記念館で見た写真が脳裏に浮かぶ。でも、このグラウンドにいる皆と一緒に混ざってしまうのは嫌だな。麻子ちゃんの一件以来あたしはますます嫌なやつになっていて神を信仰しない彼らを見下し、休み時間になると聖書を取り出して読むようになった。宗教に浸った気持ち悪い女と周囲に見られてそれが恭次の評判にまで影響するかもしれないと心配にならないでもなかったけれど、柔道の件然り恭次も大概だろうしもういいやと開き直った。まだ練習だというのにみんなは応援に盛り上がっていて、それを尻目に砂ばかり見ていた。でも本当に興味がないというよりこれは感情を振りかざしてはしゃぐ彼らに興味がありませんよというポーズなのであって、みんなはあたしを気にかけてはいないだろうにそんなことをしてしまうあたしは自意識過剰で嫌なやつだった。目だけを動かすと前列の端っこで体育座りをしている麻子ちゃんが見え、それから、2-2倉橋と丸文字で書かれたゼッケンをつけた少女が練習に参加しているのが見えた。この暑さの中、誰にも気づかれずに一人で砂に溶けていきたかった。そうしたら神の国に召されて永遠の命を手に入れられるんでしょう?
とうとう体育祭の前日を丸々一日使って行う予行演習の日がやってきた。今日と明日が終われば体育祭というしょうもない行事は終了する。そして今日はあたしと恭次の誕生日でもあったけれど、うちの宗派では誕生日に特別なお祝いをすることはないので関係のないことだった。十四年前の今日にあたしが先にこの世界に顔を出して、続いて恭次が希望か絶望を見たというだけで。青い空にもくもくつぶつぶした雲が浮かぶ秋晴れの日といっても十月になったばかりのその日はまだまだ暑くて、生徒達の熱気を象徴するような気候と相反して、あたしはとてもつまらない気持ちだった。予行演習は本番さながら全校生徒による入場と開会式の練習から始まる。たくさんの生徒の中であたしは目立たない一粒であって周囲に合わせて行進をしていくけれど、軍隊のように手足を上げながら進んでいくのは見映えに全振りしていてなんとも馬鹿らしい。そのうちに一旦行進が止められてぼうっと宙を眺めていたけれど、やがてグラウンドの端で恭次と誰か知らない男の子が先生に怒られていることに気づく。何してんのよ馬鹿じゃないの。恭次は背が高くて目立つせいかそれとも前に担任の先生に言われたように死んだ魚の目をしているせいか悪目立ちして、時々大人に槍玉にあげられる。馬鹿らしい。顔を上げて空を見上げる。つぶつぶの鰯雲がゆっくり流れていく。あたしもどこかに行きたい。ここじゃなくて例えばお空に、そうね死後の天上の世界に。そうしたら神様と教徒たちだけの優しい世界で永遠に楽しく暮らすんだ。早く救われたい。信仰を持たない人の池に放り込まれてびちゃびちゃと水をかいているのは辛い。行進が再開されて生徒達が所定の場所に辿り着くと開会の挨拶の練習が始まり、まずは国旗掲揚と国家斉唱の時間となった。全体、回れ右っ!の掛け声と共にみんなは右足を回転させて後ろを向いたけれどあたしは下を向いてさっきの姿勢のまま留まっていた。後ろを向かないあたしにみんなは不審な目を向けているかもしれなかったし、それともあたしのことなど気にしていないのかもしれなかったけど、地面に載った足を見ているあたしには見えないことだった。みんなが国家を歌い始めたけれど大きな声で歌っているのは先生達と一部のやる気ある生徒達だけでほとんどの生徒は小さな声で口ずさむだけで、こいつらにはどうして何にも信仰を持たないんだろうと腹が立つ。どこにも何にも信条を持たない生徒達は流されるがままになんとなく君が代を歌う。今朝登校している時に俺は一番前の列だからみんなが後ろを向く時に一人だけ前を向いたままなのがすげえ目立つ、あんずは小さいから目立たなくていいよなと恭次は愚痴をこぼしていた。でもこの学校に数人いる信徒はみんな前を向いたまま国旗を背中で無視するのだ。目立たない場所にいるあたしに恭次のことを言える義理はないかもしれないけど、恭次はみんなのことを気にしすぎているんじゃないか。悪魔サタンの息が吹きかかったみんなのことなんか気に留めなくていいのに。その時そうは言えなかったけど、恭次が言ったことを頭の中で蒸し返し続けていた。ねえ、恭次はやっぱり悪魔サタンの悪影響を受けているのよ。それがどうもむずむずして、国家の斉唱が終わってみんなの生ぬるい歌声がお空の鰯に食べられて何にもなくなった頃、じゃあ恭次と同じようにあたしも汚れたらいいんだという考えがふっと浮かんだ。
種目の間の時間。トイレから出てきた倉橋さんを呼び止めて、「あの、一組の清原ですけど、今ちょっといいですか?」と声を掛けた。話すのも近くで顔を見るのすら初めてだったけれど、「知ってる。あの、宗教の子やんなあ?どしたん?」と笑いかけられて覗いた八重歯がリスみたいに見えた。宗教の子と一言で言い表されたことに驚いたけど、彼女の言い方には嫌味がなくて悪意の感じられない言いように逆にどきっとした。耳慣れてないイントネーションにそういえば彼女は一年生の半ばに入ってきた転校生だったと思い出す。「関西弁可愛いね」と思わず言うと、「ほんまに?ありがとう。こっち来て一年ぐらい経つんやけどいまだに抜けんくてさあ。浮くから嫌やねんけど」と話される人懐っこさに拍子抜けする。
いくらぐらい欲しいん、と聞かれた。お金が欲しいんじゃなくて悪魔サタンに影響されてあたしでオナニーする恭次と同じように汚れたかった。でもそんなことは言えなくて、そんなにたくさんはいらない、でもあんまりこわいことはできない、と言った。倉橋さんはにこにことあたしを値踏みして、いきなりやらせたらあかんで、引っ張るのが大事なんやで、だからラブホは着いてったらあかんで、最初はお茶とかせいぜいカラオケにしとき、とその日すぐにおじさんを紹介してくれた。清原さんがそんなんしたがるなんて意外やわあ、でも分かるで、みんな色々事情があるもんなあと言って、倉橋さんは最初から最後までずっとリスのような愛らしい笑顔を浮かべていて、倉橋さんを穢れた人と見るより可愛い人だと思ってしまった。みんなには内緒にしとくから大丈夫やでと倉橋さんは口のところに人差し指を持ってきてシーのポーズをした。その時見えた手首の傷に目をやってしまったのを気づかれて、ある意味楽なバイトやけどやり過ぎたらこんなことになるから深入りせん方がいいでと笑顔を崩さないまま言われた。まあ、清原さんみたいな真面目そうな子がやりたがるなんておかしいもん、なんか欲しいものでもあるんやろ?と尋ねられて、少し迷ってから、うん、何かは言えないけど、と答えた。内緒なんてずるいわあと倉橋さんは頬を膨らませ、手に入ったら何やったか教えてな、と愛嬌を振りまいて、詳しいことは後で連絡すると言い残すと自分のクラスのテントに戻って行った。体操服のズボンから見えるO脚ぎみの細い脚は不安定で、ミニーちゃんのリボンで束ねた大きなおだんごが歩く度にふわふわ揺れていた。あたしが欲しいのは恭次の心だ。あたしと神を裏切らないように、あたしと神を裏切ったとしてもずっとそうでない振りをし続けてくれるように。
カラオケに来るのは初めてで、そうして気づくのはあたしは世間の歌を驚くほど知らないということだった。待ち合わせ場所に現れた男の人は水色の鞄をかけて緑色のTシャツを着ていて格好がださい以外はまあ普通の、たぶん三十才から四十才ぐらいの優しそうと言えば優しそうな人で、でもお金を出して中学生とデートしたがることを考えると油断ならないすごく気持ち悪い人だった。マクドナルドでバニラシェイクを吸っていたあたしを知らない誰かが「清原さん?」と呼んで顔を上げた時、倉橋さんはあたしを紹介したことでマージンをもらうのだろうと気付いた。「あ、はい」「座っていい?」返事をする前に向かいに腰を下ろされ、「中学二年生なんだって?若いね。というか若いとか言えないレベルですごい若いよね」と感想を言われた。あなたはいくらを倉橋さんに払うんですかと聞きたくなったけど、倉橋さんがそれを丸々もらうんじゃないかもしれないし、仲間と分けっこして倉橋さんの取り分が残ったりするのかもしれない。その人身売買システムで倉橋さんが欲しいものを買って少し幸せになったらいいねと思いながら、「そうですね」と答える。ああ、なんだ、悪魔サタンは近くにいっぱいいて忌み嫌った悪魔サタンにあたしは自ら何かを捧げようとしているのだなとおかしくなってふっと笑う。
音楽の授業で習った歌しか歌わないあたしに、「カラオケ嫌いだった?ごめんね」と男は言い、「初めて来たので嫌いかどうかもよく分かりません」と答えると、「本当にカラオケ初めてなの?」と男は目を丸くし、「すれてない感じが可愛いね。すごく真面目そうだもんね。なんで知らないおっさんと会おうと思ったの?」と重ねて尋ねられた。照明を暗く落とした部屋にこもる煙草とエアコンの匂いが鼻につく。本当のことを打ち明ける義理はなくて、「何かは秘密ですけど欲しいものがあって」と口を濁すと、「いくら欲しいの?」と男の目と唇が醜く曲がった。ああ、嫌だな。鼻からすうっと空気を吸い込むと悪魔サタンの匂い混じりのそれがあたしの中に吸収されていった。ねえ恭次、既にもうちょっと汚れた感じがするけど、まだお揃いになれないかな?「そんなにたくさんはいりません」「高いものじゃないの?」あたしが欲しいものが何なのかなんて何でもいいみたいに顔を近づけてられて首筋に男の唇が触れた。馴染みのない匂いがして、あたしの首が瞬時、石になってぴりぴりと割れていった。首を吸われて柔らかく湿った感触が襲ってきて、不快感に目を瞑った。不思議だ。あたしはどうしてこんなことを???どうして???恭次とお揃いになりたくて。恭次を取り戻したくて。頭はぐるぐる回転するのに身体が石になったあたしは無抵抗に唇を食われた。煙草とエアコンと悪魔サタン臭いカラオケルームでファーストキスが無残に飛んでいって、驚きのあまり目をがっと開いて固まっていると、「口開けてよ」と囁かれた。意味が分からない。え?と聞き返そうとした時、ぬるっとした異物が侵入してきて、何だこれはとわけが分からなくった後にそれが舌であるのだろうことを理解する。ぬるぬるした蛸のようなものが口内で動くおぞましさを与えられているうちにやっと顔を離され、「慣れてないの?」と侮蔑の言葉を吐かれた。死ね、と脳内で誰かが言い、少し黙ってから、「はい」と答えた。「泣きそうになっちゃって可愛いね」と男は指を伸ばしてきて目を拭い、あたしを侮辱した。「じゃあ、今日は程々にしておくけどもう少しだけしてもいい?」目を見開いて悪魔サタンを見上げるあたしは戸惑いにあふれていて、今すぐ逃亡したい思いでいっぱいだったけれど、口と身体が上手く動かずにいると「少しだけ。こわいことはしないよ。今日は痛いことはしないからね。まだそういうのはやめておこうね。慣れてなくって可愛いね」と制服のブラウスのボタンを外していき、シャツを捲り上げて、ブラジャーの上から胸を触った。ひっ、と声が出たはずが、喉がからからに乾いていて何の声も出なかった。
男の粗雑な作りの手にちんまりした胸は容易に収まって、シャツを持ち上げていない方の片手でぐにぐに揉まれて、これは淫行にあたることなのか、でもこんなのは淫らというより恐ろしいだけだと神に嘘をつく。恭次を取り戻すために悪魔サタンに少し何かを売っただけで、これは同胞を取り戻すための仕方なくの行いなのであってあたしは神を裏切っていません。背中に手を回されてホックを外されて胸を露出させられると乳首を冷たい風が掠めた。乳首を舐められ、びくんと身体が震える。恐ろしくて震えているのだと思った。赤ちゃんが母親にするみたいに乳首を吸われて舌先でなぞられて震えているのは恐ろしいからなのだと。は、は、は、自分の口から息がもれていることに気付いて、恐ろしくて恐ろしくて恐ろしいから息が乱れているのだと思った。男の手がスカートの中にパンツにまで伸びてきた時、石になっていた身体がようやく動いて男を突き飛ばした。でも思いのほか腕に力がこもらなくて強い拒絶は伝わらなかったようで、「ああ、ごめんね、こわかった?今日はこれぐらいにしておこうか。でも今度は続きをしようね」と欲望にたぎった顔を向けられたのが暗くした部屋でも分かった。
出会いがけに本名か分からない名前を名乗られていたけれどもう忘れてしまっていて、名前が分からない悪魔サタンは帰りに一万円をくれた。次はもっとお金をあげるからもっといいことをしようね、と言われて倉橋さんの顔をつぶすのも悪いので曖昧に笑い返したけど次なんてないんだよボケで、あたしは恭次とお揃いの汚れを手に入れて夕方の町に一人になった。日が沈みかけているからたぶんもう六時ぐらいでいい時間だ。夕食の前に家に帰らないといけないけれど悪魔サタンがくれたものを持って帰るのが嫌でつけられた呪いを分散したくて、会では禁止されている誕生日プレゼントを恭次に買って帰ることを思いついた。違う、あたしは神の教えにそむいているんじゃなくて、全ては同胞を取り戻すために必要なことなのだ。あたしは神を信じ神を愛している。悪魔サタンと待ち合わせて別れたのは学校から離れた都会の駅だった。その近くのショッピングモールで売っていた腕時計を以前恭次が欲しがっていたのを思い出す。恭次を会に縛り付ける呪いを刻むのに共に時を刻む時計はぴったりだと嬉しくなって顔が緩んだ。あたしの顔は夕暮れの暗みかがった空に隠され誰にも見えない。
翌朝の登校時、恭次の腕には時計がついていなくて、「きょうちゃん時計は?つけてくれないの?」と不満になって尋ねると、恭次はにっこり笑って通学鞄のポケットから取り出し、「ママに見られたら面倒だと思ってさ。家を出てからつけて、帰る前に外そうと思って」と得意げな横顔で腕に時計を巻いた。悪魔サタンに穢れをもたらされた対価でもらった呪いが恭次の腕に絡み付いている。「気に入った?」と聞くと、「すごくね」と恭次は答えた。なんてこの子は屈託がないんだろう。抱き締めたくて、そんな可愛い恭次が会から離れていかないように守ったことを神様に褒めてほしくて、でも澄ました顔をして、「よかったね」と言ってみる。今日は体育祭の本番の日だ。昨日より少し涼しい朝の風が頬を撫でる。あたしは悪魔サタンに危険をさらすことで恭次を守ったのだと、ちゃんちゃらおかしい思いを有して学校への道を歩いていく。ねえ神様、身を挺して恭次を守ったあたしを褒めてください。あたしはあなたに背いていません。
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