【KAC7】失踪迷探偵剣崎改と最高の目覚め

 眠れぬ夜が続いている。

 丑三つ時。シングルベッドに横たわりながら、姫影百合子は天井を見上げていた。遮光カーテンの隙間から僅かに入り込む光線を頼りに目を凝らしてみるものの、人の顔に見える染みは見当たらない。そもそも、然程古くないリフォーム済みの単身者用アパートを借りているので、染み自体が天井に存在していなかった。

 その事実に思い至った百合子の胸に、奇妙な息苦しさが去来する。何故、締め付けられるような感じがしたのだろう。顔がなくて詰まらないからか。期待していたのか。それとも淋しいのか。百合子自身にも分からない。ただ謎の苦しみがそっと訪れて、余韻もなく静かに去っていった。

 耳に装着していた白いイヤホンからは、何処かの局によるラジオ番組が流れている。「散々アタシを振り回した男を呪い殺す!」と意気込む、アグレッシブな女の心を歌った女性ロックバンドの楽曲は、百合子の興味を全く惹かなかった。が、次に始まった「今夜のテーマ『最高の目覚め』」についてのエピソードを紹介するコーナーは、しっかりと心の琴線に触れた。

 恐らくは最近流行りの俳優か何かだろう、深夜に相応しくないハイテンションな声が、リスナーからのメールを読み上げる。

『早速、お便り読んでいきまっしょう!! ラジオネーム、アラケンさん!

【三周くん、今晩は! 三周くんは『卵かけご飯』という存在を知っていますか? 恥ずかしい話ですが、私は一月前まで、卵かけご飯を知らずに生きていました。教えてくれたのは昼の某番組と、その番組を一緒に観ていた部下です。部下は卵かけご飯を知らない私の為に、即日、卵かけご飯を作ってくれました。あの時の感動! 私は忘れられません! 白米に生卵と醤油を混ぜただけなのに、あんなに美味しいなんて!! あの瞬間、私は卵かけご飯に目覚めました。正に『最高の目覚め』でした。その日以来、卵かけご飯を極めるべく、探求の毎日を送っています!】……ですって。

 卵かけご飯かあ……確かに美味しいよね。うん、俺も大好き! え、でもさ、卵かけご飯知らん人って居る!?』

 パーソナリティーを務める男が、快活な笑い声を上げながら誰かに問い掛ける。ブースの外に居るスタッフと会話をしたのだろうか。違う男の声が微かに聴こえる。

『居る……かなあ? えぇ〜、全日本国民が知ってる国民食だと思うんだけど。まあ、あの、アレなのかな。アラケンさん。すっげぇ金持ち、みたいな。貧民の食事なんて花壇の肥料にしてしまえ、みたいな。それか衛生面に滅茶苦茶厳しいお家とか。ほら、食中毒あったじゃん。ずっと昔に。それを気にし続けて生卵禁止になった家の子とかなのかな。……あ、でも、アレか。子、じゃないのか! 部下って言ってるもんね!! えっ、じゃあ、それなりの歳イってて知らないってこと!? めっずらし〜!!』

 再び、喧しい程の笑い声。やはり背後には、複数の賑やかな声が混じっている。

『まあでも! 卵かけご飯に目覚めてくれたことは素晴らしいと思います! だって、めっちゃ美味いもん! 炊き立てホカホカの真っ白いご飯にさ、卵割って、醤油垂らして、ぐちゃぐちゃーって。で、ずずずーって掻き込むの。最強だよね。白米ってのが重要よ。今、ほら、十六穀米? とかあるじゃん。健康に良いやつ。アレじゃなくて純粋な白米であって欲しい。個人の感想ですけど。

 ……友達にさあ、米は白米なんだけど、卵にネギと納豆を入れるのが好きな奴が居るんすよ。あ、あとタレね? 納豆に付いてるやつ。俺も嫌いじゃないんすよ? 納豆卵かけご飯。でもね……TKGに納豆は要らない! 美味いけど! めっちゃ美味いけど! 要らん!! やっぱアレよ、シンプルイズベスト! TKGはね、卵! 白米! 醤油! これでオッケー!! ただ、アラケンさんが極めた、アラケン流卵かけご飯も知りたいので、良ければ是非! 追伸をね! 追いメールを! よろしくお願いします!

 それでは次のお便り行ってみましょう。ラジオネーム──』

 まだまだコーナーは続いているけれど、百合子は、それ以上聴く気になれなかった。枕元に置いていたスマートフォンを手に取ってホームボタンを素早く二回、連打する。人差し指の先を画面上部にスワイプさせれば、煩い声がアプリ終了と併せてフェードアウトした。百合子の耳に静寂が訪れる。

 イヤホンを外す。スマートフォンごと壁に投げ付けようとして、止めた。投げ付けたところで湧き起こった憤りは抑えられない。眠れぬ夜も終わらない。何よりスマートフォンに罪はなかった。

 憤りの源は、ラジオパーソナリティーが読んだエピソードを送った人物。アラケンにある。

 百合子は確信していた。

 アラケンは百合子の勤め先である『剣崎探偵事務所』の所長、剣崎改だと。


 非凡で非常識。宇宙人並みに理解不能な脳味噌を有する探偵──剣崎改が、愛猫を抱きながら「『卵かけご飯』って何だい?」と言い出したのは、まさに一月前のことである。テレビから流れるワイドショーの音をBGMに、上司が放置した大量の事務作業を黙々と消化していた百合子は、思わずその手を止めて反応してしまった。予想外だったのだ。人間の生態と文化を筆頭に、知らない事など何一つないような男の口から「卵かけご飯ってなに?」なんて言葉が飛び出してくるとは。宇宙人にも知らない事があったんだ! 否、宇宙人だからこそ知らないのか! 百合子は顔を覆って震えた。感動からくる震えだった。

「……百合リン、君、失礼なことを考えているね?」

「いや、全然、考えてません」

「……まあ、良いけど。それより、質問に答えてよ。卵かけご飯って何だい?」

「あの、その前に。何で突然、卵かけご飯なんです?」

 剣崎は百合子からの問いに、ついと指を指して答える。その先にはテレビがあった。最近オープンした『卵かけご飯専門店』を取材しているらしい。満面の笑みで頬を膨らませたリポーターの「んー! 美味しいですー!」という感想に、画面端のワイプに抜かれた司会者やコメンテーターが心底羨ましそうな顔をしていた。確かに、昼時に観るにしては空腹に優しくない映像だった。百合子の腹も誘発されて「羨ましい」と訴えそうになる。

「僕にはまるで分からない。ただ炊いた白米に生卵を落として醤油を垂らして、混ぜただけだろう? 本当に美味しいの? 専門店を出す程に?」

「そうですけど……」

 百合子は卵かけご飯がどんな物かを説明しようと口を開いた。けれど、直ぐに噤んだ。壁に掛けられたアンティーク調の壁掛け時計を見つめながら暫しの間、考えを巡らせる。そして誰に聞かせるでもなく「よし」と呟くと、オフィスチェアから腰を上げた。

 眉を顰めた剣崎から眼だけで「何をするつもりだ」と問われる。如何にも訝しげな視線に、百合子は苦笑いを浮かべて「作って上げますよ」と言った。「んえ!?」と、らしくない間抜け声が事務所内に響く。

「作るってまさか、卵かけご飯をかい?」

「そうです。昼食に丁度良い時間ですし、私も休憩したいです。剣崎さんもお腹空いたでしょう?」

「空いたけど……えぇ、良いよー。作んなくて。だって、アレ、生なんでしょ? サルモネラ菌にあたったら如何するの」

「日本の卵は安全なので大丈夫です」

「馬鹿だなあ、百合リン! 君、生卵の危険性を知らないのかい? 確かに日本の卵は欧米の卵に比べたら、そりゃあ安全だよ。過去に相次いで起きた食中毒事件の教訓から、家庭に出荷されている卵の殆どは専門施設できちんと洗卵されているんだ。けれど、それも完璧ではない。日本卵業協会によると、十万個に三個の割合でサルモネラ菌に汚染されているらしい。勿論、菌に汚染されていたって適切な温度管理と定められた保存期間を守れば問題なく食べられるよ。事務所ウチの冷蔵庫の設定温度は六度。生卵の保存温度は食品衛生法で十度以下が望ましいとされているから、設定自体は問題ない。でも、百合リン、卵をドアポケットに備え付けられたケースに保管しているだろう? あそこはドアの開閉で温度が安定しないから──」

 止まらない蘊蓄うんちくを聞き流しながら、百合子はミニキッチンに立って調理を開始した。調理と言ってもレンジで解凍した冷凍ご飯を茶碗に、刻んだ葱は小鉢に盛り、ボウル型の食器に卵を割り入れるだけである。テレビに映し出された『卵かけご飯専門店』の雰囲気に少しでも近付けるため、溶きほぐす作業と味付けは自分で行ってもらうことにした。

 応接スペースとは別に設けられたダイニングテーブルに必要なものを配膳して、「薀蓄は十分ですから、手を洗ってこっち来て下さいよ」と声を掛ける。やや不満気な様子を見せた剣崎だったが、結局は百合子の言葉に従う他はないと判断したらしい。解放された看板黒猫──黒太からの「吾輩にも餌を寄越せ」の要求に応えている間に、洗面所から帰還して席に着いていた。

 着席早々、生卵を覗き込み始める。その姿に笑いそうになる。百合子は込み上げる笑いを咳払いで誤魔化すと、対面に座って「味付けは、ご自分でどうぞ」と告げた。

「オーソドックスな調味料を全部出してみました。普通の醤油に麺つゆ、白だし、食べるラー油。味の素。かつお節。牡蠣醤油とかあれば良かったんですけどねえ……。あ、葱もお好みで入れて下さいね」

「うん……百合リンは、何入れるの」

「うーん、如何しよう。……醤油……いや、やっぱ麺つゆかな」

「麺つゆ」

「あと、ちょっとだけ食べるラー油も」

「食べるラー油」

「…………迷うなら基本中の基本、醤油と味の素コンビ一択です」

 こうして剣崎の『卵かけご飯デビュー』は果たされた。見よう見真似で混ぜ合せ、一口食べた時の反応といったら! 語彙力が急低下して「美味しい!」しか繰り返せない様子に、数日はこのネタを思い出して笑ってしまいそうだなと思った。それぐらい凄まじく珍しい光景だった。

 翌日。剣崎改は事務所から姿を消した。黒太と一緒に。「旅に出る」「給料の心配は無用」「連絡するまで事務所の掃除ヨロシク」の三行を記した手紙だけを残して。

 そして、百合子の眠れぬ夜が始まったのである。

 シフト通りに出勤して、手紙の指示通りに掃除を熟した。ドアには「探偵不在の為、誠に勝手ながら休業させて頂きます。※無期限」の貼り紙をした。スズランの水遣りも欠かさない。どう頑張っても退勤時間まで暇になってしまうから、山積みのままだった事務作業を処理した。けれど、その業務も静かすぎる空間では、あっという間に終了してしまう。所長の消息が絶たれて二週間も経てば、百合子の仕事は本当に、掃除と水遣りと、偶に鳴る電話に対応するだけになってしまった。剣崎からの電話に必ず出られるようにと敢えて留守番電話に設定しなかったが、受話器をとる度に求める声とは違う声を聴かされて、毎回肩を落とす羽目になった。

 眠れないのは何故だろう。思案して、「体力が余っているから」という結論に達した。碌に仕事をせず、以前よりも体が疲労していないのだ。そりゃあ眠気も来ないわけだ! と、百合子は退勤後にジョギングをすることにした。お陰で、就寝時間が早くなった。けれど、睡眠時間は通常の半分にも満たなかった。

 目の下に生まれた隈を指先でなぞりながら、百合子は愕然とした。まさか自分が、たった一人の男の失踪で、こんなにも生活を乱されるとは。しかも相手は愛する恋人でも家族でもない。探偵事務所の所長。勤務先の上司。自分達を監禁し殺害を企てたサイコパスを「脱出より先に殺す」と宣言し、毒を盛って実行した宇宙人である。アンタの方がよっぽどヤベェ奴だよ! と関係者各位から太鼓判を押されるような男が居なくなったぐらいで、如何してこんなにも眠れないの!

 一月もの間、百合子の頭を悩ませ続けた問題が、ラジオ番組に送られたアラケンからのメールで解決してしまった。時間にして、僅か数分。実に呆気ない解決篇だった。

 通話アプリを起動させる。文句の一つ、否、百個ぐらい送り付けてやろうと思って、止めた。耳に残っていた女性ロックバンドの曲をネットで検索し、歌詞をコピーアンドペーストして、文句の代わりに送信する。既読マークは付かない。けれど、それでも構わない。まるで痼りが取り除かれたように、胸はすっきりとしていた。既読されるのを見届けることなく、百合子の意識は暗闇の中に溶けていった。


 久々に熟睡した百合子の意識を呼び戻したのは、慣れ親しんだスマートフォンの目覚まし音ではなかった。妙に甲高い声で紡がれる「百合子ぉ、もう朝よぉ」の台詞が耳障りで、頭からすっぽりと布団を被る。伸びた語尾も腹立たしい。

「本当にもう、寝穢いんだからぁ。ほらほら、早く起きて探偵事務所行かないと! 剣崎さんに怒られるわよぉ!」

「……所長、如何やって私の家に入って来たんです。不法侵入で警察呼びますよ」

「ピッキングに決まっているだろう、そんな簡単なことも分からないのかい?」

「分かりたくなかったし、分かりたくもない……」

 未婚女性が一人で暮らしている部屋にピッキングで侵入する男など、犯罪者一択だと思っていた。百歩譲って善良な市民枠に該当する大家が呼んだ鍵屋。現実から目を背けるように、布団を掴む百合子の手に力が入る。が、無情にも布団は宇宙人の手によって剥がされてしまった。

 カーテンを開け放した窓から差し込む朝日が、寝惚け眼を容赦なく攻撃する。素足に温かくて柔らかい何かが触れる。見遣ると黒猫が一匹、体を丸めて眠っていた。

「さあ、起きて。ああ、先ずは顔を洗って来なよ。そして一緒に朝食を食べよう。心配を掛けた詫びに、僕が作ったんだ。百合リンが食べたことのない、究極の卵かけご飯だよ」

 事務所と共に、たった一人の従業員を置いて旅に出た探偵は、朝日を受けて眩いほど輝いていた。百合子は剣崎の無邪気な笑みに対し、言葉にし難い苛立ちを感じた。同時に、萌える木々の中に立って深呼吸をした時の様な、軽やかで清々しい気持ちもあった。

 双方は矛盾した感情である。けれど、百合子の心を確実に癒していた。姫影百合子の暫定「最高の目覚め」は、今この瞬間だった。何物にも変え難い日常が、漸く戻って来た気がした。


(了)

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2番目でも良いから最高の目覚めの後に「3周年おめでとう」と伝えたい名も知らぬキャラクターの物語 吾妻燕 @azumakoyomi

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