少年の記憶
部屋が薄暗くなり、陽が落ちかけているのだと気が付いた。ロムは記録帳をめくる手を止めて、ため息をついた。
待ち人は現れなかった。同じように、トールもため息をついた。
「まあ……そんなにすんなりとは、いかぬよのぅ……」
返事はできなかった。否定できないけれど、肯定もしたくなかった。
もう一度息を吐き、止めた手を再び動かし始めた。
「まだやるのか?」
「うん、まあ。フーヘンさんが戻ってくるまではね」
彼はかなり前、呼ばれて出て行ったまま戻って来ない。待ち人来たりと心躍らせたけれど、例の客人ならロム達もすぐ呼ばれるはずだ。こんなに時間がかかるなら別件なんだろう。
「トールは仕舞っていいよ。文字追うの苦手でしょ?」
獣耳がペタッと垂れて、申し訳なさそうな顔になった。少し嫌味な言い方だったと後悔した。したけれど、取り繕う元気はなかった。
「のう、ロム……」
力無い呼びかけに、上の空を装って曖昧な相槌を打った。困ったような気配が伝わってきて、自分の意地悪さと察しの良さが嫌になった。
「お主、シンではなんと呼ばれておったのじゃ?」
「呼ばれて……? 名前の事?」
「うむ」
「それ今、必要?」
「い、いや、必要ではないが……ちぃと、知りたくなっての」
また沈黙が訪れた。気まずい空気が流れた。
こんなの良くない。思い通りにいかないからって、トールに八つ当たりしているだけだ。
―—謝ろう。
そう思って顔を上げると、彼の方が先に口を開いた。
「アイラスも知りたがっておったぞ」
「な、なんでアイラスが、その事を知ってるの? ……話した?」
「言うてはおらぬが……わしの知るところは大体、あやつにも筒抜けじゃからのう」
当然の理由に思わず吹き出した。
彼が隠し事をできないのは良く知っているし、その話は以前にも聞いた。少し考えればわかる事だった。
だから今の笑いは、浅はかな自分に対して込み上げてきたものだった。
「そ、そんなにも、珍妙な名前なのか?」
どうしてそうなるのか。誤解も甚だしい。笑いが止まらなくなった。
「そ、そうじゃ、ないよ。……ごめん」
「は? 何を謝っておるのじゃ?」
笑いを噛み殺しながら、記録帳にしおりを挟んで閉じた。
いくらなんでも、トールの意図するところは察しがついていた。どうでもいい話題を振って、作業を中断させたいのだと。
自分が疲れている事は自分が一番よくわかっていた。
いつのまにか、心は安らいで空気は柔らかくなっていた。だから今は、彼の気遣いに甘えようという気持ちになった。
「昔の俺の名前は、シンっていうんだよ」
「国の名と同じかの?」
「音はね。でも意味は違う。国は天子の住まいって意味で、俺のは本当って意味なんだ」
「……良い名じゃの」
「良い……?」
その言葉の意味をかみしめた。考えた事もなかった。今改めて、いや多分、初めて考えた。
「そう……かも、しれないね……」
それでも、そう思っても、ロムは首を横に振った。
「でも今は、俺の名前はロムだよ。ニーナが、俺が歩き出せるようにって、願いを込めて付けてくれたんだから」
「うむ。ロムも良い名じゃ」
トールが嬉しそうに頷き、ロムも頷いた。
それから、ふと思いついた。
「名前といえば、俺もトールに聞きたい事があるよ」
「わしには古き名など無いぞ?」
「そうじゃなくて、アイラスの事だよ」
本当は知らなくてもいいと思っていた。でもアイラスが知りたがったというロムの名は、トールに話した時点で遅かれ早かれ伝わってしまう。それならこっちだって、彼女の秘密を一つくらい知りたかった。
「アイラスに名前を付けたのはトールじゃないの? 違うなら、本当は誰なの?」
軽く聞いたつもりだった。それなのに、トールの反応は激しかった。めいっぱい目を見開いて、顔は苦悩に歪んだ。
聞いてはいけない事だったかと焦り、あわてて言い訳するように付け加えた。
「あの、他国の言葉だから、そっちの出身なのって、アイラスに聞いた事があるんだ……」
「あやつに、聞いたのか……」
「ダメだった……?」
聞いた時のアイラスの様子を思い起こした。友達に付けてもらったと言っていた。トールかと聞くと返事はなく、涙ぐんでいた。
―—そうだ、泣いてた。
トールだったなら、泣く必要は無い。と思う。では一体誰が?
アイラスは去年の五月、原初の魔法使いの記憶を植え付けられて、生み落とされたと聞いている。ロムがトールに出会ったのも五月。
もし。それらが同じ時なら?
名前は無いと不便だから、すぐ付けた可能性が高い。あの場には、覚えてないけどアイラスが居て、他にはロムとトールだけ。トールが違うのなら——
心が強く揺れた。
——それなら『アイラス』とかどうかな。北の国の言葉で美しいって意味なんだ。
自分の声が頭に鳴り響いた。静かな口調なのに、聖堂の鐘のように頭を強く揺さぶった。
想い出が次々と揺り覚まされ、白い泡のように後から後から沸いてきた。
小さな泡は繋がって大きな泡になり、記憶が頭の中を駆け巡った。
「……れ、だ……」
「何じゃ? 何と言うた?」
「俺だ……! 俺が、名付けた……!」
トールは勢いよく立ち上がったけれど、ロムは動けなかった。
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