少年は少女を想う
震える手で口元を押さえた。
嬉しさと申し訳なさが心をかき混ぜて、喜びたいのか落ち込みたいのかわからなかった。
「そりゃあ、泣くよねえ……。名付けた本人に、そう聞かれたら……」
「泣かしたのか!」
「ごめん……」
「わしに謝っても仕方なかろう! 全く、おぬしというやつは……」
ため息をつかれ、居たたまれない気持ちになった。
呆れたトールの顔が、ふっと嬉しそうに緩んだ。その表情のまま首を横に振った。
「わからぬものじゃのう……。武術大会の一件より、名付けの方が、おぬしの心を揺さぶったのじゃな……」
「そうだよね、記憶って不思議……。衝撃は、あっちの方がすごかったのに」
自身を刺したアイラスを思い出すと、今でも心が痛んだ。
彼女は、あの時と同じ事をしようとしている。させちゃいけない。記憶が戻った今なら、わかることがあった。
「やっと、わかったよ」
「何がじゃ?」
「記憶を消された理由。あの時、俺、アイラスが戻らないと思って……全部、諦めたから、だから……」
自分がもっと強ければ、アイラスはこんな事をしなかっただろうか。今更ながら弱い自分に腹が立ち、顔は自然と下を向いた。
「……そうじゃ。アイラスが心配するは、おぬしの事ばかりじゃ。自分の事は差し置いてな」
静かでも強い口調に驚いて顔を上げた。真剣な顔のトールと目が合い、射抜かれたように動けなかった。
怒っているのかもしれない。
トールがアイラスの事をどう思っているのか。思い出した今でも、はっきりわからなかった。
そうでなくとも不器用な彼の事だ。アイラスの想いを一人で受け止めるのは、相当な苦労だったと思う。ザラムも言っていた。限界だと。
「ごめん……」
今度こそ、心の底から謝った。
そうすると、今度はトールの方がうろたえた。
「い、いや、ロムは悪うないぞ? どちらかというとアイラスの方が……」
「でも、トールは一人で大変だったでしょ? ……あっ、ザラムも思い出してたんだっけ」
「いやぁ、あやつはアイラスに詰め寄るばかりでのぅ。余計に心労がかさんだわ」
ありありと目に浮かんで、思わず吹き出した。トールも笑っていた。
「俺やっぱり、もう少し探してみるよ」
「無理はしておらぬか?」
「してないよ。むしろ気分が盛り上がっちゃって」
「仕方がないのう……」
さっき閉じたばかりの記録帳を開いた。部屋はさらに暗くなっていたが、気持ちは明るかった。
そう思っていると、本当に明るくなった。顔を上げると、トールが魔法で光を灯していた。
「今日だけじゃからな。明日からは今まで通り、日が落ちたら止めるのじゃぞ?」
「うん、ありがとう」
見やすくなった記録帳に目を落とし、一枚ずつ職業の欄を確認してめくっていった。何日も繰り返して、手慣れた流れ作業のように進めながら、頭では別のことを考えていた。
なぜアイラスは、自身を軽く扱うんだろう。自分を大切にできない者は、周りも大切にできないというのに。
そう教えてくれたのは誰だったか。でもアイラスを行動を見ると、それは少し当てはまらない気もする。
何だろうと考えて、少し手が止まった。
多分、彼女は自分の気持ちには正直で、信念を曲げたり誤魔化したりしない。でも自分の身体を、命を大切にしない。
——アイラスは、母の腹から生まれた子ではない。
いつだったか、トールが教えてくれた彼女の真実が、頭の中で鳴り響いた。彼女は、自分の事を複製品とでも思っているんだろうか。だから——
——そんな事、絶対にない。
思わず指に力が入り、帳面にシワが寄った。ヤバイと思って慌てて伸ばしていると、遠くにフーヘンの声が聞こえた。やっと帰ってきた。
「失礼します」
フーヘンが嬉しそうな顔で部屋に入ってきた。
ところが、魔法の灯りとロムの手元を見て眉根を寄せた。
「まだ仕舞われてなかったのですか? 根を詰めてはいけないと申し上げたでしょう」
すみませんと言いながら、トールの顔を伺った。目が合うと首を横に振られた。これは諦めるしかない。
ホンジョウもこんな風に叱られてたっけ。勝手に想像して気持ちを紛らわせた。
「何か嬉しそうじゃったが、良き知らせでも?」
「ああ、はい。明日、例の客人が来て下さるそうです」
「本当ですか!?」
「ええ。すぐに知らせに戻れず申し訳ありません。言伝の方が口の回るお人で。なかなか解放して下さいませんでした」
そんな事はどうでもいい。
潰えたと思った道は、まだ繋がっていた。希望の灯火は、消えてはいなかった。
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