少年の心は複雑
何かが落ちる音がして顔を上げた。アイラスが倒れかけていて、トールに支えられていた。
地にはスケッチブックが落ち、炭が転がっていた。
老婆の幻は消えていた。アイラスの中に入ったのだとわかった。
レヴィは乗っ取られると言っていた。魂の色とやらが違っても、それは起こりうるんだろうか。
ロムには仕組みがわからないし、色も見えない。トールの名付け親の心根か、アイラスがかけた保険を信じて待つしかなかった。
不安を打ち消すように足を進めた。しゃがみ込み、スケッチブックを拾って、転がる炭を追いかけた。
「トール……」
優しく呼びかける声が聞こえた。その声音はアイラスのものだけど、今まで聞いたことのない深い愛しさが込められていた。心の奥が痛む気がした。
炭を拾って顔を上げ、彼女を見た。
明らかに表情が変わっていた。落ち着いていて、物静かで。いや、アイラスも大概落ち着いているのだけど。
目は少し潤んでいて、まっすぐにトールを見つめていた。
「お主……なのか……?」
問われて、アイラスが柔らかく微笑んだ。いや、今は違う。アイラスじゃない、はずだ。そう思っても、胸のざわつきは止まらなかった。
少女は立ち上がり、もう一度トールを見つめ、自身の身体を見た。そして、ロムとレヴィを見た。
急に目が合い、心臓が止まるかと思った。
彼女はトールに向き合い、倒れかかるように抱きついた。
「良かった……。今は、お友達が居るのね……」
アイラスの声だけれど、言葉が違った。ここよりもさらに東、シンがあった隣に位置する大陸の言葉。
だから違う。アイラスじゃない。何度も何度も自分にそう言い聞かせた。そうしないと、嫉妬で狂ってしまいそうだった。
「わしは……わしは……! すまぬ……! わしのせいで……」
「私こそ、ごめんね。独りにして、ごめん……」
少女の手が、再び涙で濡れた頬に添えられた。二人の顔が近づき、ごくあっさりと唇が重なった。
反射的に目を逸らした。見たくなかった。
目を閉じても、吐息と舌を絡める音が耳に響いた。
嫌だ。聞きたくない。
耳を塞ごうとして、手に持ったままのスケッチブックと炭が邪魔になった。
苛立った瞬間、乾いた音が響いた。
驚いて目を向けると、頬を押さえたトールが尻餅をついていた。その前に真っ赤な顔で、眉を吊り上げたアイラスが仁王立ちしていた。
「な……な、何、すんの、ヨー!!」
「わ、わしは何も、しとらんぞ!」
「し、知らない!! 最低!! トールの、バカー!!」
何だか既視感があった。ロムはため息をつき、レヴィは忍び笑いを漏らしていた。
レヴィが肩をちょいちょいとつついてきた。振り向くと、紙と炭が差し出されている。もう必要が無い、つまり終わったという意味だろう。
受け取って、自分が持つそれらと合わせて持ち直した。
「アイラス、落ち着いて。トールが悪いんじゃないでしょ?」
自分に言い聞かせるように声をかけると、彼女は弾かれたように振り向いた。
その目前に、紙を挟んだスケッチブックと炭を二個差し出した。それらを目で追ってうつむき、またすぐ顔を上げた。
「ち、違うノ! 今の、私じゃない……私が、その……したんじゃ、ないヨ……!」
「わかってるよ。だから、落ち着いて」
アイラスは乱れた髪を整えながら、炭を手に取り皮袋に入れた。呼吸を整えるように深呼吸して、スケッチブックを受け取った。
それを胸に抱え込むと、熟れたリンゴのような顔が半分隠れた。
慌てている彼女を見ていると、逆に自分が落ち着いてくる気がした。全力で否定する様子が嬉しくもある。
我ながら性格悪いなと自己嫌悪した。
落ち着くと、少し冷静になった。ここに来た一番の目的を思い出した。
「ねえ、ソウルイーターに囚われていた魂は……?」
「エッ、あ、うん。それは、全部アールヴヘイムへ帰ったヨ」
それはつまり、彼女に合う魂が見つからなかったという意味だ。
もしあれば、それをみすみす返したりはしないだろう。仮に彼女がそれを見過ごしても、トールやレヴィが見逃すはずがない。
ロムはがっかりしたけれど、アイラスは気にしていないように見えた。逆にそれが心に痛かった。彼女はやっぱり戻りたいのかもしれない。
「終わったなら戻るぞ」
レヴィが面倒くさそうに言い放ち、さっさと歩き始めた。
ハッとして、まだ座り込んでいるトールを見た。少しぼんやりとしていて、頬に手を当てている。あの紅葉の跡は、しばらく消えないだろうなと思った。
「アイラス」
「な、何……!?」
「トールに謝っておいでよ。トールは悪くないよ」
「わ、わかってる……ヨ……」
アイラスは諦めたようにため息をついて、小走りでトールに駆け寄った。見ていない方がいいかなと思い、レヴィを追って部屋を出た。
彼女に追いついて隣に並ぶと、横から笑う気配がした。嫌な予感しかしない。
「おまえも大概わかりやすいよな」
からかうように言われ、返答ができなかった。心を見透かされている。アイラスにはバレてないといいけれど。
我知らず、大きなため息が漏れた。
「恋のため息か?」
「やめてよ、そんなんじゃないよ」
嘘だ。大当たりだ。でも否定したかった。
だから、他の話題を切り出した。
「俺達はアイラスに、この世界に居て欲しいのに……本人は戻りたいだけなんだなって思ってさ……」
「戻りたい?」
「ほら、原初の魔法使いに……彼女のあるべき世界へだよ」
今度はレヴィがため息をついた。
「……お前さ、俺の話を聞いただけで、理解はしてねえんだな」
「え?」
「魂には心も記憶もない。さっき晴らした未練は魂のモノじゃねえ。ただの残留思念だ」
「じゃあ、乗っ取られるって言うのは……?」
「もちろん思念の方にだよ。あの魂はアイラスには定着しない」
心と魂を混同していた。魂には心がない。記憶も無い。
昨夜アイラスが言った内容を、完全に勘違いしていた。あるいは、わざとそう受け取れる言い方をしたのか。
「アイラスの魂が原初の魔法使いに戻っても、そこにあいつの心と記憶は無い」
足が止まった。まだ来ないアイラスを思って、後ろを振り返った。背中から、レヴィの声が追い討ちをかけてきた。
「魂が無くなれば、アイラスという存在は……あの幼い身体と共に朽ち果てるんだよ……」
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