少年の世界は変わった

 遠くから、誰かが呼ぶ声が聞こえた。


「……ム、……ロム!」


 ハッと身を起こした。途端に、頭に衝撃があった。


「いって……」


 頭を押さえて薄目を開けると、ザラムが同じように頭を押さえていた。


「ご、ごめん」

「いや、いい。……大丈夫か?」

「……そうだ! トールが、悪魔にやられて……!」

「やられて?」


 ザラムが訝しげな顔をした。部屋を見回すと、ホークを抱えるニーナが居て、同様に不思議そうな顔でロムを見ていた。


 トールは、ロムのすぐ隣に横たわっていた。眠っているようだった。

 そう見えても、死んでいるんだ。その事実を伝えるのが辛くて、ロムはうつむいた。




 床を見ると、違和感があった。綺麗だ。流れたはずの血が、どこにも付いていない。


 顔を上げて再びトールを見た。確実に心臓を貫かれたはずなのに、傷一つなかった。目を凝らしてよく見ると、呼吸で胸が上下している。まさか。


「トール! 生きて……!?」


 ふと自分の胸元を見ると、そこにも傷はなかった。裂かれたはずの服も無事だった。


「あれ……?」


 記憶がどこかぼんやりしていた。ぼやけた記憶の中で、誰かに傷を治してもらった気がする。

 はっきりしない頭を振っていると、ザラムが声をかけてきた。


「ロム、この子、どうした?」






 顔を上げると、トールの向こうに黒髪の少女が横たわっていた。同じように、眠っているかに見えた。






「え……知らない。……誰?」






 少女は赤い石のイヤリングをしていた。

 それは、ロムがトールから貰った物と同じだった。だとしたら、トールが知る子かもしれない。彼が起きたら聞いてみよう。






 誰かがドアをノックした。ニーナが返事をして、ジョージが入ってきた。ロムと目が合うと、優しく微笑んだ。


 それから彼は、ニーナの元に向かった。彼が持つ折り畳まれた服は、ホークの物のようだった。

 疲れた顔のニーナが、ホークを揺さぶった。弱々しく声をかけると、その目が薄く開かれた。


 ホークは、自分のした事を覚えているだろうか。ロムの記憶は曖昧だった。自分以外の誰かに、詳細を聞きたかった。でもそれは、彼を傷つける事になるかもしれない。




 何も言えないまま、ぼんやり見ていると、ホークの目が見開かれた。あわてて身体を起こし、ロムを見た。


「ロム……! 生きて、いたのか……」

「勝手に殺さないで下さいよ」

「トールは……?」

「まだ眠っています」

「彼も、生きて、いるのかい……? まさか……」

「とりあえず、服を着て下さい」


 裸のまま立ち上がろうとするので、ため息をつきながら言った。


 なんだか身体がだるい。やはり血は流れたのかもしれない。貧血を起こしているような気がする。だとしたら、誰が傷を治してくれたんだろう。ザラムは違うようだった。




 服を着たホークが、眠るトールの首筋に指を当てた。信じられないという顔をしている。

 それを見ると、やっぱり聞こうと思い直した。


「先生。俺、あんまり覚えてないんですけど……悪魔になった先生は、何をしたんですか?」


 ホークの顔が苦悩に歪んだ。我ながら酷い事を聞いていると思う。無意識とはいえ、誰かを傷つけたと自覚させようとしている。それでも、事実を知っておきたかった。




「ロム、君を……斬り裂き、トールを、貫いた……」

「でも今、俺達は無傷です。誰が治したんですか?」


 ロムは、血で染まったこの部屋で、トールの死を確認したような気がする。少なくとも怪我はしていた。トールは転移するだけで精一杯のように思えた。




 ホークは返事をしなかった。聞く相手を間違えた。彼は今、目覚めたばかりなのだから。


「誰が最初に、この部屋に来たんですか?」

「私よ。でも私が来た時には、全員怪我一つなく、呑気に寝ていたわよ」




「そちらのお嬢様ではないでしょうか?」


 ジョージが眠る少女を示した。


「微かに月下草の香りがします。魔法薬をお持ちなのでは? だとすると、魔法使いだったという事になりますね?」

「……だった?」


 言い回しに違和感を覚え、聞き返した。

 ジョージは目を落とし、ニーナがため息をついた。誰も死んでないのに、葬式のような空気だった。何かまずい事を言っただろうか。戸惑っていると、ザラムが口を開いた。


「魔法、消えた」

「……え?」


 意味がわからず、再びロムは聞き返した。


「どういう事?」

「魔法使い、居ない。悪魔、消えた。皆、人に戻った」

「そうなんだ! 良かっ……」

「……良くない!」


 ザラムが声を荒げて叫んだ。あまりの剣幕に、ロムは言葉を飲み込んだ。


「魔法、使えなくなった……」

「ザラムが、魔法を使えなくなったの? もしかして、一度悪魔にされた?」

「違う。言霊、忘れた。みんな、同じ。世界から、魔法、消えた」

「世界から? 大袈裟だなぁ……そんなわけ……」


 ロムのセリフの途中で、ザラムの目から涙がこぼれ落ちた。


「魔法、使えないと、オレ……オレは……」

「使えないと? まあ確かに……困るよね……」


 元々魔法が使えないロムには、ピンとこなかった。魔法そのものが消えたなんて、信じられなかった。世界の理が変わるなんて有り得ない。白い悪魔のせいで、この辺りにだけ変な現象が起きたんじゃないだろうか。




「使えないと……何だっけ……」

「何だよ」


 拍子抜けして、笑みが漏れた。目をこするザラムも、少しぼんやりしているようだった。






「とにかく、トール様とこちらのお嬢様は、目を覚ましそうにありません。寝室に運びましょう」

「は、はい……」


 ジョージが少女を抱きかかえ、ロムはトールを背負おうとした。その手をホークが止めた。


「疲れているようだから、私が運ぶよ。君も少し、休んだ方がいいんじゃないのかい?」

「そう……ですね」






 眠い目をこすり、ホークが抱き上げたトールを見た。彼も魔法は使えなくなっているんだろうか。


 考えても分かるわけがない。とにかく今は眠かった。寝て起きたら、トールも目覚めているだろうか。そんな事を考えながら、重い足取りで寝室に向かった。

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