少女は心を決めた

 アイラスはあれから絵を描き溜めていた。ホークに小さ目のキャンバスを用意してもらい、自分で持ち運べる程度の絵が、何点か完成した。もう、いつでも行ける。でも心は決まらなかった。


 今日は裏庭で、一人植物のスケッチをしていた。トールはニーナに呼ばれて出かけていった。ロムは音楽の授業に行っている。


 手を止めて、半分くらい埋まったスケッチブックをめくってみた。これは、ホークに貰ったものだ。アイラスは、こんなものを買うお金すら持っていない。


 ここに来て三ヶ月。あと三ヶ月でトールの餌代が尽きる。自分はこんな事をしていていいんだろうかと思う。ロムは、餌代なんて安いし、稼ごうと思ったらすぐだから、落ち着くまで考えなくていいと言っていた。でも、ちょっとのんびりしすぎたかなと思う。


「大きなため息だね」


 ふいに声が掛かり、驚いて顔を上げた。そこには、目つきの鋭い初老の女性が立っていた。

 一瞬、誰だか思い出せなかった。保護区の管理人だった。会うのは入居日以来だ。名前も知らない。

 緊張して、挨拶をした。


「コンニチハ」

「はい、こんにちは。……隣、いいかい?」

「ウン」

「ほう、スケッチかい。上手いもんだねえ」


 アイラスのスケッチブックを覗き込み、感心したように呟いた。でも、そんな事を言いに来たのではないと思う。何の用事なんだろう。工房への弟子入りについてホークから聞き、反対するために来たのだろうか。


 管理人は、アイラスのそんな不安を感じ取ったのか、にっこり笑った。笑っても怖い。悪魔のほほえみのようだ。


「あんたにお礼を言わなくちゃと思って来たんだよ」


 礼を言われるような事をした覚えはない。むしろ自分は保護区に入らなければ、生きていけなかったと思う。


「ロムの事さ。あんたが来てから、あの子は大分変わった。私らが出来なかった事を、あんたがしてくれた。本当に感謝しているよ」


 訳がわからなくて二度見した。ロムは初めて会った時と全然変わらない。と思う。だからそんな事を言われても意味不明だ。


「前、ドウダッタ?」

「そうだねぇ……目が死んでいた、とでも言うかねぇ」


 そう聞いて、ずっと思っていた疑問をぶつけてみたくなった。


 ——なんでロムは、一人なの?


 そんなアイラスの思いを知ってか知らずか、管理人は勝手に語り始めた。


「ロムは10歳の時にここにきたんだ。ロムの国はシンという小さな島国でね、内戦で滅んだんだよ。戦に大きな魔法が使われて、島ごと消えちまったのさ。愚かな事だよ……」


 それは聞いてしまっていいんだろうか。ロムは知られたくないんじゃないか。そう思ったけれど、続きを知りたくて黙って聞いていた。


「あの時は、難民がこの国にも流れて来てね、保護区に戦災孤児が大勢入居した」


 懐かしそうな目で管理人は語った。大変だったんだよ、と笑顔で。それは想像もできないくらい、大変な苦労だったと思う。たった2年で、それを笑えるようになったのだとしたら、それは並々ならぬ努力の成果だろう。


「子供達が、頑張ったのさ」


 管理人は誇らしそうに言った。この人はなぜ、アイラスの考えがわかるんだろう。魔法使いでもないのに。


「子供は、本当に強いね。順応性が高く、生きる渇望に溢れている」


 でも、と声を落とした。


「その中で、ロムは少し変わっていた。ロムは半年間、一言も話さなかった。最初は、耳が聞こえないのかと思ったよ。でも、こちらの言う事にはよく従う子でね。手はかからなかった。だから余計に心配したもんさ」


 その姿は何となく想像ができた。何度か、そういうロムの姿を見た事があった。顔から、目から、表情がすっと消える瞬間がある。


「話せるようになってからも、誰ともかかわろうとしなかった。1人で生きていく力もあったしね。誰も、頼らなかった。友達も、作らなかった。一緒に来た子達の中にも、知り合いは居ないようだったね。子供らしくない子供だった」


 だから、と言って言葉を切る。それまで、罪を告白するかのように話していた管理人は、ここで初めてアイラスを真っ直ぐ見つめた。


「だからね。そのロムがあんたを連れてきた時は、本当に驚いたよ。あんたも、ロムに似ている。歳に似合わない目をしている。ロムも同じ事を感じてるんじゃないかね。自分と似てるってさ」


 それは違うと思った。自分にはロムのような辛い経験はない。突然一人になってしまったけれど、ロムとトールのおかげで寂しいと思った時間は少なかった。


「記憶を無くしてるってのは嘘だね?」


 突然問われ、アイラスは反応できなかった。驚きの表情を隠す事ができず、管理人から目を逸らせなかった。


「ああ、答えなくていいし、話さなくていい。あんたもロムもね、言いたくない事はそのまま墓場まで持って行けばいいんだよ」

「ゴメン、ナサイ……」

「謝る事は無い。私は今日、あんたにお礼を言いに来ただけさ。ロムの光になってくれて、ありがとうってね」


 そこがわからなくてため息が漏れた。何か言いたかったけど、伝えたい気持ちを表す単語がわからなかった。聞く事はある程度できるようになったけど、相変わらず話すのは苦手だった。


「上手ク、話セナイ……」

「話せてるじゃないか。私にはあんたの言う事がわかる。あんたも私の言う事がわかる。話すってのはそういう事さね」


 管理人は、話は終わったとばかりに立ち上がった。

 アイラスとしては面白くない。この人は懺悔をしに来ただけなのか。そして、アイラスの心がざわつくような事を勝手に話して。この後、どんな顔をしてロムに会えばいいのかわからない。


「もし悩んでいる事があるなら、ロムを頼っておやり。頼られる事が、あの子の救いになるだろうからね」


 最後の一言が心に突き刺さった。その衝撃から立ち直って顔を上げた時には、管理人は居なくなっていた。

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