少女は絵を描きたかった
ロムが冒険者ギルドに行く二日前の事。
アイラスは、裏庭で鍛錬をしている彼を部屋の窓から見ていた。今日が初めてではない。毎朝見ている。目が離せない。
アイラスは絵を描くのが好きだ。だからその躍動感を、描きたくて描きたくてたまらなくなっていた。
——紙が欲しい。
真っ新な紙を想像して、それをそのままトールに送ってみた。
いつのまにか、触れ合わなくても思いは届くようになっていた。それができるのはトールに対してだけで、『繋がり』のせいだと教えられたけど、まだ魔法の事はよくわからなかった。
「なんじゃ? ……紙、かの? それが、どうしたのじゃ?」
近頃のトールは、思いを飛ばしても思いを返してくれない。言葉を覚えさせようとしているのだと思う。ゆっくり話されても、意味を理解するのに時間がかかる。
今は希望に対して疑問を返された。理由を聞かれたのだと思って、紙に絵を描く様子を想像した。
「ならば、美術の、授業を、受けてみては、どうじゃ?」
よくわからないけれど、授業という単語が入っていた気がする。もしかして、絵画の授業があるのかな。嬉しくなって何度も頷いた。
今日は音楽の授業がある。あの先生は魔法使いだから、他の先生より話しやすい。伺ってみよう。絵画の先生も魔法使いだと助かるのだけど。
悩みを解決する糸口が見つかって、晴々した気持ちでロムを見た。彼もこちらを見ていた。手を振ると振り返してくれた。道具を片付けているので、部屋に戻って来るようだ。急いで着替えて身支度をした。今朝も彼と一緒に朝ご飯を食べたいのだから。
部屋を出て、ロムの部屋の前で待ち伏せた。程なくして、彼が階段を上がってきた。
「オハヨウ!」
「おはよう」
ご飯って何て言うんだっけ。悩んでいるうちにロムが先に口を開いた。
「朝ご飯、まだ、だよね? 一緒に、行く?」
今朝も先に誘われた。察しの良いロムは、毎朝待ち伏せしている事も一緒に食べたいと思っている事も、気づいているんだと思う。気づいていて誘ってくれる。
本当は自分から誘いたい。でも言葉が上手く出てこなくて、いつも先に言われてしまう。
明日こそ頑張ろう。アイラスは彼に頷きながら決意した。
食堂でお膳を頂き、空いている席を探して二人と一匹で座った。トールのお皿を床に下ろすと、凄い勢いで食べ始めた。
ふと、この席は最初の夜に座った位置だと気が付いた。あの時はロムが吐いて大変だった。
とても申し訳なさそうにしていたけれど、嘔吐は悪い物を自分の中から追い出そうとする自然な反応だ。自分ではどうしようもないのだから仕方がない。
同じ物を食べた自分が平気だったのだから、あの日は体調が悪かったんだろうなと思う。
落ち込むロムを元気付けたくて、トールを追いかけ回したりしたっけ。それを見て笑ってくれたのは嬉しかった。
当時を思い出して顔が緩んでいたようで、ロムが不思議そうに見ていた。笑って誤魔化しておいた。
整ったロムの横顔を見ながら、また思い出した。彼は歳の割に大人っぽいけれど、あの時の笑顔はびっくりするくらい幼かった。あれが本来の姿なのだと思う。
でも本来の姿って何なんだろう。ロムは自分のやりたい事は滅多に言わず、いつもアイラスに付き合ってくれる。無理をしているんじゃないかと思う事もある。もう少しわがままを言ってくれてもいいのに。
その日の音楽の授業が終わり、アイラスはホークのところに飛んで行った。勢いに任せて手を掴んだけれど、何をどう伝えたらいいかわからなかった。
周りで女生徒達がひそひそと話している。一番人気の先生だから、嫉妬の目を向けられるのは当然だった。でも今、そんな事は気にしていられない。
焦れば焦るほど、思いがまとまらなかった。その時、ホークの方からイメージが届いた。
綺麗に整頓された質素な部屋。アイラスの部屋より少し広い。ホークの部屋だと気がついた。話は部屋で聞くという意味だと理解した。
「ロム、君は先に一人で戻りなさい」
「え? 何故ですか? アイラスは?」
「何か私に話があるみたいでね。ここでは落ち着かないようだから、私の部屋に連れて行くよ」
「は、はぁ……」
「心配しなくても後でちゃんと送り届けるから」
二人の会話は早すぎて、ほとんど聞き取れなかった。でもなんだかロムが不満そうに見える。最近の二人は仲良くなったと思っていたのに。
まだ掴んでいた手から、問い詰める念を送りつけた。
ホークは驚いてアイラスを見て、少し微笑んだ。笑顔が美しすぎて余計に腹が立ち、笑って誤魔化すなと睨み返した。
「アイラス? どうしたの? 大丈夫?」
ロムが心配そうに覗き込んできた。
「ダ、ダイジョブ……」
「ちょっと、こっち、来て。荷物、そのままだし」
不意に腕を掴まれて、授業中に座っていた席まで引っ張っていかれた。荷物なんかあったっけ。
ホークの方を見ると、あっちこそ授業で使った道具を片付けていた。その視線を遮るようにロムが立ち塞がった。
「何か、あったら、これ……」
とても小さな声で、ゆっくりと言いながら、小さな枝のような物を握らされた。手を開くと、小さな竹でできた笛がのっていた。可愛い。
これを何に使うんだろうと考えて、知らせに使うのだと気がついた。そこでようやく、ロムの不満の理由にも気がついた。心配されているのだと嬉しくなった。
「ウン、アリガト」
「先生の、宿舎の、外で、待ってる」
「支度は済んだかい?」
「あ、はい。……じゃあ、アイラス、また、後で」
ロムが先に教室を出ていき、少し遅れてアイラス達も出た。ロムの姿はもう見えなかった。
道行く生徒達、主に女生徒達が黄色い声でホークに挨拶している。その一つ一つに丁寧に応じていて、人気の理由がよくわかった。
でもアイラスとしては、最初の印象が悪すぎた。多少態度は柔らかくなったけれど、そこまで好ましく思えなかった。思念の通じる魔法使いでなければ、頼ったりしなかったと思う。
前以て伝えられていたイメージそのままの部屋に通され、小さな子供用の椅子を出された。こんなのが用意してあるって事は、この部屋で生徒から相談を受けるのは珍しくないのだろう。
ホークも正面に椅子を持ってきて座り、紳士が淑女にするように丁寧に手を取られた。他の女生徒なら卒倒しそうだ。でもアイラスとしては別に嬉しくもない。これがロムなら少しは違うのだろうけど。
「どうしたの? 何か、やりたい事でも?」
ゆっくり喋りながら、繋いだ手から同じ意味と思われる感情が伝わってきた。いつもこうしてくれて、とてもわかりやすい。さすが教師といったところか。
若干敗北感を感じながら、今朝トールに伝えたのと同じ思い送ってみた。
「絵を、描きたい? 美術の、授業、受けたい?」
立ち並ぶイーゼルや、工作をする生徒達の姿が送られてきた。絵画だけではなく、様々な物を作っている。
一瞬心が躍ったが、教壇に立つ先生がホークでがっかりした。いや、意思の疎通がしやすいという利点もあるか。
ホークが忍び笑いを漏らした。
「素直だね」
ハッとして手を離した。画策まで伝わってしまった。あまりに失礼だし恥ずかしい。
「ゴメンナサイ……」
「大丈夫。隠し事より、良い」
ホークがまた手を繋いできた。
「歌より、絵が好き? 音楽の授業、あまり身が、入ってない」
つまらなそうな顔で歌う自分の姿を見せられて、ますます恥ずかしくなった。ホークはもちろんの事、付き合ってくれるロムにも申し訳なくて、誰にも言えなかった事実だ。
「責めては、いない。無理に、続けなくていい。絵が好きなら、美術の授業に、おいで」
アイラスはうつむいていた顔を上げた。先程伝えられた授業風景の、イーゼルの前に自分とロムの姿を追加して想像した。それはとても楽しそうに思えた。
またホークが笑った。今度は声を出していた。
「それは、止めた方が、いい」
意味がわからない。ホークからは、明らかに楽しそうな感情が伝わってきた。
「ロムはね、絵心が、全く、ないんだよ」
今度は、ロムが一人でイーゼルの前に座る映像が届いた。視点が動き、彼が困った顔で見上げてきた。描いた絵が見えそうになって、慌てて手を振り解いた。
ホークはまだ笑いをこらえている。他人の汚点を見せようとするなんて失礼が過ぎる。やっぱりこの人は苦手だ。
「ごめんごめん。君は、優しいね」
謝りながら、また手を差し出してきた。変なものを見せようとしたら、また離してやると思いながら、その手を取った。
「彼、ここに来て、落ち着いた後、全部の授業、受けたんだよ。自分に必要か、見極めるためかな。結局どれも、要らなくて、学校には、来なくなった」
当時の寂しかった気持ちと、今の嬉しい気持ちが伝わってきた。それは感情が漏れたのか、あえて伝えてきたのか、アイラスにはわからなかった。
「とりあえず、次の美術は、明後日。内容は、デッサン。いいかい?」
それはアイラスにとって、とても魅力的な内容だった。でも一人で受ける事になるだろう。トールも居ない。たとえ先生がこの人でも、すぐに決心がつかなかった。
迷いを感じとったのか、ホークは話題を変えてきた。
「そろそろ、読み書きも、受けた方が、良い。他の基礎教育、受けられないからね」
そうだ。こんな緩い環境に甘えてばかりはいられない。一人でどの授業にも行けるようにならないと。
強い気持ちで頷いた。思いも伝わったようで、ホークも微笑みながら頷いてきた。
ホークと一緒に部屋を出て、笛の存在を思い出した。結局使わなかった。どんな音が出るんだろう。そっと咥えて、軽く息を吹き込んだ。
高い、聞き取りにくい音が微かにした。こんな音じゃ遠くまで届かないんじゃないか。
「アイラス!」
突然、ロムが廊下の先に現れた。足音は聞こえなかった。一体どこに隠れていたのか。いやでも、走ってきた後のように息を切らしている。
「戻ってなさいと言ったのに。信用がないのかな?」
「別に、そういうわけじゃ……」
聞き取れなかったけれど、ロムが責められているのはわかった。慌てて二人の間に入って、ロムの方に走った。
「ゴメン、音……音、聴ク……」
「ああ、笛の音、聴きたかった、だけ?」
「ウン、ゴメン……」
「大丈夫。先生と、話せた?」
ロムが優しく聞いてきた。彼の顔を見ると、先程見せられた困り顔を思い出した。強くて、優しくて、真面目なロムの、意外な秘密を知ってしまった。
「ど、どうしたの?」
やばい、顔が緩んでいた。自分で自分の頬を押さえながら頷いた。いや違う。何でもないという風に首を横に振った。頭が混乱してきた。
「君が来たなら、送らなくても大丈夫かな」
「あ、はい。俺がちゃんと……」
「心配はしていないよ。部屋も隣だしね」
部屋に戻って行くホークに頭を下げ、ロムに促されるままに歩き始めた。
歩きながら、今の話をロムに伝えるか迷っていた。言い方もわからないが、どうするかも決めきれていない。もし自分が音楽を受けなくなったら、がっかりされるだろうか。
ロム自身はどうするだろう。ただ付き合ってくれてただけなら、また受けなくなるのかな。他の子達も寂しがるだろうなぁと思った。
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