5.ラッコのベアトリス①


「おはようございます…」


アニマリア王国騎士団本部。置かれた棚から、上を向いた耳がちらりと出て、すぐに引っ込んだ。その一瞬の間に手紙を渡された人達が何だ何だと驚くが、そんな様子など何のその。リネットは警戒しながら次の配達先の部署へと向かう。


(絶対に、オリヴァーさんと、会わないようにしなきゃ…!)


先日、よく分からないが彼から求婚を受けた。それを受けた直後よく分からないまま気絶してしまい、起きた時には自室のベッドの上だった。だがしかしあれが夢では無いことは、通りすがりの友人全てが冷やかしの声を掛けてきた様子が何よりも雄弁に語っている。よく分からないので矢継ぎ早に来る質問に答えることもできず、そうして結局、よく分からないまま仕事に来ていた。


ただ唯一分かっていることは、オリヴァーとは会ってはいけないと言うことである。なるべく彼を避けた方が良いと言うことである。ただ不運なことに、非常に不運なことに、リネットの仕事先は彼の仕事先だった。


「……」


団長執務室を視界に捉え、リネットがごくりと唾を飲み込む。彼女の務めは郵便配達員。重要書類を、届け先の本人に間違いなく渡さねばならない使命を背負っている。


(よし、このまま人の流れに沿うように扉の前まで行って、挨拶と同時に手紙を投げ込む。そしてすぐに扉を閉める!よし!いける!)


「リネット」

「ヒギャー!!」


突然背後から名前を呼ばれ、リネットが飛び上がった。壁の隅、できるだけ体を小さくしてそこに居たのだが、その大きな叫び声に、あっという間に視線が集まった。


「……ヒェッ」


ぎぎぎと首を動かすと、オリヴァーの姿。それを認識した瞬間、リネットの背中から汗が噴き出した。


オリヴァーはその三白眼で、震える彼女をじっと見つめている。そして少し迷った後に、彼女から視線を外し辺りを見回した。


「皆。手を止めないで聞いてくれ」


よく通る彼の声に、注目が集まった。その隙にそろそろと逃げようとしたリネットだったが、オリヴァーに腕を掴まれた。


「ギィ」


恐怖のあまり思わず変な声を上げるリネットに気が付かず、彼はごほんと咳払いをする。そして皆に向けて、言った。


「私は彼女…リネットと、婚約したんだ」


場が静まり返った。1拍置いて、祝福がその場を支配する。彼は手を止めなくて良いと言ったが、皆作業を中断し、拍手をしながら祝いの言葉を口にし出す。冷やかす声が上がり、中には感極まって涙ぐむ者まで現れた。


そしてその中央でリネットは、耳をへにゃりと曲げた。


「……は?」


なんて?


ありえない言葉を聞いた気がして、一生懸命耳を上げたり下げたりを繰り返す。けれどやっぱり何度聞いても、溢れんばかりの祝福はオリヴァーとリネットに向けられている。


(こん、やく…こんやく、婚約!?)


「!?」


やっとこさ脳まで届き、勢いよく顔を上げた。ぱくぱく口を開けながら、祝福の言葉に微笑みを返す彼を見つめる。


(な、なんで…!?)


驚愕で声も出ない。だってリネットは、彼の求婚に返事なんて何一つできちゃいない。あの時は恐怖のあまり意識を失ってしまった訳で、と言うかあれを目にしてもまだ避けられている自覚がないのかという話である。だがしかしオリヴァーは続ける。避けられている自覚のない彼は続ける。頬を染め、感極まった様子で先を口にする。


「まさかリネットが、涙を流して気絶するほど喜んでくれるとは思わなかったからな…」

「え。いや、へ?」


確かに彼の言う通り涙を流して気絶はしたが、それは喜びではなく恐怖のあまりである。


「ち、ちょっと待ってください!」


否定しなければ――リネットはそう思った。オリヴァーの話の進め方が尋常ではない。今やらねば取り返しのつかないところまで行ってしまう気がする。がくがくと足を震わせながらも、自身を奮い立たせ何とか彼に詰め寄った。


「そ、そんな勝手に、決めないでください!私何にも聞いてません!」


オリヴァーの瞳孔が開き、驚いた様子でリネットを見下ろす。それでも、猛禽類独特の瞳に見つめられてもまだ、彼女は引かない。するとオリヴァーの大きな翼が音を立てた。それにびくっと身を震わせるリネットに、彼は口を開いた。


「これはすまない。確かに、私ばかりが決めてしまっていた。君にも選ぶ権利はあるのに…」


オリヴァーが呟く。表情はそう変わることはなかったが、尾羽がしょんぼり下がった。相変わらず恐ろしさは感じていたが、オリヴァーのその様子に、リネットの心にほっと安堵が落ちる。


(言えば分かってくれる人なんだ…)


「なら、」

「次の休日は、共に式場の見学に行こう。是非君が、選んでくれ」






「いやだからなんで結婚が前提なのぉお!?」


女子寮にて、リネットは食堂の机にごんと頭をぶつけていた。目の前には器に盛られたロールキャベツ。何日も前から楽しみにしていた大好きな献立だが、彼女の耳も尻尾も完全に下を向いてしまっている。


あの後結局、オリヴァーの暴走を止めることはできなかった。無言を了承と見なす風習はどこにでもあるが、まさか求婚の答えもそれで済むとは初耳である。今日のこれで、配達先の騎士団本部ではリネットは団長の婚約者として扱われることになってしまった。郵便局は郵便局で、先日の求婚話が寮の友人達にあっという間に広まり、上司にも「やるなあ」なんてほくそ笑まれる始末。


(これはマズイ…!非常にマズイ気がする…!)


これこそが「外堀から埋められる」の最終形態ではないだろうか。


「なんとか、なんとかしなきゃ…!」

「リネット!」


ロールキャベツを口に運びながらうんうん唸っていると、それを吹き飛ばすようなかん高い声が響いた。声の主はリネットの前まで来て、机をべちんと叩く。


「何よ辛気臭い顔して!」

「べ、ベアトリス…」


顔を上げれば、友人の姿。裾の広がったワンピースが、可愛らしいベアトリスによく似合っている。化粧や身支度にはいつも余念がない彼女だが、今日は一段と気合いが入っていた。


「今夜はデートじゃなかったの?」


時刻はまだ夕飯どき。帰ってくるには早すぎる。だがそれを聞くと、ベアトリスの眉がむっとつり上がった。


「それが聞いてよ!お寿司に連れていってくれるって言うから期待してたのに、ちっとも美味しくなったの!」

「お、お寿司…」


それはきっと、回らないやつではないだろうか。と言うか生粋のお嬢様育ちである彼女が、それ以外に行くとは思えない。リネットの想像でしかないが、回らないお寿司と言うものはそれはもう、文句のつけようのないぐらい美味しいものなのだろう。


けれど美食家なベアトリスは、腰に手を当ててぷんすか先を続けた。


「ウニもアワビもちょっと生臭かったし!これなら自分で採った方がまだマシよ!あのオットセイ野郎!」

「お、オットセイだったんだ…。そりゃあ新鮮さではそっちの方が上だろうけど、もしかしてそれが原因で、デートすっぽかして引き上げてきちゃったの…?」

「当たり前でしょ!私に無駄な男に割いてる時間なんてないの!若くて可愛いのは今のうちだけなんだから!ぼけっとしてたらあっという間にしわくちゃのおばあちゃんよ!」


恐らくオットセイの彼からすれば準備して挑んだデートの筈だ。それを飲食店ひとつで切り捨てられてしまうとは、物悲しい話である。ベアトリスの行動の是非は別としても、彼女のおばあちゃん理論は恋人いない歴絶賛更新中のリネットの心にぐさぐさと刺さる。


そして未だ怒り冷めやらぬと言った様子のベアトリスは、ふと机の上に視線を落とした。


「あら、コンサートのチケットなんて持ってどうしたの?デート?」

「あ、ああ…。うん…」


指摘され、長方形の紙をぺらりと捲る。「ザトウクジラが奏でる愛の旋律」だなんて、見るだけでこそばゆくなるような題目が書かれている。彼女の言う通り、これは音楽会のチケットである。紙にはもうひとつ、芸術方面にとんと疎いリネットでも知っている有名な声楽家の名前。きっとさぞ素晴らしい音色を聴けるに違いない。


「……」


ところがどうして、リネットの表情はずんと暗くなる。そう、ベアトリスが察した通り、デート、デートだったのだ。


だがしかし、乙女が夢見るようなロマンチックな話ではない。式場の予約をと突き進むオリヴァーを抑えて、何とか行き先を変えさせたのだ。


オリヴァーと、ふたりで夜のコンサート鑑賞。できれば避けたいところだが、リネットは式場見学よりはまだマシだと判断した。


「ふーん、みんなリネットのこと、あんなに素敵な相手とうらやましいって言ってたけど」

「そ、そりゃあオリヴァーさん、容姿や職業は一見ちゃんとしてるけど…。何か怖いし、何より怖いし、すごく怖いし…。どうにかしてこの婚約話、無かったことにした…そっ、そうだ!ベアトリス!」


言葉の途中で何か閃いたように、リネットが彼女の手を掴んだ。首を傾げるベアトリスに向かって、必死の形相で叫ぶ。


「お願い!どうにかして、嫌われる方法を教えて!」

「はあ?」


リネットは悟った。オリヴァーは様子がおかしい。ちょっと話が通じない。これはもうあちらから嫌ってもらうのが、いちばん簡単な手である。そしてそれを実行するなら早い方が良い。次のデートで決着をつけるべきである。しかしリネットには経験がない、ならば百戦錬磨の彼女に教えを請おうと言う作戦だった。


「嫌われることに関しては、ベアトリスの右に出る者はいないし!」

「アンタ噛み砕くわよ!」


ベアトリスの口からは鋭い犬歯と、行儀よく並んだ白い歯が覗く。けれどそのあとすぐに、嬉しそうにふんと鼻を鳴らした。


「ま、それはそれとして、目の付け所は悪くないわ」


ベアトリス・E・ルトリス。リネットとは入局時に知り合った、よき同僚であり友人である。働く必要など皆無だが、所謂社会勉強の為に就職したお嬢様。気位の高いその性格は少々扱いが難しく、苦手意識を持たれがちな人物でもある。先ほどの発言といい、おい何だこのビッチはとも思ったかもしれない。だがしかしまず知るべきは彼女の種族である。


動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ。

彼らの主食は貝類ウニ類甲殻類。非常にグルメな生物としても知られているが、実際の飼育下で摂取する食物はそれに輪をかけてごく一部である。食べられないのではなく、食べたくない。彼らは極度の偏食家でこだわりが強い側面がある。


そんな我が儘で手を焼かせるラッコ。だがしかし、かわいい。とてもかわいい。それを補って余りあるかわいさが彼女達にはある。その小さなおててできゅうと手を握られて、「流されていかないでね…?」などと囁かれた日にはどんな男の硬い警戒心もガッツンガッツン粉々に砕かれるものである。


「私ほどデートに精通した女は居ないわよ!ばっちりアンタを嫌われさせてみせるわ!」


彼女は自信満々に、そしてちょっと面白がっている素振りを見せながら、大きく胸を張った。


「このベアトリスちゃんに、任せなさい!」

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