母
いすみ 静江
母
「はじめまして、ゆうちゃん……」
私は、手術台の上で、右手を伸ばしました。
身二つになった直ぐあとです。
初めての母となった自分は、戸惑うよりもその小さな命を抱きしめたいと思いました。
それは、六月のことでした。
◇◇◇
「男の子ですね」
医師から告げられて、夫は心がおどったようでした。
待合室で開口一番です。
「名前をどうしようかな?」
大きなお腹が、ほほえましさでもっとふくらんでしまいそうです。
「遠距離恋愛で文通しているときもよく話したよね。女の子のお名前しか考えてなかったわね、私たち」
今度こそ父になるあなた。
真っ直ぐに何かを見据えていましたね。
「俺、泳いでいるのが見えたんだよ」
妊婦さんはもう腹部エコーの段階で、夫も同室できました。
先生から、今回は性別が分からないと告げられる前に、分かったのですね。
メガネの奥のあなたの瞳は。
◇◇◇
私の妊娠はハイリスクをはらんでいました。
病院からじゃらじゃらと薬をいただくのは、結婚前からです。
子どもの頃から、服薬をしていました。
中学に入って、母はもう薬を飲まなくてもいいと言いました。
遠方の学校へ進学していたこともあり、どうしても病院へ行くときは、一人です。
肩を骨折をした中学一年の冬、医師にギプスをすすめられたのですが、家で母が反対をしたので、断りました。
自分の意志で、満員電車でもいいからと通学を選びます。
本当は、ドクターストップものでした。
母は、それなら、遅刻するようにと決めましたが、学校では、英語の先生などから風当たりが悪いなんてものではありません。
そんな母ですから、私が、今の病気になったとき、内科医から紹介状を貰っても、その病院は遠いから行かないと決めました。
私が気が付かない内に、段々と病に蝕まれていきました。
◇◇◇
忘れられないことがあります。
数年前、ゆうちゃんのお兄ちゃんかお姉ちゃんを私は流してしまいました。
医師を待つ間に、ぬるりとしたものを感じ、ヒヤリと立ちつくします。
不完全流産――。
千人に一人はあることですとの言葉は、言い訳にしか聞こえません。
心臓の拍動が弱いと宣告されていた子です。
何か不注意はなかったのか。
自分を責めてもこの子は私の胸に抱けません。
あんなに、自分の母を難しく思っていたのに、自分は、お腹の中で子どもを殺してしまいました。
私は、悪い人です。
自分を自分で決めました。
この手術で、痛いとか、泣いたりとかはありえないと。
体が落ち着いたら、単身、夫のいなかへご報告と謝罪に行きました。
◇◇◇
新しい命が男の子と分かった日。
都心の大学病院から車中でも楽しく過ごしました。
夫とのドライブは大好きです。
独りじゃないからでしょうか。
「お風呂に入ろうか」
いつものように、一つの喜びを二人で分かち合います。
二度目の妊娠が分かったあと、狭いながらも部屋を借りました。
赤ちゃんが産まれても清潔でいられるように。
母は、私たちに部屋を貸してくれましたが、住宅の衛生と精神面の問題があったからです。
お風呂で、夫から切り出しました。
話したくて仕方がなかったのでしょう。
「名前、どうする?」
「どうして、一言目に名前なの?」
「大切だろう? 一生ものだよ」
「それもそうだね」
私は、ほんわかと幸せに向います。
「何かつけたい文字とかあるかな?」
「それはね、文通では色々書いたけれども、やっぱりこの字を使いたいな」
お風呂場の曇るタイルに書いた文字は、あたたかいと感じました。
「いいね! 俺は、それにこの文字をつけたい」
「なるほどね。いいと思う」
二人がお風呂で決めた名前が、あなたの名前になりましたよ。
私は、この名前を真っ先に呼んであげたいと思いました。
◇◇◇
私の母は、今、軽い認知症にかかっています。
かわいいゆうちゃんの前でした。
「お前だって、流産をしたじゃないか!」
配慮のない一言でした。
心優しいゆうちゃんは、ママがお腹の中で赤ちゃんを亡くしてしまった事実を知ります。
「ママちゃんが可哀想だ……」
こぶしを握って我慢しましたが、ぽっろぽろ泣いてしまいました。
「ママちゃん、本当なの?」
ごまかしの嘘をつけばよかったのでしょうか。
私は、首を横に振りませんでした。
バカ正直な自分を恨みます。
「おばあちゃんちを出ようか。ゆうちゃん」
妹の習い事が終わるまで、寒空のもと、長いときを旅しました。
「ママはね、ゆうちゃんが大好きなんだよ」
「う、う……。ママちゃん。おばあちゃんを許せないよ」
私も愚かでした。
「ごめんなさい」
「ママちゃん」
楽しい話に切り替えました。
「聞いてくれるかな、ゆうちゃん――」
◇◇◇
「はじめまして、ゆうちゃん……」
喜びのご挨拶、覚えていませんか?
「あの日は、雨が降っていて、パパがビデオで空を撮っていたよ。朝の十時から予定していた帝王切開の順番が、前の手術が長引いていて、パパはそわそわしていたの。私はテレビなんてつけたくないのに、音が欲しいとか」
ゆうちゃんは、真摯に聞いてくれている。
「看護師さんに呼ばれ、手術室へとベッドごと移動するとき、パパは見送ってくれたわ」
別れたくないから――そう言って、手術前に失くした結婚指輪を新しく買ってくれたのもパパでした。
「手術台の上では、ママの両手は左右に縛られていたの。そしてね、看護師さんが、抱っこしてゆうちゃんをママの右側に連れてきてくれたのよ」
ああー、幸せのお花が沢山咲いていました。
「お母さんと同じナンバーのリストバンドですねって、ゆうちゃんにもつけたの。間違いなくママの子だって分かるようにね」
ゆうちゃんは素直に耳を傾けてくれます。
「そのときね、ママは最初にゆうちゃんのお名前を呼んだのよ」
「僕の名前?」
「そう、ゆうちゃん。そして、はじめてのご挨拶をしたのよ」
私は、涼しい空気を一気に吸い込みました。
「はじめまして、ゆうちゃん……」
私は落ち着いて言えたと思います。
ちょっと不満でふくらんだほっぺをつっつきました。
「おめでとう」
心の奥底から、ありがとうの言葉もこぼれます。
◇◇◇
そして、ゆうちゃんの誕生から、十余年が経ちました。
小学校では、いじめられて、ストレスで身長が伸びなくなる程の思いをしていたようです。
病院で、多方面にわたり診察を受けました。
どんなことがあっても、学校で、僕は許しますと僕が悪かったですしか言いません。
優しいのは長所ですが、我慢で殺してしまうのを心配しています。
でも、妹やママに優しく、パパのことも大好きです。
特技は折り紙で、楽しくドラゴンやロボットなどを折っています。
先日は、カモシカをいただきました。
思えば、この小学校の門をくぐったのは、六年前です。
ここ数ヶ月、慌ただしくも中学校への支度をすすめています。
三月二十五日、ぎりぎりまで沢山色々なことがあった小学校生活を終え、立派に卒業することができました。
「ゆうちゃん、卒業おめでとう」
私は、母親一年生で、あなたを見守るばかりでした。
「ママは、何にもできなかったかも知れないね。でも、愛することにここまでとの線引きはないと思っているよ」
パパもゆうちゃんをとても大切にしています。
「中学から、新しい環境になるね。ちょっと気がはやいけれども、入学おめでとう」
◇◇◇
「おめでとうがいっぱいだね!」
これから、ゆうちゃんを想ってくれる素敵な家族ができるでしょう。
「これからも、おめでとうを言わせてね」
私を母にしてくれて、ありがとう――。
母のような間違いをすることはあると思うけれども、それでも、私は死なないでいるのです。
私だってワガママをしました。
そんな日々も思いつつ、母の今を哀しくさえ思います。
母子を描いた涙さそう本がつらいときがあります。
親子だから、それは今日の別れ言葉です。
◇◇◇
ゆうちゃんの門出に、あなたの好きなクリームソーダで乾杯です。
終
母 いすみ 静江 @uhi_cna
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