第52話 「お酒がいいですか?お茶がいいですか?」

 〇二階堂紅美


「お酒がいいですか?お茶がいいですか?」


 ポケットに手を突っ込んで問いかけると。


「仲良く飲む気はないわ。」


 薫さんは、冷たい声。


「でも、さっさと済む話じゃないんでしょ?」


「……」


「だったら、どこか行きましょう。立ち話で風邪ひくの嫌なんで。」


 あたしの言葉に、薫さんは渋々と歩き始めた。


 この人も、声を職業としてる人。

 風邪はひきたくないはずだ。


 だけど…今どうしてるんだろ。

 あのゴシップが出回った後、薫さんはビートランドを辞めた。

 その後の事なんて、あたしは気にも留めてなかったけど…



「あなた…しおり華音かのんの事は知ってるの?」


 ダリアの一番奥の席。

 座ってすぐ、薫さんは言った。


 栞…


 薫さんのお姉さん。


「知ってるって言うか…ノンくんから聞きました。」


「どうせ都合のいいようにしか言わないわよね。」


 薫さんは、吐き捨てるように言った。


「栞は…」


「……」


「妊娠してたのよ。」


「……」


「華音の子供よ。」


「……」


 でもノンくん…

 栞さんとはそういう関係じゃなかった…って。


 あたしが眉間にしわを寄せて考えてると。


「わざわざ遠い街の産婦人科に、二人で通院してたわ。」


 目の前に、手帳が投げ出された。


 それは…母子手帳で。

 一気に、心臓が変な音をたてはじめた。

 その母子手帳と一緒に、細いスケジュール帳もあって。


「それ、開いてよ。」


 薫さんに言われて…あたしはそれを開いた。

 すると…


『病院。華音が同行。やっぱり居てくれると心強い』


『病院。『旦那さんはこちらに』って言われて、華音が困ったような照れたような顔をした』


『病院。授業もあるのに、いつもごめんねって謝ると、華音は『俺の責任でもあるから』って。責任なんて…』



「……」


 パチパチと、瞬きをした。

 見た事もない栞さんとノンくんのツーショットを、簡単に…そこに見た気がした。

 何も…言葉が出なかった。

 ノンくんは…付き合ってないって言ったよ?


 だけど…

 どうだったっけ…


 俺も男だ。

 女と何もなかったわけじゃない。


 …そんな事は…言ってた。

 ただ、それに…栞さんが含まれてたかどうか…

 ハッキリ覚えてない。


 でも、噂になってる人達とは、何もなかったって言ってた。

 だとしたら、栞さんと薫さんとは…何もなかったって…事だよね?



 …ノンくんはお人好しだ。

 だから、自分のせいじゃないとしても、誰かのために何かをする。

 ましてや…栞さんは、ノンくんを周りから守ろうとしてくれた人。


 だったら…

 栞さんが苦しんでたら、助けちゃうよ。

 …うん。


 あたしは…

 ノンくんを信じればいいだけだ。



「それで…これを見せてどうするつもり?」


 あたしが顔を上げて言うと。

 薫さんは眉間にしわを寄せた。


「姉を妊娠させて自殺に追い込んだ男よ?」


「…それで?」


「それでって…酷い男だと思わないの?」


「ノンくんは、酷い男なんかじゃありません。」


「な…」


 あたしは手帳を閉じると。


「たぶん、これだけ見ると…確かに赤ちゃんの父親はノンくんで、栞さんとは恋人関係にあったように思われても仕方ないと思います。だけど…違う。」


 薫さんの目を見て言った。


「これだけ証拠があるのに、何言ってんの!?」


「これをあたしに見せて、どうしようと思ったんですか?」


「そ…それは…」


 薫さんは、まだ気がおさまってないんだ。

 だから、最終手段…あたしとの直接対決ってわけか。



「…あんな男、やめときなさいよ。」


「それを決めるのは、あたしです。」


「栞みたいに、捨てられるのがオチよ。」


「彼の事を知ってれば、それはあり得ないって分かります。」


「……」


「ノンくんは、簡単に誰かを捨てるような人じゃない。」


 栞さんの自殺は…

 きっと、ノンくんには堪えたと思う。

 だけど、不器用なノンくんは、それを誰にも話せなかったんじゃないかな。

 だから、周りから冷たいって思われたはず。



「薫さん、ノンくんの何に腹を立ててるんですか?」


 うつむいた薫さんに問いかける。

 あたしの問いかけに、薫さんはなかなか言葉を出さなかった。

 しばらくうつむいたまま…

 だけど。


「…栞とあたし…どこが違ってたのよ…」


 やがて、低い声で、そう言った。


「顔だって似てたし、声も似てた。なのに、華音は栞にばかり優しくて…あたしにはそっけなくて…」


 …確か、薫さんの事は信用できないって言ってたっけ…


「今だって…栞はもういないのに…栞の事ばっかり…」


 あたしからは、もう何も言う事がなくて。

 ただひたすら…薫さんの愚痴を聞いた。

 それほど、薫さんはノンくんの事…好きだったんだろうな。



 薫さんの愚痴は、途中から…ノンくんとの思い出話になってて。

 あたしはそれを、どこまでが本当の話なのかなって思いつつも、少し笑いながら聞いた。

 薫さんが、楽しそうに話すから。

 それが本当でも嘘でも、まあ…いいのかなって。



「…なんか…気が抜けちゃった…」


 散々話してスッキリしたのか。

 薫さんは手帳をバッグにおさめると、溜息をついた。


「…あたし…ほんと…何がしたかったんだろ…」


「…思い出話がしたかったんじゃないですか?」


 あたしは、三杯目の紅茶を飲みながら言った。


「え?」


「だって、薫さんの思い出話、すごく楽しかったから。」


「……」


「そんなに素敵な思い出持ってたら、誰かに話したくなりますよ。」


 あたしの言葉に薫さんは少し首を傾げて。


「…あたし、今、地方のラジオ局でローカル番組やってるの。」


 小さな声で言った。


「すごい。」


 あたしが本心で言うと。


「…今度、DANGERの曲流すわ。」


「ほんとに?ありがとう。」


 何だかよく分からないけど…

 薫さんはスッキリした顔になって。


「じゃあ…ありがとう。」


 なぜか…そう言って、あたしに握手を求めた。


 薫さんの背中を見送って、あたしはカウンター席に移る。

 あー…疲れた。



 ここは沙也伽の実家でもある。

 ご両親は夜は店に出てないけど。


「コーヒー、濃いめでお願い。」


 あたしが顔見知りのバイト君にそう言うと。


「俺にも。」


 ふいに…隣に…


「…いつからいたの?」


 ノンくんが座った。



「チョコちゃんが心配して電話くれた。」


 チョコ…

 よ…余計な事を…


 …いや…

 良かったのかもしれない。



「で…いつからいたの?」


「割と早い内から。俺、車で来たし。」


 ノンくんは、さっきまであたし達が座ってた席を振り返って。


「あそこにいた。」


 観葉植物で仕切られてる後ろの席を指差した。



「……聞いたね?」


「聞こえたんだよ。」


 耳のいい男だ。

 聞こえないわけがない。



 二人で静かにコーヒーを飲んだ。

 店内でうっすら流れてるラジオから、沙都の歌が流れて来た。


「沙都だな。」


 ノンくんが笑った。


「そうだね。」


「邪魔されてる気分だ。」


「あはは。」


 コーヒーを飲んだ後、バイト君が『美味しいオレンジをもらったんですけど』って切ってくれて。

 あたしとノンくんはそれをいただいた。

 他のお客さんにも、それはふるまわれて。

 時間も時間だし…帰るか。って店を出て…


「送る。」


 ノンくんが、歩き始めたあたしの腕を取った。


「いいよ。」


「送りたい。」


「…じゃ、お願いします。」


 ちょっと…ノンくんの即答ぶりに圧倒された。


 送りたい…

 何だか、ドキドキした。

 別に、どうって事ないのに…。



 車に乗ってすぐ。


「少し…遠回りしていいか?」


 ノンくんが言った。

 明日はあたし達は午後からだし…


「うん。」


 あたしが答えると、ノンくんは車を発進させた。


 何か…話したいのかな。



 しばらくは、無言のままだった。

 だけど遠回りと言うより…これはドライヴだなあ。ってあたしが小さく笑うと。


「…栞は、うちの親父を好きだったんだ。」


 ノンくんが、とんでもない事を言った。


「…え…っ?」


「もちろん、最初はファンって言ってた。でも…憧れが強かったんだろうな。俺と一緒にいる事で…何度か親父に会う事があって…」


 衝撃の言葉に、あたしは口が開いたままだった。


「たぶん…俺は色々リサーチされてたんだろうな。栞を信じてて、それにも気付かなかった。親父だけが家に居る日に、栞は…うちに来て…」


「ま…まさか、ちさ兄、栞さんに手出したとかじゃないよね?」


 あたしが焦った声で言うと。


「いくら親父がエロいおっさんでも、おふくろ以外の女に手を出す事は絶対ない。」


 ノンくんは自信満々に答えた。


「…だよね。」


 ちさ兄の、知花姉に対する愛情は…何を持ってもブレる事はない。

 それは…ちさ兄を知る人なら、絶対に分かる事だ。



「たまたまそこに、俺が帰って…聞いちまった。栞の告白を。」


「……」


「親父は冷たかった。そんな事で華音に近付いてるなら、許さないって。」


「…当然だね…目に浮かぶよ。」


 ちさ兄は、めちゃくちゃ子煩悩だ。

 ノンくんが利用されるような事、許すわけがない。


「でも俺は…栞に助けられてたからな…それ以降も何も知らなかった顔して、栞と一緒にいた。」


 義理とか恩とか…

 本当に、そういうのを大事にする男だよね…

 でも、それで自分が酷い目に遭わされてるのに…

 ノンくん、バカだね。


 でも本当は…ノンくん。

 栞さんの事、好きだったんじゃないかな…。


 何となく、そんな気がした。



「栞は…俺を良く思ってない奴らに襲われて…妊娠したんだ。」


「え…」


「栞は何もいわなかったけど…奴らから聞いた。」


「…ひどい…」


「…俺の責任だ…」


「……」


 あたしは…それに対して、何も言えなかった。


 人一倍、責任感の強いノンくん…

 そりゃあ…

 ノンくんは悪くないのに…悪いって思っちゃうよね…



「だけど栞は…」


「……」


「俺に、それは親父の子供だって言いに来たんだ…」


「……」


 もう…横山姉妹…

 なんで…

 なんで、ノンくんをこんなに苦しめるの!?



「あれが…決定的だったかな…」


「決定的…?」


「あれで、栞を信じられなくなった。」


「……」


「だけど一緒に産婦人科には通った。俺は…産むことに反対したけど…栞は俺が何も知らないと思って、ずっと…『神千里の赤ちゃんを産むんだ』って嬉しそうに言ってさ…」


 もう、聞いてるあたしが苦しくなって。

 つい…ノンくんの左手を握ってしまった。

 ノンくんは少しあたしを見て…小さく笑った。



「でも、栞は流産して…」


「……」


「色んな事で悩んで苦しんで、栞が『死にたい』って言い始めた時…俺は…栞の手を離した。」


「……」


「もう…信じられなかった。」


 ノンくんは…誰にも言えないまま…

 ずっと、想いを胸に閉じ込めたまま…

 今日まで一人で、栞さんの事を…



「…今となってはだけど、あの時ちゃんと俺が栞を諭して、話を聞いてやってれば…って思」


「違うよ。」


 あたしは、ノンくんの言葉を遮る。


「もう、何言っても…栞さんは死んじゃってたよ。」


「……」


「身から出たサビって…言っちゃ悪いけどさ…」


 あたしは…静かに怒ってた。

 許せないよ…


「…死んだ人の事、悪く言いたくないのは分かる。だけど、ノンくん…どうして今まで打ち明けてくれなかったの?」


「……」


「こんなの、ずっと溜め込んで…」


 ノンくんはウインカーを出すと、車を駐車場に入れた。

 気が付くと…事務所についてて。


「上で話そう。」


 ノンくんはそう言って車を降りた。



 無言のまま、エレベーターに乗る。

 隣にいるのに、ノンくんの顔…見れない。

 あたし…このまま吐き出させちゃっていいのかな…

 もしかしたら、ノンくん…本当は思い出すのも嫌なんじゃ…?


 ごちゃごちゃ考えながらも、プライベートルームのドアを開けて入ると。


「飲むか?」


 ノンくんは冷蔵庫を開けて、あたしを振り返った。


「車は?」


「置いて帰る。」


「…じゃ、飲む。」


 たぶん…飲まないと話せないんだ。

 そう思って、付き合う事にした。



「…親父を侮辱された気がして、栞を許せなかった。」


 ノンくんが、小さく言った。


「…うん。」


「…栞が死んだ後…遺書が届いた。」


「……」


「便箋にびっしり…親父のどこが好きだったか…なんで俺に近付いたか…それから…男達に襲われた事や、妹である薫との不仲に苦しんでた事…」


 ノンくんは、もう…三本目。

 いつもより、すごく速いペースで飲んでる。


「後半は…思い出ばかり書いてた。」


「…薫さんもさ、さっき…すごく楽しい思い出話したよ。」


「…ああ。」


「薫さんもだけど…栞さんも、後悔してたんだね…きっと。」


「……」


「ノンくんも、もっと早く打ち明けられたら…」


「……」


「栞さんの事、悲しい思い出じゃなくて、笑ってた思い出だけを大事に出来たかもしれないよ。」


 ノンくんは小さく笑ってうつむくと…


「死んだ奴の事を…ああだこうだ言いたくなかった。」


 ノンくんらしい事を言った。


「だけど…本当だな…さっきの薫の思い出話聞いてたら…」


 涙が。

 ノンくんの目から、落ちた。


「栞の葬儀で…俺は冷たい言葉しか出さなかった。俺のせいじゃない。なんてさ…」


「…ノンくんのせいじゃないよ。」


 あたしは…ノンくんの隣に座って、頭を抱きしめる。


「栞さんも、解ってたよ。自分のせいだって。だから…そうするしかなかったんだよ…」


 ノンくんの涙を拭うと…ノンくんが顔を上げた。


「……」


「…付け込んでいい?」


 あたしがそう言うと、ノンくんは『え?』って顔をしたけど…


 あたしは…

 ノンくんの頬を両手で挟んで。


「…アッチョンブリケ。」


 そう言った後…


 深い…深いキスをした。

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