第13話 海に到着すると…周りには誰もいなくて。

 〇二階堂 海


 海に到着すると…周りには誰もいなくて。

 俺は、砂浜で紅美を抱きしめると、繰り返しキスをした。


 …どうして、あの時こうしなかったんだろう。


 そう思いながら…気持ちを込めた。


 紅美…

 愛してる。

 …離したくない…。



 二階堂の仕事に誇りを持っている。

 だが…自分が何をしているのか、分からなくなる時もある。

 そんな俺に、このままトップが務まるのかという不安…

 …こんな気持ちになる時点で、アウトだ。

 俺を信頼してくれている組織のみんなにも、申し訳ない。



「今夜…どうする?」


 大きな流木に座って問いかけると。


「ん?あの先の方にあるホテルは?」


「…ホテルか…」


「何。出来ないの、悩んでる?」


「まあ、それは当然…」


「いいじゃん。出来なくても。何回もキスして、くっついて話して寝ようよ。」


 ふっ。

 小さな笑いが出た。

 こういう所が…紅美は楽でいいんだ。

 俺が何かで苦しんでいたとしても…

 大丈夫。何とかなる。なんでもないよ。


 そう…笑っていてくれる。



「…おまえは…変わらないな。」


「…海くんだって、変わらないよ。」


「俺は…変わったよ。」


 大きく溜息をついた。


「望んでこっちに来たのに…思うように仕事が進まなくてイラついて…」


「……」


「…去年…一般人を死なせてしまった。」


「え…?」


 職業柄、死人の出ない現場がある方がラッキーなぐらいだが。

 そこには、一般人は含まれない。

 二階堂の者が身を張ってでも、一般人は救わなければならない。

 死人が出るとしたら…

 敵か、二階堂か。


 だけどあの日…

 俺は死なせてしまった。

 事件に無関係の…まだ若い男性を。



「いつ…?」


「朝子と…婚約したぐらいの時だったかな…」


「……」


「何もかも…俺のせいだって、自分を責めた。」



 気にするな。

 だけど、忘れるな。

 親父からはそう言われた。

 そうとしか言いようがないとも思う。

 一つの死を引きずって、この仕事は出来ない。

 分かってる…

 分かってるが…


 眠れなくなった。


 追い打ちをかけるように、朝子を抱こうとしても抱けなくて。

 朝子の目が、俺を責めているように見えて。

 精神的に…追い込まれた。

 誰一人、何一つ守れない…

 こんな俺が、トップに立ってていいのか…と。



「…そのストレスで…じゃないの?」


「…何のストレスかは分からないけど、仕事とプライベートの切り替えが出来ない時点で…俺が誰かを幸せにするなんて無理だって分かった。」


「その事、朝子ちゃんには…?」


「仕事の話はしなかった。朝子は…傷の事で精神的にまいってたし。」


「そっか…」


 朝子に話したところで…朝子には受け止めきれないと思った。

 顔の傷のせいで、研修さえやめてしまった。

 …甘やかした俺も悪いが…

 朝子に対して、普通に接しても…

 どうせあたしは。と口に出されるのが辛かった。

 …まるで、俺の心の声のような気がして。



「…でも、海くんが辛い事…朝子ちゃんも知りたかったと思うな…」


 紅美が言った。


「仕事の話はできないにしても…海くんが、辛い事や悲しい事があった時…朝子ちゃんは、それを話して欲しかったと思う。」


「……」


 紅美だったら…と…

 思う事が何度かあった。

 そして、それは常に朝子への裏切りになる。と…また自分を責めた。

 …病んでたな…俺は。

 なんてつまらない男なんだ。


 自分を知って行くたびに、失望した。

 この仕事を…全う出来るのか、と。



「あたし、海くんの事…完璧な人だって思うけど…」


「俺が?全然完璧なんかじゃないだろ。」


 紅美の言葉に、笑ってしまった。

 どこが完璧なもんか。

 ハナオトの方がよっぽど…


「ううん。完璧だよ。仕事が好きで、みんなに優しくて、だけど、弱い所もあって…」


「…弱い所があるのに、完璧なのか?」


「弱い所があるから、完璧なんだよ。」


「……」


「人間らしいじゃん。」


「…紅美。」


 紅美を…抱きたいと思った。

 久しぶりに湧いた感情かもしれない。

 この手で…



「…ホテル、行くか。」


 小さく言うと。


「まだ悩んでたの?」


「……」


「あたしは、とっくにそのつもりだったよ?」


 紅美はワクワクしたような目で言う。


「仕方ない。一番いい部屋取るか。」


 立ち上がりながら言うと。


「シャンパンもね‼︎」


 紅美は俺の腕に掴まって言った。




 この手で紅美を抱きたい…

 そう思ったのに。

 いざ部屋を取ると…妙な気持ちになった。


 …もし、抱けたとして…

 満足させられるか?

 最後の夜になるかもしれないのに…


 そんな俺のつまらない気持ちを余所に、紅美は…



「せっかくだから、お風呂も一緒に入ろうよ。」


 バスルームをのぞいて、ワクワクしたような顔で戻って来た。


「…遠慮しとく。」


「なんで?今更恥ずかしがる事ないでしょ?」


「そうじゃなくて。」


「…ああ、別に反応しなくてもショック受けないから。」


「いや…そうでもなくて。」


「…何よ。」


「……」


「あっ、分かった。実は反応しそうだけど、三秒とかでどうにかなりそうだから嫌なんだ。」


 …本当にこいつは…

 こっちが一大事と思っている事を、ケラケラと笑いながら…


「おまえ…人の気持ちを覗いたような事を…」


 俺が額に手を当てて言うと。


「えっ…」


「……」


「しよ。早くてもいいから、しよ。」


「ハッキリ言うな。」


「お湯張ってくる。」


 俺の返事も待たずに、紅美は再びバスルームへ。


 ……


 最後の夜に…なるのか。

 それとも…ならないのか。

 紅美に選択させるのは、ある意味残酷なのかもしれない。

 だけど…

 後悔して欲しくないと思った。



 バスルームから出て来た紅美と、服を脱がせ合う。

 俺が身に着けているクロスを見た時、紅美は少し戸惑っているように見えたが…

 しばらくそれに触れているだけで、特に何も言わなかった。


 ただ…

 小さいクロスに関しては。


「ありがとう…」


 と。



 …紅美との子供…

 悔やんでも悔やみきれなかった。

 何も気付いてやれなかった事。

 守ってやれなかった事。

 面と向かって、労わりの言葉を言ってやる事もできず…

 手を握って泣くだけだった俺は…



「……」


 思い出すだけで、胸の奥が酷く痛む。

 今更俺が嘆き苦しんだ所で…俺達の子供は生き返らない。

 その存在を喜び合う事なく…消えてしまったなんて…


 それどころか、俺は紅美に…酷い仕打ちばかりを…



「…海くん?」


 顔を覗き込まれて、ハッとする。


「難しい顔してるよ。」


「…きれいな体してるなと思って見てた。」


 俺の言葉に、紅美は少し恥ずかしそうにうつむいた。

 …本当に、きれいだ。

 俺なんかが触れていいのかと思ってしまうほど。



 紅美を抱きかかえてバスルームへ。


 無理かもしれない。

 そう思ってたけど…

 恐ろしく何度も。

 俺は…

 何度も、紅美を抱いた。

 抱けた。



 それは俺の小さな自信につながると同時に…

 朝子と…亡き子供への罪悪感にもなった。



 だけど。

 それでも…

 紅美を欲する気持ちは止められなかった…。





「…海くん。」


「ん?」


「もしかしたら…聞きたくないって思うかもしれないけど、聞いてくれる?」


 紅美が、体を起こして…俺の顔を見ながら言った。


「…ああ。」


 紅美の髪の毛を、耳にかける。


「久世慎太郎…覚えてる?」


「ああ。」


 紅美が家出した時に…面倒を見てくれた男。

 …と言うより…

 紅美と…愛し合った男。


 運命のいたずらとしか言いようがないが、紅美の実の父親が起こした事件で、久世慎太郎の父親と弟は亡くなった。

 そんな二人が…出会って、恋に落ちた。



「あたし…海くんと別れた後、すごく辛くて…誰かに壊して欲しいって思ってた。」


「……」


 紅美は、俺の胸に顔を埋めて。

 左手で、俺の鎖骨を触った。


「そんな時に…慎太郎が現れて。」


 彼は確か…

 もう、故郷に帰って、紅美には会わないと言っていたが…


「最初は…ただ会いに来たって…だけど、ヘヴンにいた子達が…慎太郎は余命わずかだって…」


「え…っ?」


 少しだけ体を起こして、紅美の顔を見る。


「でも、わっちゃんの病院で…辛い治療を受けたんだ。まあ…手術ができないのは変わらなかったけど。でも、今も故郷で生きてるんだよ?すごいよね。」


「…そうか…」


 まさか、彼の名前が出てくるとは思わなかった。

 もう、過去の人間だと…



「…慎太郎に…色々気付かされた。」


「……」


「辛い事を越えられなくて、もがいてる今、あたしの周りには…愛してくれる人は一人もいないか?って。どんなに小さくても、幸せだと思える事を、忘れてないか?って…」


 分かりそうで見落としがちな想い。

 まさか彼が…紅美を救ってくれたなんて。


 …いつだってそうだ。

 紅美が苦しんでいる時、紅美を救ってくれたのは…久世慎太郎や沙都だ。

 俺は…

 苦しめる事はあっても、救えた事はない…



「あたし…ほんと、バカだなって思った。すごく恵まれた環境に育って来たのに…父さんだって母さんだって…みんなあたしを愛してくれてたのに…」


 …ハナオトの言った通り…

 あの時、無理矢理『愛してた』と言わせてしまったからなのか…?

 紅美は…俺の何倍も苦しんでたなんて…



「…紅美。」


 頭を撫でる。


「ん?」


「…悪かったな…」


「あ。ごめん。」


「え?」


 紅美は再び起き上がると。


「でもね…」


 俺の手を取った。


「でも…もう…限られた時間なのに…今がすごく楽しいから…さ。」


「……」


「だから、あの時の辛さなんて…どうでも良くなったって言うかさ…あれがあったから、今があるんだって思うと……えっ…?」


 紅美の言葉の途中。

 俺は紅美の体をすくって、下にした。


「び…びっくりした…」


「…あれがあったから今がある?」


「そうでしょ…?」


「…おまえは…忘れてしまいたい事はないのか?」


 俺の問いかけに、紅美は少しだけキョトンとした後に。


「そりゃあ…忘れたいって思った時期もあったけど…」


「……」


「好きな人との時間を、忘れるなんて…自分の気持ちを否定するのと同じじゃない。」


「……」


「苦しいのは嫌いだけどさ…きっと…何かのサインだったんだよ。」


「…サイン…?」


「この苦しみを、忘れるな。って。」


「……」


「痛みとして覚えてたら…きっと…繰り返さない。」


 最後の方は…俺に対して言っているのだと気付いた。

 俺が一般人を死なせてしまった事への…贖罪の念に囚われている事に対して…。


 そして…気付いた。

 紅美は、明日の夜には。



 きっと…俺を選ばない。


 * * *


 ベッドで話してる最中に。

 紅美が、じいさんに会いたいと言い始めた。

 うちのじいさんもまた…若い頃に一般人を死なせてしまった事をずっと悔いていて…

 悔いたまま、現場に出続け…

 当たり前の事だが、気の張り続けた日々を送り。

 引退した今…穏やかでいて欲しかったが、突然記憶障害が出始めた。

 付き添っているばあさんはともかく、誰の事も、分からない。


 日本に居たのはほんの数年。

 アメリカでの生活が長かった祖父母は、そのままこっちの施設に残る事を選んだ。


 俺自身も久しぶりの訪問。

 そしてそこには、思いがけない客がいた。


 ベッドに座って、部屋から出ていたじいさんが戻って来たのを見ていると、車椅子を押していたのは…


「…ばあちゃん?なんでここに?」


 紅美が驚いた顔をした。


 …ばあちゃん?


「…桐生院の…?」


 俺はベッドから立ち上がると。


「二階堂海です。」


 その女性に頭を下げた。


 …ハナオトの、おばあさん?

 って…いくつだ?

 すごく…その…

『おばあさん』と呼ぶのが申し訳ないぐらい…


 若い。



「桐生院さくらです。海さん…立派になられて…。」


「え…?お会いした事が?」


「麗の結婚式で。あ、でも海さんはまだ8歳だったかしら。」


 …年齢まで覚えてる?

 話の流れで、それがすぐに出てくるなんて。

 …すごく興味深い。



「そうでしたか。失礼しました。きっとお変わりないはずなのに、分かりませんでした。」


 8歳なら、もう記憶には残っているはず。

 だけど全く覚えがない…


「…ふふっ…」


 さくらさんは…何かを思い出したのか、俺を見て小さく笑った。

 その様子に、俺と紅美が顔を見合わせると。


「ああ、ごめんなさい。分からなくて当たり前ですよ。私はお話しなかったので。」


「…そうですか。あの結婚式の日は、とても晴れていて…叔父夫婦がとても幸せそうだった事はハッキリ覚えています。」


 俺の言葉に、さくらさんは優しく微笑まれた。

 そして…


「昨日は華音とデートしたのよ?」


 紅美にそう言った。


「何であたしには連絡くれなかったの?」


「デートなら、男の子としたいじゃない?」


「よく言うわよ…ここには一人で来たの?」


「ええ。陸さんに場所を聞いて。」


「……」



 ハナオトの昨日のデート相手は…さくらさんだったのか。

 それを知って、なぜか…俺はホッとした。

 ハナオトには紅美だけを好きでいて欲しい。

 そうとでも思っているのだろうか。



「…さくら。」


 突然、じいさんがさくらさんに呼びかけた。

 久しぶりに声を聞いた気がしたが…それが呼び捨てなのが気になった。


「そうか…さくら…良かったな…」


 じいさんは、そう繰り返して。

 そばに立っている、ばあさんを見上げて。


「…アッチョンブリケ。」


 と言った。

 それに対してばあさんは。


「まあ。」


 と…パアッと笑顔になった。


「ふふっ。」


 さくらさんは…首を傾げて笑いながら。

 二人の顔を見つめてる。


 アッチョンブリケ…


 ハナオトと、暗号を使ってスパイごっこをしていた人物。


「…なるほどな…だからか…」


 つい…口に出してしまって。


「…何?何がだからなの?」


 さっきから眉間にしわを寄せている紅美が、俺に問い詰める。


「内緒。」


「なんでよ。」


 …そうか。

 この人は…二階堂の人だったのか…。


 だが、あの年代の二階堂から抜けるには…相当な理由が必要だったと思う。

 どういう運命をたどって、桐生院に嫁がれたのか。

 何となく、それを知りたいと思ったが…

 今、こうしてみんなが笑っているのなら。

 それは…とても幸せな事だと思った。

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