凡庸なエッセイ

砂塔ろうか

「おめでとう」なら言える

 「おめでとう」という言葉は便利だ。

 私がそう感じる理由についてはすぐにでも説明したいところだが、その前に少々、自分語りにお付き合い願いたい。あさましくていやらしい性根が出ているのはこのエッセイ全体に言えることだが、そのなかでも特に以下二段落(ここでは空行と空行に挟まれた部分を一段落とする)の自分語りはその濃度が中々に高い。そのくせ言っていることは多分、その気になれば数行で書けてしまうことだ。まったくいやらしい。

 字数は、ちゃんと数えたわけではないが、1500字くらいだ――なので付き合っていただける方にはお付き合い願いたい。そして他山の石にでも反面教師にでもしていただきたい。

 読みたくなければ読み飛ばしていただいても構わない。多分、それでも私の言いたいことはきっと理解できるだろう。



 私はいつの頃からか、「目立たず、普通の存在として場に溶け込む」ことを是として生きてきたように思う。より正確に言い換えるならば、「己の存在を、周囲のものにそこにいて当然のものとして認識してもらえるようにする」ということだ。要するに、私は集団にとっての「異物」――「ソト」の存在でいたくなかったのだ。

 なにせ、居心地が悪い。「ソト」の存在であり続けるということは、くるしいのだ。「ここにいて良いのか」なんてことを常に考えるハメになる。いやだ。

 それを解消する方法として、私は曖昧になることを選んだ。つまり、「ソト」の存在だと意識されず、なんとなく「ウチ」の存在だと認識してもらうということである。私にとってはこれしかない。「ソト」の存在であり続ける胆力も、自然と「ウチ」に入り込める柔軟性や勇気のない私には。

 とはいえ、やはりそんなのは所詮ごまかしにすぎない。

 明確に「ソト」の存在と意識されることはなくとも、「ウチ」にいさせてもらっているだけで竹馬の友としてもらえるほど人の心はチョロくないのだ。さらに言うならば「存在を許されてるだ」という推測だけでなれなれしく十年来の親友のように他人に接することができるほど、私の肝は大きくない。むしろチキンだ。

 それだから、

「なんかよく知んないけどあの人、一応、友達だよね……?」

 というポジションに自動的につくことが期待できるようなやり方を望んだとも言える。

 もっとも、私は影……というか存在感が薄いらしいので

「あの人、いつからいたんだっけ……?」

 みたいなポジションになってしまっているのかもしれないが。どちらにせよ構わない。

 話を戻そう。

 重要なのは、集団内における私のポジションは――自ら、何らかの行動を継続的に起こさない限り――曖昧なままだということだ。

 「ソト」の存在とは認識されない(と思える)。しかし「ウチ」の存在だと言うにはあまりにも内輪のノリに適応し切れず、どうにも馴染めない。

 「目立たず、普通の存在として場に溶け込む」ことを是とした結果、そんなアンビバレントな立ち位置に、私はいることになった。


 ここまでの文章でお察しの方もすでにいることだろうが、私はコミュニケーションが不得手だ。

 コミュ強ならきっと私のようなことはせずとも、自然と「ウチ」に入っていけるだろうし、誰かれ構わず友達にしたり、イヤなやつとは真っ向から対立していくだけの剛勇を持ったりしていることだろう。……これは少し言い過ぎだったかもしれないが。

 なにはともあれ、私はそうではない。何を言ったら敵対してしまうか、何をしたら人の恨みを買うことになるのか、そんなことにビクつきながら会話を重ねて、そして人と親しくなる。

 これには、それなりの理由がある。

 実を言うと、高校一年生あたりまではそこまで神経質ではなかった。もっと無神経に、失礼なことも言っていた気がする。それゆえに失敗も多い。他人から呪われてもおかしくないのではないかと思えるようなことをたくさんしてきた。

 そうした失敗や失礼、これらがもう二度と起こらぬように反省した結果、「こうしてはならない」、「こうなってはならない」……といった呪いが心をがんじがらめにして自由闊達な交流といったものの妨げとなり……今のような、人に言葉一つ伝えるだけでも難儀する体質になってしまった。人から嫌われること、不快に思われることをやや過剰なほどに恐れる。

 ――きらわれたくない。

 これがすべてだ。



 さて、それでは本題に入ろう。


 あなたには、言われて不愉快になるような言葉はあるだろうか?

 ない、という人はいないだろう。もしかしたら、言葉そのものが、というより「これこれこういう時のこんな言葉の使い方」が不愉快、という方もいるかもしれない。きっと私のこの文章に言い知れぬいらつきを覚える方もいることだろう。

 言葉とは状況によってその意味を様々に変えるものだ。言葉そのもの、というより言葉の使い方に重きをおく見方はあって然るべきである。

 では次に、言われて不愉快にならない言葉はあるだろうか?

 言ってほしい言葉、言われて嬉しい言葉ではないことに注意してほしい。あくまでである。

 これもやはり、状況次第、ということがあるだろう。どんな賛辞も、それが皮肉として贈られたとあってはとうてい喜ぶことなどできまい。

 ……さて。ここで一つ想像してみてほしい。

 あなたは、ながきにわたって目標としてきた何か――志望校合格でも億万長者でも結婚でも病の快癒でも何でも構わない――を達成した際、周囲の人々、あなたを知る者があなたになんと言うかを。

 そして、その言葉が、その状況におけるその言葉が、あなたにとって不愉快になるものか否かを、考えてみてほしい。

 きっと、あなたの思い浮かべたその言葉はその状況において、不愉快にならないものだろう。

 ――私にとって、「おめでとう」とはまさにそれだ。


 時と場合を間違えなければ、安心して言える便利な言葉。それが「おめでとう」なのだ。


 もちろん、他にもそういった言葉はある。感謝の意を示す「ありがとう」などはまさにそれだろう。

 しかし、「ありがとう」という言葉は誰かに何かをしてもらわなくては言えない。一方的に、これから親しくなりたい人に向けて言うことはできないのだ。

 その点、「おめでとう」は優れている。誰かがめでたいことをする。そうするだけで、私には「おめでとう」と言う資格が与えられる。一方的に、相手に存在を認識されていない状態からでも「おめでとう」を言える。

 実際には、「私なんかが『おめでとう』などと馴れ馴れしく言ってしまって良いのだろうか……」と思うこともあるのだが、まあそれはおいておこう。

 重要なのは、こういう機会によって「話しかけた」という前例を作ることで、次はもっと話しかけやすくなり、その次はさらに……それを百回も繰り返せば、ゆくゆくは私の呪いも和らぐのではなかろうかと、そんなふうに思える。

 だからこそ「おめでとう」という言葉は便利で、使いやすい。


 ……ちなみに、「好き」や「かわいい」なども状況を間違えなければ「おめでとう」同様、一方的に使える言葉だが、こちらは私には上手く使えない。元々、自分の思いを伝えるのが苦手な上にそれやって冷たい目で見られた日にはきっとさらなる呪いを抱え込むハメになる。だが、(こう言ってはあれだが)「おめでとう」という言葉ならば基本的には拒絶されないだろうし、拒絶されたとしても、こちらには「祝福した」という大義があるので立ち直ることができる(悲しいかな、「好意を伝えただけ」という大義はでは「祝福した」という大義にどうしても劣ってしまう。その理由についてはまだ考察が足りないのでここには記さない)。

 そういう意味でも、やはり「おめでとう」は便利だ。


 しかも因果応報、という言葉に則って考えれば「おめでとう」と人に言い続ければいつか自分が「おめでとう」と言われることもできる……なんてヨコシマな期待も抱ける。

 ともかく、そういう言って嬉しい言われて嬉しい、な「おめでとう」をこれからたくさん言えると良いと、そう思う。


 さて、このエッセイはこれで終わりとなる。長々とさもしい人間性を開陳するだけの雑文にお付き合いいただき、感謝する。どうもありがとう。

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