第15話 神託の場所

 その年の夏、オオドは家族と共に高向の館にいた。今オオドが考え続けていることは、実際にどうやって黒龍の沼の河口を切り開くかということであった。砂州を切っても、元々砂州ができるような遠浅の浜なのであるから、いずれまた埋まってしまうであろう。ではどうするか。採り得る方法は頭の中では限られてくるのであるが、実施に移すことが可能なのかどうか。その答えが得られず、考えはぐるぐると同じ輪の中を巡っていた。

ーーまず神御自身に伺おう。

 と、オオドは決心した。皆を集めて、

「明朝より白山の神に参る。神意を承るまでは帰らぬ」と告げて、髪を短く切りそろえさせた。目の子媛は夫の並々ならぬ決意を感じ、すぐさま葛城山でのワカタケル王との出会いの話が甦(よみがえ)った。

「山では人の姿をとって惑わす神があると聞きます。どうぞこの鏡を背中にお掛け下さい」 と、自分の守りの銅鏡を差し出した。

「吾は神の御心を知るために行くのだ。どのような神が依(よ)り憑(つ)こうと退けるわけにはゆかぬ」

 と、オオドは妻の申し出を断った。

 翌朝、倭にも同行した供のうちから三人だけを選んで出発した。海石榴市(つばいち)以来オオドが信頼を深めている白樹(しらき)も加わっている。粗衣をまとったオオドの首には輪にした標縄(しめなわ)が懸かっている。鳴鹿(なるか)からさらに黒龍川を遡るのであるが、どこまで行くことになるかオオド自身にもわからなかった。これから出会うあらゆるものに体と心を開き、神の心を感じ取らねばならないのである。

 夏の真っ盛りを過ぎたとは言え、日は朝から容赦なく照りつける。川の両側の山並みは迫っておらず、身を隠すことはできない。下流同様の豊かな水量を持った黒龍川のほとりには無数の岩が転がり、所々で分流する中洲に木が繁っている。木の根元の堆積した砂には、水が削(そ)ぎ取った爪痕が生々しく残っている。

 主従は大岩をよけながら、ひたすら氾濫原を遡った。炎熱に灼かれ体中の水気が抜けてゆく。滴り落ちた汗も今は乾ききって、嘗める唇の周りが塩辛い。オオドは休憩をとった。竹筒の水をむさぼるように飲む家臣たちを見ながら、オオドは言った。

「その方たちには葛城以来苦労をかけるのう。わが身を贄(にえ)として供するぐらいの気持ちがなければ、白山の神は御心を明かし給わぬと思うのじゃ」

 オオド自身は水を口にしようとしなかった。あわてて竹筒をしまい、案じ顔でオオドを見る家臣たちに、

「その方たちはよいのじゃ。吾の身のなりゆきを見届けてもらわねばならぬのだから、たっぷり水を摂っておくがよい。心配せずとも、吾はまだまことに贄となるわけにはゆかぬ」

 と、笑った。

 日が天頂を過ぎると、暑さは一層耐え難いものになり、疲労のため河原の景色が時々傾くように思えた。歩きながら一行の誰もが右手の黒龍川に飛び込んで、頭まで水につかる自分の姿を夢想した。実際、所々で合流する支流を歩いて渡るときは、体を濡らす水に生き返る心地がした。

 やがて谷がしだいに狭まり、山腹の所々に木を切り開いた畑と山人(やまびと)の住処(すみか)の塊が見えるようになった。オオドは川端の木陰で休んだ。束の間の眠りであったが、夢を見た。

 白く乾ききった道の端に一匹の亀がいた。甲羅の長辺が一尺(三十センチ)近くある大きな亀である。じっとして動かない。オオドがどうしたのかと持ち上げると、首と足を甲羅の中に引っ込めてしまった。黒い爪の先だけがのぞき、土にまみれた体は乾ききっている。オオドはかわいそうに思い、黒龍川の河原まで運んでゆくことにした。亀はずっしりと重く、石につまずいてはよろめきながらオオドは河原に出た。辺りを見渡すと、ちょうど近くに水草の生えている浅瀬があった。抱えた亀を浅瀬に放してやると、底へ沈んだまま甲羅から首も出さない。しばらくして甲羅から首と足が現れたかと思うと、亀は浮き上がり水面から顔を突き出してこちらを眺めている。まるでオオドに礼を言っているように思われた。やがて亀はくるりと向きを変えて水草の中に潜っていった。

 一行が歩みを再開して間もなく、夢で見たのとそっくりな浅瀬が現れた。オオドは立ち止まって眺めた。浅瀬のすぐ上流は、小さな支流との合流点になっている。オオドは対岸へ渡らずに支流に沿って遡った。供の者たちは今日の長い旅が終わりに近づきつつあることを感じた。傾きつつある日の方角から推すと、この支流は北東の白山から流れ出しているようである。

 支流は間もなく黒龍川の北側の山々の間を流れる谷川に変じた。主従は谷川の河原を登ってゆく。一際細い支流が右手から合流する所でオオドは水源を求めて樹間に入った。遠からず泉に突き当たるはずだというオオドの予想は外れなかった。光も十分に届かない急坂を流れを見失わないように登ってゆく。やがて傾きの緩やかな場所に出ると、そこに池があった。杉の木立に囲まれた池の端の斜面から水が湧き出ている。木立の隙間からかすかに差し込んでくる光に照らされ、灌木の間を覆う苔は湿りを帯びて輝いていた。オオドは苔と同じ色に鎮まる池に拝礼すると、裸になって身を清めた。冷たい清水が汗と一緒に疲れを洗い流すようであった。湧き水から程近い所に地中から頭を突き出した岩があった。オオドは自らが首に懸けてきた標縄(しめなわ)で岩の上に三角を象(かたど)った。龍の鱗の形である。続いて供の者から米と塩と若布(わかめ)を受け取り、鱗の中に置いた。後ろに家臣を従えたオオドは、山を拝礼して言った。

「白山におわす黒龍川の神よ、お聞き下さい。これよりあなたを坂中井の神としてお祭りいたします。吾の進む道をお示し下さい」

 拝礼の後、オオドが言った言葉は家臣たちを驚かした。

「これから吾は祈りに入る。吾が呼ぶまでは昼であろうと夜であろうと決して話しかけてはならぬし、池の周りに近づいてもならぬ。その方たちは野宿せねばならぬが、そのほかは普段どおりにせよ。必要があれば山を下りても構わぬ。ただし、食べる前必ず白山の神に祈ることを忘れるな」

「王は食事を断たれるおつもりですか」と、白樹(しらき)が尋ねた。

「心配いたすな。霊泉の水をいただくゆえ、死にはせぬ」と、オオドは静かに答えた。

「せめて夜だけはお近くに侍ることをお許し下さい。ここは獣たちの水場でございましょう。王が山犬に噛まれるようなことがあっては、供としての役目が果たせませぬ」と、白樹はすがるように願った。オオドは山犬に食われるならそれも神意かと思ったが、自分の許しを待つ家臣たちの顔を眺めた後、「好きなようにいたせ」と言った。

 

 磐座(いわくら)の前にオオドが座ってから三日目の夜を迎えた。初めの晩、オオドはたわいもなく眠ってしまい、気がつくと鳥の囀(さえず)りが頭上から聞こえていた。泉の水を口にすると、日差しに煽られたように底知れぬ空腹感が湧いてきた。二日目は空腹感と闘うことだけに費やされたと言ってよい。夜になると、山犬の声に脅かされた。このまま獣の餌食になって終わるのかという弱気がオオドをかすめた。それに比べると今は落ち着いた爽快感があり、このまま何日でも座っていられそうな気さえした。家臣たちは離れた所にいて時々近づいてはオオドの様子をうかがっているらしいことが、枝葉をかき分ける音からわかった。夏とは言っても、山の夜は冷え込んでくる。冷気の中でオオドは眠らずに神に問いかけを発し続けた。しかし、神は何も答えない。四日目の夜もむなしく過ぎた。五日目を迎えると、昼でも自分が起きているのか眠っているのかわからなくなる時があった。神に対する問いかけも今は忘れていた。気づくと苔の上にうつ伏せになっている自分を叱咤して座り直すが、体は揺れ続けた。しかし、夜になると冷気が朦朧とした状態を醒まし、自分の体が消え去って暗闇に溶け込むような不思議な感覚を覚えた。地面に座っているはずなのに、今自分の体は宙に浮き上がって森を見下ろしているようなのである。自分はもう死んでいるのかとも思った。

 磐座の傍らに立っている己の姿が見える。腰まで垂れる真っ白な髪の老人が磐座に腰を下ろしている。彼方を向いているので顔は見えない。オオドは磐座の周りを巡って老人の顔を見ようとするが、いくら追いかけても隔たりは縮まらない。いつも老人の白髪が見えるばかりだ。そのとき突然風が起こって白髪を巻き上げると、

「我の面(おもて)を見ようとしてはならぬ。見れば、汝(なんじ)の眼(まなこ)は昏(くら)むであろう」と、甲高(かんだか)くしかも太い、女とも男とも判じ難い声が頭上から降りかかった。

ーーさては神におわしますか。

 オオドは、思わず地にひれ伏した。

「汝(なんじ)、竹田川のほとりの玉(ぎょく)を掘り出すべし。しからば、我海龍とならん」

 声がやみ、しばらくしてオオドが恐る恐る顔を上げると、老人はゆっくりとした足取りで山に分け入ってゆくところだった。しかし、その姿は急速に遠ざかり、たちまち白い靄(もや)の中に消えた。

 山犬の声が遠く聞こえている。……声はいつか黒龍のうなりに変わった。黒茶けた水が海のうねりのような波頭で砕けながら凄まじい勢いで迫ってくる。呑み込まれたはずのオオドは、いつの間にか対岸の自然堤防が根元の方から激流にえぐられ、載っている高床の家がしだいに傾き、ゆらゆらと水に落ちてゆくのを眺めている。……湧き水の流れるかすかな音がする……童子のオオドが河原で砂を掘っている。素っ裸であることからして、夏であるらしい。母が傍らにしゃがんで見守っている。オオドは両手で一心に掘る。雲の動きで時々手元が翳る。砂の壁から水が湧き出して穴は小さな池になる。しばらくすると濁りは消え、澄んだ水で池は満たされる。オオドは池に両足を入れ、気持ちよさそうな顔を母に向ける。母の優しい目と白い歯。……喉をくぐる水は冷たく甘い……一滴の水もなかった滝の上から無数の白い飛沫(しぶき)となって水が落ちてくる。ゆっくりゆっくり滝壺に届く。女の肌理(きめ)のような白い岩盤の上を滑り始めた透明な生き物は、どんな細かな岩の襞(ひだ)をも浸(ひた)して這ってゆく。どこまでも……

 朝になった。目覚めたオオドは家臣を呼んだ。白樹がたちまち駆けつけてきた。オオドの体を支えると、「大丈夫でございますか」と、主の顔をのぞき込んだ。白樹の顔も憔悴しているのがわかった。白樹の肩を借り、オオドは霊泉の水で渇きを癒した。昨夜の夢と同じ喉越しだ。

「長い間そなたたちもご苦労であった。神は御心を明かし給うた。吾は高向へ帰る」

 オオドの声はか細かったが、痩せた顔は晴れやかであった。

 

 そのまましばらく眠り続けたオオドの体力の回復を待って山を下り、一行が高向へ帰り着いたのは四日の後であった。来た時とは一転し、真昼の炎天を避けた遅々たる足取りであった。日没近く下流に向けて歩むオオドの眼に、夕映えの光を照り返して輝く黒龍川の流れが女神のように映った。瑞穂の堀江の工事の時に聞いたヨシヒトの言葉が思い出された。今こそオオドは、坂中井の平野が稲田に変わる様をありありと思い描くことができた。

 高向の館には、目の子媛からの報を聞いた真佐手とヨシヒトが駆けつけて待っていた。

「この度は何もお聞きしておりませんでしたので、心配いたしました。捜索の者を出そうかと話していたところです。王にもしものことがあれば三国はどうなりましょう」と、真佐手は苦言を呈した。

「吾にも何日の旅になるものやらわからなかったのじゃ。しかし、ありがたいことに白山の神は道を示し給うた」と、オオドは神の詞(ことば)を伝えた。

「竹田川のほとりにまことに玉が埋まっているのでしょうか、などと愚かなことは申しませんぞ。黒龍の沼の開口場所が定まったのでございますな」と真佐手が言うと、オオドは「執政殿はさすがに察しが早い」と笑った。

「黒龍川の源流の神を祭るのでございますね」とヨシヒトが言うと、オオドは大きくうなづいた。

「ヨシヒトは沼の各所の深さと流れををテヒトたちに測らせよ。真佐手は工匠(こだくみ)を高向へ回すよう手配せよ。ただちに高殿の向きを変える普請にかかる」と、早速命を下した。

 オオドの行ったことは、一種の宗教改革であったと言えるであろう。高向の館の高殿は、横山や女形谷の館と同じように北を拝する向きになっていた。これは祖霊の森を拝する横山の高殿に倣ったものであろう。オオドは高殿を東向きに変え、白山の神を祭った。オオナムチの神や祖霊が廃されたわけではないが、新王の主神は白山の神に変わったのである。オオドはいずれ水の下から姿を現し、諸々の神を拝する三国各地の民が集まり住むであろう黒龍の沼の未来を見据えていたのである。

 どのような神も退けるわけにはゆかぬと言って出かけたオオドの帰りを、一日千秋の思いで待ちわびていたのは目の子媛であった。目の子媛はやつれた夫の体力回復に心を砕く一方で、尾治の父に使いを送った。

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