第11話 迂回
大湊(おおみなと)にある雄島の長の居館では、長と江沼の君が待っていた。江沼の君は三十名ほどの手勢を率いて来ていた。
「ともかくご無事で何よりでした」
長は安堵の色を満面に浮かべて言った。
「長のお陰です。迎えの舟がなければ、今頃は竹田川の辺りで敵の手に囚われていたことでしょう」
「お手伝いしようと、武器を揃えてお帰りを待っておりました」
甲冑をつけた江沼の君の頼もしい声が響く。反乱後、海部氏と連絡を取り合っていたが、江沼から横山へ通ずる山道はタカハチにふさがれているので、気取られぬよう海路を駆けつけたと言う。江沼の君は振媛の母方の従兄弟(いとこ)である。オオドは横山の宮殿で幾度か話したことがあり、豪快で進取に富む気性を敬愛していた。
「ありがたいことです。何とお礼を申し上げたらよいか。ところで、ツヌムシ王の死は、まさかタカハチの手に掛かったのではありますまいな」
「そうではありません。王子が発たれてから六日後、王が病に倒れられ、亡くなられるまで三日という突然の出来事で、なす術(すべ)がなかったそうです」
と、江沼の君が答えた。
「そうですか。詳しいことは後でお聞きすることにしましょう。早速母と妻子たちを奪い返しに向かいたいのですが、横山の館の手勢はどれぐらいでしょうか」と、今度は長に尋ねた。
「多く見ても二百といったところでしょう。そのうち五十ほどはツヌムシ王の臣で、主君を失った上、振媛様を人質に取られて手が出せないだけ。心の中では、オオド様のお帰りをお待ちしていることでしょう。館の外の兵は湊までの竹田川沿いの道と川べりに伏せられています。散らばっていて数ははっきりわかりませんが、五十を超えることはありますまい。高向は武器を奪い去られただけで、見張りもごくわずかだそうです」
長の言葉にオオドは深くうなづいて、真佐手を見やった。
「周辺の首長たち、特に足羽の君の動きはどうですか」
と、今度は真佐手が江沼の君に尋ねた。
「変事には気づいているが、三尾氏内部の後継争いと見て、今のところどの首長も静観している」
「わかりました。王子、すぐに動かれた方がよいかと存じます。人質が取り返せないまま不利な戦いとなれば、タカハチ殿に味方する首長が現れないとも限りません。今夜横山の館を急襲しましょう」
「真佐手殿の言われるとおりです。臣の手の者に、角鹿から三国までの海でタカハチ殿の配下を見つけたら後をつけ、三国の津に入ろうとしたら構わず討ち取れと申し付けております。けれど三国崎に見張りを置いているやも知れず、時を移せばオオド様のお帰りが敵に伝わらぬとは言い切れませぬ。どうぞ臣の手勢も加え、ただちに御出陣下さい」
と、長も賛成する。
「攻撃は今夜と決まった。して、手はずはどのように」と、オオドは真佐手を促した。
「敵の目につかぬよう、黒龍の沼の南を舟で迂回し、川を遡ります。なるべく高向に近い所で陸(おか)に上がり、高向の家臣を解き放って手勢に加えます。見張りがいてくれるお陰で、我が手勢はほとんど減っていないものと期待できます。後は山辺の道を通って北へ向かい、女形谷を落としてから横山に向かいます。横山攻撃は明日の未明頃となりましょう」
「わかった。真佐手の手はずではいかがでしょう」と、オオドは長の意見を求めた。
「ほとんど同じ事を考えて、黒龍の沼の葦原に舟を隠してあります。今宵は幸い空も曇って、敵に覚られずに動けそうです。女形谷の敵の守りはどの程度のものかわかりませぬが、オオド様の武運をお祈りします」
海部氏の水軍三十を合わせたオオドの兵は、総勢七十名となった。長い行軍に備え、十分腹ごしらえを済ませた後、兜(かぶと)と挂甲(けいこう)(=鎧)を身に付けたオオドと長が軍を代表して対岸の雄島に渡り、神に戦勝を祈願した。
初冬に近い日は短く、すでに辺りは薄暗くなっている。一艘、また一艘と舟が雄島の湊を離れて行く。七人が乗れる中型の丸木舟である。目立たぬよう、適当な間隔を保って出て行く。兵士たちの足元には弓矢と鉄刀、鉄剣、そして短甲(上半身を覆う鎧)と楯が忍ばせてある。
ーー横山の館までは一兵たりとも失ってはならぬ。
というのが、オオドの考えである。館に立て籠もった相手を、数に劣る兵で攻める困難を覚悟しなくてはならないのである。この時代首長直属の武人を除けば、兵士は農民や漁民を動員した者である。タカハチの軍も無論そうであろう。これに対し、海部氏の水軍も江沼氏の軍も精鋭であることが、その顔つきと動きからわかる。攻める側の不利を割り引いても戦闘能力では敵を凌いでいるだろうと、オオドは想像した。全軍に、海上で敵と遭遇しても、やりすごせるものならやりすごすように伝えてある。
海部氏の兵士が水先案内を務める舟は、苦もなく三国崎の黒い影を回り込んで黒龍の砂州へと向かう。
幸い一艘の舟とも遭遇することなく、全軍が砂浜に上陸した。舟を引き揚げて短甲と武器を身に付ける。沼との距離はわずかだ。緩やかな砂州を登った所は、背丈よりもはるかに高い葦原である。上を仰ぐと、穂の影が風で揺れている。顔を撫でる葦を分けて海部水軍の隊長の導く所に、ひとまわり小さな丸木舟が隠されていた。
葦を踏む音に驚いた水鳥が、あちこちで飛び立つ。束の間、張りつめた空気が走る。
「オオド様と江沼の君は、臣とご一緒にどうぞ」
長の舟だけはほかより丈が長く、屈強そうな六人の漕ぎ手が乗り込む。
滑り出した湖面に、櫂の水をかく音だけが静かに聞こえる。時々湖面で魚がはねる。
「この辺りの水の深さはどんなものでしょう」
小さく波立つ湖面を見ていたオオドがぽつりと言った。
「一尋(ひとひろ)(約百五十センチ)もないでしょう。この辺りに限りません。黒龍の沼はどこもそんなものかと思います」と、長が答えた。
江沼の君が振媛からの報せを受け殯(もがり)に駆けつけた時、すでに館の橋の門は閉ざされ、塀に並んだ兵士が弓を構えており、引き返さざるをえなかったと言う。
「タカハチ殿の反乱は、ツヌムシ王の突然の死とオオド様の留守という偶然に発したもので、あまり周到な用意があったとは思えません。今宵もその辺りに勝機が見つけられるのではないでしょうか」と、長は言った。
「例えばどんなところですか」と、オオドは尋ねる。
「まず、周辺の首長たちに全く手を回していないところ。次に、オオド様がお帰りになれば真っ先に横山の館に挨拶に参られるものと決めつけて竹田川沿いに兵を多く配置し、そのくせ湊や高向の監視が手薄なところ。振媛様の身の周りの物を届けるという口実で横山の館に行った高向の侍女は、奥方様もご子息も牢に入れられているわけではなく、軟禁の状態だということや、その場所まで臣の偵察の者に知らせてくれました。人質を取っての籠城を策としながら、これも大きな隙と言えましょう」
「家族が無事なのは嬉しいことです。兵のほとんどが横山へ移っているとすれば、女形谷の抵抗はあまり心配しなくてよいかも知れませんな」
「予断は許しませんが」と、この点は長は慎重である。
オオドは子供の頃一緒に遊んでいたタカハチの顔を思い浮かべた。三国崎での事故の折同行していた童の一人は、ほかならぬタカハチである。長じてから、オオドを「高すくみの臆病者よ」と嘲っていたことも知っていた。しかし、なぜか今も憎しみは湧かなかった。あの時、自分はむしろいたわられたのに、タカハチは厳しく叱られたのかも知れない。そこに感じられる大人たちの微妙な態度の差が、彼の心にひがみの種をまいたのであろうか。「自分こそ長子の子であるのに」という日頃の憤懣を破裂させながら、冷酷にも用意周到にもなり切れない従兄弟の気持ちがわかるような気がした。
湖面を雨が叩き始めた。空を仰ぐと、低く垂れ込めた雲が流されていくのが認められる。顔を打つ時雨はさすがに冷たかった。いつの間にか流入口が近いようで、舟がうねるように揺れる。ここからは手練(てだ)れの漕ぎ手しか遡ることができない黒龍川の領域に入る。黒龍川ほど四季を通じて水量の豊富な川は少ないであろう。それだけ流れも速く複雑だ。
「行けるところまで舟で遡ろうと存じます」
並んで進んでいた家臣たちの舟が近寄ってきて、真佐手がオオドに呼びかける。
「それでよい。無理をする必要はないと、海部の隊長殿に伝えよ」
「畏まりました。早速」
真佐手の舟は、速度を上げて先頭の舟を追った。
川に入って漕ぎ手の櫂にいっそう力が籠もる。勢いのある流れに向かって舟を進めるには、技術も必要だ。漕ぎ手は水に逆らわず、舟の向きを巧みに調節する。川岸を葦で覆われた見通しの悪い地点で鳥が羽ばたくと、首長三人は矢の飛来に備えて楯をもたげる。しかし、推測どおり、敵の伏兵はなかった。
南から流れる味間川(あじまがわ)(日野川)との合流点の手前で、オオドの軍は陸(おか)へ上がった。見えないところで渦を巻く合流点での万一の危険を避けたのである。高向の館まではあと一刻(二時間)ほどで、これまでに行程の半分を来たことになる。
休息の指令が出ると、さすがに疲れたのか、河原の砂に仰向けになっている者もあるが、
士気は衰えていない。ここからは黒龍川を離れ、氾濫原の最短距離を歩いて高向へ向かうことになる。
所々に群れ生えた薄(すすき)をよけて進むため、夜目の利く者が先頭に立つ。敵に気づかれる恐れがあるので、松明(たいまつ)は使えない。湿地がしだいに乾いた砂地に変わってゆく。兵士たちは、徐々に増えてゆく川原石をよけながら黙々と進む。足音と帯びている武具の音だけが聞こえる。高向で加わる味方のために重い武器や短甲を担いでゆく者も多い。前方のかすかな山影が大きくなった頃、穂摘みの済んだ稲田が目の前に開け、点在する民家が黒く見えてきた。高向の館が近いのだ。
身を隠した竹林の向こうに明かりが見える。瑞穂の堀江に、館の門に通じる橋が架かっている。橋の前では、篝火(かがりび)を囲んだ六人の武装した兵士が談笑している。全く警戒する様子はなく、十尋(約十五メートル)ほどの距離に迫った敵の出現に気づかない。
「館の周りには、ほかに警備の者はおりませぬ」
偵察の報告にうなずいた真佐手の手が振り下ろされた。矢が風を切って門に突き刺さる。
一本、二本、三本。あわてふためく見張りが武器に手をかけるより早く、竹林から弓を構えた兵士たちが飛び出してぴたりと狙いを定めた。
「動くな。命は取らぬ。刀を捨てよ」
真佐手の声が鳴り響いた。
たちまち縛り上げられた見張りたちのほかに抵抗する者はなく、門は開けられた。中には外と同数の敵の兵士がいたが、寝込みを襲われることになり、戦闘もなく館は奪い返された。主が戻った高向の館の者たちの喜びようは言うまでもないが、それに劣らずオオドの帰りを喜んだのは、倭に発つ前、オオドが迎え入れた韓人たちであった。海を渡ってせっかく落ち着き先を見つけたと思った矢先の彼らの不安と落胆が、オオドにはよくわかった。彼らはオオドと共に帰ってきた那弥率と再会を喜び合っていたが、自分たちも横山の館の攻撃に加わりたいと申し出たのだった。武人でもない貴重なテヒト(技術者)たちを戦場に連れてゆくことにオオドは躊躇した。しかし結局、彼らの熱心さに負け、前線に立たない約束をさせた上で許した。どこに隠してあったのか、那弥率の手には槍が握られている。
兵を休ませたオオドは、横山の館を探った侍女を呼んで、詳しい様子を聞いた。目の子媛や息子たちも衣食に不自由はなく元気で、軟禁の場所は動かされていないと振媛自身の口から聞いたと言う。ツヌムシ王危篤の報で同行した沙白と沙加手は、そのまま横山の館に留め置かれ、オオドの家族の身の周りにいるとのことである。高向の家臣たちは、その後もう一度侍女の横山行きを打診した。しかし監視の兵を介して得た答えは、必要がないというものであった。だからその後のことはわからないと言う。オオドは館内の兵の配置についても尋ねたが、武人でもないこの侍女が要領よく説明することに感嘆し、心から労をねぎらった。
「大部見通しがよくなりましたな。わが父と兄が中にいることで、質となっている皆様を無事に救い出す手だてが浮かんできました」
と、真佐手がほほえんだ。オオドも初めて晴れやかな顔でうなずいた。
高向の男たちが集められた。出発前にオオドは、女たちに用意させた襷(たすき)を兵士全員に身に付けさせた。暗闇での同士討ちを避けるための目印である。
館の守備兵と老人、女子供たちを残して女形谷(おながたに)へ向かう軍は、百三十名にふくれ上がっていた。高向を出る頃から雲はいっそう低くなり、東の山が霞んで見えなくなった。女形谷までは半刻(一時間)、横山までは更にその半分の道のりである。高向に馬が残っていたのは思いがけないことであった。おそらく、タカハチの守備兵たちが横山との連絡を取るために残してあったのだろう。音を抑えるため蹄に布を巻き、オオドたち三人の首長と、真佐手ら隊長が騎乗した。口には枚(ばい)を含ませてある。
東の山麓に至り、山辺の道に出ると、一路北へ向かう。雨は滝の飛沫(しぶき)のような霧雨になった。全身に冷たくまとわりつき、視界も悪いが、敵に気づかれないためには好都合である。林の下を通るときは木が雨を幾分防いでくれる。今まで道なき道を歩いてきたので、おのずと行軍の速度が上がる。
女形谷の館は山辺の道の脇にあり、林に囲まれている。高向と同じく開墾の拠点として築かれたもので、氏族間の争いも少ないため濠はない。濠を持っているのは、王宮である横山の館だけだ。
ーー馬で抜け出されたら面倒だ。
と、真佐手は思った。
ーー目前に近づいた女形谷は高向と異なり、民家の者もすべて敵だと思わなければならない。横山の館に行っている夫や兄弟のためには、何でもするだろう。まず、横山との連絡を断つことだ。
真佐手は行軍を止めて、馬を下りると那弥率を呼んだ。
「貴公は武術と乗馬に長じておられる。この集落を抜け出して我が軍の接近を横山の敵に通報しようとする者があれば、待ち伏せて必ず討ち取っていただきたい。手練れの者をお付けする。道は一本道。この馬を使われよ」
那弥率は「承知」と言うや否や、馬に飛び乗り静かに駆け去っていく。五名の武人が後を追う。
オオドの軍は兵の内百近くを割き、館の周囲に広がる集落をひそかに取り囲むと、残りの兵で女形谷の館へ向かった。
ーー我らを挟み撃ちにする兵力がここになければ、素通りでもよい。
というのが、オオドの考えである。
塀の内に灯りは見えるが、門の前に守備兵はいない。使命を言い含められたオオドの臣が開門を求めると、誰何(すいか)の声があった。
「我らは反乱を起こしたタカハチ殿を捕らえるため、これより横山の館に向かうオオド様の軍である。女形谷の民に一切危害は加えない。開門して館の内に我らに手向かう者のいないことを見せていただきたい」
しばらくして門が開き、立っているのは老人である。武器は帯びていない。
「オオド様はいずれに。もし使者の言葉に偽りなくば、館の中をお改めいただこう」
オオドは一歩前に出て言った。
「吾がオオドである。里の長と見受けるが、使者の言葉に偽りなきことをオオナムチの神に誓おう。吾は三尾の同族として、横山に赴いた女形谷の男たちの命をいたずらに奪いはせぬ」
老人は、オオドに向かって深く一礼した。
老人の素振りから、守備兵は中にいないことがわかっていたが、自軍の兵を安心させるために、オオドは「速やかに館の中を改めよ」と命じた。
館の中は老人、女子供が二十人ばかりいるだけで、無論タカハチの家族はいなかった。武器も残されていなかった。
その頃、山辺の道に近い高床の大きな民家から、馬に乗った男が抜け出した。甲冑をつけ、明らかに武人の身のこなしである。男はオオドの兵たちの囲みをたやすく破って、山辺の道を北へ駆け抜けた。
那弥率と同行の武人たちは、道が女形谷の林を抜ける所で、敵を待ち受けていた。林の外は風があり、雨が体に吹き付けると寒さでじっとしていられないほどである。しばらくすると、馬の蹄の音がして霧の中から一人の男が現れた。武人たちが武器に手をかけるのを制して、那弥率は馬上で槍を構える。男も人影を認めて、馬を止め刀を抜き放つと、叫んだ。
「そこを通せ。邪魔をすると切り捨てるぞ」
無言の那弥率に対し、人馬の影が刀をかざして近づいてくる。那弥率も徐々に馬の脚を早めてゆく。互いに駆けちがうこと数度、剣戟の響きがして、刀が宙に払われたのが見えた。次の瞬間那弥率の槍はしっかりと男の脇腹を刺し貫いていた。落下した体は地に激しく叩き付けられて動かない。見ている者が自分たちの役目を忘れるほどの、鮮やかさだった。
更にしばらく待ってももう敵は現れない。やってきたのは味方の軍であった。
真佐手は道の端に転がった武人の亡骸を見ると、
「見事に仕留められたな」と、那弥率に向かってほほえんだ。
那弥率は馬から下りて手綱を真佐手に返すと、自分は主を失った馬に飛び乗った。馬は一声いなないただけで、おとなしくしている。
「女形谷の武功第一ぞ」と、オオドも那弥率を称賛した。
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