第10話 曇天の海

 加多夫の君の館は、勝野津からの途を半ば戻った所にあった。翌朝到着した二人が案内された棟には、すでに父娘が待っていた。やがて姿を現した加多夫の君は気さくに喜びを浮かべて、

「つつがなくお帰りで何よりです。旅の間、今は倭のどのあたりだろうと、再会を心待ちにしておりました。しかも今日はめでたい席に立ち会えて、うれしいことです」と言った。

 ひとしきり倭の土産話に座がはずんだ。昆支王子の話が出ると、加多夫の君は身を乗り出して聞いた。しかしオオドは葛城での出来事は口に出さなかった。

 縁組みの話に移りかけたとき、

「真佐手様と二人で話しとう存じます」と、サキが初めて言葉を発した。例のよく通る澄んだ声である。

 真佐手とサキが南の山に面した庭に下りていった後、長は苦笑いしながら、

「失礼をお許し下さい。勝ち気な娘で困っております。このお話をどう思うのかと聞いても、お返事は直接お会いして申し上げますと、父親にも明かさないのです」と言った。

 オオドは、予想どおりと納得のゆく思いであったが、真佐手にとって悪い返事ではないだろうという気がしていた。

 庭の池をゆるりと巡りながら、真佐手は、

「これを受け取っていただけますか」と、金銅の耳飾りを差し出した。海石榴市で買い求めたものである。自分の手が汗ばんでいるのを感じた。サキはかすかにもたげた手で制するように、

「その前にお聞き下さい。倭へ発たれる前、真佐手様からのお話をうかがい、私は考えました。ただ一日のことでございましたが、実直で心寛き君のお人柄を知り、私のような者を娶(めと)りたいというお言葉を本当にうれしく思いました。今日再びお会いする日までその気持ちが変わらなければ君の元へ参りたいと、お帰りをお待ちしておりました。それが、たった十日ほどの日々が何と長く感じられましたことか。お戻りと知った昨夜はときめきを抑えがたく眠れぬほどでございました。この気持ちを君だけにお話したくて、失礼をいたしました。私は田を耕したり、糸を紡いだりすること以外知らぬ下々の者でございます。三国の王宮の習わしもまったく見当もつきませぬ。それでも妻として迎えていただけるのなら、お話をお受けいたしたいと存じます」と、微かにはにかんで言った。

 聞いている真佐手は雲に乗るような心地であった。恥ずかしそうにうつむいているサキの手に、いっそう湿り気を増した耳飾りを握らせながら、

「故郷を遠く離れるあなたに決して寂しい思いはさせません」と、上ずった声で約束した。

 来年の初夏、真佐手はサキを娶ることが決まった。帰り道、祝福するオオドに向かって、「待ったかいがありましたぞ」と、真佐手は大きな声で喜びを表した。

 

 角鹿(つぬが)の津を出た舟は河野浦を目指す。左右の山が門のように大きく口を開けた湾内は波も静かだ。三方(みかた)を朝早く出てきた一行は、帰心にはやるためか水をかく手に疲れも見せない。外海に出ると、曇天のため来た時よりも海が黒ずんで見える。舟が海岸伝いに大分進んだ頃、

「気になりますな。まるであの舟は後を付けてくるようです」と、後方を見ていた真佐手が首を傾げた。距離を保ちながら着いてくる二艘の舟があった。

「角鹿からずっとじゃ、吾も気づいていた。皆の者少し手を緩めてみよ」と、オオドは命じた。舟脚が鈍ると、思ったとおり後ろの舟も速度を緩める。オオドの心をかすかな不安がかすめた。

「まさか、ワカタケル王の追っ手とも思えませぬが」と言う真佐手も見当がつきかねた。

「気を揉んでも始まらぬ。河野浦で休んで、様子を見よう」とオオドが言ったとたん、後ろの舟の速度が上がり、みるみる距離が縮まってくる。

「かまわぬ。追いつかせよ。いきなり弓矢を射かけられては少し困るが、海賊だとしても太刀打ちできぬ数ではあるまい」

 近づくにつれ、向こうの舟は五人乗りの舟らしいことがわかった。左右二人ずつが櫂を握ったまま、ほかの主従は鉄刀を引き寄せて待ちかまえた。長い時が経つように感じられた。二艘の舟は沖合の側に並ぶと、前の舟の一人が立ち上がって両手を振った。害意がないことを伝えているらしい。少しずつオオドの舟に舳先(へさき)を寄せてくる。

「まだ気は許せませぬ」と、真佐手が警戒を促した。

「オオド様、お久しぶりでございます」

 舟が真横に近づき、手を振っていた男が大声で呼びかけた。

「お忘れかも知れませぬが、雄島におでましの時、舟を漕いでいた者です」

 オオドは確かにその赤銅色(しゃくどういろ)の顔に見覚えがあった。

「皆の者、安心してよい。雄島の長の手の者たちじゃ」と、オオドは言った。

 同時にオオドは何かが起こったことを覚って、海部(あまべ)の男の言葉を待ち受けた。

「急ぎお知らせしなければならぬことがあり、角鹿でお帰りをお待ちしておりました。陸(くが)で申し上げず、後をつけるようなことをいたしましたのは、敵の目を避けるためです。どうぞ舟を進めながらお聞き下さい。オオド様の留守中にツヌムシ王が急死されました。その直後タカハチ殿が反乱を起こし横山の館を奪いました。高向の館も今その監視下にあります。ツヌムシ王の危篤で駆けつけられた振媛様、目の子媛様、二人のご子息は、そのまま人質となって横山の館に囚われていらっしゃいます」

 男の話はオオドの予想よりはるかに悪いものであった。タカハチは振媛の腹違いの兄の長子である。父がすでに亡くなっていたため、女形谷館の当主となっていた。側室の子であった父はツヌムシ王より年長でありながら、オハチ王の後を継ぐことができなかった。オオドには従兄弟のタカハチが王位継承権を主張して反乱を起こした気持ちが理解できた。王子と呼ばれる自分はツヌムシ王の子ではなく、甥である。子のないツヌムシ王が後継ぎと決めていたため、皆が王子と呼んでいるに過ぎない。厳密に言葉を選べば、オオドもタカハチも共にオハチ王の王孫なのである。オオドと自分に何の差があろう、オハチ王の長子の子である自分こそ王となる資格があるとタカハチは思ったのであろう。

「横山から三国の津までの道にはタカハチ殿の手勢が伏せられています。私どもが偵察している限りでは、海上までは今のところ手が及んでいないようですが、予断は許しません。私どもの舟の内、一艘はオオド様のお帰りを雄島へ伝えます。もう一艘は三国の津周辺の様子をうかがって、敵の目を避けながらオオド様の舟を御案内申し上げるよう、長に言い付けられております。今宵は梅浦で一泊され、明日の夕刻雄島に着かれますように」と男は言い置いて去った。夜通し漕いで雄島に向かうつもりであろう。

 舟の中は言葉もなかった。気休めになる言葉が今はないことを皆よく知っていた。

 梅浦での夜は限りなく長いものに感じられた。自分を我が子同然に慈しんでくれたツヌムシ王の顔が浮かんでは消えた。母や家族がどんな日々を過ごしているのかと考えると悪い方に想像が行きがちであった。こんなことではいけない、明日は忙しくなりそうだと自分を励まして、オオドは寝付こうと努めた。供の者たちも同様らしかった。

 いつの間にか夜が明けて、海部氏の舟に先導されたオオドの舟は雄島へ向かった。目の前に広がる暗い空と海が今はよそよそしかった。

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