第9話 ワカタケル
昆支から教えられた日になった。オオド主従は、三諸山の参道で大王の行列を待っていた。道の両側は海石榴市の賑わいにも劣らない人波で埋まっていた。これだけ多くの人が集まるのは、オオドたちのような行列見たさのほかに、この儀式が三諸山祭祀の一年を締めくくる重要な意味を持っているためであるらしかった。磯城(しき)への遷宮に失敗したワカタケルは、上辺だけでも三諸山の神を尊ぶ姿勢を示さねば倭を治めることができなかった。秋の収穫後、稔りを感謝する大(おお)氏の祭祀が終わってから、ワカタケルも三諸山に詣で、神に感謝を捧げるのである。
やがて、行列の先頭が見えた。一組の少年少女が萌葱(もえぎ)色の装束に身を包み、少年は瓢箪(ひさご)、少女は稲穂を捧げて歩いてくる。瓢箪の中身は酒であろう。続いて二人の若い女が、それぞれ供物の入った木箱を捧げてゆく。二人とも整った面立(おもだ)ちである。色白で着飾ったところが巻向の巫女たちと全く異なり、王宮の女官であろう。その後ろを、十人ほどの少年たちがきらびやかな装束をまとい、幡(はた)を掲げて進む。緊張と誇らしさの入り混じった馬上の顔の連なりの後ろに、オオドの眼は惹きつけられた。大王の登場である。韓風に黄金の冠を付け、緋の装束をまとった姿が馬上で揺れる。腰には飾り付きの太刀を帯びている。大柄だが、通り過ぎてゆく顔は思いのほか細面で、色白である。髭の中の薄い唇が酷薄な印象を与える。後ろに従うのが、先頭の子供の装束と同じであることから推して、三諸山の祭祀者であろう。気のせいか、うつむき加減に歩いてゆく。最後に噂に聞く杖刀人と思われる三十人ほどの武人が、驚いたことに甲冑をまとい、太刀を帯びて騎馬で進む。
参道の見物からざわめきが起こった。他方平然としているのは、この行列を見慣れている人々であろう。
「まるで、神を尊ぶ気持ちが見えませんな。馬や甲冑で参拝するとは」と真佐手がつぶやき、あわてて口をふさぐ真似をした。
オオドにはワカタケルが三諸山の神に挑みに来ているように見えた。拝礼する姿を見ることはできないが、三諸山の前で抜き身の太刀を掲げている王の姿が浮かんできた。よもや、そんなことはありえまいが。墓に入れば人も神と張り合うこともできようが、生身の体で張り合おうとしているワカタケルに凄まじいものを感じた。
倭に入ってから九日目、オオドは真手の大君に長い逗留の礼を述べて息長の館を後にした。これまでにオオドが見たのは倭の東の地域だけであった。広い倭を一時に見られるとは思っていなかったが、高向を出立する前から、葛城を見なければこの旅は終わらないという気がしていた。馬を借り葛城を見てから忍坂に戻ることも考えられたが、迷惑をかけてはいけないという気持ちが働き、そのまま帰路につくことにしたのである。それは、むろん三諸山のワカタケル王の姿を見たことによる。三諸山の神に対する王の姿勢を見れば、葛城山の一言主の神に対する姿勢は容易に想像できた。振り返れば、ここまでの旅は道案内に頼ったもので、今宵の宿の当てもない旅というのもまた面白いかとオオドは思った。
道案内なしの今日の旅は、天の香具山と畝傍山(うねびやま)を目印に西へ進み、西の山並みの手前で葛城川に突き当たったら、そのまま川を遡って葛城山へ向かうことになっていた。息長の館の者に聞いたとおりの道順だが、葛城山に着くまでにはかなりの時を要することを覚悟しておくように言われていた。天の香具山の北麓まで来た時後ろを振り返ると、青天井の下、三諸山の上に雲がたなびいている。倭の土を踏んでからこれまで雨一つなかったことに、改めて感謝の思いが湧いた。この辺りは古くから磐余(いわれ)の宮が置かれていた所で、ワカタケル王も離宮としているはずであった。けれど今日のオオドは慎重で、微服していた。敢えて宮に近づこうとはせず、大池を横目に見ただけで通り過ぎた。
磐余を過ぎると、南から北へ向かって流れる大小様々の川と湿地が次々に現れて難渋した。晩秋に水の冷たい川を渡るのはつらいものがある。オオドたちは、渡河地点を探してかなりの時を費やした。幾人の里人に声をかけたかわからないほどである。これだけ晴天が続いても湿地はやはり通行の妨げとなる。三国同様、倭の地もまた山沿いに開けている訳が納得できた。
近づくにつれ、倭の西の山並みが、東の山並みとは比べものにならない高さと規模を持っていることがわかってきた。山の向こうはもう河内だというが、とても越えられそうにない。これから葛城山の神に詣でようとするオオドは、三諸山に参った時のような弾む気持ちにはなれなかった。ワカタケルと巻向の民の確執を幾分背負い込んでしまったのかもしれない。ワカタケルの行列を見て、王とは何かと考えないわけにはいかなかったのだ。ツヌムシ王が、ある時オオドに言った「自戒せよ。一人の王がまるで別の王に変わってしまうことがあるのだ。在位の間に慈悲深い王が暴虐の王に変わった例は数知れない」という言葉が思い出された。
里人の口から葛城川の名を聞いたとき、一行の顔に安堵の表情が浮かんだ。後は川沿いに遡りさえすればよいのだと思った。けれど実際には支流が何箇所かで合流しており、それからまだ何人もの里人に本流を尋ねて進まねばならなかった。日はもう西に傾きかけている。明るいうちに着けるのだろうかと少し不安な気持ちになる。
そのとき、雪のような髪の翁が川上から歩いてきて、「どこへ行きなさるのか」と声をかけた。「一言主の神の磐座(いわくら)に参るところだ」とオオドが答えると、「川筋が違う。戻ると遠回りになるから、案内しましょう」と言った。翁はしばらく川をそのまま上ってゆき、山の麓近くで右に曲がった。山麓の道がずっと続いている。左手の山が葛城山だと翁が教える。その山は聳え立つという言葉がふさわしく、三諸山の倍ほどの高さがありそうに見えた。
山に沿ってしばらく北に歩くと、左手に参道が現れた。折れて進んでゆく道の脇には燃えるような紅葉が点在する。磐座は、溜め池を見下ろす小高い場所にあった。手前には一際目につく大銀杏(いちょう)があり、神木と思われた。仰ぎ見る山の緑は秋とは思えぬほど深かった。玉田氏滅亡の後もこの場所が手入れされていることが、辺りの様子からわかる。オオド主従は磐座に供物を捧げて拝礼した。
後ろを眺めると、山麓全体が緩やかに傾斜する幅広の高地になっていることが分かった。目の前に広がる景色はのびやかで、オオドは朝倉よりもはるかに王城を置くにふさわしい場所だと思った。
拝礼を終えた主従は、参道から右手に別れて続く山道を少し登ってみた。空はもうたそがれている。急坂の道からは折り重なる奥山が見え、その水を集めた谷川が脇を流れている。川の端には、木々に混じって笹が群れ生えている。
そのとき犬の鳴き声が聞こえたような気がした。その声は道の彼方から次第に近づき、やがて馬に乗った狩り姿の一群が現れた。十騎ほどの狩り人は、ゆっくり近づいて来る。オオド主従は道をよけて、すれ違うのを待った。先頭の狩り人はオオドの前で止まると、馬から降り立った。後に続く者たちもそれに倣(なら)った。
薄暮の中に先頭の者の顔が見えたとき、オオドは息をのんだ。ワカタケルであった。今間近に見る顔は、三諸山で見たような酷薄な印象はない。狡知(こうち)と無邪気さがないまぜになった複雑な顔である。すでに五十を越えているはずだが、背の高いオオドさえ見下ろすようなその全身には精気がみなぎっていた。オオドは気圧(けお)されるように感じた。
「若者よ、いずこより参ったのか」
よく通る高い声が、木霊のように響いた。
「越より参り、倭の国を見て回っております」と、オオドは拝礼した。
「おお、それは遙々と。吾(あ)が統(す)べるまほろばの倭は麗しき所であろう」
「恐れながら、大王様とお見受けいたします。倭を見て十日近くになりますが、歌われるとおりの麗しき所と感じ入っております。民は豊かに暮らし、賑わいと華やぎも越とは比べものになりませぬ」
「そうであろう。倭ほど麗しく豊かな国はほかにあるまい」と、ワカタケルは満足げにうなづいた。
「ただ」と、オオドは口にした瞬間、もう悔やんでいた。
「ただ、何か。遠慮せずに申してみよ」
「恐れながら申し上げます。巻向の民の顔は暗く、我ら旅人を物陰から見て、目が合えばそそくさと家の中に隠れてしまいます。人を疑い、おびえているように思われます。大王様が三諸山や葛城山の神と争っていては、倭の民はひとつにはなりませぬ。大王様が無実の者を刑し、あるいは夫ある女を我が者とし、過ちを改むるより民の口をふさぐことにのみ御心を用いられるならば、どうして民は安らかに暮らすことができましょうか」
「無礼な。狩りの獲物にしてくれよう」
言うより早く、後ろの家来が矢をつがえて引き絞ろうとしたが、弦はふっつと切れた。
あわてて前に出て主君を庇(かば)おうとする真佐手を、オオドが腕で制す。
「何をしている。早く切り捨てよ」
怒りで顔を紅潮させたワカタケルが叱咤する。猟犬どもが激しく吠え立てる。弓を投げ捨てた家来は今度は太刀を抜こうとするが、なぜか刀身は鞘(さや)を離れない。地を踏ん張って懸命に腕に力を込めるが、どうしても抜くことができないのだ。
見ているワカタケルは、その滑稽さに力が抜けたのか、
「もうよい。汝の弦は蜘蛛の糸のように弱く、太刀は埴輪飾りのように役に立たぬ」
と揶揄(やゆ)して、オオドの顔を見据えると、
「越の若者よ、一言主の神が言わせた言葉として聞き置こう。ただし、そなたたちは、すみやかに倭から立ち去れ。皆の者、帰るぞ」
と言って馬にまたがった。オオドの横を通り過ぎるとき馬上から
「若者よ、聞くがよい。種々(くさぐさ)の神が坐(いま)すのは、人が神を祭ればこそじゃ。そして、国を統(す)べるのは吾であり、神といえども国の歩みの妨げとなることは許さぬ。吾が目を啓(ひら)いてやらねば、民はいつまでも暗闇の中に留まるであろう」
と言い放つと、振り返らず去っていった。
「さて、オオド様には不思議なお力がございますな。それとも一言主の神のご加護によるものなのか。それにしても、このような大胆ななさりようは、これぎりにしていただきますぞ。魂(たま)が縮みました」
深く息をついて言う真佐手の顔は青ざめていた。オオドの顔にも安堵の色があった。
ーー昆支王子の言った機智を用いることはできなかった。吾の言葉はワカタケルを刺したかもしれぬが、改めさせる力はあるまい。皆の命に別条のなかったのが不思議なくらいだ。おそらく、異国の者がなぜという訝しさが、ワカタケルの怒りを幾分さましたのだろう。
と、オオドは思った。
「すまぬ。二度とせぬ。あのような言葉が出てきたのは、吾にとっても思いがけぬことであったのだ。本心とたがうものではないにせよ」とオオドが詫びると、供の者たちは「胸のすく思いでしたぞ」「獲物が少なくて王は機嫌を損ねていたのでしょう」「いや、本当のことを言われたから、王は逆上したのだ」などと、口々に興奮の冷めやらぬ思いを語り合った。その中にあって、真佐手はさすがに冷静であった。
「大王の命令が下されたのです。少しでも早く倭を離れねばなりますまい。今宵はワカタケル王もこの近くに泊まるはず。風向きが変わって、追っ手を差し向けて来ないとも限りません。どうしたものか」
と思案した。
たしかにもうすぐ闇が降り、動くことは難しい。オオドも今日はどこかで宿を借りればよいぐらいの大雑把な見通しでやってきたが、野宿するにはあまりに寒すぎる。それでは、いっそ夜通し歩き続けた方がましか。
「今宵は私どもの家にお泊まり下さい」
話の輪の後ろから、先程道案内をしてくれた翁の声がした。ずっと後を着いてきていたのだ。
「一部始終を見させてもらいました。どうやら皆様方はただの旅のお人ではないようです。お若い方がワカタケル王に言った言葉を聞き、涙が出ました。この爺(じい)は、玉田円様に多少縁(ゆかり)のあった者です。館が焼き討ちされた時王がうそぶいた、倭に二王は要らぬという言葉がよみがえって無念の涙がこぼれたのです。この暗い寒空に、知らない道を歩いたところで、幾らも進めるものではありません。宿をお貸しするなどと言うのも恥ずかしい土穴の家ですが、息子の家と合わせれば皆様方が夜露をしのぐ助けにはなりましょう。明日暗いうちに発てば、王の目にふれることもありません」
災いが及んでは済まないと心配するオオドに、翁は次のように続けた。
「一言主の神のご加護がございます。立派な館であれば捜し当てるのもたやすいでしょう。けれど、数え切れないほどある土穴の家を、夜中にしらみつぶしに調べることなどできるものではありません。御安心を」
翁の好意を受けることになった主従は、参道を戻り、山麓の道を北へ向かった。東の空に月が上っている。道々聞いた話によれば、翁は玉田氏の墓に詣でた帰りであった。オオド主従と行き会ったとき、神の引き合わせだと思ったという。玉田館の焼け跡には、誰のものともわからぬ状態で遺体が無数に転がっていた。里の人々はそれを集めて葛城山の麓に合葬したという。
『日本書紀』によれば、そもそもこの変事はワカタケルの従兄弟のマユワが父の復讐のため先代の王アナホを殺し、坂合黒彦王子と共に玉田の館に逃げ込んだことに始まる。殺されたアナホ王も坂合黒彦王子も共にワカタケルの同母兄であるが、弟を恐れる坂合黒彦王子は祖母の縁で葛城を頼ったのであろう。救いを求めてきた二人の引き渡しを拒んだ玉田円は、包囲されてから娘の韓媛(からひめ)と領地七カ所の献上を申し出て許しを乞うたが、ワカタケルは許さず焚殺(ふんさつ)した。ただ、韓媛だけは命を助けられてワカタケルの后となっている。結局、アナホ王死後の混乱の中で、ワカタケルは二人の兄と三人の従兄弟を殺して即位したのである。
「その後、私ども玉田様の旧領の民は租をワカタケル王に納め、葛城の山は王の狩り場となりました。けれど葛城の一族がすべて滅ぼされたわけではありません。北の大坂山の麓はまだ一族の葦田(あしだ)様の領地です。明日はそこを通って行けば安心かと思います」
翁の家は道沿いの大集落の外れにあった。竪穴住居の土の上で藁(わら)にくるまって一夜を過ごした主従は、翌朝まだ暗いうちに出発した。
「これをお持ち下さい。湯に通してあります」と、翁が主従に渡した袋にはたくさんの栗が入っていた。「人の寝姿に似た左前方の大坂山を目印に進み、山の横を過ぎたら北東に向きを変えて行きなされ。倭川に突き当たります。川を越えてそのまま進めば、いづれ人通りのしるき道に出ましょう」
一行はこの救いの神に深く拝礼した。
歩き詰めに歩いて、夕刻木津の湊に到着したオオド主従の衣服は、この二日間で泥だらけだった。皆の疲労も極に達していた。まだワカタケル王の手から逃れきったわけではない。それだけに、見覚えのある和邇氏の水手(かこ)が、来た時と変わらぬ笑顔を見せると、心底ほっとする思いであった。これで越へ帰れる、と誰もが思った。
水手たちの小屋で一晩を過ごした一行は、近江へ向かった。オオドは立ち寄らずに帰る和邇河内の君に、感謝の口上を伝えてくれるように言い置いた。そのとき、河内の君の館の女の面影がちらとかすめた。
三尾の別業(なりどころ)で主従は体を休めた。三尾郷へ戻る日を一番心待ちにしていたのは真佐手であったろう。湖上から眺める北の空は黒っぽい雲に覆われ、案の定勝野津は時雨れていた。けれど、空模様とは裏腹に真佐手の心は弾んでいた。
「吾も一緒に行こうと思う」と、オオドは言った。真佐手と三尾郷の長の娘との縁組みは、倭から戻ってから、正式な返事をもらうことになっていた。別業へ着いた翌日が、加多夫(かたぶ)の君の館でサキと再会する日であった。
「王子を煩わせるのは畏れ多いことです」と、真佐手は言った。
「何を遠慮することがあろう。兄弟同然に育ってきた真佐手のため吾が役立てることがあるなら、それは吾の喜びではないか」とオオドに言われ、真佐手は承知した。
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