第8話 海石榴市(つばいち)の観相人

 川べりの薄紅の山茶花(さざんか)が開ききって、かすかな風でこぼれる。椿はまだ開いていない。行き交う人々の顔は、朝から活気に溢れている。泊瀬川のほとりはあまたの舟が繋がれ、道端に品物を並べる商人たちの手元を、早くも取り巻いて物色する姿があちこちで見られた。

ーーさすが名にし負う海石榴市(つばいち)。三国の市とは比べようもない賑わいよ。

 見る見るうちに人が増えてくる。たまたま立ち寄った旅人といった風情に微服(びふく)したオオドは、三国の市とはかけ離れた賑わいを見せ、様々な国の言葉が飛び交う市の有様に感嘆した。後ろには真佐手とヨシヒトが続いており、離れて歩いてくる供の者たちも、人混みの向こうでそれぞれに道端の店をのぞき込んで品定めをしている様子だ。

 道端には、食べ物、衣類に始まり、越の漆器から韓産の鉄の地金まで、ありとあらゆる品物が並んでいた。対価の品物の量をめぐる客との駆け引きの声は真剣であった。

 一行はゆっくりと川下の方向に向かっていた。この川は多くの川と合流して倭川(やまとがわ)となり、下って行けば難波津へ出るはずだ。風向きのせいか、盛り場特有の生ものの腐臭が鼻を突く。烏が二、三羽降りてきて、地に転がった小魚をついばんでいる。

「おーい、そこの若い旅の人。相を見てしんぜよう」

 野太い声の方向に目をやると、黒い頭巾を被った男が手招きしている。沙白と同じ激しい韓の訛(なま)りのあるしゃべり方だ。異様な風体に惹きつけられて台の前に立つと、目と鼻だけを頭巾からのぞかせた男は、間近にオオドの顔を眺め、

「うーむ、稀に見る強運の相じゃな。危難と背中合わせだが、そこをうまくくぐり抜ければ道が開けよう。波乱に富んだ面白い運勢じゃ。ただ子孫には凶と吉が交わっている」

 観相(かんそう)というものの経験のないオオドは半信半疑で、子孫の凶という言葉に少しひっかかったが、傍らの真佐手は嬉しそうに、袋から塩の入った竹筒を取り出して台に置いた。人相見は、竹筒の覆いの紐を解いて中の塩を少しなめると、

「これはいいものだ。見料には少し多すぎるようだが、いただいておこう。ところで、あなたがたは越あたりのお人か」と尋ねた。

「そうです。まほろばの倭をこの目で見ようとやって来ました」

「なるほど。それで倭はいかがかな」

「三国の市とは比べものにならない市の人出に驚いています。昨日は巻向に出向きましたが、倭はなかなか一筋縄ではいかない所のようです」とオオドが答えると、人相見は、

「ほう、たしかに一筋縄ではいかぬのう。倭では人相見も食えるが、血も流れる」

 と、脇を見た。隣の店には武器や武具が並べられ、三人の男が客待ちをしている。

「ところで、観相というのはあてになるものなのですか」とオオドが尋ねると、相手は、

「さあ、どうかな」と、うそぶいた。隣の真佐手がむっとした表情を浮かべるのを目敏く見て取ると、付け加えて言った。

「短気はいかんな。そちらの若い人も、近いうちにめでたいことがありそうなのに。運勢を開いてゆくのは当の本人なのだ。生まれつきの顔の輪郭というものはどうすることもできぬもので、運勢もそれと同じようなところがあるのだ。ところが、人によってはその生まれつきのよい運勢が救いようもないぐらい覆い隠されてしまった顔があり、これはその者の生まれてからの歩みによるのだ。その逆もある。あなたの顔はもって生まれたものがそのまま伸ばされて来ているが、これからの運勢がどうなるかは本人次第ということだ」

 真佐手は納得がいった様子であった。

 いつの間にか、供の者たちが追いついて後ろに立っていた。その内の一人が、隣の武器商人の店で高価そうな飾りの付いた鉄刀を手にとって、

「こんなところで太刀や短甲(たんこう)(鎧)が売れるのか」と尋ねた。

「兵が動くときは飛ぶように売れる」と、商人の一人がぶっきらぼうに答えた。これも韓の訛りがある。そう思って見ると、この辺りは、装身具など韓の品物を商っている店がほかにも並んでいるようだった。

 一行はそのまま川下まで下り、市が尽きたところで折り返した。土産物を求める供の者も多い。真佐手とヨシヒトは韓の装身具を買ったようだった。

 帰り道、白樹(しらき)という武人が「あの者たち、太刀を売るよりは太刀をかざす方が似合いそうな者ばかりでしたな」と言った。オオドは白樹の眼の良さを誉め、商人たちの鋭い目つきや物腰を思い浮かべた。

 忍坂の館へ帰ると韓服を身につけた那弥率(なみそつ)が待っており、明日百済館へ行き昆支(こんき)王子に面会することになった。オオドには大変世話になったが、明日でお別れだと挨拶した。オオドは昆支王子とは、どういう人物かと問うた。十五年ほど前、倭へやってきてそのまま留まっている百済王の兄弟だという那弥率の説明を聞くうちに、自分も会ってみたくなった。初めオオドに迷惑をかけるわけにはいかないと断った那弥率も、別れるのは目的を果たしてからでも遅くないというオオドの言葉に折れ、同行することになった。

 

 百済館は、朝倉の王宮の東に隣接していた。朝倉の王宮は三諸山のちょうど南の麓に位置し、海石榴市(つばいち)から更に泊瀬川(はつせがわ)を遡り、川が大きく左に曲がる辺りにある。泊瀬川から左手の緩やかな坂を登って行けば、すぐそこがワカタケル大王の宮である。大王の王宮といえども、その造りは首長たちの館と異なるものではない。その大型のものを想像すればよいであろう。泊瀬の谷は忍坂の谷に比べると随分広く感じられるが、両側から山が迫り、中央を泊瀬の流れが縫う有様は、どことなく幽遠なものを漂わせている。

 木立に囲まれた百済館に入り、昨日目通りを申し入れた者だと那弥率が案内を請うと、すぐ客間に通された。二人の太刀を預かった案内の者が下がってしばらくすると、五十位の人物が側近と共に現れた。那弥率は、跪いて拝礼した。昆支王子と思われる人物は、椅子に腰を下ろし、二人にも椅子を勧めた。拝礼するオオドの顔をじっと見たが、特に何も那弥率には尋ねなかった。以下、二人の韓の言葉による会話が続く。

「お目通りが叶い、感激の至りです。私は百済の武官の長子で那弥率と申す者です。今日は昆支王子にお願いの儀があって参りました。熊津にいる文周王は、即位された後、敗戦の咎(とが)を責めて武官たちを処罰なさっています。臣の父も処刑されました。のみならず、兄君余慶王に近かった文官たちにまで処罰は及び、宮廷は文周王の一握りの側近の私利をたくましくする所となり果てています。未曾有(みぞう)の国難に際し、君臣が一つとなり高句麗(こま)と戦わねばならぬにもかかわらず、漢城陥落の時宰相であった王のこのなされ方に宮廷は内紛の様相を深めるばかりです。父は処刑の前、汝は必ず逃れて倭に至り、昆支王子に御帰国をお願いせよ、百済再興の望みはそれ以外にないと遺言いたしました。何とぞ賤臣の願いを叶え、百済にお帰り下さい。恐れながら、昆支様の御即位こそ国を救う道と存じます」

 昆支は那弥率をねぎらい、倭までやってきた経過を尋ねた後、

「せっかくの願いであるが、余が帰国すれば宮廷の混迷を一層甚だしくするばかりであろう」と言った。那弥率は懸命に、

「昆支王子様以外に、家臣の力を一つにまとめ漢城を奪い返すことのできる君主はおられないと、父は申しておりました。文周王のわずかの側近を除き、ほとんどの家臣が君の帰国を心待ちにしております。是非とも願いをお聞き届け下さい」と懇願した。

「高句麗侵入の混乱のさなか、ありもしない余の虚像がふくらみ、皆それにすがっているに過ぎぬのではないか。十五年前、余は若い王族の外交使節に過ぎなかった。王としての力など誰にわかろう。汝は文周王が臣下を処刑したと申したが、仮に余が百済へ帰還し、文周王を倒すとすれば、その間にまた多くの臣を失わねばならぬではないか。それこそ高句麗を利する愚挙であろう」と、昆支は諭した。

 那弥率は、うなだれて言葉がなかった。昆支は遙々やって来た若者を不憫に思ったか、次のように言った。

「文周王の使いが来て、倭王に救援を要請している。倭の宮廷にあって、王に働きかけ百済を助ける力となることこそ、今の余にできる最善の務めだ。この度の戦乱で倭へ逃れてきた夥しい韓人の落ち着き先も考えてやらねばならぬ。古来(ふるき)の韓人が葛城の南郷や秦(はた)に落ち着いたように、今飛鳥への入り口の辺りに留まっている韓人たちに安住の地を探してやらねばならぬ。余は百済を決して忘れてはおらぬ」

 那弥率は「君の御(み)心を知らず、浅はかなことを申しました」と、きっぱり言った。

 昆支はうなづくと、オオドの方を向いて、

「どこかでお会いしましたな」と倭の言葉で言い、いたずらっぽく笑った。

 オオドはもどかしさが一瞬のうちに消えたような気がした。どこかで昆支に似た声を耳にしたはずなのに、どうしても思い出せなかったのである。今聞いた韓訛りの言葉で疑いの余地はなかった。

「あの時の観相の方ですね」

「どうもあの時は失礼いたした。越の王子だったとは、余の眼力もなかなかのものだ。しかし、いい加減なものではありませんぞ。観相には年期が入っている」

 オオドは、傍らできょとんとしている那弥率に訳を説明した。以下の会話はまた韓の言葉に戻る。

「どうして海石榴市で観相などをなさっているのですか」と、オオドは尋ねた。

「海石榴市の湊で韓の風を見ているのだ」

 オオドは、昨日巻向で老婆の口にした言葉を思い浮かべた。

「もちろん、武器や装身具を生活の資と交換する目的もあるのだが。韓を離れて十五年も経てば、百済からの使者の報せばかりに頼ってはおられぬ。海峡を渡った風は瀬戸の内つ海を抜けて海石榴市の川湊まで吹き付けて来る。その風を見るのだ。渡来人や交易の者たちと話すと、百済の様子、伽耶の様子、新羅の様子、皆よくわかるのだ」

「なるほど。ところで王子はなぜ長い間倭に留まっておられるのですか」と、オオドが問うと、

「先々代の王、つまりワカタケルの父王の晩年、高句麗との戦いに援軍を求めるため、倭へ渡ってきた。任務が終わっても兄王からの帰国命令はなかった。ワカタケル王の要請で宮廷の顧問をするうち、いつの間にか時が経ってしまった。これほど長く倭に留まるとは自分でも夢にも思わなかった」と、昆支は述懐した。

「ワカタケル王はどのような方ですか」

「一言で言うのは難しい。しかし、余が知遇を得た三人の倭王の中で最も王らしい王だと言うことはできる。従来の倭の王は、盟約による筆頭の首長という性格が強かったと聞いている。大王はそれを覆したのだ。王であるとはどういうことか、その善き事も悪しき事もすべてを試しているのだと言えよう。大王の祭事(まつりごと)は王の権威の大きさのほか、官人や法の制度において、韓の王たちに近いものだ。その意味では余の助言の影響があると言っても僭越ではないだろう」

「王の祭事がしばしば過酷であるのはなぜでしょうか」

「大王は性急な改革者なのだ。熱っぽい大王の周りにいる者は、時に火傷をしたり、命を落としたりすることがあるのは避けられない。大王自身が過ちを犯すことがあっても、指摘して改めさせることができるのは草香の王妃だけだ。臣下が諫めるときは機智を用い、大王自らが気づくように仕向けなければならない。また、大王は臣下の能力を重んじ、無能と大言壮語を憎む」

「よくわかりました。ワカタケル王を見ることはできるでしょうか」とオオドが言うと、昆支は「明後日は王が三諸山を拝礼する日。自分の目で確かめられるがよかろう」と教えた。

「王を間近で見ることはできますか」

「たやすいこと。王が三諸山に行くのは、人を集めて自らの威を示すため。特に巻向の人々にな。人垣はできるが近くから見られるはずじゃ。ただし、警備の者が人混みに紛れて耳をそばだてているゆえ、迂闊なことは口にしないことだ」

 更に昆支は、那弥率を見て、

「那弥率よ、汝は越の王子について帰るがよかろう。この王子に付いていれば、面白いことがありそうだ。百済へ戻り、国を建て直す折が巡って来ないとも限らぬ」と言った。

 二人は、この爽快な百済の王子にいつか再びまみえたいと、名残惜しい気持ちで百済館を辞した。

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