第7話 巻向(まきむく)の巫女

「昨夜はよくお休みになれましたか」

 女とのなりゆきを知ってか知らずか、前日と何も変わったところのない顔で、見送りに出た河内の君が言った。

「ありがとうございます。主従共々すっかりくつろがせていただきました」

 オオドは心から礼を述べた。

 その朝は霧が深かった。今日はゆっくり倭の玉垣(たまかき)を見られると楽しみにしていた一行は落胆した。だが、物部氏の住む布都(ふつ)の辺りではほとんどなかった視界が、柳本まで来ると回復してきた。同じ方角へ向かう旅人の群が一行を追い越して行く。

「あれをごらんください。大塚でございます」と、和邇氏の道案内のミフネが指さす左手には、高い土堤(どて)の向こうに森が見える。道を外れて土堤を登ると、目の前にはたっぷりと水を湛えた濠(ほり)に浮かぶ緑の小島が現れた。島近くで羽を休める水鳥が小さく見える。

「この辺りの王墓のうちでも特に大きなものの一つです」

 ミフネが言っても、一同声もなかった。三国の墳丘墓(ふんきゅうぼ)と比べ、そのあまりの規模の大きさに圧倒されてしまったのだ。那弥率(なみそつ)だけが、土堤のあちこちを歩き回り、これが倭の王墓なのかと身振りを交えて興奮を隠さなかった。

 気がつくと背景の山々も霞んではいるものの、いつの間にか全貌を見せていた。ただ、西の山々は依然として姿を見せない。

 巻向(まきむく)の里まで来た時、ミフネは「この辺りが三諸山のほぼ正面になります」と言った。オオドは「やはりそうなのか」と、正面に見える、南になだらかに裾を引く山を眺めた。その山が南の端に位置するので、あるいはと思ったが、先程まで正面にあった龍王山と比べても、そのあまりの低さに拍子抜けがしたのだ。「この山が神々の中の神が住まわれる山なのか」というのが、正直な思いであった。

 巻向の里は三諸山の裾野に広く開け、あまたの家が立ち並ぶ大集落であった。オオドたちは道を外れてしばらく里を歩き回り、様々な所からためつすがめつ三諸山を眺めてみた。小さな川が西へ流れ、あちこちに墳丘墓が点在している。里の人々が、オオドたちと顔を合わせると、逃げるように家に入ってしまうのが気になった。中には物陰から様子をうかがっている者たちもある。

「ワカタケル大王の配下ではないかと疑っているのです」と、ミフネが言った。

「巻向の民は古来よりずっと三諸山の神を祭ってきた人々です。ここから少し南にある古(いにしえ)の女王墓と言われる大塚の近くは、かつて諸国からの巫女(みこ)見習いの娘たちで賑わったそうです。昔とは比べものになりませんが、今でも多くの巫女たちが住んで神を祭っています。大王は三諸山の神をないがしろにする行いが多いので、巻向の人々は、倭に疫病が流行ったりすると、大王の神を畏れぬ行いのせいと非難します。大王の側でもこれを流言として取り締まるというわけです。災厄が起こると、巻向の巫女たちが連れ去られることも多いと聞きます」

 どこからか石が飛んできたのを潮に、一行は元の道に戻り、三諸山を目指した。途中女王墓の脇を通った。ミフネの話のとおり、墳丘の近くには巫女たちの住みかと思しき竪穴の家が並んでいた。

「日の出の頃ここへおいでになれば、巫女たちが神を拝する様を見られると存じます。先程の石のようなこともあり、あまりお勧めはできませぬが」

 オオドは、いつの間にかミフネが自分の関心の在り処(か)を知っていることに驚いた。さすが和邇河内の君の臣と舌を巻いた。

 

 三諸山の参道は西側から登るようになっており、近づくにつれ、ほんのりと色づいた山が先程までは見えなかった奥行きを持ち、決して低いとは言えないことがわかってきた。空には真綿のような雲が浮かび、晩秋だというのに倭は光に溢れていた。

 なだらかな参道の両側は雑木に混じって竹林が高く育っているが、空から十分な光が届くので明るかった。緑豊かな道を登って行く人々の中には、旅支度の者も多い。目的の場所を目前にして、一様に顔も口も緩むようだ。倒木の横を過ぎるとき、木の香りが鼻を打った。

 自然石の石段が設けられた急坂が目の前に現れた。「そこを登ったところが拝礼所です」というミフネの言葉に、一行は湧き水の流れる道端の小川で手と口をすすいだ。

 拝礼所は標縄(しめなわ)を張られた大きな杉の横にあった。ここから山を拝むのである。杉のほかに松や檜(ひのき)で覆われた山は、今は裾野から見ていた時とは全く違った様相を呈していた。オオドは三諸山の懐の深さに感じ入りながら、深く拝礼した。

 拝礼を終えた一行は、少し下った参道の脇で、河内の君が持たせてくれた昼餉(ひるげ)を摂(と)った後、しばらく談笑して時を過ごした。

「スガルという力自慢の側近が、三諸山の大蛇を捕らえてきて大王に見せたそうです。大蛇の雷(いかずち)のようなうなりと火のような目の輝きに大王は震え上がり、あわてて山に帰したと、巻向の民は申しております」とミフネが話すと、ヨシヒトが、

「巻向から眺めて三諸山そのものが蛇体だと思いました」と言った。供の者の多くがうなずいて賛同する。

「倭には古来より色々な人々が入って来ましたが、三諸山の神を崇拝することでひとつにまとまってきたのです。それが、今の王になってから変わってきました」と言ったミフネは、すばやく周りを見回した。

「葛城の玉田円(たまだのつぶら)様はもう一人の倭の王だったのです。大王は葛城宗家を滅ぼしたので、三諸山の神も御自分の思いどおりにできるとお考えになったようですが、こちらの方はうまくいきません。一度はこの参道からわずかに南に下がった磯城(しき)に宮を移し、三諸山の神を自ら祭ろうとされましたが、巻向の勢力の反発を受けて、元の朝倉宮に戻りました」

 一行はミフネの話を興味深く聞いた。

 充分休みを取った後、三諸山の裾を迂回して泊瀬川(はつせがわ)のほとりに出た。このまま川を遡れば朝倉の王宮であるが、今日は一筋南の谷を遡って忍坂(おしさか)に向かった。細い川沿いの谷を少し入り込んだ所に忍坂の館はあった。三国を出てからなかったような早い到着であったが、山に囲まれた狭い谷あいの地はすでに薄暗かった。

 息長(おきなが)氏の今の当主は真手(まで)の大君であった。和邇河内の君と同じ年格好である。オオドが対面しても、この生気のない宮廷貴族は、ワカタケルを恐れてか、河内の君のように倭の情勢について語ることもなかった。オオドも縁戚に当たる氏の長者に親しみを感じなかった。口数が少ないばかりでなく無表情に近いため、どこか冷たい印象を与えるのだった。オオドはひととおりの挨拶をした後、明朝馬を三頭借りたい旨を告げただけで、部屋へ下がった。ミフネも今夜は泊まってゆくことになった。オオドは心から礼を述べた。

 

 次の朝、空模様を確かめてから、暗いうちにオオドは息長の館を出た。真佐手とヨシヒトを伴い、馬で巻向へ向かった。他の供の者たちは今日は休みで、気の向くまま過ごしてよいことになっている。三諸山の参道の入り口まで来た頃、空が白んできた。

「間に合うであろうか」と、オオドが心配すると、

「大丈夫でございます。それに、これだけ冷え込んでいれば、すばらしい日の出が拝めましょう」と、ヨシヒトが請け合った。

 女王墓の脇では二十人ほどの巫女たちがすでに日の出を待っていた。一人だけ前に立っているのが、長なのであろう。一様に首を垂れて何か呪文を唱えているようである。オオドたちは邪魔にならない程度の距離まで近づいて、三諸山を仰いだ。足元の草や薄には霜が降り、白く光っている。

 山際近くの雲が茜(あかね)色に変わった。巫女たちは長の動きに合わせて一斉に祈りを始めた。両腕を高く掲げて空を仰ぎ拝礼する動きは、オオドたち首長のものと変わるところはないが、しかる後、地に跪き、額を土に擦りつけるように上下させている。これらの動きが反復される。

 やがて、三諸山の稜線の南端から日輪が顔を出すと、長の発声を合図に巫女たちの口から一斉に気合いのような声が発せられた。甲高(かんだか)い声は辺りの冷たい気を切り裂いて空へ消えた。オオドたちも我に返った後、日輪を拝礼した。灼熱する白い小さな球がゆっくり昇ってゆく。輪郭の部分が揺らめいて、見つめる目が痛い。三諸山が影だけになった。

 日が山頂の高さまで昇り、頂の上にかかった横雲に隠れる頃、巫女たちの長い祈りは終わった。オオドはなぜかため息をついた。

「これだけ山の端が長ければ、一年中お天道様は三諸山から昇ることになります」と、ヨシヒトが言った。オオドも日の出を拝んで、この山が神の山であるわけを納得したところであった。三諸山は一年中日輪を生み出し続ける山だったのだ。

 祈りを終えた巫女たちが竪穴の家に戻りかけたので、三人は小走りに近寄った。オオドの目は前列にいた長と思しき巫女を追っていた。屈強な三人の男が追いかけてくるのを見て、巫女たちは驚き悲鳴を上げる者もある。三人は足を緩めた。長と見えた巫女は老婆であった。オオドが近づいてもこの老婆だけは怯えた様子もなく、立ち止まってこちらを見ている。顔の皺を見ればたしかに老婆であるが、腰はしゃんと伸びている。老婆の近くには若い巫女が二人かばうように寄り添っているが、こちらの顔はこわばっている。

「越より参ったオオドと申す。怪しい者ではない。三諸山の神を祭る巫女たちに少し話が聞きたい」とオオドが言うと、老婆は、

「自分から怪しいと言う者はおらぬがの。ま、婆(ばば)もいたずらに年を取ってはおらぬゆえ、あなた様がどこぞの貴人らしいことはわかります」と言って、竪穴の家の入り口に腰を下ろした。若い巫女たちはまだ警戒を解いていないらしく、老婆の両脇を守るように座った。これと言って変わったところのない娘たちだが、髪には枯草が付いたままで額と鼻の土は乾いて白くなっている。老婆に促されてオオドたちも地に腰を下ろした。巫女たちのほとんどが後ろを取り巻き、低い声でなりゆきを危ぶんでいるのが、気配で分かった。

「この婆に何を聞きたいと仰せじゃ」

「何ゆえ大塚の近くに住み、三諸山を祭っているのか」

「この墓は御諸岳(みもろだけ)の大物主(おおものぬし)の神を夫とし、国を治めた女王の墓。夫婦(めおと)の神を共にお祭りするのに、これ以上よい所はないのじゃ」

「多くの巫女たちは何のためにここで寝起きしているのか。神を祭るにはこれだけの数が要るのか」

「婆(ばば)一人で足りるとは言わぬが、巫女たちは風を感じ取る修練をしているのじゃ。古(いにしえ)は諸国より、今とは比べものにならぬ数の巫女が集まったもの」

 オオドが黙していると、老婆は、

「巫女が身に付ける力とは、神から発する息吹を感じる力なのじゃ。女王墓からも風は吹き、御諸岳からはもっと強い風が吹き下ろす。巻向の民はその風の力によって生きているのじゃ」と、付け加えた。オオドは深くうなずいた。

「若い方よ、大塚の元の姿をご存じか。この婆は死んだ婆から海に浮かぶ蓬莱山(ほうらいさん)の姿だと聞いておる。築いた者もまた、死んで行き着ける蓬莱の山。近頃は山が浮かぶ海がない、海がなくて何の蓬莱山じゃろう。王の力を示すため大きさだけを競う。大塚を築いても祭る巫女がおらぬ、これでは祖霊(おやのみたま)も現世(うつしよ)の民を見守ってはくれぬ。嘆かわしいことじゃ」

 老婆が言い終わったとき、後ろが騒がしくなった。振り向くと、武器を持った男が五人巫女たちを分けて近づいてくる。オオドたちは顔を見合わせた。

「婆様(ばばさま)に指一本でも触れたら、ただでは帰さぬぞ」と、一人が叫ぶように言った。

「里の衆、案ずることはいらぬ。この人たちは旅の人じゃ。ワカタケルの手の者ではない」

 老婆は笑って言った。だが男たちは、

「気を許すことはできませぬ。子供を使って巻向の様子を探らせるような王のことです。婆様を連れ去りに来たのかも知れませぬ。それにこの者たちが昨日も巻向の様子をうかがっていたという里人がおります」と、険しい表情を変えない。

 オオドはまずいことになったと思った。真佐手の顔もそろそろ潮時だと合図していたので、「巫女の長よ、あなたが教えてくれたことは、三諸山と共に忘れまい。ありがたかった」と言って巻向を後にした。

「王の塚は小さな蓬莱山なのですか。それとも、塚の下に蓬莱山に通じる抜け道でもあるのですかな」

 忍坂への帰り道、真佐手が言った。真佐手の考えは、いつも現世(うつしよ)から離れない。オオドはそれには答えず、

「ヨシヒトは、風を感じ取るとはいかなることだと思うか」と聞いた。

「同じものを見ても、何も感じない時と感じる時があります。巫女たちの修練は厳しい寒さや暑さに身をさらし、いつでも気配を感じ取れるようにするためのものかと思います」

 オオドはヨシヒトの答えで幾分納得がいったものの、老婆の話の真意がわかるようになるには、時が必要だという気がした。

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