第6話 倭の美女

 志賀津に近い和邇(わに)氏の居館で一泊した主従は、翌日から和邇氏の輸送網を使って倭へ向かった。合坂(おうさか)山を越え、山科(やましな)川から舟に乗って巨椋(おぐら)池に出た後、泉川(今の木津川下流)を遡った。木津の辺りで上陸し、後は倭まで陸路を南下するのだ。後の平城京の東から天理市を抜け、桜井市にある三諸山(みもろやま)(=三輪山)の麓に至る道である。

 一行は、高橋(櫟本(いちのもと))にある和邇河内(わにのかわち)の君の館で一泊した。館は大きく、横山の宮殿に劣らぬ規模を持っている。周辺には溜め池が多く、堀の幅が広いのも敵の侵入を防ぐ目的のほか、溜め池の役割を兼ねているためかとオオドは想像した。門を入るとオオドは河内の君自身が住まう棟に通され、二人だけで対面した。

「おかげで、つつがなく旅をすることができました」と、オオドはまず礼を述べた。

 和邇氏は本拠である高橋から近江に至る輸送網を握っており、オオドの一族とは人と物の輸送を通じて相互に補完し合う関係にあった。倭の宮廷に古くから后を入れ、実力も兼ね備えた雄族である。

「よく来られました。倭は今ちょうど木々が色づき始めた頃。ゆるりと見て回られるがよい。明日は忍坂まで案内の者を付けましょう」

 河内の君は、オオドより一回り年上の温かみのある人物である。雄族の長の尊大さは微塵も見られず、生き生きと動く表情がオオドを安心させる。

「ありがとうございます。もっと早く倭の土を踏みたかったのですが、毎年秋から冬にかけて越を離れられない用事があり、今日に至りました。倭は今めまぐるしく変わりつつあると聞いています」

「まことに。倭に関わりを持たない越の王子だからこそ打ち明けられるのですが、近頃は気の許せないことばかりです。即位の前、ワカタケル王が葛城の玉田氏一族を滅ぼし、その後吉備の下道の前津屋(さきつや)王も攻め殺したことは耳に入っているでしょう。近頃では播磨や伊勢方面にも出兵がありました。次は自分が攻められるのではないかと大族の首長たちは怯えています。王の戦法は奇襲して包囲し館ごと焼き殺すというもので、自分だけはこの憂き目を見ないよう首長たちは皆祈っているはずです。奇襲には王宮の近くに本拠を置く大伴氏の軍を、敵が手強いと見れば物部氏の軍を動かします。この和邇の地も南隣に物部氏がおり、喉元へ刃(やいば)を突きつけられたようなものです」

「和邇氏と王の仲は悪いのですか」

「悪くならないように腐心しています。しかし王のやり方は大族は遠ざけて力を削ぎ、中小の氏族を取り込んで、王の私民に変えるというものです。和邇氏出身の后はおり、姫も儲けていますが、元々采女(うねめ)だったので大した力にはなりません。こまめに宮廷に足を運び、しかも目立ちすぎないように振る舞うしかありません。けれどこれとても、無実の人を殺すことの多い、鷹のような王の前に弱い羽をさらす、危うい努力と言わねばなりません」

「昔からの廷臣を遠ざけて、王は祭事をどうして行っているのですか」

「王は何事も自分で決めることを好みます。重用されているのは先程の大伴室屋と物部目の両大連(おおむらじ)です。しかし、本当に王が信頼して用いているのは、身狭青(むさのあお)、桧隈博徳(ひのくまのはかとこ)の二人の文官だけです。共に渡来人です。宮廷を警備しているのは東国の杖刀人と呼ばれる武人です。王は、この者たちを率いて狩りをすることを喜びとしています。これでおおよそ倭がどうなっているかお分かりでしょう。物部氏にしたところで、王の一族が河内から来た時、一緒にやってきた氏族なのです。一言で言えば、ワカタケル王の即位以来、王と在来の倭の勢力のせめぎ合いが続いているのです」

「教えていただいて、よくわかりました。明日からは心して倭の様子を見て歩くことにします」とオオドが拝礼すると、河内の君は、「若い方に少し暗い話をしてしまいましたな。お気にされず旅を楽しまれるがよかろう。今宵は大いにくつろがれよ」と、微笑して手をたたいた。

 奥から女が現れた。後ろで高く髪を結い上げ、前髪に赤漆(うるし)の飾り櫛を挿している。肉感的な厚めの唇を持った官能的な美女である。

ーー倭の女か。

 案内をして前を歩く女の体から、橘(たちばな)の香水のよい匂いがする。まだ外は明るさが残っているが、掘立柱(ほったてばしら)の建物に灯りが点って賑やかな声が聞こえる。供の者たちはもう酒食のもてなしを受けているようだ。

 その建物と隣り合った高床の客室に案内されたオオドは、湯で体を拭(ふ)いた。女がかいがいしく世話をする。湯を絞った布で背中を拭(ぬぐ)ってもらうと、汗や埃(ほこり)と一緒に疲れが消えてゆくような気がした。

ーー河内の君の愛妾の一人か。

 湯を運んできた召使いたちのかしずき振りからして、そんな気がした。

 差し出された部屋着に着替えると、食事の用意が整えられていた。魚と野菜の煮物、焼き物を中心に肉の料理が混じり、品数も多い。卓に並べられたもののほかに、温かいまま運ばれてくる料理がある。越の料理と根本的に異なるものではなく、魚介の品揃えではむしろ劣っているが、器の種類の豊富さとあしらわれた笹や木の葉などの何気ない洗練がオオドの目を引いた。

「今宵はお過ごしなされませ」

 勧め上手な女の酌(しゃく)でオオドはいつもより酒を過ごした。

 丸くえぐられた襟元が灯りに揺らめいて、細く長い首と豊満な胸の白さが目立つ。オオドは女の素姓が知りたくなって問うた。

「あなた様は男で、私は女。それで十分ではございませぬか」

 笑みを浮かべた口元から返ってきた言葉は、酔いの回ってきたオオドの想像をいっそう刺激した。色香の塊のようなこの女の魅力に抗(あらが)うことは難しいと思った。

「あなたも呑まれよ」とオオドが酒を注ぐと、女は酒器を両手で口元へ運び白い液体を三回に分けて呑み干した。顔にでる質(たち)らしく、すぐほんのりと紅くなる。料理を勧めても「私は先に済ませておりますので」と、こちらは固辞した。

 しだいに食べるより呑む方が多くなり、女も何杯か杯を重ねた。オオドは倭の女の風俗について尋ね、女は越の海について尋ね、快い酔いの中でゆるやかに時が過ぎていった。

「すっかりごちそうになりました。そろそろ休ませていただきましょう」

 十分満足したオオドが言うと、女は一礼してから手をたたいた。すぐに召使いたちが入ってきて卓の上を片付けて去った。

「どうぞこちらへ」と女が灯りを移して招いた奥の方は、床に毛皮が敷き詰められ布団が用意されていた。枕が二つ並んでいる。オオドは布団に横たわった。女はオオドに掛け布団を掛け、自分も衣服を脱ぎ捨てて薄物一枚になると、オオドの横にすべり込んできた。

「倭の夜は冷えますゆえ、体で暖めてさし上げるよう申し付けられております」

 先ほどまでとはうって変わった恥じらいを含んだ声で女が言った。

 オオドは黙っていた。異族の貴賓のこうしたもてなし方はもちろん知っていた。横山の館でも異族の首長の逗留時に夜伽(よとぎ)の女を付けることはある。今夜のなりゆきからして十分予測できたことだし、オオドも漠然と期待していた展開だと言えなくもない。女の面目をつぶしてはならぬし、今気のせいか隣で身を硬くしている女に愛しさのようなものさえ感じる。オオドは女の顔を抱き寄せるようにしてこちらに向けて言った。

「あなたのような倭の美女と床を共にできるとは。河内の君殿のお心配りに深く感謝申し上げる。ただ残念なことに吾は明日三諸山の神を拝することになっているのじゃ。体を暖めていただくだけで、がまんせねばなりません」

 オオドは言いながら、今夜この自分の言葉を悔やむことになるであろうと思っていた。

 女はオオドの顔を見つめ、

「三諸山の神は男神でございましょう。女の肌を寄せ付けたとて御機嫌を損ねはなさいますまい」

 と、艶然とほほえんだ。

「帰りにまた立ち寄らせていただきます。その時こそ」

 オオドはなぜそのようなことを言ったのか。たしかに高向を発って以来、まだ一日も雨に降られていない。このつきを失いたくなかったのは真実である。青空の下、雲が影を落として動いてゆくような三諸山を仰ぎたかったのである。女が横にすべり込んできたとき、一瞬目の子媛の顔が浮かんだような気もした。しかし、だからと言って自分の言挙げは実行可能な事であろうか。体を密着させてこのような魅力的な女が寝ているのである。ほとんど空々しい戯言(たわごと)に近いと自分でも思った。

 女はいったん布団から出て灯りを消して戻ってきた。暗くなると女の体の柔らかな感触に加えて橘の香りが濃厚に広がってオオドを苦しめた。香りに包まれると闇の中で女についての妄念もまた膨らんでゆくのである。先程の艶然たる微笑の中にかすかに認めた女の落胆の色が、今はオオドを未練な気持ちに陥れている。耐えられなくなってオオドは寝返りを打った。女が薄目をあけてオオドの背中を笑っているような気がした。やがてかすかな寝息さえ立て始めた女がオオドを試しているようにも思われた。そのうちに自分の独り相撲がおかしくなってオオドは苦笑した。寝つかれないまま長い時が経ったように思われたが、いつの間にか眠ってしまっていたのはオオドの自制心によるものではなく、ひとえに旅の疲れと酔いのお陰であった。

 目が覚めると、隣に女の姿はなかった。

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