人の章 第5話 八淵の滝
倭へ向け出発する前夜になった。振媛と目の子媛が送別の箏(こと)を奏でた。箏の名手であった振媛は、嫁いできた目の子媛が箏を奏でることを知って、とても喜んだ。言うまでもなくこの時代は、演奏者が自分で節を作り奏するのである。期待に違わず、目の子媛は振媛の節に巧みに合わせることができた。竹林を抜けて流れる妙なる調べに、里人も思わず耳を傾けたものであった。今宵、高向の館から流れる音色は心なしか哀調を帯びて聞こえた。
翌朝早く十一人の一行は、里人に見送られ高向を発った。まず馬で横山の館まで行き、ツヌムシ王に挨拶を述べる。
「韓の渡来人の一件では助かったぞ。王みずから掟(おきて)を軽んずるわけにはゆかぬからのう。そなたはいよいよ出かけるのか、寂しくなる。だが、身軽な今の内に見聞を広めておくのはよいことじゃ。そなたもそのうちわかるであろうが、王というのは人の思う以上の苦行、また窮屈で束縛の多いもの。吾(あ)も歳のせいか、秋の物忌みと祭りが終わるとどっと疲れが出るようになってしまった。早くそなたに位を譲り、のんびりしたいものじゃ」と、ツヌムシ王は珍しく弱気なことを言った。実際顔には疲れがにじんでいるようだ。
傍らにいた后は、
「王はこのところすっかり気が弱くおなりです。特に体の具合の悪いところもなく、お疲れのためかとは思いますが、オオド殿からもお気持ちに張りを持たれるよう、おっしゃってください」と、優しい顔を曇らせる。オオドも心配になって、
「王には決してご無理をなさいませぬよう。まだ、このオオドに三国は治められませぬ。気晴らしに高向から母を呼び、いつもの毒舌でもお聞きになってはいかがですか」と水を向けてみる。
「そうじゃな、しばらく振媛の顔もみておらぬな。そなたの言うとおりにしよう。ところで振媛は、近江三尾郷の滝のことを言っていなかったか」
「八淵(やつぶち)の滝のことでございますな。母から亡き父との思い出の場所と聞きました。空模様に恵まれれば、行ってみたいと存じます」
「それがよい。吾はあれに幾度その話を聞かされたことか。そなたの近江のゆかりの地をじっくり見てくることじゃ」
「それでは参ります。くれぐれもお体にお気をつけください」
一行は横山で舟に乗り替えて竹田川を下り、昼近く三国の津に出た。
湊の市の立つ辺りに韓人たちが乗ってきた諸木船(もろきぶね)が繋留されている。大きな丸木舟に波よけを付けて外海の航海に耐えられるようにした半構造船である。舟が津を出る頃、「金官から海を渡って来るのはさぞ大変であったろう」と、オオドに話しかけられた那弥率の答えは、「島を目指して漕ぐだけで、道のりが長い以外は岸に沿って進むのとさほど変わりません。幸い波が穏やかでしたので」と、あっさりしたものであった。オオドはそんなものかと思った。
沖へ出た舟は、左手の海岸線との距離を保ちながら快く滑ってゆく。三国から近江の三尾郷までは三尾氏の搬送路が伸びている。搬送路の途中には停泊する浦があり、宿泊所が設けてある。三尾郷は現在の滋賀県高島町から安曇川(あどがわ)町の辺りで、琵琶湖の北西岸にあり、その湊の勝野津は古代から重要な役割を果たしていた。日本海側の物資は角鹿または小浜から陸揚げされ、山を越え、勝野津まで運ばれる。勝野津は、びわ湖経由で荷を倭や河内、あるいは美濃から尾治へ流してゆく内陸水運の拠点であった。
第一日目、丹生(にう)の岬を回り込んだ所にある梅浦に泊まった一行は、翌朝角鹿の津を目指す。この辺りの海岸線は荒磯が続き、奇岩に富む美しい所だ。オオドは舟べりにもたれたまま、波打ち際まで迫る背の低い山並みを眺めていた。少しでも早く倭へと気がはやらないわけではないが、それ以上に、初めて見る父のゆかりの三尾郷をこの目で見たい思いが今はふくらんでいた。
風に恵まれ、舟は順調に角鹿の津に入った。途中河野浦で休んだきりであった。陸へ上がった主従はここで泊まらず、歩いて三方(みかた)まで足を延ばす。明日一日で三尾郷に着けるようにするためである。三方の入り江の東岸にも三尾氏の宿泊所が設けられていた。
翌日は、いよいよ近江の国である。熊川の辺りで道は若狭街道と合流し、険しい山道を登る。水坂峠を越えた所が近江の保坂(ほうざか)になる。保坂からは熊野山の台地(饗庭野)を横断し、細い谷筋を下ると安曇川に出た。
古代の旅は、天候に大きく左右された。それは何も舟の旅に限らない。平野部がまだ湿地であることが多かったから、古代の道は山の麓と川沿いに発達していた。この内、川沿いの道は橋を架ける技術が未発達であるため、大雨が降れば渡ることができず、足止めを食った。実際、橋があっても丸太の束や板を渡した継ぎ橋程度のものであっただろう。大河であれば、舟で渡ったものと思われる。つまり、古代の旅は川が増水する時期を避けねばならなかったのである。旅人が川を歩いて渡るか、舟で渡るか、はたまた継ぎ橋を渡るかは、川の大きさとその時の諸々の条件によったわけである。実際の現場でどのように渡ったかはわからないのであり、断定すれば後味の悪さが残る。そんなわけで、これからは単に「川を渡った」で済ませたいと思う。
オオドの旅は、台風や秋霖(しゅうりん)の時期を過ぎて好天に恵まれていた。安曇川の流れは、少し白味を帯びた黒龍川の水より澄んでいる。一行は、谷川が合流する古賀という所で川を渡った。安曇川の南岸を歩むにつれ、左手の台地はしだいに彼方に遠ざかり、急速に目前の眺望が広がってゆく。田中で山の麓を右へ回り込むと、左側に広い平野が開けた。平野のすぐ向こうはもう近つ淡海(おうみ)の湖である。
横山の麓を歩いてゆくと、すでに沈んでいた日が山と山の間からまた顔を出すが、しばらく行くとまた隠れてしまう。前方に現れる三尾川(鴨川)は安曇川とは比べものにならない小さな川である。渡ると程なく三尾山に突き当たる。左に折れ、麓の道を東にしばらく歩いた杣(そま)の地に、亡き彦主人の大君が住んだ三尾の別業(なりどころ)はあった。
別業とは、別邸の意である。彦主人の大君は、現在の滋賀県坂田郡を本貫の地とする息長(おきなが)の一族であるが、同時に倭の王族の血も引く。この頃の近江の各氏族は、倭の王権に組み入れられていた。いやむしろ、王権に参画していたと言った方が実際の姿に近いかもしれない。その内で、息長氏は倭の王に代々后を出す有力氏族として、一族の主だった者は三諸山(みもろやま)(=三輪山)の南にある忍坂(おしさか)を居住地としていた。彦主人の大君の館も忍坂にあったが、三尾郷に水運の拠点を持ち、若狭方面との交易や搬送の事業を手がけていたと思われる。越とは異なり、若狭はこの頃から倭の勢力圏に入っていた。
近江の三尾氏は、越の三尾氏と縁続きである。むろん越の勢力圏ではなく、倭の勢力圏内にあるわけだが、交易と運送の面では、越からの搬送路の終着点としての役割を果たしていた。同時に倭への搬送路の起点ともなるわけで、その意味では、近江の三尾氏は、越と倭の両面性を持った存在であったと言えよう。息長氏は角鹿と深い関わりを持つので、彦主人の大君の交易路は三国の三尾氏の搬送路とも競合または共存していたかもしれない。
この接点が、振媛と彦主人の大君を結びつけたのである。『日本書紀』によれば、顔きらきらしく麗しき色ある美姫の噂を聞いて、彦主人の大君が坂中井から振媛を迎えたという。
一行は三尾の別業に三泊した。オオドが生まれたその館は、嶽山(だけさん)の前山にあたる三尾山を背にして夕暮れの中に立っていた。さほど背の高くない三尾山はなだらかに東西に伸び、館の裏で豊かな水を湧き出させていた。周りに竹林のある風景が、オオドには妙に懐かしかった。
彦主人の大君が亡くなった後、館は再び主を持つことはなく、湖の対岸から来た息長氏の執事が館を取り仕切っていた。執事はオオドの到着を喜び、倭の忍坂にはすでに使いをやっているので御安心をと言った。更に亡き彦主人の大君を覇気ある方と誉めた。実務に携わる執事は、一族の中心が倭に移って内廷氏族の性格を強め、本貫である近江息長の地が寂れているのが、どうやら不満であるらしい。「交易に目をつけられたのは、お父上なればこそでございます。後を継ぐ方がいらっしゃらないのが誠に残念です」と、嘆いた。息長氏は、古来塩津からの湖上交通に関わってきて、美濃や尾治とのつながりも深い。交易により近江息長の地を栄えさせることもできるのに、というのである。
執事が、「ご滞在の間、何なりとお申し付けを。今宵はごゆるりとおくつろぎ下さい」と下がって間もなく、三尾の加多夫(かたぶ)の君が挨拶に来た。オオドと同じ年格好の三尾郷の首長である。オオドは、倭の情勢について尋ねた。
「なんでも、百済が高句麗(こま)との戦いに敗れたそうで、倭は今、逃げてきた韓人で溢れているそうです」
加多夫の君の話は、オオドの所に身を寄せた渡来人たちの話と符合するものであった。
「ワカタケル大王は、我ら倭王国の域内の氏族に対し、采女(うねめ)や舎人(とねり)を差し出すように強いています。三尾郷ではまだ例がありませんが、屯倉(みやけ)と呼ぶ大王の直轄地を領地内に作られてしまった首長もいると聞きます。大王は強い武力を持っているので、首長も命令に逆らうことができないのです」と、加多夫の君は続けた。
「ところで、吾は母に勧められ、明日八淵の滝へ行こうと思っています。誰か道案内のできる者を付けていただけないでしょうか」とオオドが頼むと、加多夫の君は、
「たやすいことです。明朝案内の者をよこしましょう」と快諾して帰っていった。
翌朝、オオドは真佐手一人を伴って八淵の滝に向かった。昔、父と母に同行したという三尾郷の長(おさ)が案内を務めた。秋晴れの空はどこまでも澄み切って、風もほとんどない穏やかな天気である。嶽山(だけさん)の麓を三尾川に沿って遡ってゆく。なだらかな道の端のそこここには竹が群れ生え、朱もまぶしい柿がたわわになっている。
「彦主人の大君と振媛様のお供をいたしましたのが、つい昨日のことのように思われます。その折は、色とりどりの花が咲く初夏の事でございましたが」
「父君はどのような方であったのだろう」
オオドにとっての父は、母の話に出てくる姿しか知るところはなく、母も父の話をすることが多いとは言えなかった。物心ついてからは、ツヌムシ王が父の代わりを果たしてくれていたわけで、母は気遣いの末、あまり彦主人の大君の話をしなかったのかもしれない。
「お体のすぐれて大きな方でございました。顔の造りはオオド様とそっくりと言ってよろしいかと存じます。物腰がゆったりして情け深く、三尾郷の者たちから慕われておいででした」
父は母と、かなりの年の差があったはずである。オオドは、父親のような夫と山道をたどってゆく振媛の姿を思い浮かべた。
川沿いの棚田が尽きるあたりで、いったん三尾川を離れて左手の山道に入る。木の下を縫って登って行く道は、散り敷いた木の葉に人の通った気配があるかなきかの急峻な道である。上を仰ぐと、所々葉が色づいている。
三尾郷の長は健脚である。しばらく着いて登るだけで、オオドの額に汗がにじむ。真佐手の激しい息づかいが聞こえる。振り向いた長は、気づいて歩みを緩めた。
「どうなることかと思いました」と、真佐手が笑う。
三人は、しばらく黙々と足を運んだ。梢から、美しい縞(しま)を持つ大柄の鳥が飛び立つ。
「大雨が降れば、この辺りは川でございます」
長の指す前方には、流れ下る激流にえぐられて地面の下から岩がむき出した川道が見えた。辺りにはなぎ倒された木も転がっている。
どれほど登ったであろうか、右手の木の間越しに渓流が見えた。いつの間にか、三尾川は遙か下を流れている。一行は眺めのよい所で、しばらく休み汗を拭った。
「もう間もなく最初の滝に着きます。ここからは、山の腹を巻いて進みますゆえ、足下にお気をつけ下さい」
長の言ったとおり山腹を大きく回り込むと、眺望が開けてきた。オオドたちが仰ぐ楢(なら)や山毛欅(ぶな)は黄色く色づき、谷の向こうに見える奥山は紅葉の盛りであった。
「見事なものですなあ」と、真佐手が感嘆して言った。
「綾錦とはこのような紅葉を言うのであろうな」と、オオドも思わず立ち止まって眺め入った。
滝音が木立の向こうから微かに聞こえ始め、響きを増してゆくと、嘘のように疲れは回復していった。
「今年の秋は雨が多かったので、滝も見応えがあるかと存じます」と、長は山側を見上げる。所々で山腹から水が湧き出している。
最初の滝は谷底にあった。束ねられた葛(かずら)が谷底まで垂れている。長に続き、オオド、真佐手の順に葛をつかんで降りて行く。急な崖は、苔の付いた岩やむき出した木の根で滑り、気が抜けない。手前の木立の向こうに見えていた滝は、下まで降りると二つの滝から成っているとわかった。右手の大きな滝を白い筋となって流れ落ちた水はいったん小さな淵を作った後、岩の上を無数の水泡を飛ばして滑り、左手のかわいらしい滝と合流する。明るい褐色の岩は紅葉をまぶされ、白い飛沫(しぶき)に洗われている。
「足下が悪いので御案内はいたしませんが、実はこの下流にもう一つ滝がございます」と長が言うと、
「欲張りはせぬ。この滝一つでも来たかいがあったというもの」と、岩に腰を下ろしたオオドが言った。時折風が起こって黄葉の雨が降り注ぐ。葉は澄み切った水に浮かぶと、くるくる回りながら流れてゆく。
「何という美しさ、清々しさ。初めてこの滝を見つけた者は、夢のような気持ちであったろうな」と、オオドは顔に霧のような飛沫(しぶき)を感じながらつぶやいた。
日は既に真上にさしかかっていた。一行は水辺まで降りて清冽な水で喉を潤した。しばらく水に手をつけてみるが、三十と数えないうちに手がしびれてしまう。崖を登って元の場所まで戻る。最後から登ってきた真佐手は息を弾ませて「振媛様もこの崖を降りられたのでしょうか」と言った。オオドは「母君の御気性からして言うまでもないこと」と笑う。
「先に立って降りられたのは、振媛様の方でございましたよ」と、長もうなずいた。
八淵の滝は変化に富んでおり、川沿いに遡ると、更に大きないくつもの滝が目の前に現れた。しかも滝の下には大小さまざまの淵が深い色を湛えており、心が鎮まってゆくようだった。辺りは淵の緑と映える白い肌のような大岩が多く、一枚の広大な岩盤の上を、飛沫を上げて豊かな水が滑り下ってゆく様は壮観である。所々に皮の削(そ)げた流木が引っかかっている。
登るにつれて周辺は開け、わずかな岩の隙間に根を張った水楢(みずなら)が、ほぼ真横から顔の前に黄葉を突き出している。一際大きな轟音のする方角に進むと、高さ二十尋(約三十メートル)もあろうかという水柱がほぼ真下に落下していた。手前には巨大な磐座(いわくら)がある。水柱の頂の上には空があり、日がまぶしかった。
「この大滝は、私どもが雨乞いをする所でございます。ここから先は比良の山々につながる神域で誰も登れません。村には水源を見てはならぬという掟があるのです」と、長は言った。
「そうであろう。吾も今この水柱を見て、水を祭ることは山を祭ることであったのだと気づいた」と、オオドは滝に向かって拝礼した。
真佐手も感じ入ったように荘厳な大滝を仰ぎ、「滝はやはり下から拝するに限りますな」と、オオドに倣(なら)った。
帰り道、オオドは父彦主人の大君の導きということを考えていた。ほとんど記憶もない父がオオドをこの滝に導き、神秘な水を見せてくれたような気がした。
別業へ戻ると、長の娘が待っており、三尾山の湧き水を桶に汲んできた。オオドはその顔を見た瞬間はっとした。抜けるように白いうなじに黒々とした髪がかかっていた。だが、それ以上にオオドを惹きつけたのは、娘の瞳の輝きの強さだった。母の振媛に似ているのだ。オオドは思わず隣の真佐手を見た。館の階(きざはし)に腰掛けた真佐手の目も娘に吸い寄せられたままで、オオドの視線に気づかない。
「どうぞ足をお洗い下さい」
よく通る聞き慣れた声が娘の唇からこぼれた時、真佐手の体がかすかに震えたのをオオドは見逃さなかった。
サキと呼ばれる娘は、オオド主従の世話を終えると、父と一緒に帰っていった。主従は、その間実に不思議な思いであった。
その晩疲れのたまっていた二人は早く休んだが、真佐手の口数は少なかった。
翌朝、真佐手は「勝手なお願いですが、今日一日だけ、おひまをいただけないでしょうか」と言った。オオドが許すと、真佐手は一人で出かけていった。
その日の午後、オオドは執事の案内で三尾郷を歩いてみた。ヨシヒトが供をした。印象的だったのは、一昨日安曇川の谷を出てから通ってきた田中辺りの丘の墓域だった。奥津城(おくつき)をめぐる木の下道には艶やかな杉苔が生え、一帯は気のせいか、かすかな影が心を湿らせるようであった。たたずんで地面を見つめるオオドの視界を、褐色の生き物が横切った。目を上げると、狐が飄然(ひょうぜん)と走り去るところであった。
別業に戻ると、すでに真佐手は帰っていた。
「長の娘のところへ行って来たのか」
オオドが尋ねると、真佐手は黙ってうなずいた。
「どうであった」
「なんとかなりそうでございます」
その一言で首尾が悪くないことだけは察しがついた。真佐手はいつになく神妙であった。
ーー返事がいずれにせよ、あの娘は迷わずに決めるであろう。
オオドはなぜか確信できた。
勝野津を離れたのは翌朝であった。加多夫の君が用意した二艘の舟で主従は志賀津(大津)へ向かった。まだ朝早いというのに遠浅の水際では荷の積み込みが行われ、勝野津は活気に満ちていた。左手は葦でよく見えないが、対岸の山々が低く霞んで見える。目の子媛を尾治に迎えにいった時は、初めて見る近つ淡海の広さに驚いたものである。その印象は今日もいささかも変わらなかった。
さざ波の立つ湖面を行く舟は山の迫る岸辺近くを進んでゆく。左肩下がりに裾(すそ)を引く比良の山並みが前方に大きく見える。左手ほぼ真横には島影も見えている。
「あの島は何という島か」
「沖島と呼んでいます」と、三尾郷の者が答える。
「この淡海はさぞ深いのであろうな」
あの滝の清らかな水が間違いなくこの澄んだ淡海に注いでいるのだという感慨を込め、誰に聞くともなくオオドはつぶやいた。
「この辺りはさしたる深さではございませんが、安曇川(あどがわ)の沖などはどれほど深いか測ることすらできぬと聞いております」と、答えが返ってきた。
小松を過ぎる辺りから右手の山は少し遠ざかり、手前の平野も心持ち広々とする。一行は好天のお陰で、小松と真野(まの)の浦で休みを取っただけで、夕刻志賀津へ到着した。
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