第2話 尾治の媛(ひめ)

 横山の館は、竹田川の水を引き込んだ濠(ほり)が、山の側を除く三方を囲んでいる。濠の外には、竪穴(たてあな)の家々に混じって、高床(たかゆか)の大きな住居も数多く立ち並んで大集落を作っている。

 横山の館の石垣と塀の内には多くの茅葺(かやぶ)きの建物が並んでいる。手前に高床の倉と入母屋(いりもや)型の大きな平屋計十数棟が二列に並び、その奥には、裏山に向き合うようにして一際目立つ高殿(たかどの)がそびえている。すでに世を去ったオハチ王に替わり、子のツヌムシ(都奴牟斯)王が祭祀を行う神聖な場所だ。横には王が日常の生活を営む宮殿が並び建っている。

 ツヌムシ王は振媛の同母兄であるが、子供がない。近江息長(おきなが)氏の彦主人(ひこうし)の大君に嫁した振媛がオオドを生み、まもなく夫に死に別れて戻ってからは、甥を実の子のようにかわいがっていた。自分の死後は、王位をオオドに継がせるつもりでいる。

 馬を下りた二人は橋を渡って館に入ると、振媛に帰館を報告した。振媛は王の褻(け)の宮殿でツヌムシと話し込んでいるところであった。年相応の顔をしているツヌムシに対し、振媛はまだ娘のように若く、とても兄妹には見えない。

「ちょうど、よい時に帰って来ました。そなたに用向きがあります」

 と振媛は言って、ツヌムシを見た。

「そなたが妻(め)を娶(めと)る話じゃ。雄島の海部(あまべ)氏の長(おさ)より、尾治(おわり)(=尾張)の草香(くさか)王の娘目の子媛(ひめ)との縁組みの話が来た。吾はこの話を進めようと思うがどうかな」

「王はそなたを後継ぎとお決めの上で、おっしゃっているのです。尾治の姫と縁組みすることは、三国の次の王がそなたであると世に広く知らせることにもなります」

 と、振媛が言葉を継いだ。

 オオドには、自分が妻を迎えるなどということが、とても現実の話とは思えなかった。

「吾(あ)はまだ十三です。童(わらべ)が妻を持てるとは思えません」

「何を言っているのですか。そなたはもう童ではありません。この母がそなたの父彦主人の大君に嫁いだのは十五の時でした。早く妻を迎え後継ぎを設けるのは、王族にとってはとても大切なことなのです」

 と振媛は言ってしまってから、「兄君、すみません」と、申し訳なさそうにツヌムシの顔を見た。ツヌムシは機嫌を損ねるふうでもなく、「相変わらず、口に容赦なき妹よ」と笑った。しばらく兄妹の隔たりのないやりとりがあってから、

「尾治の姫はおいくつですか」と、オオドが尋ねた。

「母上の嫁入りと同じ十五じゃ。雄島の長は、麗しいばかりでなく、清々(すがすが)しき心ある方だと評判を伝えておった。長はいたずらに話を飾る人ではない」

 と、ツヌムシは答えた。

 オオドの中で、「清々しき心」という言葉が余韻を引いて響いた。

 縁組みは、オオドの諾否も特に確かめないまま、ツヌムシと振媛の手で進められていった。婚儀は翌年と決まった。

 尾治(尾張)氏と、この縁組みの仲立ちをした海部(あまべ)氏は同じ海人(あま)族であり、古来より海運や漁業に従事していた。このうち尾治に本拠を置いた尾治氏は、治水による平野の開拓で力を伸ばし、東国屈指の大族となっていた。越の雄族である三尾氏との縁組みは、二つの大勢力の結びつきを意味する。三国と尾治は、以前から王族の装身具と埴輪(はにわ)、特に越の勾玉(まがたま)、管玉(くがたま)と尾治の円筒(えんとう)埴輪の交易を中心として往き来があった。一方、海部氏は雄島と三国崎の海峡を拠点とし、同じく水運に携わるオオドの一族とは協力関係にあった。三国の津を支配し、越の交易を握る三尾氏にとって、航海の専門家集団である海部氏の力はなくてはならないものであった。

 翌年、田の早苗がそろった頃、目の子媛を迎えるためにオオドの一行は尾治へ向かった。角鹿までは海路を、そこから陸路をとり、峠を越えて近江の塩津へ出る。塩津からまた舟で近つ淡海(おうみ)(=びわ湖)の湖上を渡り、湖北から陸路で尾治に至る道程である。婿を迎えた尾治の館で盛大な祝宴が催され、新妻を伴ったオオドが三国へ帰ったのは、一ヶ月後のことであった。

 

 目の子媛を越に迎えてからまもなく、オオドは雄島に詣でた。海人族の出である姫の希望によるものであった。三国の津で雄島の長が出迎えた。長い白髪を無造作に後ろで束ねている。

「この度はおめでとうございます」

 日焼けした顔をほころばせて、長は祝意を述べた。自らが仲立ちを務めた婚儀の上々の首尾を、心から喜んでいるようであった。

 湊を出た舟は三国崎を迂回して進んでいく。断崖直下の海中の地形は複雑で暗礁が多く、沖を通らねばならない。それでも初めて仰ぎ見る断崖の奇観は、目の子媛を感嘆させた。オオドは黙って眺めている。

 やがて舟の行く手に雄島が見えてきた。三国崎と雄島の間の小さな海峡は、沿岸を航海する古代の舟にとって大切な場所であった。この海峡は浅すぎるため、大船の通行には危険が伴うほか、暗礁を避けるためにも海部氏の水先案内が必要となる場合があった。

 雄島がしだいに近づいてきた。海峡の両端には岩礁も見える。

「これほど美しい海は見たことがありません」

 海面を見ていた目の子媛が突然立ち上がって言った。金の耳飾りが揺れる。

「お気をつけ下さい」

 長はあわてて舟の速度を緩めるよう水手(かこ)たちに合図を送った。オオドも寄り添うように立ち上がった。目の子媛は薄緑の裳(も)をつけ、長い白の上着を重ねている。島を歩くので、今日の裳はいつもより短い。上着の上から巻いた黄色の帯は前で結ばれ、端をそのまま垂らしている。艶やかな黒髪が平たい髷(まげ)にまとめられ、色白の顔が凛々(りり)しい。その清楚な美しさは、まるで水の精が形をとって現れたように見えた。

 昼近い海は波がほとんどなく、明るく晴れた空を映して澄みきっている。海は浅く、底の石が手を伸ばせばつかめるほどだ。長が気をきかして舟を止め、二人は光のたゆたう水底にしばらく見とれていた。

 

 舟は左に向きを変え、海面に姿を現わした鯨のような島の全貌が目に入る。島全体が緑で覆われ、脊梁(せきりょう)近くで藪肉桂(やぶにっけい)が幾筋もの白い枝を開いている。切り立って海に没する南の岩肌は松の樹皮を重ねたようだ。威容と表現するにふさわしい姿である。

 オオドは身がひきしまるのを覚え、目の子媛に言った。

「ここは神の島と呼ばれています」

 雄島は古来航海の重要な目印であり、島そのものが海を渡る人々の崇敬の対象であった。しかし、岩ばかりから成るため浦がほとんどなく、湊としての実際の役割は対岸の大湊(おおみなと)が果たしているのだった。

 舟を下りた二人は、長に導かれて急坂を登った。目の子媛の侍女と長の配下、それに真佐手が従う。ほぼ等間隔に石が置かれ足場が造られている。頭上には両側から無数の枝が覆い被さっている。途中で参道は左に折れ、少し緩やかな踏み分け道になった。

 古木に覆われたほの暗い道には、たしかに先程までの海の上とは違う気配があった。落雷で裂かれた枯れ木と見えた玉樟(たまぐす)が、仰ぎ見れば枝の先に瑞々しい葉を繁らせている。

「心が鎮まっていくような気がします」

 少し汗ばんで上気した顔をオオドに向け、目の子媛が言った。

「もう少しでございます」

 長が振り返って励ます。

 坂を登り切った場所は平らに開かれ、標縄(しめなわ)を張られた藪椿(やぶつばき)の巨木があった。猛々しく地上に根を剥き出した古木は、神さびた幹に虚(うろ)をのぞかせて立ち上がり、指の数ほどの太い枝を空高く突き上げていた。葉は天蓋(てんがい)を覆い、光も充分には届かない。島神一言主(ひとことぬし)(=事代主(ことしろぬし))の祭祀者である長は、うやうやしく拝礼した後、巨木の脇に置かれた岩の落ち葉を払った。オオドは、高坏に盛られた塩と若布(わかめ)を真佐手から受け取って供えた。目の子媛は、尾治から持ってきた鏡を供えた。鏡は海人族が航海の安全を祈って奉納するものである。長は折り取ったシダを二人に手渡し、拝礼を促す。二人はシダを岩の上に捧げ、巨木の前に並んで拝礼した。

 

 閑(しず)かさの中で身を休めながらオオドは言った。

「吾(あ)はしばらく妻(め)と二人でこの島の中を歩いて構わぬだろうか」

 長はしばらく思案するふうであったが、

「お望みのままに」と言った。

「ならば、こういたそう。初めに我らに出会うものが虫であれば、このまま帰ることにしよう。初めに我らに出会うものが蝶であれば、妻と島の中を歩いてみることにいたそう」

 待つことしばし、一羽の黒い揚羽蝶がゆらゆらと現れた。蝶は白い紋を見え隠れさせながら舞い、すぐに木立の中へ消え去った。

 オオドはにっこり笑って立ち上がった。

「さほど広くない島です。踏み分け道は定かではございませんが、もし道に迷われても低い方に歩かれれば海岸が見えます。波の音を聞きながら崖に近いところを回れば、いつかは舟着き場に出ます」

 長は白いあご髭をしごきながら、やさしく教えた。

 

 踏み分け道をしばらく行くと、二人の足音に驚いた蜥蜴(とかげ)が向きを変えて茂みに逃げ込んだ。

「蝶が現れてくれればよいと願っておりました」

 目の子媛はオオドを見て笑みを浮かべた。

「島神に何を祈られましたか」

「越の国に末永くとどまれますようにと」

「越が気に入られましたか、うれしいことです。嫁入りの時、峠から角鹿(つぬが)の海を眺めて姫は涙を流しておられましたね。あの時は何と言葉をかけてよいかわかりませんでしたが、吾もこれで安心いたしました。神も姫を気に入られたようです。たしかに越は美しく、稔り豊かです。ただ、越の冬は長く、寒さは忍べぬほどではありませんが、雪が人の動きを縛ります。冬ばかりではありません。空は変わりやすく、今日とて、麗しい姿で迎えてくれた海が、帰りには白い牙をむくやも知れません。吾は子供の頃自らの過ちによって、かけがえのない者を死なせたことがあります。それはほかでもない、あの三国崎の巌の下でした。いまだに吾が神の怒りを蒙(こうむ)っており、海が荒れ狂うようなことがあるなら、吾が生け贄(にえ)として水底に沈むつもりでした」

 オオドがしばし立ち止まって語ると、目の子媛は掌(て)を挙げて言葉をさえぎった。

「言挙(ことあ)げなさってはなりませぬ。もしそのようなことがあれば、私こそ贄となりましょう。神の御(み)心は先程の黒い蝶で明かされたように思いますが」

 再び歩き出すと、オオドは三国崎での出来事を語った。

 

 しばらくすると踏み分け道はわからなくなり、枝をかき分けて進むオオドの後ろにくっつくようにして姫が進むという状態が続く。下っていることだけは確かであった。やがて波の音が急に高まり、草むらに出ると、目の前に海が開けた。

 歩みにつれて、草の香りと花の香りが交互に二人を包み、草の葉にまじって所々小鬼百合が橙色の花を愛らしく開いている。

 オオドは左前方に、ある景観をみつけて近づいた。潮の香りが強くなる。日はすでに中天を過ぎており、その下にあの三国崎とよく似た岩の柱が並んでいた。ただ、こちらは水平方向に規則正しい割れ目が走っている。海が北と西に開け、見渡す限り何もないのも一緒である。

 オオドは岩のふくらみに腰を下ろした。見なくても断崖の下に波が白く泡立つのがわかる。

 目の子媛は腰を下ろさずオオドの横に立っていたが、やおら前屈みになりながら断崖に近づいていった。

「危ない!お気をつけ下さい」

 叫んだオオドの背中に冷や汗がにじんだ。

 目の子媛は振り返り、大丈夫というようににっこり笑った。そのまま崖の際(きわ)までそろそろと歩むと、膝と手をついて下をのぞき込んだ。体がしだいに前のめりになってゆくのがわかる。海に消えていく妻の生々しい叫び声すら聞こえるような気がした。オオドにとって早鐘を打つような緊張の時が過ぎた。体は縛られたように動かない。危険を考えると、声を掛けることも憚(はばか)られた。

 しばらくして、目の子媛は手を支えに体の向きを変えて立ち上がった。考え込むような表情で戻ってきてオオドの脇に腰を下ろした。

「夫(せ)の君が三国崎でご覧になったものを私も見たかったのです。吸い込まれるような青さでした。あのまま見続けていたら飛び込みたくなったかもしれません」

 胸をなで下ろしたオオドは、目の子媛の大胆さにあきれる余裕が生まれていた。同時に、絶対にこの妻を失いたくないという自分の心に気づいた。

 二人は並んでそのまま海を見ている。

「この海の彼方には何があるのでしょう」

 ぼんやり霞む水平線の方を指して目の子媛が言った。

「高句麗(こま)の国だそうです。この島より北にある能登の海辺には風に流された高句麗人(こまびと)の舟が漂い着くことがあると聞きます。高句麗は馬に乗った人々が行き交う国で、越よりも倭よりもはるかに開けた所だそうです」

「まあ、何も見えない海と雲の向こうにそのような国があるのですね。舟に乗ってどこまでもどこまでも漕いで行けば、私たちもその国に行き着けるでしょうか」

 姫は目を輝かせた。

「この海を渡れる大舟さえあれば、私たちも行けるはずです」

「行ってみとうございます」と、夢見るような顔が無邪気に願いを語っている。しかし、それは言わず、

「夫(せ)の君は、島神に何を祈られたのですか」

 とたずねた。

「吾は欲が深いので、いろいろな神にいろいろなことを祈っています。もちろん今日は姫のことだけです。いや、もう一人、姫の父君のこともお祈りしました」

「どんなことですか」

「吾に父君ができたことを感謝したのです。ご存じのように吾の父は幼いときに亡くなりました。顔も覚えていません。尾治でお会いした時、姫の父君が本当の父君のように思えたのです」

 目の子媛は、急に真正面から夫の顔を見つめた。真剣な顔になると眉根に憂いを含む。

「これからは二人の父君です。お忘れにならないで。父は、君が私の夫となられたことを心から喜んでいます。尾治へ迎えにおいでになったとき、気に入らなければ婚儀はお断りすると父は言っていたのです。ところが君にお会いしてからは、そんな言葉はすっかり忘れてしまったような喜びようでした」

「ありがたいことです。父君を悲しがらせることは決してありません」

 オオドは姫の手を取って誓った。

「尾治で父君がなさっている治水と稲田造りを見て、吾の迷いは晴れました。尾治を見たとき、その広さにまず驚きました。しかも、多くの川が人の手で操られています。坂中井の平は広いが、その大きな部分を黒龍の沼が占めています。川の中流辺りで稲田を造ろうとしても洪水の度に水泡に帰すということの繰り返しです。吾は今まで黒龍の沼に人の手をつけることにためらいを覚えていましたが、尾治の父君にお会いして心が決まりました」

「力になれることがあれば、遠慮なさらずに言っていただきたいと父が申しておりました。私も、できることがあればお手伝いしとうございます」

 オオドは嬉しそうにうなづいた。

「皆が気をもんでいるかもしれません。そろそろ戻りましょうか」

 

 舟着き場では、長たちが首を長くして待っていた。急坂を下り切る手前に湧き出している清水で二人は喉をうるおした。これ以上冷たく甘いものはないように思われた。

「島の中で何かよいものを見つけましたか」

 長はいたずらっぽく言った。

「玉(ぎょく)を見つけましたよ」

 オオドは明るく答えた。

 二人の言挙げにもかかわらず、三国崎沖の海は帰途も穏やかに澄みきったままであった。

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