水の王 -継体大王伝説ー

宗象二郎

天地の章  第1話 聖なる断崖

 目を閉じた若者の日焼けした顔を潮風がなでてゆく。それでも背中から伝わる草いきれのため、広い額は少し汗ばんでいた。突然耳元をかすめた虻(あぶ)のうなりで、若者は目を開けて身を起こした。髪についた草を払うと、ゆっくり立ち上がった。大ぶりの鼻や唇と涼しげな細いまなこが、不釣り合いにも見える。顔のどこかにまだあどけなさが残っている。

若者の名はオオド(男大迹)。越(こし)の国三国(みくに)地方に勢力を張る三尾(みお)氏の王子である。オオドは後に倭(やまと)の大王となり、「継体(けいたい)」と諡(おくりな)されることになる。

 越は後の天武朝のとき、越前、越中、越後に三分割されるが、この時代、すなわち五世紀後半にはまだ区分はなかった。「越(こし)」の呼称は、若狭を除く福井以北、秋田にまでまたがる、はなはだ模糊とした広大な地域を指すものであった。早くから開けた三国は、交易の中心として栄える角鹿(つぬが)(敦賀)の津と並ぶ、越の国の中心であった。

 オオドの立つ三国崎(みくにざき)の下には真夏の北ツ海(日本海)が広がり、右手に突き出した低い断崖列の先には雄島が浮かんでいる。三国崎は後に東尋坊(とうじんぼう)と呼ばれる所である。三国崎を遠巻きにするようにして、丸木舟が時折行き交うのが見える。

ーー何とかならぬものだろうか。

 オオドの顔が晴れぬのは、越の平野を流れる黒龍川(くつりょうがわ)のためである。

 黒龍川は、越、美濃、飛騨の国境にそびえる白山(はくさん)の山系に源を発する。本流の水源は今の福井と岐阜の県境にある平家岳(へいけだけ)に求められようが、古代の越の人々は平野や海から仰ぎ見ることのできる白山こそ水源と考えていたのである。おおまかにその流れを示すと、水源からずっと西へ向かって流れ続けた黒龍川は、下流に至って、支流の味間川(あじまがわ)(日野川)との合流点付近で大きく北に向きを変えて北ツ海に注ぐ。

 白山山系の支流や大野盆地の水を集めた黒龍川が山あいの急勾配を流れ下り、平坦部に流れ出す所が永平寺町の鳴鹿(なるか)である。鳴鹿より下の黒龍川流域の平野部を坂中井(さかない)と呼んだ。「黒龍(くつりょう)」とは、怒り狂う濁流のことである。洪水に見舞われると、鳴鹿に殺到した水は放射状にほとばしって下流一帯を泥海と化す。黒龍川が後に九頭龍川(くずりゅうがわ)と呼ばれるのは、その凄まじい幾筋もの奔流の様を模したものであろう。奔流の流れた跡(あと)が氾濫原(はんらんげん)である。もとよりこの時代の川は、堤防に囲まれた決まった流路があったわけではない。洪水の度に川はその姿を変えた。言うまでもなく、穏やかに流れるときの黒龍川は、稲田を潤す恵みの神でもある。しかし、汗水垂らして田を開いても、一度(ひとたび)水が荒れ狂えば、稲田は空しく石の転がる河原と化してしまった。

 

 あれはオオドが九歳の春のことであった。その前の年、三国の地は洪水に痛めつけられていた。春の雪解け、梅雨時の出水に加えて、夏の終わりの雷を伴う大雨で黒龍川は荒れ狂った。失意の人々に、野分の大氾濫がとどめを刺した。

 越では雪が解け海の色が明るんでくると、待ちかねたように草花が一斉に咲き出す。北ツ海にひときわ高く突き出した三国崎は、鈍色(にびいろ)の空と海が全く別の存在へと変わっていく輝かしさを、最もよく感じられる場所の一つである。実際、垂直に切り立つ灰色の崖の奥底に青い海をのぞき見た者は、自分の立つ場所が何らかの神の声を聞く領域であることを信じないわけにはいかなかった。

 一方、三国崎の崖っぷちが子供たちの近づいてはならない神域とされていたのは、むろん彼らが陥るかもしれぬ転落の危険を避けるためでもあった。

 その日、三国の津には市が立っていた。オオドの母の振媛(ふりひめ)は朝早く横山の館を出た。竹田川を舟で下り市へ向かうためである。この頃振媛は兄のツヌムシ(都奴牟斯)王から市の宰領を任されていた。オオドも市の日に母について行くのを習わしとしていた。ただし、彼の目的は背後にある三国崎で半日遊ぶことにあった。オオドが一緒に育てられている一族の子供二人が同行を許された。

 三国崎で遊ぶオオドたちが、守り役の近づいてはならないという戒めを破って断崖を降り始めたのは、いつかは起こり得る逸脱とも見えたが、風の冷たさを凌ぐ輝かしい陽光が多分に影響していた。

 三人の少年たちは、整然とならんだ岩柱の頂にある足場を巧みに利用しながら、互いの勇ましさを競っていた。頂から頂へ移動し、崩落部を伝ってしだいに下へ降りて行こうというのである。オオドは列柱を両腕で抱え、にじるように足を運びながら、先達(せんだつ)を務めていた。密着した岩の冷たさが快く、狭いながらも三人が一休みできる崖の窪みまではもう少しだ。供の少年たちはオオドの動きを忠実になぞりながら続いて来る。

 最後の一歩を踏み出すと、オオドは体を反転させた。その拍子に視界が開け、彼の目は海の広がりを初めてとらえた。視線がおのずと手前に移動し、直下の岩礁に波が砕けて白く泡立っているのを見た。

 その時である。背筋や脇の下から冷や汗がにじみ、下肢がなえて感覚を失っていくのが自分でわかった。上から眺めたとき、あまり高くないと見える断崖を選んで取り付いたはずだったのに、目の下に広がる海は今、とてつもない奈落以外のものとは映らなかった。神はそこにいた。オオドはそのまま崖の窪みに沈み込んでしまった。

 供の少年たちが続いて到着し、オオドの異変に気づくまで、さほど時間はかからなかった。

 

 身動きできぬまま、どれだけの時間が経ったのか、海の紺青を別世界の色のように感じながらオオドは震え続けていたのであった。

「しっかりなさいませ、若君」

 守(も)り役の声が大きく、しかし他人事のように響いた。

 それから守り役がどのように自分を励ましたのか、オオドは覚えていない。恐怖心はいささかも消え去らぬものの、腿の感覚だけは戻って来つつあった。

 元来た回廊を、先導の守り役の肩を借りて戻ってゆくオオドの苦しさは、不可解なものであった。なぜ同じ所を伝ってゆくのにこれほどの違いがあるのか。さっき正体を失っていた時とも違う、悪夢の内にあるような感覚を覚えながら、オオドはひたすらにじり進んだ。脇を抱える守り役の力強い腕だけが、頼みの綱であった。

 とっつきの岩柱までやっと戻り、あと一息で断崖の上に出る。守り役は急坂をよじ登るオオドの尻を押し上げた。

「もう少しですぞ。二度とこのようなことはなさらぬとお約束下さい」

「うむ、わかった。許せ」

 オオドは最後の力をふり絞り、守り役もオオドを押し上げる腕に力を込める。

 次の瞬間聞こえたガッという鈍い音と、守り役の叫び声をオオドは生涯忘れることはなかった。

 

 振媛は、市の用事が済んだ頃、この出来事を知らされた。危険な三国崎でわが子が遊ぶのを許していた甘さが惨事を招いたのだと、心が痛んだ。思いのままに遊ばせるよう、今朝守り役に指図したのも自分であった。けれどなぜか、わが子が神の怒りにふれたとは感じられないのだった。

 海上から舟を回して収められた守り役の亡骸(なきがら)の後頭部はつぶれ、血がこびりついていた。

「よく見ておきなさい。そなたの身代わりになったのです」

 これまで聞いたことのない母の厳しい声であった。「オハチ王によう似て参られましたぞ」という守り役の口癖の言葉が、オオドの耳の奥で虚ろに響いていた。

 振媛は守り役を手厚く葬った。

 

 同じ年の梅雨の終わり頃、オオドは母の気に入りの高向(たかむく)の館にいた。黒龍川(くつりょうがわ)の坂中井(さかない)平野への出口が鳴鹿で、そのすぐ下流の北岸が高向、南岸が松岡の地である。坂中井では激しい雨が降り続いていた。

「今日は外に出てはなりません」

 平素高向でオオドを好きなようにふるまわせる母が、その日はなぜか館から出るのを禁じた。

 遠くから太鼓の音が聞こえている。

 雨の音に混じるその音は、かすかであるだけに余計気になった。我慢できなくなったオオドは館の裏門から抜け出し、ずぶ濡れになりながら音のする方向へ歩いていった。音は、南を流れる黒龍川の方から聞こえてくるのだ。歩みにつれ、猛々しい黒龍のうなり声が太鼓の音に覆い被さるように高まる。やっと近づいたオオドの目に入ったのは、普段の倍もあるかと思われる幅に漲(みなぎ)り、激しい水勢で流れる黒い水であった。その恐ろしい水が、なぎ倒した草と柳に当たって飛沫(しぶき)を放つ辺りに、ひざまずいて祈る里人たちと、目隠しをされ手を縛られて立つ幼い娘の姿があった。

 やがて太鼓の音がやんだ。娘の顔がくるりと回り、背中を突かれて牙をむく黒龍の波間にかき消えるのは、ほんの束の間のできごとだった。オオドの体の芯から熱いものが突き上げてきた。次の瞬間、荒い息づかいと母の香りがしてオオドは抱きしめられていた。

 抱きしめる腕を振り払おうと激しく身をよじるオオドに、母はわが子のやさしさを見ていた。しかし、その時オオドを狂おしく突き動かしていたのは、水底に沈めらるべきはこの自分なのだという言葉にならぬ叫びであった。

 

「さすが三国崎、今日の眺めは格別です」

 いつの間にか、真佐手(まさて)が後ろに立っている。眩しそうにかざした手には無花果(いちじく)が握られている。

「おひとついかがですか」

 差し出された実の皮をむくと、青臭さがひろがる。

「いやあ、これは少し若かった」

 真佐手はおおげさに丸顔をしかめ、口一杯に頬張る。オオドの方は甘く熟していた。

 真佐手はいろいろなものを見つけてくるのが上手な若者である。遠駆けのとき常にオオドと一緒であるが、野山ばかりでなく、民家でも獲物を見つけると、人なつこい声をかけものにしてしまう。

 振媛は守り役の死以来、生まれつき活発だったオオドが沈みがちに見えることを心配した。たしかに事故から後、オオドには自分の命が自分だけのものでないという意識がずっとあった。それは誰かに強いられたものではなく、あの時自分を押し上げた守り役の腕の力強さのように、身に付いた感覚として存在している。守り役からもらった命をどう人のために役立てたらよいかという一事が、自分の咎(とが)を責める気持ちと表裏をなしてオオドの心を占め続けていた。生け贄(にえ)の件にしても、「里人が万策尽きて時々あのような挙に走るのは避けがたいことなのです。我が家の祖先でも生け贄となって自ら川に身を投じた王の言い伝えがあります」と振媛が説き聞かせても、何もオオドの心を晴らすことにはならなかった。「仕方のないこと」と納得するどころか、むしろ「生け贄のいらぬ三国にしたい」という願いが、幼いなりの切実さでオオドの心に棲みついたのであった。

 振媛がそんなオオドの心に光を当てるため、そばに付けたのが真佐手であった。毎日のほとんどの時を共に過ごさせ、学ぶのも遊ぶのも一緒であった。宮廷で身近に同年輩の一族がいても、いずれ各地域の首長として離れていく、腹心の家臣が必要になる、という見通しもあった。

 真佐手の父は朝鮮半島の南部にある伽耶(かや)から渡って来て、振媛の母阿那爾媛(あなにひめ)の出身地である江沼に住み着いた。江沼は現在の石川県小松市の辺りである。夫と死別した振媛が近江の三尾郷(みおざと)から戻ったときには、テヒト(技術者)として父オハチ(乎波智)王に仕えていた。

 

 二人は断崖に沿った赤松の林を三国の津に向かって下って行く。湊(みなと)に馬が繋いであるのだ。真佐手の背丈は、長身のオオドの目のあたりである。

「また、黒龍川のことを考えておられたのですか」

 オオドの顔をのぞき込むようにして真佐手が言った。今オオドが何を考えているかが大方わかるのである。闊達(かったつ)で物をはっきり言うところを、オオドも兄のように頼りにしている。年齢の方も、十三になったオオドより一つ年上である。豊かな表情とひょうきんな素振りにふれると、オオドの大抵の憂いは消し飛んでしまう。

 松林の向こうに白く光っている水たまりが、黒龍の沼である。ここからは先端の一部しか見えないが、黒龍川の下流は、波が運ぶ漂砂(ひょうさ)によって造られた砂州で堰(せ)き止められ、巨大な湖を形成していた。その浅い水たまりは周囲約二十キロメートル、ちょうど今の長野県の諏訪湖ぐらいの広さである。坂中井(さかない)の平野の北西部を占めるその湖は、周りを葦の湿地に囲まれた大きな沼と呼ぶのがふさわしく、河口を持たない黒龍川は西側の砂州の低い所に何本もの流路を見つけて海に流れ込んでいる。大雨が降ると、砂州を広い範囲で乗り越え黒い瀑布(ばくふ)のように海に注いだ。

「あの沼がなかったらと考えていたのだ。吾(あ)の一族は横山から女形谷(おながたに)、そして今は高向、松岡と三国の地をたゆまず切り開いてきた。だが今、黒龍川に向き合って人の力の及ばぬことを思い知らされている。せっかく河原石をのけて開いた稲田も一晩の大雨で濁流に沈んでしまう。鳴鹿の下流に田を開いて黒龍川に立ち向かうには、人の力はあまりにも小さすぎる。民は、いつまでも龍神の怒りに怯え続けながら暮らさねばならぬ」

「それで、黒龍の沼をどうなさろうというのですか」

 目を輝かせて真佐手は聞いた。

「どうするかはまだ見当もつかぬ。ただ、あの沼のすぐ上流では川はさほど暴れぬ。それに大水が出ても沼の面(おもて)は不思議なほど流れが静かではないか。ここに田があれば、よほど安らかに民は暮らせよう」

「沼の水を抜くのですね。我ら三国の民は大きな塚すら築いております。今は手だてが見えず、何に向けて民の力を集めたらよいかもわかりません。けれど、黒龍川に対する三国の民の思いがひとつになれば、大沼を動かすこともできるかも知れません」

 いつも大きな真佐手の声が一段と熱を帯びる。

 風に乗って魚のにおいがする。湊はもうすぐだ。

 昼近い三国の津には多くの舟が接岸され、市は賑わいを見せている。貨幣のないこの時代の市はお互いに足りないものを交換する場所であり、これは国と国の交易も同じであった。例えば、獣の干し肉や木の実を魚介類、塩、若布(わかめ)などと交換するのである。首長層が絹や管玉(くがたま)、あるいは漆(うるし)塗りの櫛のような高価な品を並べることもあったが、これは他国の商人が運んでくる金銅製装身具や円筒埴輪のような特別な品物と交易するためであった。市の薦(こも)の上には主に日常品や食べ物が並べられていた。魚のにおいに、並べられた様々な食べ物のにおいが混じっている。火で魚をあぶる煙が流れてきて、二人の空腹を目覚めさせた。物売りと、しゃがみ込んで薦の上をのぞき込む買い手達の交わすやりとりに市特有の熱気が籠もる。買い手の肩から掛けた袋の中は交換の品物でふくらんでいる。

 ところで、この頃の人々の装いはどのようなものであったのか。かなり時代が遡るが、『魏志倭人伝』を参考にすると、男の衣服は袈裟(けさ)式で、肩からかけた布を体に巻き付けて結び、鉢巻きで長い髪を束ねた。女は首と腕の部分に穴の開いた筒型の布を頭からすっぽり被る貫頭(かんとう)衣(い)であった。髪は結んでいなかった。五世紀の庶民の装いも、ほぼ同じように想像してよいであろう。布は苧麻(からむし)という草を植え、繊維を紡いだ。庶民のほとんどは裸足で歩き、冬は藁靴(わらぐつ)を用いた。ただし、支配層の髪形や服装は違った。オオドは左右に振り分けた長い髪を頬の横で束ね、先端を折り返してから紐で縛っていた。「ミヅラ」と呼ばれる髪形である。この髪形がオオドの顔のあどけない印象にいくぶん影響しているようだ。衣服は丸首で筒袖の上着を身に付け、袴をはいている。今のズボンに近いものだ。上着の上から腰に巻いた革紐に太刀を結び、皮革の靴を用いている。真佐手の装いも同じである。

 市で焼き魚を手に入れ、腹ごしらえを済ませた二人は、横山の館に向かって馬を走らせた。道は竹田川沿いにゆるやかに上ってゆく。来るとき静かだった黒龍の沼の面は鱗のようなさざ波を立ててきらめき、海人(あま)が丸木舟を浮かべて魚を釣っているのがあちこちに見える。

 オオドの一族は出雲から来たという伝承を持つ。北ツ海の海岸伝いに舟で進み、三国の津から内陸に入り、竹田川を遡って住み着いたのが横山の地だったという言い伝えである。一族はオオナムチ(大国主)の神を祀り、横山の館はこんもりと木々に覆われた、祖霊の住む裏山に抱かれている。

 山の南に開けた横山の地は、竹田川の水を利用し古くから稲田造りが進められた。次に開墾はやや南に移り、東部山地の西麓にある女形谷(おながたに)が開かれた。オオドの祖父オハチ王の頃から、開墾はいよいよ黒龍川の北岸と南岸に及び、高向と松岡がその前線となった。

 松岡から黒龍川を渡り高向、そして女形谷へ通じる東の山辺の道は、峠を越えて江沼へ抜けられる基幹道路だ。山道に入る手前で左に折れれば、そこが横山である。

「黒龍川の神はお怒りになるだろうか」

 横山の館が見えてきた頃、馬上からオオドがつぶやいた。

 真佐手は、その難問に応答する言葉をまだ持ち合わせていなかった。

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