第33話
狩宮純夏という少女は、果たしてその心に何を懐いただろうか。その心に確かにあったであろう「空」を埋めるために、何を懐く必要があったのだろうか。——総司には分からない。
ただ一つ確かなのは、彼女は意識を失う直前は
だが、純夏が何に満たされたのかと問われれば——それは分からない。
否、結局のところは何一つ分からない。他人が他人の心を完全に計り知る事など不可能なのだから。
「——さて、待たせたな。ようやく研究班からの報告書が上がってきた」
専用のティーポットで二つのカップに紅茶を注ぎながら、零は普段通りの口調でそう言った。総司は黙ってそれを受け取り、一口だけ飲み込む。
気を失った純夏を背負って、総司が特務局に戻ってからすでに二時間が経過していた。昨日には厚い雲に覆われ雨を降らせ続けていた空も、もう白み始めた頃合いである。零は相変わらず薄笑いの鉄面皮を貼り付けているが、総司の方はいい加減、眠気も限界に来ていた。
「報告書って、調べられたのか?あいつの身体を」
「ああ、大人しいものだったらしい。例の『外殻』とやらも周囲の人間を攻撃する事はなく、検査はスムーズに済んだそうだ」
言いながら零は、手元の書類に目を落とした。
「彼女の人間としての生命はすでに死んでいて、そこに覆い被さった新しい"モノ"が代替の生命活動を行なっている。いわば、内側から人工呼吸と心臓マッサージを受け続けている状態だな」
「でも、生きてはいるんだろ?」
「あくまで生物的にはな。だが昏睡状態だ。何よりその肉体の性質を、果たして生きた人間と呼んで良いものか」
その言い振りはさも部下を想うかのように憂鬱なものだったが、実際のところ総司には、零が純夏に心配など向けていないように思えた。彼の表情や口調は、一人の少女を真っ当に案じているにしてはあまりに
「しかし上の連中は面食らうだろうな。人の手には余ると放置してきたシステムが、ここに来て人の力でどうにか出来る可能性が示唆された。連中がどんな顔で狼狽えるか楽しみだ」
その不謹慎極まりない物言いには、総司も流石に眉を顰めた。
「……もう少し心配そうな面をしたらどうなんだ。関わりはほとんど無かったとはいえ、狩宮はアンタの部下でもあるんだぞ」
「違うな。少し認識を間違っているぞ、総司」
零はつまらないミスをした教え子を諭す教師のように、穏やかかつ淡々とした口調で続ける。
「私はこの場所の長だ。そして特務局はこの国で唯一システムと戦う力を持つ場所。それがどれほどか細い力でもな」
「……それが狩宮と何の関係がある?」
「私の役目は部下の心配ではないという事だ。良いか、私が行く末を案じなければならないのは
零は当たり前だと言わんばかりに、微塵も表情を動かさずに言う。
「この国の為ならば——子供一人、危険分子として処理することを躊躇う必要は無い」
「ッ——、それは!それじゃ、やってる事がシステムと同じだ!」
総司は身を乗り出して声を張り上げた。
国という大きなモノのために、狩宮純夏という個人を切り捨てる。それは多数のために少数を切り捨て続けるSFSと同じ事だ。
しかし零は、事もなさげにかぶりを振った。
「また間違っているぞ、総司。いいか、我々がシステムと同じなのでは無い。システムが我々と同じなんだ」
「……何?」
「多数のため少数を切り捨てる。量的功利主義、多数決の原理。結構な事だ。どれも人類が進歩する過程で生み出し、酷使してきた素晴らしい概念だ。システムはそれらを模倣しているに過ぎない。多くのために一部の死を求めているのは、我々人間なんだよ」
零の口調は、いつの間にか普段より幾分重いものになっていた。それに押されて総司はぐ、と押し黙る。
何より彼の言っていることは、どうしようもなく正論だった。総司も子供では無い。本質的に犠牲が求められるこの世界の性質については、十分理解していた。
「……じゃあ、システムは正しいってのか」
「?正しいはずが無かろう。功利主義はあくまで、感情のある人間が決断を下すからこそ意味を持ち正義たり得るものだ。どこからか現れる化け物のやることじゃない」
だから私はここで局長などやっているんだが、と零は首を傾げる。それもまた正論であり、だからこそ総司は、歯噛みせずにはいられなかった。
純夏が雨の中で話した、幼稚園でのヘイデンの行動を零は知らない。話を聞いた総司も、どう理解すれば良いのか分からなかった事だ。報告も出来ず、当の本人が昏睡している今では、一連の事情を知っているのは純夏と総司の二人だけだ。
だが、その話を信じるならば——ヘイデンは涙を流し、何人もの子供を殺しながら、その口からは悔恨の言葉を残したという。
であればそれは、
「ふむ、少し話が逸れたな」
言いながら零は、机の上のカップを仰いで紅茶を飲み干した。
「とはいえ、まるで無関係という訳でもない。狩宮純夏をどう扱うか、という話だが」
「……ああ。そう、その話だった。大事なのは」
今は考えるだけ無駄な事であると割り切って、総司は先の思考をとりあえず横に置いた。
「あいつは、これからどうなる?」
「局の中では意見が割れている。きちんと保全し調べるべきだという意見と、危険だから殺せという意見。優勢なのは今のところ後者だな」
零の言うところによれば、局内ではあくまで「生かすべき」との意見が大部分だという。何しろ特務局を占める人員の多くは好奇心の塊のような研究員である。倫理的観点からの意見でないのは若干心許ないが、この際贅沢は言っていられない。
「問題は局外——国のお偉方だ。この時間だからまだ数人にしか報告は行っていないが、流石は責任あるお立場、皆が慎重な意見を出してくる」
「でも、数人なんだろ?」
「一介の研究員と国の重鎮の意見が同じ重さの訳が無いだろう。後者が優勢、というのはそういう意味だ」
「アンタはどうなんだ」
「私は考え中だ」
ほくそ笑むようにして零は答えた。やっぱりか、と総司は嘆息する。
今の一連の会話は雑談なのだ。純夏がこの後どうなるかという問題は、研究員や国の役人の意見などではなく、あくまでこの男の手の上にある。どのような利害や権威も、彼が"そうすべき"と決めた事は覆せない。零はそういう男だった。それは組織の長としてはともかく、指導者には必要な性質である。
つまり純夏の処遇は、この場においての説得に掛かっている。
「そもそもこの局の独断で、人一人を殺す事は出来ないはずだ。日本は法治国家だぞ。あいつには生きる権利がある」
「違うな。特務局はSFSという対応も予測も出来ない災害に直接関わる場所だ。緊急時には申請によって超法規的行動が許可される」
ルールは純夏が死ぬ事を認めている、という事だ。その理不尽さには沸々と怒りが湧いてくるが、そうは言っても定められたルールを切り崩す事は出来ない。正攻法で説得する事を総司は諦めた。
「……あいつが死ななきゃならない理由は無い。もう誰に危害を加えることも無い」
「害がないというだけで容認できるほどアレは安穏な存在ではない。"第三の事件"——成田虐殺の際に、狩宮純夏と同じような症例が報告されている」
何だって、という言葉を総司は口に出す寸前で呑み込んだ。
成田虐殺。空港建設に反対した住民が残らず殺された、SFSによって引き起こされた悲劇の中でも飛び抜けて規模の大きな事件だ。そこに出現した執行人は百体を下らず、中には数体のママルも居たと思われる。
そんな状況の中であれば、純夏のように偶然ママルの血を体内に取り込んでしまった者がいてもおかしくは無い。
「とりあえずは『被害者』と呼ぼうか。反対住民の一人だった"彼"は、あの虐殺事件の翌日に変貌した姿で発見された。皮膚が凝り固まり、そこから突出した棘が伸縮自在に他人を攻撃し続けていたらしい」
「それは……つまり?」
「狩宮純夏と同じ症状だ。——否、それよりなお酷い。記録が正しいならば、"彼"は発症した時点で呼吸も脈拍も止まり、その後二日で死亡したそうだからな」
零は手元のファイルから一枚の資料を取り出し、目を落とす。
「この症状を発症した者は、死に絶えた被害者の肉体に代わって例の『外殻』が生命活動を行うようになるらしい。彼はそれが上手くいかなかったのだろう」
「じゃあ狩宮は?あいつも死ぬのか?」
「狩宮純夏のバイタルはすでに安定している。彼女がすぐに死ぬことは無いと仮定しよう。……だがな、総司。執行人の血を体内に取り込んだ人間は、その身体を
科学的検証はまだだがな、と零は注釈を入れた。つまり彼が話している内容には、まだ確証が無いのだ。しかし今は、「もしも」という考え方をしなければ話が進まないのも事実だった。
「その変貌したモノを執行人であると位置付けるならば、狩宮純夏もまた、今は執行人であるということだ」
「つまり——」
総司はその先に続く言葉を、零に先んじて口にした。それは薄々と予感していながらも、決して認めたく無い事実でもあった。——純夏がもう、人間では無いのかもしれないという事は。
「——あいつの血でも、人が執行人になる可能性があるってことか」
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