第32話

「慢心したな」

 ——しかし同時に、せせら笑うようなファニー・ジョーの声を聞いていた。

 確かに純夏の剣は敵の肉を貫いている。しかしそれは頭部ではなく、こちらに突き出された左腕の事だった。思わぬ障害が間に入ったことで攻撃の軌道は逸れ、結果、相手の急所を破壊することは叶わなかったのだ。

「油断に油断を重ねた俺が言うのも何だがな、油断大敵だぞ」

「——ッ!」

 飄々と、軽々と、道化師は嘲笑う。さもありなん、この防御によって純夏は一気に劣勢に立たされていた。

 串刺しとなった左の手のひらは、まだ力を失ってはいなかった。どころか五本の指は、突き刺さった刃をガッチリと掴んで離さない。引けども押せども、純夏の「右腕」は完全にファニー・ジョーに捕らえられていた。

 それでもなお抵抗する純夏だが、純粋な力比べでは勝ち目が無いのは明白だった。彼女が足掻けば足掻くほどに道化師の握力は強まっていき、終いにはその圧力に耐えかねた剣先に亀裂が入っていく。

 そして——次の瞬間、純夏は途方も無い力で宙に投げ出されていた。

「——!?」

 唐突な浮遊感に瞠目したのも束の間、その身体が廃工場のコンクリート壁へと叩きつけられる。鎧の防備が及んでいない背中からである。衝撃は背骨から脊椎、脊椎から脳へと伝わり、純夏は堪らず咳き込んだ。

 しかし、この至近距離で隙を見せる訳にはいかなかった。

 僅か一歩分もの間隔も存在しない間合いにいるのは、あの怪物ファニー・ジョーだ。あまつさえ今の純夏は、右腕を掴まれ逃げる事が出来ない。

 ならばすることは一つ。この化け物が唯一攻撃に使える左手が別の用途に使われている間に、反撃を講じること。——そう了解して、純夏は背中から伝わる痛みも異物を飲んだような呼吸の違和感も無視し、全神経を集中させて地に足をつけ、体勢を立て直す。

 ほぼ一瞬の早業で鎧から剣へと変異した外殻を携え、左腕をファニー・ジョーへと突きつける。この土壇場の反撃で急所に狙いをつける事など出来ようはずも無いが、切っ先は辛うじて敵の胴体へと向かっていた。

 このまま腹を貫けば、あるいは——そんな淡い希望はしかし、またも打ち砕かれる。

 左腕の剣は軌道を逸らされ、そのまま横のコンクリート壁に直撃していた。

 いつの間に純夏の右腕から離れていたのか——ファニー・ジョーの左手は流れるような動作で、純夏の剣を受け流していた。その刃の部分には触れる事なく、刀身のみを叩いて軌道を逸らすという神業である。

「ッ——!」

 振り切った剣の勢いを無理矢理に力で殺し、純夏はすぐさま次の手を叩き込む。——が、結果は同じだった。道化の執行人はいとも容易く、今度はやや下の方向へと刃を受け流してしまう。

 それでもなお純夏は全力で左腕を振り返し、しかしファニー・ジョーは幾度でも受け流し無効化する。その繰り返しはあっという間に二十を超え、もはや戦いは泥仕合の様相を呈していた。

 それでもなお応酬は続くが——これが長引いて不利になるのは、確実に純夏の方だった。

 純夏は受け流された剣を攻撃の軌道に戻す時、振りかぶった左腕の勢いを殺すだけでも相当の体力を消耗する。増して今の彼女は、本来の身体に別のモノが覆い被さり、連動して動いている状態だ。消耗は常態の数倍にも及んでいる。持久力というのは、彼女が絶対に勝負してはいけないカテゴリーと言える。

 一方でファニー・ジョーは、そもそも疲労という概念があるのかも分からない執行人である。現に彼の防御の手は緩む様子も一切ない。

 この乱撃の場から脱出しようにも——苛烈な攻撃の応酬の中では、もはや一分の失敗さえも許されなくなっている。後ろへ退がろうとほんの一瞬動きを止めれば、その隙は決定的な命取りとなり、純夏を食い潰すだろう。

 腕を振り、刃を攻撃のベクトルへと降り戻す都度、純夏の身体には疲労が激痛へと姿を変えて蓄積していく。痛みはとうに許容できる領域を超えて軋み続けていた。数秒も経たないうちに限界は精神的な範疇を飛び越え、その性質を別のモノに変えていた。――すなわち、「物理的に限界」という領域へと。

 ぱきりと、氷が砕けるような音がした。酷使され続けた左腕の刃が、いよいよ蓄積したダメージに耐え兼ね、表面から崩壊を始めている。このままではあと数撃と持たずに砕け散るだろう――そう心に僅かな諦観の色が滲んだ、その時。

「おい」

 その声はファニー・ジョーだけでなく、純夏にとってもまったくの不意打ちだった。

 声は執行人の背後からだった。純夏の視界は霞んでいて、その姿を正確に見て取ることはできない。だがよく聞き慣れた声だった。非常に攻撃的で、そして真っ直ぐな感情の”色”が乗った声。

 何事かと振り向いたファニー・ジョーが目にしたのは、彼自身に向けておよそ二十センチほどのコンクリート片が振り下ろされるところだった。

 小さな肌色の手に握られたそれは、道化師の頬に鈍い音を立てて直撃する。

 とはいえ「小さな」というのはあくまで殴打された側の頬と比較した印象で、外殻の内にある矮小な純夏の身体からすれば、それ十分に大きく頼もしく、そして愛おしい手だった。

「——お前!」

 叩き付けられた衝撃でほんの少しだけ顔の形を歪ませたファニー・ジョーは、しかし大した苦も無さげに、自らの背後に立つ人物——総司の顔を睨んだ。憎しみでも怒りでもなく、ただ楽しい遊びの邪魔をされたという子供じみた癇癪だけが、その眼差しに籠るモノだった。

 その安い感情のまま、ファニー・ジョーは左の拳を振るう。人外の速さで放たれた裏拳は真っ直ぐに総司の顔面へと吸い込まれていき——そこではたと、執行人は自らの過ちに気付く。

 つい今まで、この左手は別の用途に使っていたこと。その「用事」は、もうほんの一瞬で決着がつこうとしていたこと。それであっても、状況は未だ気を抜くことは許されないモノだったこと——つまり。

 この場で左腕を後ろに動した今、何が純夏の剣を阻むのか?

「ぐっ——ぅ、が!」

 ファニー・ジョーの口から声にならない呻きが、次いで赤黒い血が吐き出される。

 その胴には今、大きな孔が空いていた。純夏が最後の余力を出し尽くして突き出した剣は今度こそ、敵を貫いたのである。

 刃は執行人の血を吸うと共に、根元から折れていた。その耐久力に限界が来たのだ。純夏の外殻のうち、左腕を覆っていた部分に大きく亀裂が入る。

「ッ——ぐ——あ」

 掴み捕らえられていた純夏の右腕はいつの間にか解放されている。

 その胴体に巨大な異物を残す結果となったファニー・ジョーは、無事な片脚のみを使って擦るように数歩動いた後、仰向けに上半身を倒した。さらにその場でもがくように手足何度か動かすが、少ししてようやく自らの敗北という現実を悟ったのか、動きを止めた。

 そのまま最後と言わんばかりに、その口を大きく開けると、

「お——あああああああああああああッ——!!!」

 ——おぞましい、まるで聞く者すべてに呪いを植え付けんばかりの断末魔を残す。何より恐ろしいのは、その叫びが孕んでいた唯一の感情が、憎悪でも怨嗟でもなく、歓喜としか思えないことだった。

 その身体の周囲に稲妻が迸り、彼の身体を包んでいく。

 そして——最後までその顔に引き攣るような笑いを貼り付けて、ファニー・ジョーは次の瞬間、この世から消え失せた。

「——、勝った——?」

 後に残った静謐の空間を、絞り出すような総司の声が搔き消す。

 執行人——ママルは消えた。傷を負い、明らかに「無事」とは言い難い身体になってこの世界から消滅した。

 執行人についてはまだ謎が多い。あれがファニー・ジョーにとっての「死」でなく、土壇場の「逃走」でしか無かった可能性も十分に考えられる。——しかしそれでも、その逃走は「敗走」だ。ならばこの場に残された二人が噛みしめるこの結果を、「勝利」と呼ばずしてなんと呼ぶのか。

 ママルに対する、人の勝利。——しかしその史上初の快挙に歓喜し笑う人間は、この場にはいなかった。

「総司くん」

 ファニー・ジョーが消えて、二人は向かい合うような形になっていた。総司は執行人が消えた場所を見ていたが、純夏に名前を呼ばれて、視線を彼女の顔に戻す。

 見ればその表情は穏やかで、微かな笑顔の兆しがあった。

「——ありがとう」

 そう言って純夏は破顔し——直後、糸が切れたようにその身体が、ふらりと前のめりに傾いた。

 口で何か言うより先に、総司は彼女の方へ駆け寄り、その身体を受け止めていた。そこに体重を実感し、僅かな人肌の温もりを認める。

 同時に——氷の割れる音がして、彼女を包む外殻が一斉に砕け散った。

「狩宮——」

 思わず名前を呼びながら、総司はその小さな身体を見下ろした。

 砕けた外殻の下の皮膚は未だ黒っぽく、血管のような赤筋も消えてはいない。全てから解放されたという訳では無いらしい。——だが同時に、その肌から伝わる僅かな温もりは、彼女の無事を物語っていた。

 その口元から、呑気にも思える寝息が聞こえてくる。雨に濡れた彼女の身体を、総司はほんの少し力を入れて抱きしめた。

 純夏は総司が差し出した手に対して、まだ回答を返していない。

 だが、事実はそれを補って十分なモノだった。純夏は総司を殺すために現れた執行人と戦い、そして勝った。言葉では無く行動による、疑いようの無い「答え」である。

 この町に降り続いていたはずの雨は、いつの間にか止んでいた。

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