第30話

 ——今まで居たはずの位置から、彼が消えていることに気付く。

 否、消えたのは総司だけではない。彼を掴んでいた純夏の触手までもが、先端から約一メートルほどの部位を喪失していた。肉体同士で結合していながらも、どうやら外殻の部分には痛覚が通じていないらしく、実際に目で見るまで気付かなかった。

「ぐっ……!」

 その空中から下にややズレた位置で、咳き込むような声が聞こえる。

 見ると総司がそこにいた。首に絡みついた触手と共に落下していたのだ。——だが彼は地面ではなく、未だ空中に留まっていた。

 細胞群から解放されたはずの首に、五本の白い指がガッチリと絡み付いている。

 純夏も総司も、がこの場に侵入していたことに全く気付かなかった。だが予兆は確かにあったのだ。ただその兆しが、雨の中で幾度となく鳴り響いていた雷鳴の中に紛れていたため、二人は気付けなかっただけのこと。

「見たところ修羅場クライマックスだな。邪魔立てするのは忍びないが——恨んでくれるな、これもまた運命よ」

 そこに立っていたのは"ママル"——ファニー・ジョーだった。

 このたった数日の間に何度も二人の前に現れ、事あるごとに彼らの周囲に居る人間を殺していった道化の怪物。彼の太い指が今まさに、その首を絞めている。純夏が先ほどまでそうしていたように、執行人は今、その右腕一本で総司を持ち上げていた。

「——しかし」

 訝しげに首を傾げながら、ファニー・ジョーは左手に持ったものを眺める。

 そこに握られていたのは、純夏の身体から伸びた異形の触手の切れ端だった。切断面の形状を見るに、どうやら力づくで捩じ切られたらしい。あれでまだ生きているのか、触手は力なく跳ねていた。

「まるでタコやイカだな。こりゃ一体何だ?」

 言いながらファニー・ジョーはその触手を、嫌がらせをするように持ち上げた総司の顔に近づける。

「俺の故郷の海にはレッドデビルって化け物イカがいてな。何人もの漁師が海底に引きずり込まれたもんだが……しかしニホンジンは、ああいうの食うんだろ?美味いのか?」

「はな、せ……!」

「まあ待てよ、こうでもせんとお前、俺の話を聞かないだろ。純粋に意見を聞きたいんだ、これ、、は一体何だと思う?」

 総司は拘束から逃れようと身を捩りもがくが、ママルの腕力を人の力で振りほどくことは不可能に近い試みだった。冷たい指はがっちりと、絞められた総司が動けずとも意識は遠のかないという絶妙な力加減で固定されていた。

俺たちの血、、、、、が人の体に入った結果か。ふん、こんなことが起こるとはな。まったく正体不明、『危険な芽』という訳だが——だからこそ不思議だ。なぜ俺は、そこの嬢ちゃんじゃなくお前の方を殺せと命じられたんだろうな?」

 執行人であるにも関わらず、相変わらずファニー・ジョーはよく喋る男だった。

 その口から出る飄々とした言葉のほとんどは、聞くに値しない妄言だ。しかし純夏は、その中に聞き捨てならない内容が混ざっていたことに、耳聡く気付いた。

 "嬢ちゃんじゃなくお前の方を殺せと命じられた"——。言うまでもなく、この場において前者は純夏を、後者は総司を指す代名詞である。

 そしてこの道化師が執行人である以上、彼は誰かを殺すために現れている。それが意味するところは——総司こそが、此度の「淘汰対象」であるという事だ。

 混濁する頭で純夏がそう結論付けたその時、ファニー・ジョーはまるでその仮定を肯定するかのように、総司を掴んだ右手を掲げ上げる。

 それは彼の、殺人の予備動作に他ならなかった。高倉を痛め付け殺した時のように、あるいは子供を潰し殺した時のように、今度は総司の頭が割れたザクロのようにされる。——明瞭に予測できる未来だ。

「お前とるのも楽しみだったんだがな——残念だ」

 そう口にした執行人が、総司の頭を地面に叩きつけようと振りかぶった瞬間——もはや純夏の思考から、雑音は消えていた。クリアになった脳は、網膜に映る情報を正確に把握する。

 刹那——ファニー・ジョーの右腕が、空中で停止する。

「——あぁ?」

 その白い腕は、黒い触手に掴み捕らえられていた。反射的に力の抜けた手のひらから総司の首が解放され、その身体はアスファルトの上に崩れ落ちた。

 触手は純夏の身体を覆う外殻から伸びていた。その長さは目算で五メートルほど。総司の首元を持ち上げていた時のように不出来な粘土細工のような形状はしていない。そのカタチには、ぴんとしなやかに伸びた腕のような力強さが漲っていた。

 そして次の瞬間に、触手が捕らえた右腕の内側から鈍い破壊音が響く。

「ぬ!?」

 驚嘆の声と同時に、ファニー・ジョーは力づくで拘束を振りほどき、後方へ飛び退いた。そうして純夏から十メートルほど離れた地点に着地すると、たった今束縛から解放された右腕をまじまじと眺める。

 ——潰れている。出血はなく、その形だけが絞られた雑巾のように捻り折られている。執行人、それもママルの肉体をこんな風に破壊するならば、少なくとも熊の顎の力より強いプレス機が必要になるだろう。

「おまえ——何だ、、?」

 苦痛に顔を歪めることもせず、ファニー・ジョーはただ冷たい声音で誰何した。

 この右腕を潰したのは、間違いなく純夏から伸びる触手だ。その性質が執行人の肉体に比類するものであることも、これまでの経緯から間違い無い。

 しかし——それがママルの肉体に匹敵するほどの力を有し、さらには純夏の意思に完全に従属しているというのは、完全に予想外だった。

「——今なら分かる。これは、私の心」

 右肩から伸びていた触手が、彼女の元へ戻っていく。質量保存の法則を明らかに無視した動きで収縮し、限界まで引き出されたメジャーのように元ある場所へ戻っていき、終いには、それは純夏の身体に完全に収納された。

 その外殻が、純夏とは別のはずの存在が、果たして問うてくる。——お前の心は何を望む、と。

「——あいつと、戦えるだけの力が欲しい」

 ——そして、純夏の肉体を覆う外殻が再び形を変える。

 統制が取れず、半ば暴走気味にその体積を肥大化させていた細胞群は、いま無駄のない形状に変化していた。

 宿主の身体の外側に逸脱していた余剰部分は、パキパキと音を立てながら四つに分れ、螺旋を巻いていく。不安定だった細胞が、目に見えて分かるほどにその性質を、硬質で柔軟なものに変えていく。

 四つの螺旋はそれぞれ純夏の四肢を、まるで鎧のように包む。

 さらには首元の硬い表皮が変質し、彼女の口元を覆い、天然のマスクを作っていく。

「——私の友達を守れるだけの、力を——」

 ——そうして、純夏は完成した。

 形が正常か異常かと問うならば、それは神々しいまでに異常である。純夏というか弱い少女の身体を基体としながら、首や手脚は均一に硬い鎧で守られている。それは狂的なまでに鋭く洗練されたフォルムだった。

 そのシルエットは、どこまでも"人"である。しかしその容姿は、どこまでも"怪物"だった。——つまりヘイデンやファニー・ジョーなどの、ママルと同じ。

「——あいつに勝てるだけの力を——!」

 その身に宿るのは、苛烈なる闘志。

 その瞳に宿るのは、鮮烈なる希望。

 がらんどうの純夏の心を埋めてくれるだろう、「友」を守る——ともすれば彼女が生まれて初めて懐いた、強い願い。その願いの前には、相手が人かもしれない、、、、、、、などという葛藤は無いに等しい。——そう、人間とは、元来どこまでも自分勝手な生き物なのだから。

 だからこそ私は、私のために戦う。私を肯定してくれる、友を失わないために戦う。

 その強固な意思は、彼女を包む異形を動かし、いま結実した。

 魂が躍動する。満たされる予感に、自らが歓喜しているのが分かる。

 その目は今、きりと「敵」を見定め——ここに戦いの火蓋が切って落とされた。

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