第29話

 ——そして、今。

 雨音は鳴り止まず、純夏の全身を包んでいる。あの時と違うのは、それが直接に彼女の身体を濡らしていることと、目の前に総司がいることだった。

「私は——もう、彼らを憎めない。そう思い込んでしまった。だからもう、ダメなの」

 総司は言った。彼と同じく、純夏の心もまた空っぽなのだと。

 そのこと自体はなるほど、納得に値する話だ。今までの行動の理由は、自分が失った何かを埋めるためだったのかもしれない。

 だがだとすれば——否、だからこそ、もはや「駄目」なのだ。

 憎む理由すらない者を相手に戦っても、もう意味が無い。それで仮に心の孔を埋められたとしても、今度は終わりのない葛藤を抱えることになるだろう。それでは結局、思い悩む事に終わりは来ない。

 それに——元より、こんな風、、、、になった自分に今さら、人間社会に居場所があるとも、やはり純夏には思えなかった。

 だからこそ、彼女は切に願う。目の前から、総司が消えて欲しいと。

 神村総司という存在はもう——かつては欲しながらも、今の純夏には二度と得ることの出来ないモノでしかなかった。

「私は——あなたとは、友達になれると思ってた。でも……」

 それが純夏の、偽らざる本心だった。

 心の空白を埋めるために、そして何より、彼女の中に僅かに残った健常な少女としての精神が求めて止まなかった、「友」という響き。総司と、あるいはそうなれたのかも知れない。だがもうそれは叶わないのだ。

 目の前に立つ少年は、まさに純夏が取りこぼした、、、、、、ものだった。必死で求めたというのに、不意に降りかかった「不幸な事故」によって手にするチャンスを二度と失ったモノ。

 それを今更目の前に見せつけられても、もはや悔恨に苦しめられるだけだ。眼前に総司が立っているという一点において、純夏の心は痛み続ける。だからこそ——自分など捨て置いて、早くここから去って欲しい。

「総司くんは……彼らと戦うんでしょう?憎くなくても、正しくなくても、それでも戦うつもりで……!」

「それが、悪だって言うのか?」

「違う!何も悪いことなんて無い!ただ私がもう、そうなれない、、、、、、っていうだけなの!」

 訴えは、嗚咽に変わりつつあった。惜しみ悔やむ心を自らの奥の奥へ押し留め、ひたすらに拒絶を続ける。自身のためだけでは無い——ここで拒まなければ、恐らく自分は、総司を傷付けるだろうから。

「私は彼らを憎めない!あなたとはもう、分かり合えない……!だから——」

 そう叫んだと同時に。

 総司は、一歩こちらへと足を進めた。

 どうして——そう目を見開くより先に、純夏の意思は拒絶を遂行していた。

 地に足をつけていたはずの総司が突如、身体ごと宙に浮かび上がる。その顔は微かに苦悶に歪み、首元には、野太く燻んだ色をした触手が幾重にも重なって絡みついている。それぞれがバラバラに乱れたカタチをしていて、まるで混乱する純夏の内面を象徴しているようだった。

 細胞群の暴走は、純夏にとっても全く制御の出来ないことだった。身体に張り付き、肉体と結びついているモノだが、これは彼女がその意思で統制できるような代物ではない。

 しかし——幼稚園での一件を鑑みる限り、この外殻はあくまで純夏のために動くモノだと思われる。

 あの時、伸びた触手が純夏の右腕や銃を呑み込み新しい体へと補完したように、細胞群は「宿主」である純夏のいわば"味方"と考えるべきだ。例えば彼女の生存本能や、あるいは望みに従って動くモノ。——それが今、こちらへ来ようとした総司を捕らえて離さない。

 その示すところは、純夏の無意識下による決定的な拒絶だ。取りも直さずそれは、総司を拒まなければ」という彼女の奥底の心理が引き起こした暴力だった。

「……お願い」

 総司が完全に宙に固定されたのを確認すると、純夏は改めてそう口にした。

「お願いだから——もう、ここからわたしを消えて消して——」

 彼女の声は、自己嫌悪で塗りつぶされていた。言葉に振られたルビを、聞いただけで理解できるほどに、その声音はあまりにか弱く悲壮だった。

 総司は苦しげに息を吐きながらも、その様を上から見下ろしていた。瞳に映る異形の影。遠近のせいか、彼の瞳にその姿はとても矮小に見えていた。

「——なあ、狩宮……」

 掴まれた首元で全体重を支えられているにしては、総司の声音は実にはっきりとしたものだった。

「俺はな、お前と分かり合えてるなんて、一度も思ったことは無い。これからそうなれそうだとも思ってないし、そうなりたいと思ったことも無かった」

 総司は淡々と事実を羅列する。しかしその内容に反して、声の調子はどこまでも穏やかで、語りかける相手を慈しむような慎重さに満ちていた。

「でもさ——俺はお前のこと、友達だと思ってたよ」

「————」

 息を呑むような一瞬の間が、純夏が発する気配に混る。

 果たして彼女は、総司の言っていることを理解しているだろうか——正味、彼には自信がない。二人の間にあるのは、確たる認識の相違だ。それを乗り越えて彼の言葉を解せるほどの理性が、今の純夏に残っているかは疑問だった。

 だからこそ、いま総司に出来るのは——友のために、信じることのみ。

「お前さ、高望みが過ぎるよ。人ってのは元々、他人と分かり合えるように出来てはいないんだ。そんなのは理想だし、理想ってのは現実に存在したら気持ち悪いから理想なんだろ」

 こればかりはベネッドや零からの受け売りではない。総司が十二年の間、心の空を埋める過程で見出した、彼自身の人生観だ。

 いま純夏を揺らがせるだけのものがあるとすれば、それは人としての言葉だ。他者は他者、決して理解出来ない不確かな関係同士であるからこそ、人類は言葉という不確かなモノを架け橋として用いてきた。

 そして今、純夏は涙を流し他者を想う「人」の部分を確かに持ち合わせている。ならばこそ、言葉によって戻す、、ことが出来るのもまた道理だ。だからこそ総司はそれを紡ぐ。

「人間関係は妥協だろ。分かり合えなくても、より良い関係ってのはある。……俺はそう思う。それに、だからこそ他人のために行動するって行為は、尊いんだろ?」

「………」

 すぅ、と。

 その目から拒絶の色が薄れたのを、総司は見逃さなかった。その「隙」を逃さぬよう、ここぞとばかりに畳み掛ける。

「どうして、って訊いたな。——愚問だぞ、それ。友達が苦しんでるんだから、助けたいと思うのが当然だろ」

 ここに来て、その口から出たのは言葉にするのも憚られるほど薄っぺらい一般論だった。事実、口にした総司もどこか恥じるように気まずげな表情を浮かべている。

 だが——それによって、ふと思うこともあった。

 純夏はきっと、性根が捻じ曲がっている。たとえ異常でない環境で育ったところで、自分はクラスメイトともろくに言葉を交わせない人間になっていただろうと、彼女にはそんな確信があった。

 しかし総司は——あれでおそらく、根の真っ直ぐな人間なのだろう。

 システムや執行人とも関わらず、家族と共に育ったならば、きっと彼は素直で優しい人間になっていた。そう思えるほど総司がいま放った言葉には、偽りを感じさせない愚直さが滲み出ていた。

 彼は多分、輝くべき人間だった。元来、人の輪の中で笑っていられる人間だった。下劣で卑小な自分とは違う。

 仮に——そんな総司のために、こんな自分が生きられるのなら。

 それは、どれだけ素晴らしい事だろうか。どれだけ意味のある事だろうか。その"意味"は、空の心にどれだけのモノをもたらすだろうか。

 何も分からない。ただ一つ確かなのは、こうして身を苛む苦しみの元凶が、自らの内面に巣食う空虚だという事だ。ならば、総司のような人間がその苦しみを理解し共に居てくれるだけでも——純夏は幾らか、救われる。

 彼女は切に願った。そう在りたい、と。

「私は——そこ、、に居て、良いの?」

 だから問う。拒絶によってではなく、疑念によってではなく、ただ純粋な答えを求めて。

「私は——あなたの隣で、生きて良いの?」

 その瞳に映る像は、滲んでよく認識出来ない。宙に持ち上げられた総司が今どんな顔をしているのか、見ることが出来ない。

 純夏は左手を動かして、目元を拭った。そうして再び前を見て、

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る