第28話

「奴らを憎めない?どういう意味だ?お前、一体何を……」

 何を言っている。そう訊こうとして、総司は思い出した。

 彼女は昼間、あの幼稚園で二体ものママルに遭遇している。その上でヘイデンは頭部を負傷し、血を流し、そして純夏は異形の存在へと変貌した。つまりそこで何か、、があり、——あるいは純夏は、何か、、を知ったのかもしれない。

「——何を、見たんだ?」

 そう、いま彼女に尋ねるべきことがあるならばそれだ。純夏は何故、あのような姿になったのか——考えてみれば当然だが、その根本の原因を彼女自身は把握しているのだった。

あの人、、、の、素顔」

 純夏は答えた。それは今まで彼女が発音したどの言葉よりも、悲痛に満ちていた。



 幼稚園の悲劇。その顛末は、凄まじい落雷から始まった。

 純夏が真知子との会話を終えたその時のことだ。ちょうど降り始めた雨の音と共に、遠雷というにはあまりに巨大すぎる爆音が幼稚園の玄関から響いた。突然の豪雨から屋内に避難してきた子供達は一様に驚いて、中には泣き出す者もいた。

「ちょっと様子を見てきますね」

 恐らくは直近に雷が落ちたのだろうと、真知子はそう言って玄関へと向かった。残された純夏は、泣き出してしまった子供をあやそうと努力していた。——部屋の外から、呻くような真知子の悲鳴が聞こえるまでは。

「な——」

 何がと問う暇もなく、悲鳴に反応して咄嗟に立ち上がっていた純夏は、次の瞬間に後ろへ倒れ込んだ。前方の障子を突き破り、真知子が部屋に投げ込まれた、、、、、、からだ。それを身体で受け止めた、というよりはなす術もなく衝突された形だった。

「ま、真知子さん……!大丈夫ですか?」

 倒れた時に打った後頭部の痛みに耐えながらも、純夏は安否を問うた。

 幸いにも、尋ねるまでもなく彼女は無事なようだった。目立った外傷も無く、意識もはっきりとしている。

 だが真知子は、はいともいいえとも言わずに、「逃げて」と訴えた。

 その様子は痛切で、とても冗談とは思えない。純夏はどういうことかと訊こうとして——もうそれまでだった。

 部屋に、二人組が侵入する。どちらも執行人で、その上どちらにも見覚えがあった。

 片方は二週間前の夜、純夏に絡んだチンピラを斬殺したサイボーグ——"ヘイデン"。

 片方はつい先日、学校に出現し高倉を殴り殺した狂気の道化——"ファニー・ジョー"。

 どちらもがママルであり、掛け値無しの怪物だった。彼らの出現により平和の虚像は消失し、現実に地獄が顕現する。

 ——子供が殺される。

 九人いるうち、まず二人がヘイデンの刀で斬り殺された。うち一方は身体をほとんど真っ二つにされ、部屋中に血が飛び散る。

 錯乱した子供の一人が、逃げようと部屋の出口へと駆け込む。ファニー・ジョーが目にも留まらぬ速さでそれに追いつき、頭を鷲掴みにして捕らえる。子供の顔を壁に叩きつけ、果実でも圧搾するように潰して殺した。

「面倒だな」

 飄々とした、しかしどこか重みを感じさせる口調でそう言いながら、ファニー・ジョーはその拳を板張りの天井へと叩き込む。ちょうど部屋の出口の直上に位置していた部分がたちまち瓦解し、崩落した残骸が入り口を塞ぐ。

 玄関へ向かう扉はこれで、小さな子供が短い時間で通り抜けるのが不可能になった。

 そして——殺戮は続く。

 ヘイデンは一言も喋らずに、ファニー・ジョーは場にそぐわない軽い口調で他愛ない言葉を吐き続けながら。

 どうやら彼らは役割分担をしてるらしかった。基本的にはヘイデンが刀を振るい、子供らを切り裂いていく。縁側から逃げそうになった子供はファニー・ジョーに捕らえられ、確実に息の根を止めていた。

 止め処なく撒き散らされる鮮血の中、純夏は魂が抜けたように座り込んでいた。

 二体ものママルがたかが子供九人を殺す時間だ。実際には数十秒程度しかなかったのだろうが、純夏には無限にも感じられた。

 何も出来ない。何一つ、出来ることがない。

 いま目の前で消えていく幼子の命を前には、懐けるのは絶望すら通り越した諦観のみだった。

 何故か二体の執行人は子供達だけを標的とし、純夏や真知子には目をくれる様子もない。足がすくんで動くこともままならないが、恐らくは逃げずとも命は助かるだろう。つまりこの場において、純夏は"淘汰対象"ではないのだ。

 阿鼻叫喚の地獄絵図を前に嫌でも思い出されるのは、三日前の光景だ。

 全身が腫れ上がるほどに痛めつけられ、そして命を落とした高倉。これはあの悲劇が、さらに拡大された理不尽だ。SFSというシステムによって"無辜の民"が犠牲にされるという構図の体現。

 ——否。これはその構図ですらない。

 高倉にしろ子供達にしろ、彼らはどこかの他人にとって不都合な存在でさえ無い。この背河内では、理由も分からないままに人が殺される。だからこそこの町には特務局が存在し、そして総司らが戦っているのだ。

 だとすれば——それが何と、無意味なことか。

 こんな化け物たちを相手に、"勝つ"という可能性は微塵も無いのは明白だ。しかし"勝つ"という目的が最初からあり得ないならば、それか意味するところは戦う意義の消失だ。

 国が執行人と戦うことを半ば放棄したのも頷ける。特務局が現実そうであるように、研究に時間を費やす方がよほど有益というものだった。

 ——最後の子供が、壁際へと追い詰められる。彼の目の前に立ち塞がるのはヘイデン。刀を握り込んだ右手を掲げ、その刀身を振り下ろそうというところだった。

「あ——」

 戦いに意味はない。つまり自身が抱える空虚はもう、特務局では埋められない——純夏は無意識下で、そう悟っていた。

 だというのに、いま彼女の右手は、自然と動いていた。

 座り込んだ純夏の傍に転がった、学生鞄。それこそ何の意味もなく持ってきた鞄の中身には、三日前と一つだけ違う点がある。

 学校に執行人が出現し、高倉が殺されたその日の夜。報告を済ませた彼女は、ベネッドから一つの武器を手渡されていた。

『どんな事がいつ起こるか分からないからね。用心のために、持たせる事にした——』

 そう言って、いかにも渋々という体で渡された武器。それはあの日からそのまま、一度も中身を入れ替えていない鞄の中に放置されていた。

 鞄に伸ばした右手の先に触れる、固い感触。絶望にない交ぜにされた頭とは裏腹に、純夏は至極冷静かつ正確な動作でそれを掴んで、気付けば構えていた。

「——やめ、て」

 教わった通りに安全装置を外し、引き金に指を掛ける。訓練用の模造品以外には触れたことも無いはずが、この土壇場でその武器は、純夏の手に驚くほど馴染んでいた。

 冷たい乾燥銃ドライガンの銃口が、ヘイデンの頭部へと狙いをつける。

 この状況で、銃を構えるのは何故なのか。全てに意味がないと悟り、諦めたはずではなかったのか。そんな自問は、指先の絶対的な感覚の前に搔き消える。

 敵を撃つ。絶対にそうしなければならない。でなければ子供が死ぬ。その時は今度こそ、純夏は自分が何もしなかっ、、、、、、、、、たという罪過、、、、、、に耐えられない。

 僅かに迅る動悸は鋭く訴えていた。——撃て、と。

「やめて——!」

 叫びは銃声によって打ち消される。放たれた銃弾は、真っ直ぐにヘイデンの頭部へと吸い込まれていくようだった。

 初め、純夏はそれを錯覚だと思った。

 咄嗟としか言いようのない動機で発砲したものの、実際のところは当たるとは思っていなかった。最初にヘイデンと遭遇した時にも、総司は三発の弾丸を連続して放ち、その全てを避けられていた。

 だからこそ、目の前の——ヘイデンが頭部を負傷、、、、、、、、、、し血を流している、、、、、、、、という光景は、他ならぬ純夏をこそ瞠目させた。

「————ッ」

 ママルと呼ばれる執行人が、声にならない呻きを漏らす。

 負傷の程度からしても、それは決して擦り傷などではなかった。ヘイデンは額の右側を大きく抉られ、その傷口からは大量の血液が噴出している。顔を覆っていた仮面も右側から大きく破損し、もはや堰となるものを無くした赤黒い液体が、畳に滴り落ちていた。

 同時に——ふわりと、燻んだ金髪が舞うのが純夏の瞳に映る。

 弾丸は敵の肉体や仮面だけでなく、彼が頭に被っていたフードをも吹き飛ばしていた。その内側に今まで隠されていた頭髪、、が、当然の結果として露出したのだ。

「————、ぇ」

 だが、純夏の口から溢れた僅かな声音には、一片たりとも喜びや安心といった感情は含まれていなかった。そこにあったのは、ただひたすらの困惑である。

 仮面というものが壊れた以上、その下の素顔は外へ晒される。ヘイデンにもそれはあった。

 風に揺れるブロントの前髪の隙間からは、確かに「顔」が覗いていた。血に濡れてはいるものの、その皮膚は健康的な肌色をしていた。そしてその中央には、静かにこちらを見下ろす瞳があった。

 純夏はその素顔に、一切の怪物性を感じなかった。

 明らかに人外の形をしたレプタイルとも、人間に近い形をしていても異常なほど目を剥いているファニー・ジョーとも違う。その様相は完璧に「人間」だ。人としか表現出来ない顔が、そこにはあった。

「ぐ……」

 ふと純夏の視界が影に覆われる。ヘイデンがやおら体勢を崩し、ほとんど前のめりに跪く寸前で、純夏の背後の壁に手をつき踏み止まっていた。

 自分の顔のすぐ真上に、その素顔があった。滴る血がその額に零れ落ち、すでに取れかけていた絆創膏を洗い流すようにして剥ぎ取った。

 しばし、目と目が合う。

 僅かに充血した白目の中心で、綺麗な群青色をした瞳孔がこちらを見ている。その目にはやはり、自分たち人間と同じような印象しか懐けない。その時だった——純夏の目がふと、彼の目尻から流れる一筋の雫を認めたのは。

 ヘイデンは、その顔を動かさない。彼の表情も瞳も、乾ききっているように見える。流れるのみが何かを主張しているようで、純夏は呼吸をするのさえ忘れていた。

「——すまない、、、、——」

 朦朧とする意識に、その言葉は確かに響いた。

 ともすれば彼女が今まで聞いたどの言葉よりも儚く弱々しい、そんな声だった。

「——あッ!?」

 唐突に体の右側から焼け爛れるような感覚に襲われ、純夏の口から短く喘ぎが漏れる。苦痛という言葉で表現できる限界を超えた痛みがあった。

 見れば、いつの間にか右腕がどこかへ消えている。ヘイデンが銃撃を受けた際、彼が咄嗟の反射行動で払った刀によって切り飛ばされていたのだ。

 あまりに突然の肉体の欠損を意識しながら、しかし純夏は、右肩の切れ端、、、から伝わる壮絶な痛みが薄れつつあるのに気付く。

 というのも純夏の意識は今、頭から来る異常なほどの熱に溶かされていた。

 脈を打つのと同じペースで、熱の波が襲ってくる。純夏は頭が沸騰したかのような感覚を覚え、その思考の安定性を失いつつあった。

「あ——あ、ぐ……!」

 ただ悶えるような声が自然と発せられる。最初は頭だけだったその「熱」は、たちまちに全身へと広がっていた。特に顕著なのは右肩の切断面だ。

 ——そして次の瞬間、変貌は起こった。

 起点たる頭部からそれは開始した。コンマ一秒に満たない間に、純夏の身体を血管のような筋が覆う。それに伴っての事か、全身の皮膚が凍りつくように次々硬質化していく。黒ずんだ鱗のようなそれは右肩の患部に到達し、さらに体積を増大させたかと思うと、途端に傷口を覆い尽くした。

 全てが一瞬の事だった。

 自らの身体が別のもの、、、、に変わったことを本能の部分で確信しながら、純夏は息も絶え絶えに周囲へと目をやる。

 ヘイデンはもう立ち上がっていた。先ほど難を逃れ、悶着の間に玄関へと逃げた最後の子供を追うらしい。ファニー・ジョーがせせら笑うような冗談を口にしながら、それに追従する。

 そんな光景を瞳に焼き付けながら、消えかけの意思が思考を紡いでいく。

 思い出されるのは、ベネッドの言葉だ。ファニー・ジョーを映像で確認した際、彼女は言っていた。『こいつは人間だ』と。

 その言葉の通り、仮にあの道化師が化け物でなく、真っ当ではないだけの、、、、、、、、、、人間だとすれば——あるいはヘイデンもまた、ファニー・ジョーに比べていくらか真っ当な、『人間』なのか?

 泣くという行為自体は別に人間に限った話ではない。だがあの固く死んだような表情は、どう見ても子供らの悼んでいた。自らの手で殺した幼い命を偲び、その手の汚濁に絶望したが故の、あれは涙だ。

 そんなふうに感情で涙を流すことが出来るのは、人間だけだ。動物や、ましてシステムの傀儡として動くだけの「バケモノ」が持ち合わせるはずもない機能だ。

 ならば——執行人とは。

 自らの意思を奪われ、システムの傀儡に変貌した、、、、人間なのか——?

「う——あ、ああああああッ!」

 靄のかかった思考は、今の純夏にとって不快な雑念でしかない。早々に意識を手放した方がよほど救われる状態にまでなっている。

 それでも純夏は、最後まで目だけは動かし続けた。

 まるで蕩けていく純夏の意識に、辛うじて視覚がへばりついているようだった。指一本動かすことも出来ずに座り込み、思考が何か、、に呑み込まれるまでの間、彼女は周囲を観察し続けた。

 変貌した右肩の切り口から触手のようなものが伸び、すぐ傍に転がった純夏の右腕を掴む。すると触手は次の瞬間、口のような形態に変異し、瞬きの間に腕を飲み込んだ。斬り飛ばされる直前に右手で持っていた乾燥銃ドライガンが咀嚼され、雑多な破壊音を奏でる。

 そう——今純夏の身体にへばりついている、この異形こそが何よりの証拠だ。

 突如発生したこれ、、に、意思は無い。否、あったとしても完全に殺されている。他ならぬ純夏自身だから理解できたことだが、この細胞群は彼女の命を繋ぎ止めるために動いていた。たった今取り込んだ右腕と拳銃にしても、分解され、肉体の欠損を補う材料にされている。

 仮にこれが執行人と同じモノだとしても。

 これはもはや、狩宮純夏のためだけに存在する傀儡だ。

 同じようにヘイデンが、ひいては執行人そのものが意思を剥奪され、SFSのためにのみ存在するモノならば——果たして、どうして彼らを憎めようか。

"憎める、わけがない——"

 この悪魔の所業すらシステムに強制されての事ならば、残念なことに純夏には、それでもなお実行犯に過ぎない彼ら執行人を憎み切るだけの恨みなど無かった。

 ならばもう、純夏は彼らを憎めない。

 最後にそんな結論を形にして——狩宮純夏はその時、人間としての生命を完全に失った。鼓膜には、遠くで降りしきる雨音が僅かに反響していた。

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