第27話
結果として、総司が純夏を発見したのは彼が特務局を出て僅か十分ほど後のことだった。
場所は新鞍町の北側、今は放棄された工場地帯の一角。古い工場の錆びついた壁に三方向を囲まれた路地裏、その奥に彼女は蹲っていた。
純夏の居場所を突き止めることは、造作もないことだった。どうやら彼女の身体を包む異形の外殻は絶えず流動的に形を変え続けているようで、その際に剥がれ落ちたらしい細胞の破片が、ヘンゼルの白い石のように道路に転がっていた。それを辿るだけで良かった。
「なあ——もう帰ろう狩宮。傘も持たずに走って来たんだ。お前だってずぶ濡れじゃねえか」
声音は不思議と、繕う必要もなく普段通りだ。総司が目の当たりにしているモノはどう見ても現実の産物では無かったが、それでも彼は、欠片もの動揺を見せずに立っていた。
目の前の
赤黒い"何か"に覆われた身体。絶えず蠢く細胞群は雨に濡れて艶めいていて、まるで丸裸の筋肉が覆い被さっているようだった。
「——う、ぅ……」
呻きながら、ゆっくりと彼女が振り向く。
こちらに向けられた顔までもが、流動する細胞で隠されていた。特に目元には細胞の帯が何本も束になり、グロテスクな目隠しを形作っている。
「帰ろう、狩宮」
言いながら総司は、一歩前へ足を出す。コンクリートに溜まった水が跳ね、するとそれに連動するようにして、純夏の顔を覆っていた外殻が花弁が開くように左右へと反り返る。
そうして外気に触れた彼女の顔も、黒ずんだ皮膚に何本もの赤筋が入ったおよそ人間離れした様相だった。——が、そこに「表情」があるのを総司は見逃さなかった。
正常に光が映っているかも分からないほど虚ろな瞳の端から、やおら一筋の雫が流れ落ちる。それは彼女に人並みの痛みと、痛みを苦痛として訴える「人の脆さ」が残っている何よりの証拠だ。
「——ど」
その口を開けて、純夏は言葉を発した。
「
「
彼女の声は思いのほかはっきりとしていた。さして震えることすらない、ただ低く澱んだだけの声音で問われて、総司もまたはっきりと返す。
「何から私を助けるの?」
「お前から。お前の、空っぽの心から」
再びの問いにも、やはり迷うことはない。
もはや総司は、彼女にその内面を問おうなどとは思っていなかった。純夏に対して懐いていた疑問も、それが回って自分に向いていた疑念も、すでに晴れている。
「……私の、
ゆっくりとした口調で純夏は言葉を反芻した。朦朧と混濁はしているが、意識自体は保たれているらしい。彼女はしばし考え込むような間を置くと、
「そんなのは、ない」
そう答えた。
声音にろくな感情も込めず、表情もピクリとも動かさないその様子は、やはり普段の純夏とかけ離れているように見える。
「なにもない。私はどうしても、ダメなの。昔からそう。今だってこんなに痛いのに、何故だか全然辛くない。私は人として、ダメなんだよ」
「…………」
暗く澱んだ声を聞きながら、総司はまた一歩前へと足を踏み出す。
今の純夏には、人の"幸"たる要素が一つとして無い。笑顔もなく、表情には明るさすら一片も見えない。あるいはこれが、取り繕うことの無い彼女の本当の姿なのだろうか。
「あなたは真っ当に、生きてる。話してくれたでしょ。総司くんは、人が死ぬのが許せなくて戦ってるって。……それってきっと、正義だと思う。だから私も憧れたけど……やっぱり私には無理だった」
「……やっぱりお前は、俺と似てるよ。戦う理由が、俺と同じなんだ」
僅かに俯いて、総司は話し出す。
「あの『理由』は、俺の言葉じゃ無い。零の受け売りだよ。使い勝手が良い言い訳だから、そういうことにしてるだけで——俺が戦う理由は、正義じゃ無い」
あの場であの理由を語ったのは、単に純夏に尋ねられたからだ。そこに本心を曝け出そうという意図も、覚悟も無かった。
しかしそんな虚構に憧れたならば——純夏の内側もまた虚ろなのだろうと、総司は思った。
「俺の家族は執行人に殺された。十二年前、まだ四歳の時だ。俺はそこでベネッドに拾われて、特務局に入った」
細かい経緯はもう覚えていない。しかし総司が「戦いたい」と願ったのは、間違いなくあの時だ。それは確かなことだった。
「……だとしても、それは真っ当な理由じゃない。羨ましいくらい」
ポツリと呟くように純夏は吐き捨てる。
復讐などという茨の道を、彼女は「羨ましい」と言った。その言葉を受けて、総司は自分の考えが正しいことをいよいよ確信する。
「違うんだよ、狩宮」
だからこそ、首を振って否定した。
「
もちろん、そんな心持ちがまるで無かったわけではない。家族の仇を、と思ったことも一度や二度では無い。だがそれは、決して十二年という
自分の戦う理由は「復讐」では無い。今の総司には、それがはっきりと分かっていた。
「お前と同じだと言ったろう。復讐じゃない。ベネッドと会ってあの時、俺は戦うことに憧れたんだ。顔も知らない誰かのために得体の知れない化け物と戦う、あいつらの姿に憧れた」
「それは——正義?そのために、総司くんは戦っているの?」
この町を断続的に叩き続ける雨の音を聞きながら、総司はまたもかぶりを振って否定する。
「違う。
一歩、また踏み出す。総司と純夏、彼我の距離は五メートルよりも縮まっていた。
「十二年前の俺には、復讐も正義も無かった。何も、何も無かったんだ。お前と同じ——
総司はふと、自分の喋りにいつの間にか熱が入っていることに気付く。それは彼の、紛れも無い本心からの言葉ゆえの事だった。
「俺の中には何も無かった。ただ空っぽだった。空虚な孔だけがそこにあって、ただひたすら、
四歳の少年にとって、家族とは何を指すか。それは「世界」だ。幼い子供にとっては、自らの「家」と「家族」以外には世界が広がっていない。
だからこそ、それを失った総司はまさしく"空"となった。
今まで自分が居たはずの世界が消えている。その空虚はどうしようもなく人の心を押し潰すものだ。復讐に滾る焔の心よりも、哀しみに冷える氷の心よりも、その"空っぽ"は人を苛む。空虚は不安という名の質量をもって、心を壊していく。
「空っぽだったから、新しい何かを求めたんだろう。俺もそうだ。空の心を埋めるために、
純夏もまた、その心に巨大な
虐待が長期化した場合、その被害者は加害者たる親を庇うケースがある。ストックホルム症候群にも通じるこの心理的状況はつまるところ、閉鎖的な家庭環境によって、ある種の洗脳を施された結果生まれるものだ。
しかしそれは、他人目から見れば洗脳によって作られた「虚構」であっても、本人にとっては紛れも無い「真実」だ。どれだけ歪み、どれだけ苦痛に満ちた環境であっても、当人にとってはその人生を費やした場所だ。
それを失くせば、自らの居るべき世界を失くしたも同然である。ならばその後に残るものが、空虚でなくて何なのか。
「——空っぽ——」
「ああ、そうだ。けど俺は、それを特務局で埋められた。お前もきっと——だから帰ろう」
戻って来いと、総司は手を伸ばす。そうすればきっと、お前は救われると。
彼は心底から、純夏に救いがあることを望んでいた。それは
純夏の姿に、総司は十二年前の自分を重ねていた。過去の、空虚を埋める何かを探していた自分。それは
——だが、純夏はゆっくりと、しかし確かに首を横に振った。
「——ダメだよ、総司くん。私はもう、
消え入りそうな声でそう言った、その直後——彼女の周囲を取り囲むコンクリート壁に、大きな亀裂が入る。
純夏の身を包む異形の外殻が突如その体積を爆発的に肥大化させ、その一部が衝突した結果だ。のたうつようなその動きは、まるで抑え続けていた暴力衝動を一気に解放したようだった。
「……駄目、ってのは?お前の体にくっ付いたその……化け物のことか」
突然の事に少し声が上ずったが、それでも総司は冷静に尋ねた。
純夏に張り付いた細胞群は、相も変わらずその正体が不明である。執行人の肉体と同じモノなのではという説もあるが、それも確定はしていない。そのため、呼称はどうしても曖昧なものになってしまう。
しかし純夏は、「違うの」とかぶりを振った。
「……違う?」
「バケモノじゃない。これは——人間なの。執行人は正体不明のバケモノなんかじゃなかった」
取り憑かれたように口走る純夏を前に、総司は思わず眉を顰める。細胞群の正体を彼女自身で「執行人」と断定した事も一因だが、根本的な原因はどう考えても、
しかし純夏は、そんな総司の当惑を知ってか知らずか、その目尻から弱々しく涙を流したままに続ける。
「彼らは人間——私にはそうとしか思えない。私はもう、彼らを憎めない」
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