第26話

 ——虚ろな空白に、生まれては消える。

 苦痛が不安が終焉が憤怒が悲哀が歓喜が戦慄が恐怖が狂気が嫉妬が強欲が劣情が劣等が鮮血が拒絶が嫌悪が絶望が空虚が慟哭が自責が堕落が不快が虚飾が生じ貫き喘ぎ訪れ叫び吐き現れ懐き掠れ薄れ悶え擦れ劈き俯き絞り飾り偽り撥ね爆ぜ砕け消えていく。


 ただ無限に続く惨禍の渦の中に、体一つで沈んでいく。息は続かないが、苦しくはない。

 その中で、私が消えそうになって。その中で、私がまた生まれる。

 ——何があって私は生まれたのだろう?どうして私は消えずここにいるのだろう?

 この世の深淵を覗くように、深い深い孔に落ちていく。そこは思い出で溢れていた。何年も前のような気もするし、ほんの数秒前の気もする。そんな朧げな記憶が、目の前に現れては消えていく。

『——あんたが、憎い』

 誰に言われた言葉だったか、これは思い出せる。女の人だ。私に似ていて、私より大人なあの人だ。お母さんと、私は彼女をそう呼んでいた。

 思い出の中の私が、不意に殴られる。

 殴ったのは男の人だった。私はこの人をお父さんと呼ぶ。私とは似ていないが、食べ物の好き嫌いは同じだった。

 これは、こういう世界、、、、、、。色々な形をしたものがあって、中には役割を持つものもあって、私にも役割があった。朝起きて、一日三回食事をして、学校に行って、夜に寝て、こうしてお父さんに殴られて、時々お母さんに罵られること。

 それが私の世界だった。……のだが、いつからかそれが消えていた。


 目の前の世界がまた切り替わる。

 今度の世界では、色々なことを尋ねられた。今までどんなふうに生活していたのか、「家族」とどんなふうに暮らしてきたのか、何をされたのか。素直に答えると、訊いてきた人たちは揃って辛そうな顔をしていた。あの時にはもう、その顔を「同情」と呼ぶのだと知っていた。

 それから何日か経って——私は、私の役割が消えたことに気付く。

 殴られることと罵られること。私の中でもとりわけ大きな割合を占めていた「役割」が消えている。

 自分の一部が欠落してしまったようで、それが不安だった。だから近くにいた大人に相談したのだが、彼らは私の話を聞くと、決まって哀しそうな顔をしてくるのだ。

 何と言えばいいのか……私はそれが嫌だった。彼らが私に「可哀想」という顔をしてくるのが、どうしても好めなかった。

 どうして彼らはそんな顔をしてくるのだろうと考えて、私はようやく気付いた。——この「世界」では、私は異常だったのだと。

 そう理解してから周りを見てみると、なるほど自分と他の人では色々と勝手が違うらしかった。顕著なのは、顔の動きだ。私以外はみんな、事あるごとに口角を上げたり目尻を下げたりしている。それが"表情"と呼ばれる動きであることは知っていたが、私はほとんど実践したことが無かった。

 私は不安だった。

 この世界で自分が異物であることが、恐ろしくて仕方がなかった。だから私は、異常な自分を周囲に合わせようと決めた。

 最初に覚えたのは、嬉しいことがあれば笑うということだった。

 例えば、数日後に祖父母が迎えに来るらしい。可哀想な私を引き取って、お父さんとお母さんの代わりに育ててくれるのだそうだ。彼らに会う時は笑っていよう。だって家族と共にいることは、嬉しいことなのだから。


 ——また、世界が変わる。

 今度の世界の中心は、背河内と呼ばれる町だった。今まで住んでいた場所よりもほんの少し寂れているが、静かでいい所だ。

 表情を作るのは、実に上手く行っていた。

 嬉しい時に笑い、怖い時には目尻を下げて涙を流す。それ程じゃない時は少し俯いていればいい。悲しい時に泣いたりするのは、どうやら近頃はオーバーと扱われるらしい。

 それから、自分に尊厳を持つのも大事だと学んだ。褒められたら喜び、貶されたら怒る。私の年頃だと、容姿を馬鹿にされた時などに怒ると自然らしい。この場合は本気で声を荒げたりせず、「ムッ」とする具合に抑える。

 ——実に上手く行っていた。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、私を殴るとか「異常なこと」をしたりしないし、とても大切にしてくれている。

 そのはずだったのだが、ただ一つ、友達というものがどうしても出来なかった。

 同年代の友人が、出来ない。というかこれは、同年代に限らないことだ。新しい人付き合いの関係が、どうも上手く作れない。

 新しい学校に通って、色々な人がいて、時には話しかけてくれる人もいた。なのに、誰も友達と言える関係になれる者はいなかった。

 それで——、


 ——黒。黒い渦。揺れ動くそれに翻弄され、私は何もない場所に漂っていた。視界は一面の暗黒に支配されて、何も見えない。時折脳裏を掠めていく記憶の断片も、ずっと朧げなまま。

 どうやら私は目を閉じているらしい。それが目の前の黒の正体だ。渦に漂う感覚の原因は、どうも自分の意思に関係なく走り回っていることのようだ。

 ——どうして、こうなったんだっけ。

 前はこんな風では無かった。もう少し世界は明瞭に見えていた。変わったのは——そう、ちょうど半日前。今日の昼過ぎのこと。時間の感覚がないのに、それは何故だかはっきりと思い出せた。

 私は、幼稚園にいた。

 真知子さんと話していた。高倉くんの話をして、訊かれるままに学校であったことを話した。罪悪感というものも知っていたので私は終始、沈痛な顔を作っていた。

 真知子さんは哀しげに、それでも笑ってくれた。あなたのせいじゃないと言ってくれた。それだけの言葉だったが、ささくれが取れるような感覚があったのを覚えている。

 それから——雨が降ってきた。

 庭にいた子供たちが、建物の中に入ってきた。真知子さんに頼まれて、彼らの体を拭くのを手伝った。それだけの事が何故か楽しくて、私は笑っていた。

 ふと玄関から何か、大きな音がした。

 目の前に二つの人影が現れた。

 そうして——何かが起こって、こうなった。

「——あああああああああッ!」

 ——血を吐くような叫びを、他ならぬ私の喉が絞り出す。

 いつの間にか全身を裂くような痛みが包み込んでいた。ぎりぎりと何かに全身を締め付けられ、その度に体を切り刻まれているようだ。

 あまりの苦痛に膝をつき、何度も額を地面へと打ち付ける。その間にも肌からは血が溢れ、滴り落ちたアスファルトの上で雨水と混ざる。流れているのが涙なのか血なのかさえ分からなくなっていた。

「あぁ——あ、ああああああッ!」

 身体に何かが纏わり付いている。外殻のように私を包んだそれが、肌を切り裂き苛み続けている。——どうして、これは私を傷つけるのだろう。

 "——天国と地獄というものを信じるか?——"

 頭の奥で、不意に声が響く。誰だかも忘れた人の声。

 ただその雑談には、少しだけ興味を惹かれた覚えがあった。

 地獄。死者が落ちる、罪と罰の蔓延る場所。そこにはありとあらゆる苦痛が溢れ、常にあらゆる人が責め苛まれているという、痛みから逃れることのできない場所。

 ならここが地獄だろうか?——否と、その問いを否定する。

 ここは地獄じゃない。だってここには、人がいない。せめてこの場所に私と共に苦しむ誰かがいたなら——きっと少しは、救われるのに。

「——あああ、ああああああ——!」

 叫びは止まらない。

 痛みは止まらない。

 私を取り囲むこれは、私を苛み続ける。傷つける私と、傷つく私。どちらがどちらなのかいよいよ分からなくなり、混ぜ返しの矛盾の中、私は誰に見つかることもなく——消えて。


「————見つけたぞ」


 ——声。

 知らない声。否。知っている声。

 それは後方の、少し遠くから投げかけられた。私は一瞬の間、痛みを忘れ振り返る。ほんの僅かに視界が開け、雀の涙ほどの光を認識する。


「なあ、もう帰ろう——狩宮」


 名前を呼ばれた。そのせいなのか——降りしきる雨の中、薄汚れた路地裏の奥で、私は再び私を認識した。

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